『ごめん……姉さん』
『命蓮!行かないで!命蓮!』
ねぇ……命蓮……叶うなら……もう一度……あなたに……
「……ん……」
朝……なのね。起きなければ…
「おはようございます、聖。」
「おはようございます、星。」
星はいつも私より早く起きて、私に挨拶をしてくれる。
私が最も信頼している子。一番弟子……とはちょっと違うわね。
挨拶はするのもされるのも気分がいい。
私があなたに近づきたい、というアピールができる。
さて、寝巻から着替えねば。
皆が食卓で待っているわ。

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「おはようございます、聖!」
「ええ、おはようございます、ムラサ。」
ムラサは本当に元気がいい。
かつて海を船で駆け巡っていた時の名残だろう。
この子のエネルギーに、いつも私は救われている。
そういえば、私の封印を解くのに一番尽力してくれたのはこの子だ。
もう一度私に土を踏ませてくれた事、感謝してもしきれない。
「こら、ムラサ。食卓で騒がないの。……おはようございます、聖。」
「おはようございます、一輪。今日の食事はあなたが?」
「ええ。もともとはそこの寝坊した船幽霊の当番だったはずなんですがね。」
「えーと、アハハハ……」
「村沙、キミはもう少し時間に厳しくあった方がいいな。
 まぁ私としては朝ご飯が予想より美味しくて嬉しい限りなんだが。
 っと、おはようございます、聖。」
「ナズーリンひどい!」
「うふふ……おはようございます、ナズーリン。」
一輪、ナズーリン。
二人とも、良く働く頑張り者の良い子だ。
一輪は気が良く気が回るし、ナズーリンは誰より先を見越している。
命蓮寺の皆。
私の大切な仲間達。
かけがえのない、私の宝物。

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「聖!聖!大変です!」
動転した様子でムラサが私の部屋に駆けこんできた。
何かあったのかしら。寺の外壁にいたずら書きでNewスーパーB.B.A.シスターズとか?
……それは無いか。
うん、無い。多分。私肉体年齢ならまだ若いし。
別に抹茶と菱餅が大好きな二十代がいたっていいはずだ。
……たまに里の女の子とかが羨ましいけど。
「どうしたのですか、ムラサ?」
「門の前に人間の男が倒れてます!」
「まぁ、それは大変。保護してあげねば。ムラサ、中に運んであげて。」
僧侶として、困っている者を見捨てる訳にはいかないものね。
まぁこの命蓮寺は人間だけ救うわけではないけれども。
「はい、聖!」
うん、良い返事。ムラサは本当に良い子ね。
さて、私も介抱の準備をしなければ。
湿布はどこに置いていたかしら?
……まぁ、魔法もあるし何とかなるわよね。

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倒れていた人を介抱するために客室に足を踏み入れた私の目に飛び込んで来た姿は。
「命……蓮……?」


見間違いだ。
命蓮はもうこの世にはいない。
だって命蓮は私の目の前で……
「う……ん……」
声までそっくりだ。
嘘みたい。
本当に?本当に命蓮なの?
「えーと…すみません、ここは……?」
「あ、ああ、おはようございます。」
「お、おはようございます。」
懐かしい。命蓮の声。命蓮の顔。命蓮の姿。
全てが懐かしい。
ああ、あなたは本当に……
「ここは命蓮寺。お寺ですよ。あなたは門の前に倒れていたのです。」
「そうだったんですか……」
ああ、嬉しい。
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい!
頭がどうにかなってしまいそうだわ!
命蓮!ああ、命蓮!私の弟!私だけの弟!
戻って来てくれたのね!黄泉から!
私のために!
なんて姉思いなのかしら!私の命蓮!
「今日はこのまま休んで下さい。元気になってから事情を聞きます。ね、命蓮。」
「……?はぁ、それはどうも。(……命蓮?しかし、綺麗な人だなぁ)」

