偶像として崇められる存在は
 偶像を崇めすがる事も出来ず

 愛おしい存在をただ
 見下ろし続けるだけ

 神は強く
 何よりも
 儚い虜囚。


 魔界。
 その場所の一つ、凍りついた世界で。
「神綺様……」
 夢子はつかず離れずの距離から、一人の女性を見守っていた。
「…………○○ちゃん。久しぶりね」
 魔界の創造主、神綺。
 曇った笑顔を向けながら、彼女は鏡の様な氷へと語りかけていた。

 氷の中には何もない。誰も居ない。
 だが神綺は、其処にその”○○ちゃん”が居るかの様に話し続けた。
「――あの時と変わらない気持ちのまま。今でも貴方が……」
 氷の壁へとそっと口づけて。
「…………好き」
 艶やかに、音を立てて唇を離した。
「消える事の無い感情が、今もこうして私の世界に存在している。
 氷漬けにして、忘却の彼方へと捨て去ってしまえば、
 どうにでもなるものと思っていた。
 ……でも、自分で否定してるって事はね。
 それだけの強い想いを、無意識に自覚するって事でもあったから。
 だから、この氷が溶けて、溢れ。
 零れ落ちるのも……時間の問題だったって。
 今は分かる気がするの」
 ――それがただの片想いでも、と呟き。
 氷の壁は無情のまま、彼女の姿を写し出したまま、其処に在り続けた。

 神綺の伸ばした指先が、その氷壁の先へと触れるまで。


 ○○という人間を好きになる、偶然の気まぐれ、理由なんて無い。
 でもそれには好意に至る経緯が必要で、
 必然たる運命があるべきで、
 相応の理由が、求められるべきだった。

 その過程をすっとばすのは、恋愛には良くある事。
 けれども、それが人間同士ならば兎も角、神からの一方的な寵愛だとしたら。
 ましてや、別世界。魔界の神で、彼女はその創造主だ。

 障害の無い筈の世界。その住人への想いは、障害がありすぎた。


「――本当に見ているだけでよろしいのですか?」
「ええ。……あっ、見て見て。鳥に餌を与えてるみたい。
 ふふ、何様のつもりでやってるのかしらね……やっぱり、かわいいなぁ」
 いつの日かの、会話。
「ご命令下されば、私が……」
「あはは、○○ちゃんったらつっつかれちゃってる!
 鳥に馬鹿にされ……って餌が欲しいんじゃないよ、ほら、早く逃げなきゃ。
 だからそうじゃないって……あははは!」
「神綺様!!!」
 魔界から彼をただ見ているだけの彼女に、夢子は黙っていられなかった。
「……何かしら」
「ですから、私が出向いて、あの方を――」
 神綺は悲しい目をして、夢子の方を振り向いた。
 さっきまでの明るい声とは、まるで正反対の顔をして。
「彼には人としての生があるから。
 彼は”私を知らない”から、私は何もして上げられないし、する事もない。
 ……出来ないわ。不可能では無いかもしれないけど」
 夢子は黙って首を振る。
「しかし、それでは神綺様は――」
「片想いでも、想えるだけ――私は幸せよ。
 嫌われないし、彼に迷惑をかける事も無いから。
 私を理由に彼が襲われない訳が、出来ないという事も無いでしょう」
 ……それに、と神綺は呟いて。
「あの人の想いを、私が受け止められても――

 あの人が私の想いを受け止められるか、分からないもの」
 その命を奪ってしまうかも知れないからと、吐き捨てる。
 想い人へと向き直る神綺の表情に、陽がさす事はない。
 陰る心は満たされる事は無く、その痛みに耐えられずに

 ――神綺は記憶ごと、全てを閉じ込めていた。
 自分の世界の一つ、氷の壁の向こう側に。


 魔界の神に、信仰など必要は無かった。
 信仰が欲しいならば自らの手で創り出せば良いのだから。
 信頼も、友愛も、愛慕も、心を寄せてくる相手も。
 それで全て事足りると。

 ……その人と出逢うまでは、きっとそう思っていた。

(私を知らないあの人に)

