一輪は件の歩荷にお金を渡すために、遊び仲間である村紗やぬえからの誘いに対しても断らなければならなかった。
その点では布都の方がずっと有利だ、商売の分け前を少しばかり、件の歩荷に対して有利な数字にするだけで済む。
一輪と同じく、この歩荷のためならば少々の不利益は不利益とは思わずに、飲み込む事が出来る。

布都から一輪にとって不利な事実を羅列されたことにより、一輪は明らかに狼狽を強めていた。
その狼狽を何とかして振り払おうと、ただでさえ密着している件の歩荷に対して、一輪は更にくっつこうとするが。
既にスキマを見つける事の方が難しくなっている状態なのに、更にくっつくと言うのは、それは無理な力が件の歩荷に対してかかると言う事であり。
しかしながらこの歩荷は、だからこそ惚れられたという向きもあるけれども、奥歯を噛み締めて一輪からかけられる無理な力に耐えていた。
しかし肌の触れ合いもなしに、肩や腰の違和感を常に抱えていると言う事に気づけた物部布都にとっては、これを気づくことはさほど難しい仕事ではなかった。
「もっとこの男の身体をいたわらんかぁー!!」
拳こそ飛ばなかったが、その分は布都の剣幕へと移動したようなものであった。
しかし皮肉な事に、布都が剣幕を乗せれば乗せるほど、一輪は自らの不利を悟ってしましこの歩荷への執着を更に強くする事となってしまうし。
この場合は、一輪からの力がより一層にこの歩荷へと加わる事を意味している。今まで、肌も許してくれたからと言う負い目を、この歩荷は一輪に感じているからか、はっきりとした態度は示さなかったけれども。
どうやら限界を超えてしまったようで、この歩荷は少々唸ってしまった。それはこの修羅場に対する非難ではなくて。痛みからの唸りであるのは明らかであった。
布都は瞬時に、しまったと思ったが。すぐに状況は変化してくれた、それも布都の好みの方向に動いてくれた。

件の歩荷の方から、しがみついてくる雲居一輪を拒否するような動きを見せた。
稗田○○は思わず、これは破滅的な事がいよいよ起こるぞと、覚悟を決めながら喉の奥から嘆息したような息を漏らしたが。
稗田阿求にとっては、自分たち夫妻が破滅さえしなければ、それ以外は興味が驚くほどに薄い。
それよりも悪い予感が阿求の中には、出てきてしまった。
○○が自分を捨てるなどとは思ってもいないが、○○が稗田と言う家格の高さを気にしているのは知っている。
あるいは阿求の方が○○を捨てないかと――絶対にない、絶対に!と阿求は心の中で何度も叫んだ――○○の方が心配しているのではとまで考えてしまった。
「私にはあなたしかいません。○○の思う通りにやりたい事を、助ける。それが私の存在意義です」
阿求はそう言いながら、○○にしがみついてきた。

このたった一つの悪い予感、と言うよりは妄想、これを打ち消したくて阿求はより一層、○○の方に密着していったが。
頑健な雲居一輪がやるのと違って、阿求がどれだけ力を込めて、○○にしがみついても。○○の方は痛くも痒くもなかったが。
阿求がまた、悪い妄想に取りつかれているなと言うのは、○○にはすぐわかった。なので○○は、阿求の方に少し体重を寄せて、自分はずっと側にいると言葉を使わずに伝えた。

そんな事をしていると、○○の方も少し皮肉気な笑いを浮かべた。
「なんだか両極端な光景だな……俺達と比べると」
「ええ、あんな連中と違ってね」
別に○○は、物部や雲居やその間に放置されてしまった件の歩荷、これらの関係性をせせら笑ったり、見下す感情はなかったのだが。
阿求はどうやら違ったようだ。自分たち夫妻の方が上だと、はっきりとそう思って、悦に入っていた。
そのような性格や感情は、結局のところ阿求が抱いている劣等感の裏返しだ。
この部分を○○がどういおうとも、きっと何を言っても阿求はとても喜んでくれるだろうけれども。
阿求の感じる劣等感を○○が気にしていないとは信じてくれても、阿求は気にし続ける未来しか見えない。
結局のところ○○が出来るのは、阿求の肩をもう少し強く抱いてやる事ぐらいなのだ。
――ああ、忌々しい。
いくら隠そうとも、忌々しいと言う感情を抱いたのは事実であった。


