洩矢諏訪子が明らかに変調をきたした物部布都を、何とかなだめすかせて茶屋にでも連れて行こうとしているとき。
「さてと……」
稗田家の旦那様で、何よりも名探偵であられる稗田○○が、今度は変装などせずに堂々と命蓮寺の正門に、阿求が用意した人力車から夫妻で連れ立って降りてきた。
上白沢の旦那は当日と言うか、さっきこれを知らされて付き合わされているが。この日この時に訪問することは、もう話が通っているそうだ。
気になる事は命蓮寺の方にも新霊廟の方にも、もっと言えばこの依頼がどうなるかすら割とどうでもよくなってきた。
それらよりもずっと重要なのは、上白沢慧音に対する強烈な嫉妬、それ以上に悪意の存在を隠さなくなった稗田阿求と一緒にいる事の方が心配だ。
命蓮寺と言う、その首魁が聖白蓮と言う、美人で肉体的魅力も高い女の場所に行くと言う、状況が状況だから上白沢慧音も何が何でもついてくるだろうけれども。
聖白蓮のこと以上に、今は等とは言えずにこれからずっと、稗田阿求と上白沢慧音が同じ場所にいる場面では、両夫妻の旦那たちは緊張感で辛い状況に身を置かねばならなかった。
両夫妻の妻同士の軋轢は、稗田阿求にせよ上白沢慧音にせよ、徹底的に隠しているのが更に旦那たちの状況を辛くしていた。

命蓮寺と神霊廟が――事実と称されているが阿求の台本だ――激突を迎えてから、何日かぶりに見せた動きとして演出されていた。
あんな事が、阿求の台本をすべて知っていたとしても、少なくと上白沢慧音が神霊廟と命蓮寺の首魁の目の前で怒りを爆発させたのは事実だと言うのに。
阿求の台本があくまでも神霊廟と命蓮寺の激突の可能性にまで、事態を小さく見せていたからか。
稗田夫妻と一緒になって、後ろから上白沢夫妻が人力車から降りたとき、上白沢夫妻はともに目の前の光景に対して、意外だなと言うか呆れと言うか、悪くないのかなと言う。
評価するべきかどうかで迷うような感情を催してしまった。

里の住人たちは、稗田阿求がそうしたはずだからここにいる人間の全員が、彼女が何種類か用意した情報のどれかを持っているはずだ。
どんなに世情や世間の動きに疎かったり、あるいは興味が無かったとしても。命蓮寺と新霊廟の衝突、という事になってる話と、上白沢慧音がそのせいで暴れる事になった――本当は稗田阿求のせいだが――話は知っているはずだ。
だと言うのに、命蓮寺が客寄せとして運営している屋台村においては本日も客入りの程は盛況としか言いようがなかった。
あんな事があったのにな、と思うのはあくまでも上白沢夫妻が少々堅物の域にまで入り込んだ真面目だからだろう。

けれども娯楽のための空間である以上、そこに客が集う事にはある程度の納得と許容を見せる事の出来ている稗田○○でも。
稗田夫妻と上白沢夫妻が人力車から降り立ったのを見るに至った、この屋台村の、客はもちろんの事で屋台の店主たちも。
これは何か起こるぞと言う、好奇心以外の何物でもない楽しそうな感情を見るに至っては、稗田阿求と比べる方が若干間違っているとはいえ、稗田の冠をつけずとも穏やかである事は上白沢の旦那としても疑っていない、そんな○○でさえ、苛立ちがあるなと言うのは上白沢の旦那には理解できた。
その苛立ちは隠しているのが余計に怖かった、上白沢の旦那には○○の微笑が余所行きだったり社交的な物よりもずっと、固いものであると即座に気づく事が出来たから。
そしてその固い表情が、気のせいや思い違いなどではない事は、まっすぐと命蓮寺へと向かうための道を作れと。
稗田○○が言外に、指示を出すために手を振ったが。
その手先の動き方は、いつもの少し軽く等ではなくて明らかに大きな動きで、雑であった。
表情こそとりつくろえたが、それ以外となるとかなり難しいぐらいに○○は、頭に来てしまったと言う事だろう。

