その日の稗田阿求は、機嫌が少々悪かった。
そしてなおまずい事に、その起源の悪さを認識しているのは。現時点では○○だけであった。
周りにも、阿求の機嫌の悪さが認識。そしてその認識が広く共有されているのであれば。
対応策は、色々とある。どうとでも出来るのだけれども……阿求の中にある阿礼乙女としての責任感とでも言おうか。
どちらにせよ、今の阿求の機嫌の悪さ。それは阿求がしっかりと、隠していた。
ただし、射命丸文を例外として。


残念ながら、稗田○○が射命丸にナズーリンのネズミを捕獲してくれと頼んでから。三日も経ってしまった。
射命丸からすれば、さっさと仕事を終わらせて。稗田阿求から、過剰ともいえる量の報酬を恐々と受領して。
また声がかかるのは、忘れたころであるのを祈るのみであったのだが。
三日かかっても!終わらなかった!!
稗田○○からの『お願い』を実現するために、関わり続けることになってしまった。

本来の射命丸ならば数時間もあれば、長くとも恐らく半日も見積もれば。
幻想郷最速を自負している彼女の力と、結構な数の妖怪カラスの目と力があれば。そこまで難易度の高い仕事ではなかったはず。
それは、天狗らしいともいえるが。射命丸自身ですら、突飛な『お願い』でナズーリンからの敵意をあおる事を抜きに考えれば。
そんなに難しい仕事ではないと、言い聞かせる事は可能であったのだけれども。
三日も足踏みを余儀なくされてしまった。
最初は下手をすればあくび交じりに、ちょうどいい小遣い稼ぎぐらいの軽い気持ちだった妖怪カラスも。
ここまで上手く行かなくては。何かある、異変とまではいかなくとも、楽な仕事ではないというのは。
丸一日、大空を駆け回っても。ただのネズミしか見つからなかった時点で、気づかねばならなかった。

幸いなことに稗田○○は。
「そうですか、今日も、上手く行きませんでしたか。思った以上に、ナズーリンさんも必死と言うか……追い込まれているのだろうか?」
そう言うのみで終わらせて、「明日に期待しましょう」続く言葉もそれだけで、すぐに射命丸の事を解放してくれたが。
常日頃から穏やかな○○の事は、舐めるだとか侮るなんて感情は一切ないが。心配はしていなかった。
稗田阿求が怖すぎるから、かすんでいると言う見方の方が、より正確かもしれないが。

稗田阿求。
彼女は結婚してから、あからさまに怖くなった。結婚する前から、あの稗田家の存在と言うだけでも、接触には並々ならぬ慎重さは必要だったけれども。
まだ、お近づきになれば甘い汁のおこぼれでも、ぐらいには考える事が出来る程度には、稗田阿求とは、会話もできたけれども。
結婚してからは明らかに、人格が変容している。
自分以外のほとんどの女性、ともすれば旦那のいる上白沢慧音だって例外ではない。
ならば独身で――こんな事を稗田阿求の目の前で言えば、命も危ないが。
射命丸は自身の美貌や女性的な魅力というやつに、自信はいくらか以上持っている。
稗田阿求も射命丸が自己の魅力に対して、しっかりと自覚しているのは、理解できているうえに。
今の稗田阿求ならば間違いなく、自分の肉体と射命丸の肉体を比べて。勝手に緑色の炎を内に燃え上がらせてしまう。
今のこの状況、射命丸が稗田○○に取り入るために時間を稼いでいると。
あるはずもない事を、勝手に思い描いてしまうのは。いまはまだ、ただの妄想だとギリギリの線で、稗田阿求も冷静に思ってくれているが。
これ以上、時間をかけてしまえば。それもどうなるか、全くわからない。
そうでなくても自分が近づく状態を、稗田阿求は快く思っていない。なのにこの仕事、なかなか終わらない。
終えるための材料が、ナズーリンのネズミがびっくりするほどに見つからないのだ。


