○○の足元に、二匹のネズミがかしこまるようにして立ち止まっていた。
店主は慌てるそぶりは見せないどころか、このネズミは店主が連れてきた。
紙片の中身を深刻そうに検めるだけならば、まだ、話が人里の住人だけで済むから。
この店主に根回しが入っていても、稗田家の関わりを理解していれば驚くに値しないが。
ともすれば衛生的に忌避される、ましてや喫茶店のような飲食を提供する場所だと言うのに。
ここの店主は特段動じる様子もなく、二匹のネズミを連れてきた。
「一方は雲居一輪、もう一方は物部布都を調べてもらっている」
そう言いながら、片方の紙片はこちらに渡してくれた。もう一方も読み終われば渡してくれるだろう。
振り回されていると断言できても、○○の事を本気で嫌いになれないのは、こう言う細かな所作で相手の事をちゃんと見ているのが分かるからだ。

こちらに手渡されたのは、雲居一輪の調査報告であったが。
昨晩が随分であったから、その反動だろうか。
思ったより静かにしてくれていた。それでも命蓮寺での勤め以外に、件の男の家で細々とした雑事は。
暇を見つけてこなしてやっていた。
これでは通い妻ではないか。物部布都はよくぞ我慢できるなと言う印象を強く持った。

雲居一輪を調査した報告書を読み終えた後、○○の方を見たが。
○○の眉や頬がピクピクと、痙攣するかのように動いていたのは。何より雄弁であった。
そのまま黙って、○○は自分が読んでいた紙片。
物部布都の動向調査の報告書を渡してくれたが。読む前からげんなりとしていた。しかし、読まねばならない。


「あいつ、いくら使うつもりだ。遊郭街で色々と、買い集めているのは事前に少しは知っていたが。量が昨日より更に増えてる」
雲居一輪と違い、艶っぽい話は--この場合、無いことに恐怖すら覚える。
物部布都がいつまでも我慢できるとは、到底思えない。
いやそもそも。
「雲居一輪が通い妻だから、雲居一輪に出来ぬとも自分にできることを探した結果かな……」
この散財こそが、既に起こった変化だとも考えられる。
○○は「だろうな」と答えてくれたが、目尻を抑えて苦悶の表情を濃くした。
「だが、遊郭街が気を使って荷物持ちまで用意しだしたのは、悪い兆候だ。あの派手な出し物の売り上げはあるのだろうがこんなやり方、いずれ破綻する
雲居一輪だって、こんな。命蓮寺と男の家を行き来する二重生活、体力がいずれ尽きるし。
物部布都ほどではなくとも、雲居一輪だって自腹をかなり切っている。
……もしかしたら、既に自腹では無くなっているかもしれんがな」
○○の言う通りだ。今はまだ大丈夫以外の何物でもないのだ。
だがいずれ、どちらかの首魁が気付く。
そうなれば何もないはずがない。
ましてや、ここまで大きな金が動いてしまっては。
唯一の慰めは、遊郭街が自分達は後ろめたい集団だと理解しているから。
物部布都の事を他言しないし、雲居一輪は件の男の回りだけを歩き回っているから派手ではないことか。
無理やりまだよかった点を見つけて、この依頼が他のものに比べて、最悪ではないと無理に。
上白沢の旦那はそうやって、自分を無理に納得させていた。

次に○○の方を見たら、彼は相変わらず難しい表情を浮かべながら。
飲んでいたコーヒーを脇に置いて、二枚の白紙を開き、筆記用具を手にしながら。
何かを悩んでいて、筆が止まっていたが。
こう言うとき、人々の中では書くべき文章はもう頭の中にあるのだ。
だけど、書けないのだ。
「この方法は、あまり使いたくないんだ」
ややあって、○○が溜め息をつきながら呟いた言葉で、何故書かないかはほとんど説明できるだろう。

「その方法とは?」
しかし上白沢の旦那は超能力などないから、聞かねば分からない。
「豊聡耳神子と聖白蓮に手紙を、事情を打ち明けるかどうかだ」
かなりの難題を考えてるとは理解していたが、上白沢の旦那もいざ聞いてみると嘆息が持ち上がった。
○○はチラリと脇で控えている二匹のネズミを見た。
ナズーリンから借りているだけはあり、こちらの言葉も理解できているのだろう。
先程まではただじっと、黙って待っていたのに。
二大巨頭の名前が出ると、明らかに挙動がおかしくなった。
端的に言えば怯えていた。

「やはり荷が重いか……うん、分かったよ君達には頼まない。もう少し阿求と相談するよ」
残念そうではあるが、しかたないとも感じ取れる声色で。○○は筆記用具をしまった。
ネズミの様子も、肩と言われてもどこにあるかよく分からないが。
肩を撫で下ろしたのがよくわかった。