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倒れた翌日の朝。
寺の一室の中で目が覚める。
「あ、起きた。」
セーラー服の女の子がこちらを覗きこんでいた。
「失礼だけど、君は?」
「話しかける前に挨拶しなきゃダメって、聖はいつも言ってるよ!」
女の子はめっ、という仕草をして、挨拶をするように注意してきた。
……体が少し小さいせいだろうか。世話焼きの妹のように見える。
「ああ、すみません。おはようございます」
「うん、おはようございます!」
満面の笑みで挨拶を返してくる。
うん、可愛いな。後ろにしょってる錨を除けば。
「では、気を取り直して……あなたは?」
「私はムラサ。村沙水蜜。あなたは?」
「あ、俺は○○です。」
「ふーん…じゃあこれからよろしくね!○○!」
「うん、よろしく。で、聖という人は……」
「聖はね!とっても偉い聖人なのよ!ここの寺の僧侶でね!すばらしい人なのよ!」
そう言って聖、という人物の説明を始めたムラサの目はキラキラと宝石のように輝いていた。
聖さんとは俺を介抱してくれたあの綺麗な人の事らしい。
ムラサの嬉しそうな顔を見れば、相当な信頼を寄せられている事がわかる。
「……だからね!聖は凄いの!」
「へぇー。じゃあその聖っていう人の所に連れて行ってくれる?」
「今は寺の皆と朝食を取っている所だと思うよ。一緒に行こ!」
「うん!」

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村沙と一緒に来た食卓には、様々な格好をした人?達がいた。
村沙の話によれば、皆妖怪だとか。
妖怪、と聞いて少し怯えたが、話してみれば気さくで良い妖怪達だった。
相変わらず、聖さんは俺の事を「命蓮」と呼ぶのが気になったけれど。
でも、俺はその優しい笑顔に心を奪われていた。
こういうのを、一目惚れっていうのか。
とにかく、和気あいあいとした朝食だった。
補足しておくと、村沙は料理があまり得意ではないらしい。
朝からかき氷と熱々のおかゆ、という組み合わせは独創的すぎる気がする。
味付け全部超塩辛いし。毎日食ったら確実に高血圧で死ねる。
星さんと一輪さんが朝食後すぐに厠に駆けこんでいったのも分かる。
「じゃあ命蓮、後で私の部屋に来て下さい。事情を聞きます。」
「あ、はい。」

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聖さんの部屋。
命蓮寺の二階にある、畳敷きの小さな部屋。
東の窓から部屋全体に優しい日光が降り注いでいる。
「で、命蓮は何故あんな所にいたの?」
「いえ、部屋で本を読んでたら急にここに来て、妖怪に追いかけられて倒れていたんです。」
「え?黄泉にも本とか妖怪があるのかしら?」
「は?」
いまいち聖さんの話の要領が掴めない。
黄泉、というと死んだ後の世界のはずだ。
俺は普通に生きているぞ?
そもそも、俺の話と全くかみ合って無い。
「命蓮、どうしたの?」
「すみません、聖さん。その、命蓮、とかいうのは誰のことですか?」
「いやですね命蓮ったら。あなたの事に決まってるじゃない?
私の事もいつも通り姉さん、でいいんですよ?」
「いや、俺の名前は○ーーー」
あ?え?ちょっと待ってくれ、俺誰だっけ?
いやいやいや。少なくとも命蓮ではない。
だよな?うん、え?そうか?
「どうしたの、命蓮?」
「いや、え?」
突然、聖の部屋の扉が開いた。
「聖。彼を少し借りるよ。」
「ナズーリンですか。どうしたのですか?」
「彼に彼を襲った妖怪の事を聞いて、可能ならダウジングして位置を特定するつもりだよ。」
「成程、また命蓮の時のように人を襲うかもしれませんしね。改心させねばなりませんね。」
「そういうことだ。では、行こう。」
「あ、ああ。」
なんだかよく分からない内に、僕はナズーリンの部屋に連れて行かれた。
ん?僕?いや、いつもこうだったよな。うん。