しかし○○からすれば、いっそのこと阿求からの。
自分たち夫婦の関係性が強固である事の話題ならばともかく、他者と比べて、他者を見下しながらと言う部分への答えを濁した事。
こっちに気づかれてしまった方が、ずっと良かったと目の前の光景を見ながら思った。
件の歩荷は、雲居一輪からしがみつかれる、しなだれかかられるのを拒否しただけではなく。近くにいてもらわれるのも、明らかに嫌がるような動きを見せた。
雲居一輪はキョトンとしていた、何が起こったのか把握できない、あるいは把握したくないとでも表現できるだろうが。
物部布都は目の前の光景に対して、真っ先に把握、あるいはもっとも見たかったがゆえに過剰なほどに見つめ続ける、だけでは収まるはずもなく。
「ふぁー!くぁっはっはっはっは!!!」
人差し指を突きつけているだけでもかなり、悪い印象を与えてしまうけれども、それに加えて喉の奥から恐ろしく汚い声を出しているのは、輪をかけて悪い印象を与えてしまうのは必至だろうけれども。
物部布都からすれば、別に、雲居一輪から悪く思われるのはまったく問題が無かったから、何も気にしている風ではなかったが。
雲居一輪を見下す事に必死な布都は、近くに自分が好いている件の歩荷がいる事に、どうやら、忘れてしまっている様子であった。
(あーあ……)
物部布都は敵の失敗が嬉しくて見えていなかったが、遠巻きにして見守ってやっている○○には気づかざるを得ない部分が存在した。
件の歩荷が明らかに雲居一輪だけではなくて、徹底的に敵の失敗を嘲笑う物部布都にも、引いたような感情を見せながら明らかに距離を取ろうとしたし。
何だったら逃げようかと言う意思も見えた。チラリと稗田夫妻の方向を見たからだ、○○か阿求の色よい返事があったならば、彼は間違いなく逃げ出したろうし。
それはそれで……別に、悪くは無いかなと思っていたが。残念な事に○○の苦笑するような顔を、彼は逃げてはならないと言う風に受け取ってしまったようで。もう何歩か距離を取るだけで、諦めたような沈鬱な姿を見せた。せめて気配だけは消そうと努力しているのが、却って悲しさを引き立ててしまっているが。
逃げても文句は言わないが、逃げられるのはやっぱり面倒さが大きくなるかな、と言う矛盾した考えを○○も持っていたので。
少し可哀そうだが、この状況を何とかするために少々苦労してもらう事にした。
さすがに後々の穴埋めは、阿求に頼んでこっそりとやってやる必要ぐらいは、○○も感じている。

「ふぁー!っはっはっは!!?えぶ、くぁっはっは!?」
だが件の歩荷と稗田○○との間でのちょっとした目配せに、布都は全く気付かずになおも拒絶された一輪の事をひたすらに面白そうに笑っていた。
あまりにも楽しくて、感情が高まりすぎて布都は半ば過呼吸のような息遣いまで起こしていたが。
そんな甲高い笑い声も、今の一輪からすれば酷い挑発だ。○○たちからしてもあの笑い声は癇に障るだろうなとは思えるが、当の本人からすれば、我慢できないぐらいの騒音となる。
布都からのほとんど挑発じみた笑い声も確かにあるが、最初に挑発を重ねていたのは一輪の方だ。それに耐え続けた物部布都の事を考えてしまえば。
「うるさい!!」
雲居一輪が物部布都をぶん殴ったのは、最初に殴ってしまったのは一輪の立場を悪くするなと。遠巻きに見ている○○は思うしかなかった。
やはり頭が良いのは物部布都の方らしいが、最もその頭の使い方がやや邪悪なような気がしてならない。
正直、どっちの女も選びたくないとなるのが大半の男の答えだろう。