稗田○○は相変わらず、射命丸が三日かけてもナズーリン配下のネズミを、捉える事はおろか見つける事すらできないと伝えられても。
幸いにも信じてくれて、なぜそのような事態になったのか、射命丸を責めることもせずに思案顔を続けていたが。
「もう、お伝えできることは無くなったのでは?」
思案顔の○○は、好き好んで名探偵が活躍する舞台を作り上げている、稗田阿求にとっては何よりの好物のはずなのに。
やはり射命丸ほどの美人がいれば、心の底から楽しめないのだろう。奉公人ならばともかく、不遜で有名な天狗が相手ではという事だろう。

「ほら、今日の分のお給金です。早くいいお返事を下さいね」
しかし稗田阿求が上手いのは、こういう部分である。
稗田阿求は手ずから――投げ渡しているという事実は、ほとんどの者が無視する――引き出しの中から1円札を何枚かよこしてくれる。
そう、その光景は稗田阿求が手ずから、稗田○○の目の前で行っている。
この瞬間に、射命丸文は稗田夫妻から割のいい仕事を与えてもらっているという、下の立場に自動的に配置されたのだ。
確かにこの場には稗田夫妻しかいないが、それは全く重要ではない。
稗田阿求が用意した金を、稗田阿求の目の前で射命丸文が受け取ったという事実が。稗田阿求の中でのまとまりと言うか、理論の整理には。
ただその事実のみが重要なのである。その事実で、射命丸文の存在は、割のいい仕事とに飛びついた存在として。
稗田阿求の中では射命丸の存在が、矮小化されることに成功するのである。
無論、射命丸もそれに気づいている。というよりは、気づいているからこそ稗田阿求が投げつけた何枚かの1円札に飛びついて、演じたのである。
げに恐ろしきは、1円札をメンコのようにひらひらと、舞い散らせられるぐらいの財力を持つ、稗田家であるけれども。
それは表面的であり、些末だ。稗田阿求は一線の向こう側だ。
真に警戒するべきは、稗田○○の周り。稗田○○から不興を買わない事、稗田○○から不用意に気に入られない事。
しかし幸い、稗田○○は少し上の方を向きながら。
「偶然じゃない……こんなにも時間がかかるのは、偶然じゃない。ナズーリンさんの警戒心があるんだ。警戒させたのは……どっち?両方?」
妻であるはずの稗田阿求が、現金を投げつけるという傍若無人な態度が目と鼻の先であっても。
思案と、思案の助けになるであろう砂糖のかたまり、飴(あめ)を机の上から探り当てて口へと放り込んで。
ぶつぶつとつぶやくのみであった。少なくとも射命丸の方は見ていないし、興味も抱こうとしていない。
その○○の態度に、美人である射命丸はひどく助けられているのである。もしかしたら周りを助けるために、いかにも名探偵らしく。
いささか突飛で珍奇な行動を取っているのかなと言う、推測も射命丸の中には持ち上がるが。
それを確認、判断する必要はない。触らぬ神に祟りなしの、おそらくは最も分かりやすい事例であろうから。

「へっへっへ……それじゃ」
三下っぽい笑みを、若干わざとらしく出しながら、お札を握りしめて。射命丸は出入り口も使わずに、縁側から飛び立った。
射命丸の眼下には、稗田邸がぐんぐんと小さくなっていくが。稗田邸が完全に見えなくなるまで、稗田阿求は縁側からこちらを見ていた。


「良いかい?」
射命丸の姿が完全に見えなくなって、稗田阿求が確かに安心した折に。
おずおずではないが、さりとて軽い感じは一切出さずに。重厚で真剣な声を出しながら、洩矢諏訪子が。
稗田夫妻の居室を区切っているふすまの向こう側から、声をかけてきた。
ふすまは完全に閉まっているけれども、やはり諏訪子の神格がそうさせるのか。
射命丸の影が完全になくなってからの、登場であった。
さすがに神様が相手ともなれば、阿求も射命丸よりは柔らかい態度になる。
それに諏訪子自身、身を守る本能は研ぎ澄まされている。
ここ最近は、女の身であるが女と、遊女ばかりと遊んでいるのは。
神様には男も女もないし、今は男にはあまり興味がないという、良い性格付けになっていた。