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「----さて。どこから話したものかな。」
ナズーリンは部屋に着くと、鍵をしめ、僕を座布団に座らせてチーズとお茶を出してきた。
朝ムラサの事をバカにしていたが、これではナズーリンもどっこいどっこいだ。
もう少し食べ合わせ、というものを考えた方が良い。
「ところで君。名前は?」
朝に自己紹介したはずなのだが。
ナズーリンはこう見えて意外と忘れっぽいのか?
「僕の名前は、命、蓮」
「……はぁ。しっかりしてくれ。君は本当にそんな名前だったのか?」
ナズーリンは呆れ顔でため息をついている。
僕がなにか間違った事を言ったのだろうか?
ん?俺、だよな?うん、俺は俺だ。俺は、
「……俺は……○、○だ。」
「よし、まだ完全ではなかったか。君は命蓮寺に来る前、自分の部屋……
 つまり、ここより幾分文明が発達した所にいた。違うかい?」
「!そう、そうなんだよ!俺はーーー」
やっと事情を多少なりとも話せる人物に出会えて、俺は本当に嬉しかった。
色々話した。何をしていたか、こっちに来てどんなに辛かったか。
「……ふむ、大体分かった。では、今度はこっちの話だな。」
ナズーリンがした話は、聖さんが1000年生きている魔法使いだという事と、聖さんの弟、命蓮の事。
そして。
「君は聖の弟にうりふたつだ。聖の気持ちも、分かってやってほしい。」
聖さんの気持ち。ずっとずっと前に死んだ唯一の弟の姿の人が、今自分の目の前にいる。
どんなに嬉しいだろう。
「……でも、」
「そうだ。聖には同情できる部分もあるが、君は君だ。君に自分の弟として接するのは、
 君の存在を認めない事と同じだ。聖のエゴでしかない。
 君も、自分の惚れてる人が自分を見ていなければ寂しいだろう?」
ナズーリンは本当によく頭が回る。こっちの言いたい事を瞬時にくみ取ってくれる。
「さて、ここからが本題だ。」
ナズーリンの表情が険しいものに変わる。
思わず正座をしてしまった。
「今、この寺には魔法がかかっている。脳の認識を操る魔法でね。
 簡単に言えば、君の名前を口に出そうとすれば脳が「聖の弟」と認識する。
 そして聖の弟の名前が声に出され、君の名前は記憶から薄れる。
 つまり名前を呼ぶたびに君=聖の弟、と認識される訳だ。
 よって、一日に君の名前、「聖の弟」の名前を呼ぶ回数が多い者ほど早く
 命蓮として君を認識するようになる。」
「その魔法をかけてるのは……」
「ああ、君の予想通り聖さ。残念ながら今の私では解除は不可能だ。
 更にこの魔法の厄介な所は、解いたらその認識をしていたもの全てに関する記憶が消える事。
 そして日に日に影響力が増す事だ。
 今は名前の認識を変えるだけだが、その内視覚なんかも操られるだろう。
 そうなるともうお終いだ。傍から見れば君は完全に「聖の弟」になる。
 君自身も、自分の存在に疑問を持つようになるだろう。
 ーーーーそうなれば、君の存在を立証できるものは無くなる。」
足が震える。冷や汗が首筋をつたい、唇が渇く。
ナズーリンがいなければとっくの昔に自分が無くなっていたかと思うと、
後から後から恐怖感が沸いてきた。 
「怯えるのは仕方がないが、現実そういう状況なんだ。向き合わざるをえないだろう。
 いいかい、君に出来る事は自分を見失わない事。そしてもう一つ、
 聖を正気に戻す事。今聖にとって君は「聖の弟」だ。つまりーーー」
「一番信頼されてるのが俺、って事か……」
でも、結局信頼しているのは「命蓮」だ。
俺の惚れた人は、俺を見てくれていない。
「その通りだ。いいかい、大体君が「聖の弟」になるまで大体一週間だ。
 それまでに、聖に君の存在を認識させれば君の勝ちだ。
 ただし、自分の名前は絶対に口に出さない事。
 後、動くなら早め早め、だ。一日ごとに出来る事は減っていくよ。」
どうすればいいのかはよく分からない。でもやらなきゃ、俺が消える。
そんなのはゴメンだ。絶対に。
「----分かった。やってみる。俺が正気を保てる期限はどのくらい?」
「一週間、といった所か。ああ、ちなみに私が正気を保てるのは大体二日だ。」
「え……?」
「当然だろう。今は君の名前を意識せずに口に出さない事で何とか持っているが、
 視覚と意識まで弄られたら流石の私でもお手上げだよ。」
「…………」
思わず、絶句してしまった。
こんなにも聡明で頼れる奴でも、後二日で正気を保てなくなるのか。
「む、もうこんな時間か。さぁ、昼ごはんでも食べに行こうじゃないか。
 まぁ当番は一輪だから味の保障はできるさ。」
後二日で自分は正気が保てなくなる、と言った直後、急にナズーリンはのんびりした事を言い始めた。