「くっくっく……」
しかし物部布都の頭の使い方が若干、邪悪とはいえ。最初に殴ったのは一輪だし……
「お前は窮するとすぐに手が、荒っぽい方法で何とかしようとするのう?それで身内にも迷惑をかけて」
布都の言う通りだ。一輪は同じ命蓮寺の仲間であるはずのナズーリンの、その配下を人質に取って、○○への依頼を取り消させようとした。
最も○○は、金で動くのではなかったと言うのが、雲居一輪が見誤った部分であるけれども。一度引き受けてしまった以上、答えを知らずにはいられないのだ○○は。

「いやはや……お前に殴られたおかげで、ますます我に有利な状況になった。世間はどう思うかのう?」
布都は殴られた場所が少々、悪かったのか。鼻から血を流しているけれども。布都は悠々(ゆうゆう)とした態度で、手持ちの布切れを鼻に当てて、なおも嫌らしく一輪に相手をしている。
布都からすればこれは名誉の負傷、あるいは雲居一輪の性格の悪さを証明するための、道具とする算段がもう付いているのかもしれない。
ようやく一輪も、最初に殴ったことに関しては不味いと気づけたようだ。ナズーリンからすれば、彼女の配下であるネズミを人質に取った事をまだ反省していない事を重大視しそうだが。
世間的には今の、男の取り合いの方が面白いのは、ナズーリンからすれば面白くないだろう。

布都からの挑発、あるいは事実の羅列に対して。一輪はまた拳に力がこもって、二発目を見舞おうかと考えたはずだけれども。
布都の言う事も何とか理解できるようで、わなわなと震えるの見であった。しかしながら利き腕をもう片方の手で押さえていないので、布都ほどは我慢強く無さそうだなと。
○○だけではなく、布都の方もそう思ったようで。彼女からの挑発は全く止むことが無かった。
「お主は色しか見ておらんのだな!!あの男の、才能にまるで目を傾けておらん!!」
布都はケラケラ笑いながら、ゆらりゆらりと動きながら。声でも動きでも、一輪をいやらしく挑発して。更なる一撃を期待していた。
一発ならばまだともかく、二発三発と数を重ねれば、いよいよ勢いだとかそういう言葉では一輪を擁護できなくなる。
聖白蓮ですら、擁護できなくなる。布都がそれを期待しているのは、明らかであった。
それに何より鼻っ柱からの流血は、もはや隠し様が無い。これだけでも信者を使ってあることない事吹き込むだろう、物部布都は。


「あの男がどれほど深くまで山に入れると思っておる!?どれほどたくさんの荷物を運べると思っておる!?どれほどの仲間に恵まれておると!?」
最初は布都も、演じているだけだったのだろうけれども。演じているうちに興が乗りすぎてしまい、特に動きの点が三文芝居でももう少し穏やかな動きでは?と思うぐらいに派手な物になっていたが。
そう言えば物部布都は、酔っているんだったなと思えば、その三文芝居じみた動きにもある程度の納得が出来た。

「雲居一輪!!お前はあの者の中身を、全く見ておらん!!体の頑健さぐらいには目をやっているかなと、夜ごと肌を共にしているようであるから、分かっているかなと思ったが……」
布都はせめてヘラヘラしようと努力しているが、件の歩荷の身体の事になると徐々に演じる事も難しくなってきているようだなと、○○たちは理解し始めた。
「あれだけ近くにいたのに、肌まで合わせているのに!!何故わからぬ!!」
一度演じる事に失敗したら、増してや酒が入っていればなおさら、演じ続ける事は難しいと見えて。布都は徐々に等ではなくて、完全に素の感情をさらけ出してしまっていた。
「肩と腰だけだとでも思っておるのか!?あの者が身体に抱えている不調がぁ!!」
腕をぐるぐる振り回しながらだが、先ほどの三文芝居と比べれば明らかに今の布都の姿の方が、鬼気迫るものを持っていた。
どうやらあの歩荷、致死的だったり致命的な物ではなないようだが。色々と体に傷をつけているようである。
山へと日常的に赴くのが歩荷の生業とはいえ、と言う部分もありそうであった。なまじあの男は才能があるゆえに、他の仲間の為に無理や無茶を重ねているのかもしれなかった。
「何も分からなかったのか!?何も!?」
ここで布都が一輪を殴り返したら、不利になると最後の一線で考えているのだろう。布都尾は詰め寄りこそするが、手は両方とも後ろにやって不意にぶん殴らないように気を付けていたし。一輪が後ずさっても追いかけなかった。