以前の上白沢の旦那であれば、この明らかに好奇心を隠せていないどころか、隠そうともしない野次馬に苛立つのはわかるとしても。
そもそも○○、お前だって名探偵としての活動は、依頼の解決に動く理由の半分以上は、好奇心から来るものだろうと批判したろうけれども。
今となっては、その好奇心が実は○○に許された数少ない心安らぐ時間とまで、○○の事を擁護できるようになってしまった。
稗田阿求と言う最大級の権力者が持ってしまったがゆえに、最上級の悪意と嫉妬に対して、爆発しないように動く役目を一身に。
しかもそんな役目を背負わされている事は、上白沢の旦那以外は知らないとまで言ってしまっても過言ではなかった。
これはもはや、いつかの○○に対する横領事件よりも、ずっと難易度が高くて、なおかつ解決の見込みがあの事件よりも低い事象である。
その上この稗田阿求が持つ悪意と嫉妬の抑え役は、一生続いてしまうだろう。上白沢の旦那は何の楽観論も頭に浮かばせる事が出来なかった。


「…………」
○○は黙って、整理されていく群衆を見ながらも。妻である阿求が不意に暴走しないように、その肩を優しくも絶対に離さないように絡みつくようにして、抱いていた。
稗田阿求は、なぜ○○が自分の肩を抱くかという部分。きっと気づいているだろう、不意に阿求が悪意や嫉妬をまき散らすのが、致命的だと○○が思うゆえに。
○○は阿求を抱きとめているのだと。気づいているはずだ、稗田阿求ほどの才女ならば。
しかし彼女は、気づいているはずなのにその起源は実に良さそうであった。
○○が阿求の肩を抱いているのは、決して愛情がないとは言わないが、今はもっと危険な物を抑える為だと言うのに。

稗田阿求の上機嫌の理由が知りたくて、上白沢の旦那は慧音に寄りかかりつつも稗田阿求の方を見ていた。
最も、上白沢慧音も稗田阿求の持つ、最上級の悪意と嫉妬に負けない位の、主に肉体的魅力での優越感を抱いているから。
上白沢の旦那が、妻である慧音に寄りかからなくとも意外と何とかなったなと言うのは。
慧音も横目で、稗田阿求の機嫌を確認こそしていたが、決して危機感や懸念から来たものではないと言うのは。
真横にいたからこそ観測できた、本当に小さいけれども、しかし確かに感じる嫌らしい笑みを見る事が出来たからだ。
「稗田阿求は何を糧(かて)にあんなにも、機嫌をよくする事が出来るのだろうな。私みたいに、イケる体も持っていないのに」
しかし表情の方は、慧音は抑えていたけれども。夫であるこの旦那に耳打ちする内容は、最初から最後まで酷い有様である。
ここで上白沢の旦那は、やや遅れてしまったが、自分の役割と言う物を急に理解できた。
もっと早くに気づくべきであったが、自分と○○の立場は非常に似通っている。お互いに一線の向こう側を妻としてめとっている。
しかもいくらかの個人的事情に違いはあれども、それなり以上に望んで今の立場にいる。
少なくとも自分は慧音を、○○は稗田阿求と夫婦でいる事に不満は無い。
だからこそ自分たちは冷静になり続ける必要がある、一線の向こう側が暴走しないように。

「厚着をしてごまかしているが、実に貧相な体だ。他の連中はかしこまって、顔や声以外は中々、見る事もはばかるが……いやいや、気づくと中々、可哀そうになってくるよ」
上白沢の旦那が自分の役割を確かに理解した横で、慧音は歪んだ優越感をどんどん大きくしていた。
それと共に、きっと稗田阿求に気づかせたいのだろう。慧音は自分の体を押し付けていた。
幸い稗田阿求はまだ気づいていない。
何故なら好奇心に沸き立った群衆に○○が苛立ったことで、やや乱雑についてきた護衛の奉公人に指示を出して群衆整理を命じた。
その結果、○○の苛立ちから来る乱雑さに、無意識のうちに奉公人たちも影響されたのか珍しい事に、群衆整理をする際も少々手荒だなと思えるような手つきであった。
だが明らかな苛立ちが野次馬どもを相手に感じていた○○は、特に何を言う事もなく憮然として、整理されていく群衆を見ていた。
見守るなどではない、ただ単に整理されてすくのを待っているだけだ。
焼きかけの一銭焼きも放置して、屋台を一時離れなければならない店主もいた。あの鉄板の上の物は、食べられない位に焦げるだろう。
○○にも気づいているはずだ、上白沢夫妻の方向にも鼻に香りが漂っているのだから。
だが○○は動かない、憮然としたままである。まさに権力者のそれだ、あまりよくない性質の物ではあるけれども。
だが、それでも良いのだ稗田阿求にとっては。○○の為に作られていく、大きな道に対して稗田阿求はクスクスと笑っている。
その笑い方に、黒いものを見て取るには上白沢の旦那としては、容易な物であった。
もちろんそれは慧音にとっても、容易なものである。
ただ慧音の場合は、悪意をぶつけられたからお返しとして、慧音の方も阿求に悪意を向けていた。
しかしどうやっているのかはわからないが、どうやら稗田阿求は自分たちの会話を盗み聞きしている。
それを思い出したのか、慧音は思いついた最高の悪口を、どうやって自分の旦那に伝えればいいか分からずに少しまごついていた。
できればそのまま、まごついたままで機会を逸してほしかった。よくよく考えれば、自分に陰口なんて言う趣味は、全くもって性に合わない。
あの時に言いかけたのは、気の迷いと言う事でもう処理することにした。
それは慧音にとっても同じのはずだから……しかし慧音は頭が良かった。慧音は思いつくや否や、上白沢の旦那の耳元に自分の口を近づけた。
そして慧音にとってそれはとてもいい思い付きだったし、上白沢の旦那にとっても甘さの香る、良い物であったけれども。
こんな状況では甘い物も大して喜べない。
実際、慧音が出してくる言葉も酷い物だった。それだけ稗田阿求に対する怒りがあるとはわかっていても。