実際お腹も空いていたし、従わなければならない空気だったので、素直に従う事にした。
扉を開けた直後部屋の前に立っていたのは。
にこやかな顔をした、命蓮寺の僧侶。1000年の大魔法使い。
ーーーーーーーーーー聖、白蓮だった。
「……っ!」
頭の中で思考が駆け巡る。
いつからそこに居た?
どこまで聞かれている?
俺はどうするべきなんだ?
考えがまとまらない。
「こんにちは、聖。今日の昼ごはんは何かな?」
「ナズーリン、こんにちは。今日はそうめんですよ。」
「ふむ、そうめんか。チーズには……合わないな。」
「ふふふ、ナズーリンったら。……どうしたの、命蓮?」
聖に疑問を投げかけられ、ようやく口が動く。
「あ、ああ、こんにちは。」
「はい、こんにちは。命蓮はそうめん好きだったわね。嬉しい?」
「う、うん。」
頭の中で強く強く自分は命蓮ではない、と否定を繰り返す。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昼食も和気あいあいとしていた。
食べ終わった後、ムラサと寺の掃除をした。
一緒に掃除をしている時、ムラサはひどく上機嫌だった。
逃げられないか、と考えて一輪さんに雲山に乗せてもらった。
空から見た命蓮寺は、綺麗だった。
聖さんの考えを理解しようと思い、星さんに仏教の考え方についての講義をしてもらった。
聖さんがいつも挨拶をする理由が分かった。
これからどうするか考えながらナズーリンと一緒にチーズを頬張った。
ーーーーーいつも、聖さんが見守っていた。
正直、怖くなってくる。聖さんだって寺に来る人妖に説法したり、
黒白の魔法使いのスペルカードというものの練習に付き合ったりで忙しいはずだ。
なぜ、常に隣にいるのか。本人に聞いても
「あなたが心配だからですよ、命蓮」
としか答えてくれない。
心配なのは、命蓮。
俺じゃない。
聖さんの監視の目から逃れる事は出来ず、
ナズーリンも影からサポートしてくれていたが、
結局有効な手立ては見当たらないまま、一日が終わった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「命蓮、起きろー!」
ムラサがのしかかってくる。
すでにムラサの中では俺は命蓮になっている。
そう考えると不意に涙が出そうになって来た。
なんとかこらえながら、今朝の献立を聞く。
「おはようございます、ムラサ。今日の朝ご飯は?」
「うん、おはようございます命蓮!今日はそうめんだよー!」
「昨日の昼食もそうめんじゃなかった?」
ムラサは呆れ顔で頭を抱えた。
え?
「いっくら私でも、三食くらい同じメニューにはしないよ!大体昨日の昼食は焼き魚だったでしょ!
 命蓮、ホント大丈夫?ボケには早いよ?」
ムラサの言っている事が、途中から酷く遠い所で聞こえている気がした。
気が遠くなる。分からない。どういう事だ?
今日が明日になっている。
「あ、そっか。命蓮は昨日熱出して寝込んでたもんね。そういえばナズーリンもだったなぁ。
 二人とも聖が付きっきりで看病してたけど。」
やられた。成程、皆が寝てる間に聖さんが魔法を使えば、人間や妖怪を起こさない事なんか容易い。
ムラサが言ったように熱をだした、と言えば看病する理由も出来る。
聖はここで最も信頼されている人物だし、起きてこないのだから、疑う余地は無い。
つまり、付きっきりで魔法をかけっぱなしにできる、ということだ。
「ってことは……ナズーリン!」
「命蓮?どしたの?」
「ムラサ、ナズーリンは?」
「まだ寝てると思うけど……?」
「分かった!ありがとう!」
「あ、うん。どういたしまして……?」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ナズーリンの部屋の前。
扉を開けると、すやすや寝ているナズーリン。隣にいる聖さん。
これが何を意味するのか。
理解する前に無理やり脳をシャットダウンした。
「あら命蓮、おはようございます。ナズーリンを起こしに来たの?」
「あ、うん、まぁ、そんな所。」
「ふあーぁ……む、朝か。」
ナズーリンは聖の方を向き、
「おはようございます、聖。今日の朝ご飯は何かな?」
「はい、おはようございます、ナズーリン。朝食はそうめんですよ。」
「ふむ、そうか。おや、そこにいるのは」
止めてくれ。こっちを向かないでくれ。口を開けないでくれ。
お願いだ。俺を、○○を、消さないで、く、
「おはようございます、命蓮。」
ーーーーーーあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!