一輪も布都の剣幕に押されたのか、彼女は布都にではなくて逃げるようにして、件の歩荷の方に目線をやった。
○○もそれに合わせて、自然と件の歩荷へと目線をやったが。どうやら物部布都の怒りはある程度真実のようであった……
件の歩荷は、別に椅子なども何もない場所なのに。丁度いい木が合ったからかもしれないが、背もたれ代わりにするだけならばともかく、座り込んでしまっていた。それどころか少しばかり首が下方向に……寝てこそいないが、うつらうつらとしていた。
精神的な負荷があるから、と言う風に見る事も可能かもしれなかったが。稗田夫妻のどちらもそんなに鍛えたような存在ではないが、立ちっぱなしでもまだ大丈夫と言った様子なのに。
ましてや稗田阿求は、体が弱いのに。最愛の○○が隣にいるから、と言うのもあるけれども。まだまだ立ちっぱなしでも大丈夫そうな様子だと言うのに。
件の歩荷はほとんど迷うことなく、座る事を選んでいた。やはり身体的に不調を抱えているようであったのは、見ればわかる。
その状態で、はっきり言って体力を使う夜ごとの営みをさせていると、布都の目には一輪の行為がそういう風に映っていたのは、想像に難くはなかった。
物部布都は別に、この歩荷の男性的な部分は否定していないが。時と場合があるとだけは言いたいのだろう。

「あれを見れば分かるだろう!!?」
布都の怒号で、うつらうつらとしていた歩荷も目を覚ました。
出来ればこの歩荷には眠っていてもらった方が、彼は気を揉まずに済む様な気もしないではない。
そんな風にだいぶこの歩荷に対して、可哀そうだと思ってしまえるようになっている○○は、急いで立ち上がろうとする彼に対して。
良いよ別に、といった風に手の平を見せて、そのままでいても大丈夫だよとの動きをいせてやった。
件の歩荷はやや迷っていたが、体力的な肉体的な不調には敵わないようで。またペタンと言った風に地面に座ってしまった。
その様子を全部見ていた物部布都は、苦虫をかみつぶしたような表情で、もういっそのこと泣きそうな表情とまで言っても構わなかった。

「我が何であんな下品ともとれる商売をしていると?体力を使わずに済むからだ!!それでも半分はあの男が山で採ってきた希少な薬の材料だ!!」
「じゃあ休ませればいいじゃない!!なんだってあんな!成金じみた出し物!!」
「忘れられたら元も子もないではないか!!我はあの男に良い目を見て欲しいのだ!!」
一輪の言う、休ませればと言うのも確かに理解できる疑問ではあるけれども。阿求の場合は、その後に布都が叫んだ、忘れられたくないと言う叫び。こちらに対して阿求は、とてつもなく心を打たれたと言う反応を見せた。
この調子で行けば、下手をすれば阿求は物部布都の方を応援してしまいかねない。稗田が軽々しく、どちらかに肩入れするのは避けるべき事だ。
「――阿求は俺を忘れないだろう?じゃあ十分だ」
少なくともここで無言は不味いと思って、○○は阿求に声をかけたが。
「私が満足しない。ええ、心配しないでください。子々孫々にいたるまで、あなたの評価を英雄にして見せます」
「俺は果報者だよ」
だから十分だと、そう付け加えようかと思ったが。より阿求の事をムキにしてしまいかねないから、それ以上の事は言えなかった。
最も何を言ったって、ムキになりそうではあるが。