(私は何もして上げられない)

(世界が違う)

(知識が違う)

(認識に隔たりがありすぎて、私には見ている事しか出来ないまま)

(あの人が私を知る事も無いから)

(一方的に私だけが知りすぎたままで)

(想いだけがただただ募るばかり)

(溢れるかえって、今では毒の様に)

(私の胸を苦しめている)

(あの人の性格も、行動も、考えも)

(その体も――)

(出逢いが無いと言うだけで、こんなにも全てが遠くに感じられる)

(だから)

 氷壁の向こうから流れ込むそれを、神綺はただ冷たく受け止める。
(……嫌いになって上げられなくて。
 ……忘れてしまう事が出来なくて)
 ひび割れてゆく氷壁に、目を伏せながら。
(私の世界の子じゃない、貴方に。こんなにも身勝手な神様で……)

(ごめんなさい)


 何故、今になって――
 付き添っていた夢子は、それを眺めながら思っていた。
 あれから○○の事を完全に忘れさり、
 それに携わるものには一切近付いてもいないというのに。

 ――完全に氷壁の崩れる音と共に。
 夢子は神綺のその表情を、見てしまった。

 唇の端から血を流し、全てに絶望したようなその目を。

「……罪の無い者に、罰は与えられない」

「……だからこれから私がする事は

 ただの独り善がりな暴力よね……

 ○○ちゃん」


 ――そう、これは暴力だ。
 誰かも言っていた。
 魔女であれ、神であれ。人外の類であれば妖怪に違いない。

 また誰かも言っていた。
 人も妖怪も神も、等しく違いなど無いと。

 ……そう、それはきっと愛する事も一緒。

 その人間を喰らおうと、浚おうと、殺そうと。
 そうする事でしか愛を表現できない妖怪がいる。

 その人間に驕り、騙して、狂気の片鱗を見せる事でしか。
 想いのたけをぶつけられない妖怪がいる。

 力を誇示し、支配し、報復を強調する事でしか。
 気持ちを示す事の出来ない、人や神もいる。

(罰でもなんでもこじつけでもいい。
 貴方を連れて行く理由が欲しかった、でも――)

(僅かな業も、その心に抱く罪悪も。
 貴方が知らぬ、私が裁く事は出来ないから)

「ごめんね……○○ちゃん。私もあんまり変わらないみたい」

 ぎぎぎ。

 ○○の上に馬乗りになって神綺は、その首を絞めていた。
 真夜中の一室で○○は、顔も見えぬ知らぬ存在に襲われて、ひっしにもがく。
 もがき続ける。
 圧倒的な力を感じて尚それが無駄だと知りながら、
 生きようとする本能のままに。

(……初めて貴方に触れる手が、初めて貴方を殺す事になるなんてね)

 ――ぎりっ。

 殺意の込められていたその手は、柔らかく暖かかった。

 軽い音と一緒に、首からその手が離れると、そのまま腕で○○を抱きしめた。

 ○○の呼吸が、ゆっくりと小さくなっていくのを惜しむように。
 包み込む様に、愛情を注ぐ様に優しく。

(……これで)
 神綺は○○の体から抜け出た小さな灯の様なものを浮かべ、そっと手に取った。
(輪廻転生の輪に、貴方を渡さなくて済む……)

 力無く、抜け殻同然の○○を抱えたまますがるようにもう一度抱きしめて。
 自らの禁と領分を越え、やっと触れる事のできたその体は何よりも冷たく……
 今度は心だけでなく、その体までも。
 ○○と一緒に凍り付いて、囚われてしまったかのように、動かぬままでいた。

(私の気持ちなんか受け止めてくれなくてもいいから

 ただずっと……ずっと一緒に……○○ちゃんと……)

 月明かりに照らされた彼女の服の色は

 普段よりもどす黒く赤い血飛沫に染まり

 ○○の布団の横には、常用していた薬の袋

 家の外には鮮血の池に身を沈めた大鎌の女性。


 ふと、願った事があった。
 もし将来があるなら、その出逢えた筈の”誰か”と出逢いたかった、と。

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最終更新:2010年09月03日 09:22