上白沢慧音が、その自らにとっても大きな自慢でもある、胸を強調したような密着の効果はやはり大きかったようで。
不意に上白沢の旦那が、慧音の胸にも触れるような形で寄りかかってきてくれた時には。慧音の喜びと言うか愉悦は、最高潮に達したのは言うまでもないと、上白沢の旦那は、そう思いたかった。
「失礼しますね」
けれどもその『思いたい』と言う部分を、上白沢の旦那がしっかりと認識する前に。もっと酷くなったという部分だけを強調して、認識せざるを得なくなってしまった。
聖白蓮の声が、間違いなく上白沢慧音の中にある対抗心と言うやつに火をつけてしまったが。
そもそも手紙を持ってきたのは上白沢夫妻だし、返事はその場で聞きたいと言ったのも上白沢夫妻だ。
こうなってしまうのは、定められた道筋と考えるべきなのかもしれない。
――無論、ふすま越しで構わないと言い張ってしまおうかとも、上白沢の旦那は少しだけ考えてしまったが。
聖白蓮と寅丸星の、命蓮寺の二大巨頭が――慧音にとっては体も含めて――あの手紙を見たという事は。物部布都の事も書いてあるだろうけれども、命蓮寺にとって一番の問題は雲居一輪のやった事だ。
彼女が人質――ネズミだが――に取っているネズミたちの事、そしてその奪還作戦を天狗の力まで借りて行った事。
今日の今日で手紙まで命蓮寺に渡しているという事は、その事も書いてあると思うべきだ。
ナズーリンは仲間を殺されかけているし、物部布都の所属する神霊廟とは激突の危険性がはらんでしまったし。
そうならないために稗田家が、上白沢夫妻が、気位の高さが往々にして問題視される天狗の力まで借りている。
深刻に受け止めるなと言われる方が、最早どうかしている状態である。もっと早い段階で知りたかったとも思うけれども。
雲居一輪は巧妙に、ナズーリンの手下を人質にまで取っていたのでそれも叶わなかった。
真面目な人柄が有名な聖白蓮が、顔を見せないわけにはいかない。

「その……入りますよ?上白沢ご夫妻」
だが同時に、上白沢慧音が一線の向こう側だと言う事は。聖白蓮の美貌を目当てに来ている連中が多いのと同じく、公然の秘密である。
少しでも偉くなれば、この事は知っておかなければならない。聖白蓮ほどの、中々以上の勢力の首魁を張っているのであれば、その事実は本能にまで刷り込んでおかなければならない。
だから聖白蓮は、自勢力の本丸ともいえる場所だと言うのになぜか、一思いに部屋に入っては行かなかった。
聖白蓮も自分の肉体的魅力の高さには、自覚せねばやってられない位の物がある。
これならば命蓮寺にとっては、商売敵で潜在的な天敵である神霊廟の者が。たとえ乗り込んできたのが豊聡耳神子であっても、一線の向こう側である上白沢慧音を妻にしているその旦那が来るよりも、遥かにマシだったであろう。

「ああ、もちろん。お邪魔しているのはこっちだ、何をそんなに気にしているんだ?」
上白沢の旦那はヤバいなと思いつつも、どんな言葉を出せばいいのか全く思いつかなかったら。先手と言うか、場の主導権は慧音が持ち去ってしまった。聖白蓮も寅丸星も、これは中々取り返しにくいのが実情ですらある。
雲居一輪の事で負い目があるから、余計にそうなる。


「……それもそうですね」
若干の間が出来上がった後、聖白蓮は勇気を振り絞ってふすまを開け放った。――勝手知ったる自宅のはずなのに、それだけ一線の向こう側は厄介なのだ。
こんな連中ばかりだ、幻想郷は。寅丸星は仏門らしくもなく、思わず腹の底で毒づいた。