「あんたはあの人に何をさせたいのよ!?」
雲居一輪はそう言うけれども、物部布都の腹と言うか、彼の為に描いている図案がこの程度で、増してや恋敵どころか単なる敵としか思っていない雲居一輪相手の言葉で、その図案を変更するはずがない。
「あの男は天才じゃ。天才は天才らしく、もてはやされるべきじゃ!!」
なるほどと、○○は思った。現世利益を追求する神霊廟の、それも幹部構成員らしい考え方である。
雲居一輪はそんな物部布都の方針に対して、まるで理解できないとまで言ってしまっても差し支えないどころか、どこか見下したような表情までしていた。
質素倹約勤勉が基本理念の命蓮寺らしい、目立つことをあまり良しとはしない考え方を雲居一輪は持っていたのだろう。
ここに来ていきなり、神霊廟のの構成員らしい考え方と、命蓮寺の構成員らしい考え方が○○には見えたような気がする。

「あんなバカ騒ぎ」
やはり一輪は、神霊廟が借り上げている空き地での催し物を、良しとは思っていないようで、吐き捨てるような言い方をしたが。
「人を集めねば何にもならん。千人の『ふぁん』から頭が良かったり出資者になってくれそうな者を見つければよい」
やはり物部布都からすれば、あの催し物はあくまでも最初の一段階目ぐらいの気持ちで。もっと先々の事まで考えていたようである。
もちろん、それに伴い件の歩荷の体力を考えたような動きだって、物部布都は深遠に考えを巡らせ続けているだろうが。
雲居一輪は面白くないと言う顔を、相変わらず作り続けていた。
一輪にとっては、件の歩荷と二人っきりで静かに暮らせればそれで良いのだ。金銭の方は、あるに越したことはないが。それだけの為に動こうとは、考えていないようである。
あくまでも一輪は、安寧や静けさを求めているようであるが……物部布都からすればそれは、評価されていないと言う風につながるらしい。


「高潔な人格の持ち主が宝の持ち腐れをしようとしているのを、座視しておれぬわ!!」
「宝の持ち腐れ?既に十分、あの人は評価されていると思うけれども?」
一輪の言いたいのは、件の歩荷の仕事仲間からの評価を言っているのだろうけれども。
「足りぬわぁ!!」
布都がその程度で満足するはずはない。けれども雲居一輪からすれば、物部布都の姿は強欲な商人にしか見えずに、金を追いかけすぎているような、そんな風刺画でも見ているかのような気分になった、嫌な表情をしていた。
「はん!」
しかし物部布都は、雲居一輪からのそんな嫌な表情を見ても、全く堪えたような気分は持たなかった。布都はあくまでも、実際的な考えの持ち主と言えた。
「馬鹿にしたければし続ければよい。だがお前はその感情を食えるのか!?腹を膨らませる事が出来るのか!?」
結局は儲け話を、商いを提供し続ける自分の方が、一輪よりもずっと実際的な価値が高いと考えているようだ。

「お前は即物的ね」
「食わねばやっていけん」
一輪の言う事は最もであるが、布都の言う事も最もであるから、どちらも譲るはずはなかったが。
「お前は、あの人を使って即物的価値観を満たすことに、精一杯なのね」
一輪の方が、やや、おかしくなっていた。彼女は懐から刃物を取り出した。
諏訪子も、聖白蓮も。刃物が出てくればさすがに、ボーっとすることは続けれなかった寅丸星も。雲居一輪を取り囲むようにした。
確かに辺りに緊張感が走ったが、物部布都が刃物の一撃程度で死ぬとは、到底思えないから。
まだまだ、修羅場と言うには遠い感情であったし。
物部布都にしたって、弱くはないから刃物を突き付けられようとも。全く怖いとは思っていなかった、何なら奪い取って逆に突きつけれる、その程度の体術も身に付けている。

「ふん。刺すか?構わんぞ、返り討ちにしてやる」
物部布都はいやらしく、来たければ来いと、挑発をしてやる余裕がまだまだ存在していたが。
「お前のような即物的な奴が、山を愛するあの人と釣り合うはずがない」

確かに物部布都は、稼ぎを更に増やす事でこそ、あの歩荷は報われるのだと言う考え方に対して、違和感はないとは言わないけれども。
精神性ばかりに目を向けている雲居一輪も、やはり、おかしいと言うべきなのかもしれない。
愛に狂った雲居一輪の発想は、刃物を物部布都には使わなかった。