「肉体的魅力が全くないから、権力を与える事でしか相手をつなぎ留めれないんだ。稗田阿求にとってはいつの間にか、権力を振り回している○○を見るのが情欲の代替品になってしまったがな」
慧音は阿求の心理を、さも歪んでいると言わんばかりであるし。実際、度し難いとしか言いようがないけれども。
先に稗田阿求から悪意をぶつけられたのは慧音だとはいえ、彼女も歪みつつある。
稗田阿求と違って肉体的魅力に自信があるから、阿求への当てつけも含めてその部分を
あけっぴろげにしつつある。

まだ真横にいる上白沢の旦那にしか、見えない位だが。慧音の胸の谷間が見えた、明らかに胸元を緩めて見せてきている。
止めるべきだ。○○が阿求を真横に誘導して、肩を抱き、離さないようにして抑えているのに。自分が何もしないわけにはいかない。
さらに上白沢の旦那は、妻である慧音の方に寄りかかった。○○が稗田阿求を抱き寄せているのとは、まるで反対だなと少しばかり罪悪感が湧いた。また自分の中の男としての部分が反応するのが、理解できるからだ。
「帰ってからにしよう」
もっと上手いやり方、言葉があるような気はしたが。このまま何もせずに慧音が抱いている優越感と当てつけを燃やさせるわけには行かない。
慧音の目をじっと見た後に、慧音が衣服をやや、まだ上白沢の旦那に見える程度ですんでいる胸の谷間に目線を、慧音の目には分かるように移動させた。
「余り誰かに見られたくない、慧音の肌を」
不意に、良さそうな言葉が頭に降ってわいた。独占欲が強い様な気もしたが、その懸念(けねん)は杞憂(きゆう)であった。
慧音が嬉しそうな顔をしてくれながら、胸元を閉めてくれたからだ。
「大丈夫だ私はお前の物だ、二人っきりの時はいくらでも触ってくれよ」
どうやら慧音の興奮する点と言うのが、今更ながら分かってきた

群衆整理が終わった後、屋台村のど真ん中を大手を振って両夫妻は歩を進め、命蓮寺の門をくぐった。
その間中、稗田阿求が不意に毒や悪意を飛ばさないように、○○は阿求の肩を懸命に抱いていた。
上白沢の旦那も、妻である慧音の意識を自分の方にだけ向けるために、出来る限り慧音の方に寄っていった。
「後ろから見ると、もっとよくわかるな。稗田○○が阿求の肩に触れている手、骨ばった鶏ガラを握りしめているようじゃないか。衣服の上からでも少し痛いんじゃないか?」
しかし慧音は、自分の夫が寄ってきてくれるのが嬉しくて完全に冷静さを、ひいき目に見ても失いつつある状況であった。
「ほかの女性に興味はない」
少なくとも今は、慧音の意識を稗田阿求から離すべきだ。幸いにも――そう思わないとやってられない――稗田阿求以外は慧音に対して毒あもちろん悪意だって持っていない。自分でなくとも、他に意識を移すだけでも十分に効果がある。
だけれども一番効果があるのは、やはり、嬉しい事だと言えばその通りだが自分が向かうのがやはり一番であった。
「うん」
慧音はやや甘い声を出しながら、さらに旦那の体を求めるように、引き寄せてきた。
上白沢の旦那は慧音の、豊満で魅力的な肉体に更に埋もれる事になった。
慧音の言った、阿求の体は鶏ガラ云々という言葉を、まさか肯定するわけではないが。
自分の状況を客観視すれば、○○の手はあくまでも衣服に触れているのだ、程度の浅さなのが分かった。
「そうだな、稗田阿求も生物学的には女性だ。分類はちゃんとしないとな」
そして稗田阿求から毒と悪意をぶつけられた、慧音の怒りの深さも。