「聞きたいというか、まぁ、伝えといたほうが良いかなという。半々ずつの理由なんだけれども」
阿求の柔らかい態度に、諏訪子もようやくホッとしたのか。閉じられたままのふすまを静かに開けて、入ってきてくれた。
「どうです?お茶でも」
「ああ……じゃあ、いただこう」
射命丸には結局出さなかったお茶まで、諏訪子が相手なら出してやれる程度には、阿求は余裕があった。
諏訪子は少し迷ったが、下手に断るのも後が怖いし。もう阿求はお茶を入れ始めていたので、ならば飲むのが良いだろう。
しかしお茶の香りが、ややわざとらしかった。抹茶を足して、香りを強くしているのだろうか。
諏訪子は気になって、袖口に鼻先を近づけてみた。自分の匂いや体臭には、どうしても鈍感になってしまうが。
もしかしたら遊郭で浴びている、遊女たちの体の匂いが移っているのだろうかと不安になる。
稗田阿求の性格というか、常に気にしている事を考えれば。酒臭い方が遊女のおしろいを香らせているよりはマシだろうし。
早苗にプッツン来られて、水をぶちまけられるよりも怖い。


諏訪子はゆっくりと座って、阿求が手ずから用意してくれたお茶をありがたく。さらにゆっくりとした所作と態度でいただいた。
○○は2個目の飴を口に放り込みながら「着替えたんですね、人力車で見かけたときと服装が」
と、雑談なのか頭の体操に取り掛かったのかよくわからないことを言い出したなと思ったが。
「……東風谷さんは、かなりまじめな方ですからね。それ故に心配だ。洩矢さんに手まで上げだしたようで」
「…………どこで分かった?」
「遊郭街で鬼の星熊が相手にせよ、それ以外の用事や約束があるにせよ」
○○は星熊遊戯の事には、さすがに諏訪子が一番の遊び場としているのが、公然の認識である遊郭には言及したが。
遊女に関しては『それ以外の』と言って誤魔化したが。
「何にせよ、あの場所にいたのであれば。酒はつきものだし、星熊遊戯と会っていたのであれば、酒の量は半端じゃない。なのにシラフに近い」
結局遊郭の事も、『あの場所』と言って、誤魔化し直した。

「シラフに近くなった理由は何だろうか……しかも洩矢諏訪子を相手にして、シラフにさせてしまう事を許される存在。
何より諏訪子さんの座布団への座り方は、やや慎重だった。痛みをこらえているのだろうか。
ならばますます、そんなことが許される存在は限られてしまう。
鬼の星熊遊戯……何かあったのなら、鬼ですから大乱闘が始まる。こらえれる程度の痛みで終わるとは思えない。よって除外。
八坂神奈子さんは、諏訪子さんが遊郭街に食い込むことの利益を、十分理解しているが故に、どうしても。
責めると言っても、口だけ。どうしても甘くて弱くなる。けれども東風谷早苗は違う。
利益は、まぁ、否定もしないし理解もしているが、限度という意味では東風谷さんの方が、許容量は低い。
だから諏訪子さんは、東風谷早苗さんと何かあったのだろうなと」

ともすれば。○○のこの行動は、嫌悪感すら誘発されかねないが。
諏訪子の目には確かに、見えた。断言出来た。
色々と相手の事を見透かしているような態度であっても、○○は一番気にしている存在を爆発させないために、動いているのだ。
そう、稗田阿求だ。
稗田阿求は、洩矢諏訪子が何かを抱えているというのをツラツラと述べているのを見て。
ひいきにしている歌舞伎役者が、自分の目の前で演じてくれているのを眺めるかの如く。
恍惚としていた。