雲居一輪は、刃物を投げナイフのようにして扱ったが。投げた先は物部布都ではなかった。
雲居一輪は、件の歩荷に投げナイフを投げて、突き刺してしまった。
「別に、私は。あの人が一生、身体を悪くしても看続ける事が出来るわ。お前と違って物には執着しないから」
ついに雲居一輪は、物部布都から殴られた。先の雲居一輪のとてつもなく悦に入りながらの言葉は、ほとんど布都の耳に入っていなかった。


「こんばんはぁ、○○さん」
何日か経った折に、○○は友人である上白沢の旦那を連れながら。なじみの喫茶店でお茶とお菓子を楽しんでいたら。横から東風谷早苗が声をかけてきた。
部外者、それも女性からの声が割って入ってくるとは思っておらず。○○も上白沢の旦那も、はっきりと面食らった様子を見せてしまったが。
「あの後、どうなりました?諏訪子様に聞こうかなと思ったんですが、あんまり話をしたくなくて」
あの後の事を思い出して、○○は少しこめかみを抑えながら、気を紛らわせるためにクッキーを一枚頬張った。
それを見た早苗はなぜか、嬉しそうな顔をしながら。
「そのクッキー、美味しいですよね。コーヒーとよく合うように作られてる……良い店ですよね、さすが○○さん」
クッキーよりも、○○の事を褒めていた。
上白沢の旦那はピクリと、何か勘づくものがあったのか○○に目配せをした。○○も同じように、と言うよりは○○の方が立場的に気づかなければならない。
「ああ」
やや事務的な声を○○は作ったが、早苗は堪えた様子が無かった。
「大変だったよ……いや、一番大変だったのは八意女史だろうけれどね」
○○が苛立っているのは、友人である上白沢の旦那の目には明らかであった。


「もちろんの事だが、諏訪子さんもいたし命蓮寺の敷地だし、ひとまず聖さんと寅丸さんで雲居一輪を取り押さえて。そう、覚えているでしょうが東風谷さんには、物部布都を抑えてもらいましたね」
「あの時の布都さん凄かったですよ、私ごと雲居一輪を始末しかねない程にね」
「ええ、その節は苦労をおかけしました。そうですよね、苦労したんだから結末を知りたいと思って当然だ」
○○はとにかく、そういう事であってくれと願った。あるいは諏訪子絡みでの苦労の発散先、嫌がらせでも構わなかった。

○○は少し、喫茶店の上等な椅子に深く腰かけ直しながら。あの時の事を思い出していた。
「諏訪子さんから、永遠亭に件の歩荷を収容出来た事と、命に別状はない事を聞いたのですが。その後の方がずっとイライラしましたよ。残念ながら雲居一輪が言うように、あの歩荷が一生物の障害を負ったとしても、彼女は面倒を看続ける事が出来るでしょう。ただしそれは、雲居が即物的だと言って批判している、物部だって同じなんですよ。目の前で恋人、と物部が思っている男性を傷つけられたものですから、爆発してしまっていました。下手をすれば命蓮寺の本殿を攻撃しかねなかった」
「その時には、と言うか諏訪子様が命蓮寺に戻ってきた時には、諏訪子様が物部布都を抑えているからってんで、帰らされたんですよね」
早苗からは最後まで見届ける事が出来なかった、そんな嘆きが見えたが。嘆き過ぎのようなきらいも、上白沢の旦那にせよ○○にせよが感じた。
「ええ、ちょうど八坂神奈子さんが命蓮寺に来てくれたので。東風谷さんも疲れていたでしょうから、ちょうどよかったです、お渡し出来て」
早苗は言いたそうな事はあったようだが、○○の言葉を待ってくれた。
「最初はね……もう雲居一輪が明らかに悪いから、彼女を徹底的にあの歩荷から遠ざけようとも思ったが。永遠亭から使いが、鈴仙さんがあの歩荷さんからの手紙を持ってきてからまた雲行きが変わってしまったんだ。彼は、話がしたいと言ったんだ。物部布都だけじゃない、雲居一輪とも。信じられない事に、雲居一輪が急所を外してくれているのは分かっていると……ほんとに、よくもまぁ、かばえるよね。ナズーリンさんの言う通り、ちょっとアホだあの人は」
○○が呆れを色濃く出しながら、コーヒーに口をつけた。少しぬるくなっているので、あまり美味いものではなくなっているので、○○の顔は好物を前にしてもすぐれない。
「まぁ、永遠亭の中であるし雲居一輪の身体検査はしたから、大丈夫だとは思ったが。あの話し合いで雲居一輪を突き放さなかったのは、あの歩荷の優しすぎるところだよ。確かにあの歩荷は、物部布都の催し物のおかげで懐具合が良くなった。雲居一輪と言う通い妻のおかげで、家庭環境が良くなった。その両方ともに感謝はするべきだと考えていたんだよ……刃物でぶっ刺された後でも、雲居一輪にそう思ってやれるんだ」
早苗は訳が分からないを一周回って、喜劇でも見ている気分になったのか少しばかり笑い出し板。
それにつられて、○○も笑い出したが。上白沢の旦那は笑えなかった。
○○が笑い出した時、早苗がものすごく嬉しそうな顔をしているのが見えたからだ。
東風谷早苗は明らかに、○○に呼応している。あまり良いものと思えなかったからだ。
稗田阿求の影を考えれば、どうしてもそうなる。