「この度は……うちの門弟である雲居一輪が。大変な事の中心に居座ってしまったようで。お手紙を頂くまで、全く、何も知らなかったからと言い張るような真似は致しません」
聖白蓮はキレイな所作で、ふすまを開けて入ってきて、そしてやはりキレイな所作で聖白蓮は正座のままで頭を深々と下げ。明らかな、謝罪の姿を見せた。
それはまぁいい、と言うよりは仕方がない。問題はこの後だ、きっと着替える時間もなかったのだろう、聖白蓮の衣装は、初めて幻想郷にやってきたときと同じ物であった。
バイクを乗り回すときに使っている、体の線を強調したライダースーツでないだけマシだったかもしれないが。
胸の辺りに回された紐のようなしつらえは、聖白蓮の肉体的魅力、特に胸を強調して語るうえで、頻繁に言及されている。
少しばかりめまいを上白沢の旦那は覚えた、もちろん慧音以外の女性にそういう事を感じた意味でのめまいではない。


きっと聖白蓮は今すぐではないにしても、近いうちにおいて、今回の不始末の謝罪と詫びを入れるために、稗田家に向かうだろうし。
聖白蓮の性格を考えれば、あの手紙に『来い』と書かれていなくても来るだろう。
けれどもこんな服装では来てほしくなかった。慧音は肉体的魅力のすべてに自信があるから大丈夫だけれども、間違いなく稗田阿求が苛まれてしまう。
お人よしとは聞いていたが、いっそ人気取りのための演技であってほしいが。そんな気配は、頭を下げてくれた聖白蓮からは見えなかった。
残念この上ない事だと、意地悪な考えが浮かんでしまったが。指摘しないと言う事はあり得なかった。少しでも不安に思うのならば、今夜は慧音がその気になったらしいとは全く別の意味で眠れなくなってしまう。
純粋な恐怖で、眠れなくなってしまう。


やはり聖白蓮には何か、せめてその服装で稗田家には来るなぐらいの事は。ぶしつけであることは十分に承知しているが。
生々しい事を言ってしまえば、こちらの恐怖心を減らすと言う精神衛生上の問題にだって足を突っ込ませる必要性が出てきてしまうのだ。
聖白蓮に対して、せめて肉体的魅力を隠す服装で稗田家に来てくれ、と言ってしまうのは。もちろんここまで直接的な表現は使わないけれども。聖白蓮と寅丸星、このどちらかが、きっと両方とも気づいてしまうだろう。言いたいことの本丸と言う部分は。


しかし、出来るだけ柔らかい表現を使ってやらねば位の事は、命蓮寺に対して雲居一輪に振り回されているのだから、同情的に考えながら。柔らかい表現を探していたら。
「どうした?」
少し、不味ったかもしれなかった。上白沢の旦那がずっと、聖白蓮の方を見てしまっていたのだから。
稗田阿求ほど酷い――こんな感想、抱きたくなかった――訳ではないが、上白沢慧音だって一線の向こう側なのだから。
この時の慧音の声は、明らかに硬かった。
こんな自分でも寺子屋では慧音と一緒に、ずっと教鞭をふるっているのだから。普段と不味いときの声色の違い位、夫であるならば聞き分けられる。

上白沢の旦那は、それが重要で今すぐ解決すべきであろう課題とはいえ。聖白蓮を見続けたのは悪手だ、それを腹の底で悔やむような呻きを感じながらだが、慧音の方へ旦那の方から近寄った。もっと言えば、密着の度合いを――すでに十分強いが――強くすることにした。
「うん、いやね」
上手い言葉なんて、何も思いつかないけれども。何もしないよりは、絶対に悪くはないはずだ。
実際慧音の顔つきは、ほころぶとまでは行かないが安堵の雰囲気は多少なりとも見えた。
少なくとも現状をよくするためのとっかかりは、まだ十分に残されていると判断してよかった。
そしてこのとっかかりを十分に利用し、また確保し続けるには。こちらは誠実である必要が、どんなに最低でも嘘をつかないで喋る必要がある。
だが天狗みたいな意味での、嘘はついていないと言う喋り方は絶対に避けるべきだ。
「少し、気になる事があって」
そう上白沢の旦那は言いながら、妻である慧音の耳元に寄って言った。先ほど感じたことを、稗田家に来る際は稗田阿求を刺激しないように、あの服装はやめさせるべきだろうと言う事を。
ここまで来たらその言葉は、自分でなく慧音に言わせるべきだとも思いながら。
そしてその慧音への耳打ちの際、聖白蓮はおろか寅丸星の方すら見ないように、努力していた。
寅丸星は、どうせ見ないんだろ?と言う部分に嫌と言うほど気づいてしまったから、喉奥から抗議の意味しかないうめき声を出していたが、聖白蓮にたしなめられてしまった。