先ほどは射命丸が、くせ者の上に美人である射命丸が来ていたから。――早苗ならば、仕事を与えているのはあんたの方でしょうと言うだろう。
どうしても稗田阿求は、自分の貧相な体と比べてしまい、○○が向こう側に転ぶ妄想に支配されてしまう。
まだ良かったことと言えば、稗田阿求が『今はまだ』これは妄想であると、自覚している点であるが。
それは、稗田阿求がまだ。体が弱い程度の認識で済ませる事が出来るからだ、切羽詰まっていないからだ。
切羽詰まれば、どうしても劣化してしまう。そこに種族の違いや生まれや育ちの良さと言うのも、まるで関係ない。
なのに、鬼の場合は腕力。そして稗田家の場合は、稗田阿求の場合は、たとえ体の弱さが極まり切羽詰まろうとも。
その権力に、陰りは見えない。厄介だ。

――無論、○○の中に今の状況を楽しいという感情があるのは。
この舞台に立たせてもらっている事を、嬉しがっているという感情の存在は、理解しておかねばならないが。
論点をそこに立脚すれば今の状況を多少なりとも、問題だと思っている○○ですら。
『稗田○○』という立場を優先してしまっていると、結論付けねばならないだろう。
そして稗田○○という言葉には、立場には。様々な特典が存在している。
……考えようによっては、稗田阿求は確かに○○を縛っているが。
○○も『稗田○○』になる事で、自分を縛っている。
全てが全ての部分で自発的に自分を縛っている、とは、さすがに思わないでやれるけれども。

「ああ、まぁ…酒の匂い『とか』をプンプン香らせながら帰っちゃったから。バケツを、入った水ごとぶつけられて」
「『とか』ですか、ふふふ」
だがまだ切羽詰まっていない。いずれ切羽詰まるだろうとは思うが、ただの先送りだろうけれども。
それに今回は、『とか』の部分に反応した稗田阿求を、これ以上見たくなかった。

「酔った勢いでね、何なら風呂入るのと一緒に早苗の事も抱こうか?って言ったら、腹殴られてさ、ハハハ」
諏訪子は逃げるように、下世話な話でこの場を乗り切ろうとしてしまったし。
「ふふふ……まぁ、らしいと言えばらしいのですかね。腹芸は、そこまで上手くなさそうですからね、東風谷さんは」
実際、乗り切れてしまった。稗田阿求が笑ってくれたからだ。
「本題に入ろう」
そして諏訪子は、阿求の笑顔に乗せられるしかなくなった。


「『向こう』で星熊遊戯『とか』と遊んで、酒飲んでたら。あんたらの依頼人なのかな?ナズーリンがうろうろしていて。
あんたがちょっと調べてくれと頼んだ、物部布都に接触したがっているような、そんな気配が見えてさ。
それに切羽詰まってるような表情してて。思いつめてるような、そんな感じ。
射命丸は雲居と物部に脅されて……雲居とは同じ勢力のナズーリンが、物部に接触したがって……
まぁ、深くは聞かないけれども。稗田○○なら、依頼を解決するのに情報が欲しいだろうから。知りたいだろうと思ってね」

洩矢諏訪子からの新しい情報は、名探偵である稗田○○の精神と知能を大きく刺激してくれた。
「天狗とカラスでも見つけれないネズミ……切羽詰まったようなナズーリンさん、物部布都との接触を考え始めている?
溺れる者はわらをも掴むと言うが。ナズーリンさんにとってのわらが、物部布都という考え方は?可能、か?」
与えられた情報を整理、統合していくために。○○は、稗田○○はまた、周りを無視するように。
思索に没頭しているが。
それこそが、稗田阿求が望む稗田○○の姿でもあるし。それを望まれることに、稗田○○の悦びも存在する。

諏訪子は思わず、腹の底で毒づいた。
お似合いの夫婦だと。





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最終更新:2020年05月19日 23:10