「で、どうなったんです?」
しかし早苗はめざとく、上白沢の旦那が笑っていないのを確認したら急に、笑うのを止めた。
「ああ、結局のところで、物部にしたって雲居にしたってあの歩荷に弱いんだ。と言うよりはあの歩荷も物部と雲居に精神の重要な部分を支配されたと言ってしまっても、そう断言してしまっても構わないね。一番信じられなかったのは、雲居一輪に刺されたおかげで、今までで一番、休めてるとまで言い切ったんだあいつは!刺した雲居一輪もおかしいが、それを受け入れたあの男も十分すぎるほどおかしい!」
見聞きしたことを早苗に説明しているうちに、その時に感じた信じられないと言う気持ちが復活してきたようで、○○の口調は珍しく荒い物になったが。早苗はこくこうと頷き、何かを思い出したようで少し笑みを浮かべたかと思えば。

「阿部定事件(1936年の五月十八日、阿部定と言う女性が愛人の下半身の一部を切り落とした事件)みたいですね。あれも男の方が首を、阿部定から絞められるのにはまってたそうですから。そういう趣味があるんですかね?あの歩荷さん」
上白沢の旦那は阿部定事件と言う物を、知らなくて当然だ。なぜなら彼は、幻想郷で生まれた、土着の存在だから。
しかし、東風谷早苗と○○は違った。外の出身だ。
だから、早苗から言われた阿部定事件のようだ、と言うたとえ話に対して、ヒステリックなほどに笑い出した際も。
面白いなどとは、欠片も思わなかった。はっきり言って、怖かった。


「後はもう、あまり説明できることはないね。物部布都は酷く抵抗したが、やはり肉他的魅力の低さが負い目のようで。結局はあの歩荷を半分こにする協定を……まぁ、この協定はこっちから言い出したんだが、その協定を飲んだよ。一応言っておくが、半分こにするのは時間的な意味でだ」
上白沢の旦那からすれば、この結末には疑問符が大量について回る信じられない結末であるが。
東風谷早苗は、この話の結末に疑問符何ぞつけていなかった。
「中々興味深い結末で」とだけ早苗は言って。
少し離れた、しかし○○の事がよく見える席に座って。東風谷早苗も○○と同じように、コーヒーとクッキーを楽しみ始めた。
「○○、気づいているのか?」
上白沢の旦那はそう言いながら、○○にやや厳しく言った。
○○は返答をしなかったが、ちょうど窓際の席だったので、外をずっと見ていた。緊張感のある顔だったので、分かってくれていると思う事にした。

権力が遊ぶ時 了





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最終更新:2021年01月20日 22:06