「一線の向こう側……なるほど。理解できたよ」
しかし腹立ちを抑えるだなんて、そもそもがいきなりやってきた上白沢夫妻の方が、明らかに失礼なのだから。寅丸星がボヤいてしまう事ぐらいは、許さねばならなかった。
聖白蓮がじゃない、上白沢夫妻がである。

上白沢夫妻が、特に上白沢慧音が度し難いこだわりを発揮してしまい、上白沢の旦那の言葉を直で聞かせたくないと思ってしまったころ。
「少し演劇風味が強すぎるかなと言うのは、まぁ、自分でもわかっている」
稗田○○がそう言うが、けれども何となく楽しそうに言っている。
それをナズーリンがどうだこうだ等と言う事は、上白沢の旦那ですら危ないときがあるのに出来るはずはない。何より今まさに、稗田○○以上に稗田阿求が愉しんでいるのだから。

「……配下のネズミたちがみんな助かれば、何だっていい」
だからそれぐらいしかいう事は出来なかったし、ナズーリンの方も下手に会話しない方が良いと気づいたので、小さい声で早口に言って終わらせたし。
配下が助かればもうそれでいいと言うのは、限りなく純粋な気持ちでもあるのだから。
そう言いながらナズーリンは用意された人力車に乗り、稗田夫妻も夫婦専用の物に乗っていった。
ネズミではなくて、雲居一輪の方に軸足を変えて調査した甲斐はあったと稗田○○は嬉しそうだった。

物部布都が遊郭街にて、洩矢諏訪子とも顔見知りになり。布都の方もそれを狙って、後ろ盾にしようとしている節もあるけれども、星熊遊戯の拠点に通えるようになった事に対する、雲居一輪なりの対抗意識が働いている事が、調査の結果判明していた。
あの歩荷の家は、元々整理整頓の上手い人間だと言う事もあったので気づきにくかったが。道具類のほとんどは、今現在は雲居一輪が持っている倉庫――あの歩荷の為に借りたという事はさすがに伏せているが――にほとんどが収納されていた。
雲居一輪の脳内では、あの歩荷の私物を独占できるという愉悦を感じる事で、猥雑な商売を斡旋、紹介している物部布都とは違うと思いたがっているのかもしれなかった。
事実、カラスが覗き見ていたところ。雲居一輪は実に恍惚な笑みを浮かべながら掃除をしたりなどの手入れを行っているそうだ。
物部布都が遊郭街を拠点にしている分、彼女は清廉な自分に愉悦を見つけているのかもしれないと、稗田○○がナズーリンに渡してくれた報告書の写しに、そんな走り書きがなされていたが。

ナズーリンはその『清廉』と言う言葉を見て、酷い不快感を覚えた。
無理もないだろう、彼女は今現在、天狗やカラスが飛び回って救出作戦を開始しているとはいえ、まだそれは終わっていないのだから。
完全に終結、救出作戦が完了するまでは安心などは出来なくても、無理はない。
呼んでいるうちに不快感をこらえる事も難しくなってきたので、ナズーリンは報告書を折りたたんでしまいこんでしまった。
どうせ、自分は待つしかできない。調査も用意も号令も、全て稗田○○がやってしまっている。もう終わったという言葉を聞くだけで済ませてしまいたかった。

だが人力車が止まった折に外を見たら、同じ危機感を教諭できている蘇我屠自子が心配そうな顔で駆け寄ってくるのを見れば。
意識的に大したことを考えないようにしていた、ナズーリンの思考回路も、再び動かさないわけにはいかない。
「ナズーリン!」
ナズーリンが何かを言う前に、屠自子は人力車に飛び乗ってしまった。それを待っていましたと言うかのように、人力車は再び動き出した。
前を走っている人力車に乗っている稗田○○が、後ろにかかっている目隠しのすだれを少し持ち上げて、ナズーリンと屠自子の動きを嬉しそうに見てくれていた。
善意からの行動と言うのは、信じてやれないことはなかったが。お節介だとも、感じてしまう。