「来るなとは口が裂けても言いませんし、その立場も無いと分かっています」
命蓮寺の正門を、屋台村を堂々と横切りながらたどり着いたとき。ひたすらに呆れと疲労感を抱えていいる、この命蓮寺において間違いなく次席の立場である、寅丸星が出迎えてくれたが。
表情を見れば、出迎えではなくて文句を言いに来たのが正しい表現だと、すぐに考えを改めねばならない。
「でもね、裏口の場所は教えたでしょう?」
寅丸は大きな声こそ出さずに、稗田と上白沢の両夫妻に問うてきたが。上白沢の旦那としては、裏口の存在は今初めて知った。
何故なら今日のこれだって、いきなり稗田家からの勅使が手紙を持ってきて、それに従う以外の選択肢がなかったからだ。
さすがに今回ばかりは、手紙を書いたのは稗田阿求ではなくて○○であった。だから文章も、下手に出てくれていた。
最も断れないのだから、下手に出られても、相手が○○だから困る程度で済ませられるが。他だったら張り倒したくはなる。

しかし裏口の存在を教えてくれなかったのには、いくらかの引っ掛かりと言う物が出来てしまった。
なのでその理由を、今でなくとも良いから話してもらいたくて、上白沢の旦那は○○の方に視線を向けた。
「何?」
寅丸星は、稗田夫妻と上白沢夫妻の間に横たわっている、妻同士の軋轢と旦那同士の同族意識を知らないから、困惑した顔で言葉を出したが。
残念ながら、寅丸星はこの両夫妻の複雑な関係については全くの部外者だ。話すわけにはいかない。だから申し訳ないが、寅丸星の言葉にも困惑にも、反応は出来なかった。
「ああ、もう……」
教えてくれる気がないと分かったらしく、寅丸星は汚い声を出した。ここに聖白蓮がいれば、間違いなくいさめられたけれども。
聖白蓮は、本人が約束した通りで一番の懸案である雲居一輪の見張りとして、本当に付きっ切りのようであったらしく、ここにはいなかった。

稗田と上白沢の両夫妻とも、段々と苛立ちを膨らませている寅丸星の方は特段気にはかけず。
慧音は半笑いの苦笑を漏らすのみ、上白沢の旦那は中々こちらを向いてくれない○○を相手に、根競べを始めた。
稗田阿求は、慧音に対してやった時ほどではないがニヨニヨした笑みを浮かべているが……まばたきの回数が多いのが気になった。
まさか寅丸星の肉体にも嫉妬していると言うのだろうか?確かに彼女は長身で、槍をもっているだけあり引き締まった体だ。
やや引き締まりすぎと思う節もあるけれども……確かに稗田阿求の病弱な体と比べれば、だれの体を比べても自分よりは光っていると思ってしまうだろう。
それでも寅丸星は色気を前に出すような性格ではないと、少し考えればわかるはずだろうと言う、呆れや腹立ちが上白沢の旦那には出てきた。

上白沢の旦那は少し唸った。
その唸り声に、○○も友人の苛立ちやあるいは批判的な意識の原因が、どう考えても自分のふるまい方にあるのは理解していたから。
さすがに、あるいはようやくと言うべきか。○○は上白沢の旦那の方を向いてくれた。
しかし向いてくれたのみで、やっぱりこういう展開かと思わざるを得ない、○○は言葉を選んで何とか喋ろうとはしているが、結局出せないのだ。見つからないのだ。
諦めてしまったのか、○○は結局目線を上白沢の旦那の方から外してしまった。
上白沢の旦那は、自分の歯がきしむのが分かるほど、歯を食いしばってしまった。
寅丸星はその光景を見ながら。
「多分お前が一番、冷静だと思いたかったんだがなぁ」
一言呟くのみであったが、上白沢の旦那には聞こえていなかったし。上白沢慧音は無視をした。
寅丸星は舌打ちをした。この状況、だれがどう考えても彼女が最も貧乏くじを引いていた。
いっそ雲居一輪を放逐しようかとも、そんなひどい事を一瞬考えてしまったが。聖白蓮は意地でも雲居一輪を更生させようとするし。
その意思が、行動が、清いものであると言うのは寅丸としても理解しているが。
よりにもよって人里の二大夫妻に首を突っ込まれるのは、ただただ厄介の種である。だが独断で稗田○○に依頼してしまったナズーリンには、あまり何とも思わないのは。長く付いてきてくれているから、という部分は無視できないだろう。
だとしても外に出したくない、口の堅そうな者に依頼したのは悪くない判断だ。雲居一輪と物部布都が動き回ったせいで、水泡に帰したが。
そういえばマミゾウ親分に貰ったタバコが、まだ胸元に余っていたのをいまさら思い出した。
聖は喫煙もあまり、良い顔をしないが。こんな状況で我慢ばかりしていろと言うのも、寅丸星としては腹が立つ。
稗田阿求は体が弱いからタバコの煙も、よくないだろうから喫煙は遠慮するべきなのだろうけれども。
知った事か。