「じゃあ、これまで通り。雲居一輪と物部布都を監視してくれ」
二匹のネズミは明らかに、ペコリと頭を下げてから。柱を器用に上っていき、換気窓から出ていってしまった。



二匹のネズミは辺りを明らかに気にしていた。
自分達が害獣として認識されているのを理解しているから?
いや、もっと差し迫った事情があった。ナズーリンに使役されるほどなら、ただのネズミよりも知恵も力も強い。
たかが人間ならば少々見られても、逃げ切れる自信がある。
ネズミ取りの罠なんぞ、とっくに理解している。
それだけの理解力があるからこその恐怖とも言えた。

この二匹は、雲居一輪と物部布都の監視が役目だから。
どこかの段階で別れる必要があるのだが……そうはしなかった。
「ちゃんと当たり障りのない話にしてくれたわよね」
ある人通りの少ない横道に入ったとき、女性の声がした。
その声の主は、二匹のネズミの進路上に対してダンッと音をたてながら足を踏み下ろした。
ネズミ達は潰されなかったし、恐らくは『まだ』その声の主。
雲居一輪は『まだ』このネズミに生き残れる機会を与えていた。
そう、雲居一輪に。バレていたのだった。
ナズーリンがいよいよ思い腰を上げたことを、それどころか名探偵の呼び声高い、稗田家の旦那様にすら依頼したことをも。
この状況で一輪がまだ、『ネズミを』潰さないのは。
ナズーリンが色恋に疎い組織人だと言う認識から来ていた。

しかし物部布都に対しては、もっと言えば件の男の周りに対しては、そうもいかない。
自分達が一輪に踏み潰されなかったのは、決してナズーリンとの仲間意識が理由ではないことぐらい。
恋に狂った一戦の向こう側がどれ程危険かは、この二匹のネズミはよく理解していた。
「あの人が成金仙人の相手してるから、しばらくならあの人の家で話が出きるわ。やって欲しいことがあるの」
雲居一輪にとっては、あの人、件の男の家にいれることは嬉しいのだろうけれど。
状況があまりよくないし、何よりネズミ達にとっては時間のかかると言うことは心労が増すと言うことである。




あの二匹のネズミの事は、いや、信頼はしている。
けれども別れたあとは、特段考えることもなかった。
不意に現れたら、報告を上げに来たのだろうと思い出す程度だった。

結局、この日の調査は。はっきり言って失敗だと断言する他はなかった。
山奥に入らないし、そもそも入っていけるだけの体力があるかも怪しい買い物客からの黄色い声援。
それを浴びている件の男と、その男の近くで指図を飛ばして悦に入っている物部布都を眺めるだけ。
つまり昨日とまったく同じことをやったに過ぎなかった。
「すまない、徒労だったよ。今日の収穫は特にない。これなら家でネズミからの報告を待っていればよかった」
「いや……気にすることは無いさ」
上白沢の旦那は、○○の事を友人と思っているから。
優しい言葉は確かに、かける以外の選択肢は存在していなかったが。
甲斐が無かったなと言うのは、これを隠すのは少々難しかった。

「少し、阿求と相談するよ。この依頼、依頼人が隠れたがっているから。少し難しい」
そう言って○○と別れてしまった。
特にやることもないし、飲み歩きの趣味も無いので、上白沢の旦那も帰宅したが。
次の日の文々。新聞が問題であった、天狗の新聞だからどこまで信じていいか分からないが。

件の男ではなかったものの、歩荷が何人か滑落して大怪我したようだ。
それで、仲間を永遠亭まで運んだ者の中に、件の男もいたし。
しばらくは残った歩荷に……つまり件の男の仕事も増えそうだと言うことが書いてあった。
雲居一輪も物部布都も、二人とも件の男の職業上の才能を高く評価しているのは間違いがない。
件の男の評価は、これでまた上がるだろう。
偶然にしては出来すぎている。


かなりの悪い予感に身悶えすら覚えていたら、妻である慧音が横合いからやってきたが。
妻の気配にすら気付けなかったのは、よほど自分も不味いと思っているのだろう。
そして慧音の手に、封筒が。それも厚手で装飾も見える、明らかに高級品が見えたとき。
事態が一気に動きそうだと言う予感と、またお前か稗田阿求と言う。二種類の厄介事がふりかかってきた気分だったし。
「まぁ、お察しの通り。稗田からだ」
「やっぱり」正直、慧音には悪かったが。これ以上の言葉を出せなかった。


稗田家からの、しかも稗田阿求とさからの手紙だと言うのに。上白沢の旦那はやや乱暴に封書を破った。
しかしこれでよかった、中身にかかれていたのは。


今から射命丸の所に行く。来い。
稗田阿求

これのみであった。
上白沢の旦那は、思わず奇声を上げて怒りを表現したくなったのを、済んでの所で堪えた。
堪えられたのは、○○を友人と思っているからだ。






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最終更新:2020年03月31日 22:38