「なんで言ってくれなかった!お前の所の配下が、命が危ないっていうのに!何か手伝えたかもしれないのに」
そして屠自子は案の定、ナズーリンの心配をしながら相談もしてくれなかったことを非難してきた。
立場が逆であれば、ナズーリンだって同じような事を言うだろうが。きっと屠自子も隠れるだろうなと、間々ならないなと言う皮肉な面白さを感じてしまった。
だがこの状況では、悪いのはナズーリンの方だろう。だから努めて、落ち込んだ様子を出すしかなかった。
「そうは言うがね、屠自子。雲居一輪は命蓮寺の配下で、私も一応は命蓮寺の存在だ。一緒に住んでいないと言うだけで、まぁまぁ泊まってるし、命蓮寺には私の布団も部屋もあるから」
「だから、神霊廟の蘇我屠自子は、私は巻き込まないほうが良いと思ったのか?」
「そうだ。自勢力ならともかく、他勢力に面倒をかけるわけにはいかない」
「雲居一輪と物部布都は同じ穴のムジナだ。どちらかが何かをやれば、もう片方もロクな反応をしない。両方共を一気に無力化するべきなんだ。雲居一輪のやった事は確かに悪辣だが、それを知った物部布都はこれ幸いにと、大義を得たと言わんばかりに何かロクでもないことをやる。そういうやつなんだ、物部布都は!だから雲居一輪を無力化するのは物部布都を無力化することにもつながるんだ、頼むから次は相談しろ!!」

ぐうの音も出ないとはこのことであった。ナズーリンはしきりに「すまない」と言うのみであったが。
蘇我屠自子にとっては、もうこの問題は終わったものと認識しているようで。それ以上ナズーリンを非難することはなかった。
それよりも、物部布都の性格をよく知っているがゆえに、あいつが次に何をやるのかを考えて頭を痛めていた。
「そうだ、何かやる。物部布都は何かやる。事情を少しでも知れば、猥雑とはいえ商いを紹介しているだけの物部布都に、大義を与えてしまいかねん…………」
確かにその通りだろう。雲居一輪のやった事は悪辣そのものである、非難するがわに回れると言うのは厄介なものだ。
その上物部布都は間違いなく、一線の向こう側なのだから。
だがナズーリンも蘇我屠自子も、一線の向こう側に対する認識がまだ足りていなかった。
バレなければ問題ないと考えて、稗田○○の近くに盗聴用の式神を配置すると言う事は。
既に、ナズーリンや蘇我屠自子の近くにも配置されているという事である。


物部布都はいやらしい笑みを浮かべながら、ナズーリンと蘇我屠自子の人力車内での会話を聞いていたが。
既に遊郭街にいるはずの物部布都に対しては、稗田○○が手を回していた。洩矢諏訪子もよほどの事でない限りは、稗田○○の『お願い』に対して、無批判に実行する。
そっちの方が結局、稗田阿求の機嫌もよくなるのだから。それに稗田○○は遊郭街をつぶす事には消極的だから、余計に稗田○○のお願いであるならばすぐに実行できる。

「おう、仙人様!」
酒や飲み会や、騒々しいのが好きな鬼であるならば。物部布都も誘って楽しもうじゃないか、と言った具合に言葉を使えば。
洩矢諏訪子ほどのくせ者であるならば、造作もなくそういう風に状況を動かす事が出来る。
それに今回は、物部布都から何かを探る必要はなかったから。余計に簡単であった。
「山の神様とも一緒にいるんだがな、いろんな奴誘って楽しもうぜって話になったんだ!お前も来いよ!!」
そういって星熊勇儀は、物部布都から返事なんぞ聞く前に、彼女の腕を引っ張った。

やられた、稗田○○がもう動いた。
物部布都はそう悔やんだが、状況を知っている事を知られていない物部布都が、最も有利な位置にいるのは変わりないので。
前祝いでもするか、ぐらいの気持ちにはなれたし。
星熊勇儀が飲みすぎて酒で汚すのだろう。衣服や、下着……そう、下着もだ。
下着も運んでいる男の、若い板前を見るに至っては。星熊勇儀も多分こっち側だと思い。
まぁいいかと言う思いは、より強くなった。





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最終更新:2020年06月21日 21:47