だが寅丸星が紙巻きタバコを胸元から取り出して、更にはマッチを使おうとしたら。
「ああ、いや……そうですね。あと、たばこは出来れば……我々が帰ってからにしてほしい」
稗田○○が急いでこの、膠着した状況を動かそうとしてくれた。
やはりたばこは、喫煙は稗田家では禁忌のようだ。冷たいものが良くないから、夏ですら温かいお茶を飲むと言う稗田の奉公人の話を思い出した。
寅丸星は顔がひくついた。しかしそれは、タバコが吸えなかったことが原因ではない。
稗田○○が、稗田阿求が絡まないと何にもしないからだ。もっと早くに動かそうと思えば動かせたはずなのに。

「まぁ……色々ありまして。解決するにしても、どう解決するかはありまして……まさかぶん殴って終わりにするわけにもいかないでしょう」
と、稗田○○はもっともらしい事を言うけれども。稗田○○の視線は、寅丸星がわざとらしく手元でもてあそんでいる、紙巻きたばこに固定されていた。
それに今の言葉だって、裏口を使わない理由としては弱すぎる。
「裏口を使わないのもそれか?」
なので、敢えて聞いてやる事にした。どんな答えを出すか気になったから。
「それはですね」
稗田○○はさすがに、まだもう少し冷静に物を見ていられるからだろうか、答えに窮していたら。
案の定でずっと立場の強い、稗田阿求が口をはさんできた。
寅丸星は稗田○○の言葉を聞いている時よりも、腹が立った。手でもてあそんでいた、たばこの吸い口をぎゅっと、指で押しつぶしてしまった。
マミゾウ親分がくれただけの事はあり、上等な物だから。これ以上傷を付ける前に、胸元に戻すことにした。
「ありがとうございます」
別にお前のためじゃない。だが寅丸星は何も言わなかった。
「まぁ、何と言いますか」
寅丸星が何も言わない気らしいと、稗田阿求はすぐに理解できたようでたばこの話はすぐにしまいにした。
彼女としては吸う気が無くなった時点で、もう十分なのであった。相手の気持ちはさほど重要ではない。
寅丸星も自分の気持ちが重要ではないと思われているのは、理解しているが、厄介ごとを終わらせる方に意識を向けるべきだ。
個人的な苛立ちは、抱えていたとしてもかみ砕いて飲み込まねば。
「稗田の家格を考えましてもね……」
稗田阿求はそれっぽい事を言おうとしてくれたが……不意に旦那である○○の方を見たら、明らかに顔がほころんだ。
寅丸星は、上等のたばこを直しておいて良かったと考えた。あんな顔を見たら、上等なたばこを一本だけとはいえ、握りつぶして無駄にしてしまいかねない。
「夫のかっこいい場面が見たかったんです」
「カッコつけてんじゃない!!」
しかし星も限界を迎えてしまった。屋台村の大通りで、いきなり群衆整理をやる理由としては薄弱だからだ。
思わず大声を寅丸星はあげて、不味ったかと思ったが。
まだニコニコと、楽しそうにしている稗田阿求を見るに至っては。さっさと感情を爆発させるべきだったと考えた。
唯一の良かったところは、多分、稗田○○がこの状況を悪い状況だと考えて、頭を振り絞ってくれている事だろうけれども。
「雲居一輪さんとお会いしましょう。横には聖白蓮がずっと付いてるんですよね?」
ロクな事が思いつかなかったのだろう。結局、稗田○○も、寅丸星を無視するような形で命蓮寺の奥へと進み行ってしまった。
稗田阿求は無論、付いて行く。上白沢夫妻はさすがに少し、気にしてくれて会釈ぐらいはしてくれたが。上白沢慧音が半笑いだった。
こんなことをされたら寅丸星はたまらずに、追いかける事もしないで、しまいなおした上等なたばこを取り出して火をつけた。





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最終更新:2020年09月28日 22:45