あれから三日後の朝の朝食。
幸せな空気が食卓を囲んでいる。
聖さんと俺、「命蓮」。それを慕う妖怪達。
どこからどう見ても平和そのものだ。
ーーーーー今日。
この平和を、壊す。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

朝食が終わる。
妙蓮寺の皆はそれぞれの仕事に行った。
俺は、聖さんに話を切り出す。
「姉さん。話があるんだ。」
「あら。なにかしら、命蓮。」
もはや俺は自分の名前も思い出せない。
でも、たとえ名前が命蓮だろうと、俺は命蓮じゃない。
絶対に違う。
聖さんが姉さんでも。
どんなにここで命蓮として暮らしていく事が幸せでも。
俺は、俺だ。
「この寺を、出ていく。」
「え……」
「二度と、帰ってくるつもりは無い。」
「命、蓮?」
「もう、荷造りは済んでる。じゃあね、姉さん。」
「命蓮!行かないで!命蓮!」
「ーーーーごめん。聖さん。」
「…………………!」
振り返らずに。
決して振り返らずに。
安全、平和、幸福、愛。
全部投げ捨てて、何も無い場所へ行く。
案外、簡単だった。
後ろで聖さんの悲鳴が聞こえた。
振り返らなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なんで。
なんでなんでなんでなんでなんでなんで?
なんで命蓮また行っちゃったの?
二度と離さないって誓ったのに?
またってなに?
命蓮は一人でしょ?
わかんない。
なんで全部捨てて行ったの?
分かんない。
だって、ここには全部あるのに。
欲しい物、全部あるのに。
食べ物、沢山あるよ?
布団、フカフカだよ?
お風呂、あったかいよ?
人もたくさん来るよ?
頭の良いナズーリンがいるよ?
気のきく一輪がいるよ?
元気なムラサがいるよ?
信頼できる星がいるよ?
何がダメなの?
何で行っちゃうの?
あなたのお姉ちゃんがここにいるよ?
お姉ちゃん、優しくなかった?
お姉ちゃん、そんなに嫌だった?
あれ。おかしいな。
お姉ちゃんって、誰?
命蓮のお姉ちゃんは私。
じゃあ「命蓮」のお姉ちゃんは?
私?違う。
あれ?
もしかして、私は、とんでもない事を、してーーーーーーーーー
「うっ!げええええええええええ!…………」
強烈な自己嫌悪により、猛烈な吐き気が襲ってくる。
ムラサの作ってくれた朝食が胃の中から逆流する。
ああ、ゴメンナサイ。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
後悔。今の私には悔いる事しかできない。
人一人の存在を、本気で書き換えようとした。
「命蓮」を、命蓮にしようとしてしまった。
許される事では無い、決して。
私はーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、どうしたものか?
「ガアアアアアアアアアアアアアアア!」
目の前にはどう見ても人食いの妖怪。人狼かな?
俺は丸腰だ。
つまり、マジで死んじゃう5秒前。
冗談じゃ…………
「マジかよ……」
その大きな歯が肩をとらえようとした所で、妖怪は破裂した。
「………………」
「聖、さん……」

俯いたまま、顔を上げない聖さん。
「…………」
俺も、なにも言えない。
そもそも、喋りたいとは思えなかった。
だって、聖さんが見てるのは。
俺の惚れた人の目に映る俺の姿は。
二人とも座り込み、俯く。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

時間だけが過ぎ、夜になってしまった。
「……聖さん。」
「…………」
草むらに寝ころび、腕を伸ばす。
「名前を呼ばないって事は……魔法、解いたんですね。」
「っっ……!」
空には、星。
外の世界には無かった、満天の星空。
隣には、惚れた人。
皆に信頼され、誰にでも優しくできる聖人。
なのに。
なんでこんなに、辛いんだろう。
「…………ごめんなさい。」
涙が、溢れてくる。
「俺、もう、分からないんですよ!自分が誰だか!
 分かってるのは、俺は命蓮じゃない事。それだけです!」
明確な拒絶。俺は、何を言っているのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいーーーー」
聖さんは何かに怯えるように、頭を手で覆って、うわごとのように繰り返す。
俺は何をやってるんだ。好きな人を悲しませるなんて、男として最低だ。
でも、どうしろっていうんだ。
夜が深くなる。
闇が全てを覆い隠してしまう。
俺に出来る事は、泣いている聖さんを抱きしめるだけだった。
「……聖さん。」
「……はい。」
「好きです。」
「っ……!」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

朝。彼の姿は無かった。
結局、私は罪を償う事も出来ず、むしろ彼に泣きついただけだった。
彼が一番の被害者で、私が加害者なのに。
彼の温かさ。
罪深い私を抱きとめてくれた、優しさ。
そんな彼が、最後に言った言葉。
その全部が頭の中で反芻し、嗚咽が零れる。
ああ、私は、彼の事が。
でも、彼はもう、いない。
返事を待たないまま、彼は消えた。
「うああああああああああああああああああああああああ!」
まだ涙は、枯れる事を知らない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「こんな所にいたのか。ずいぶんと探したよ。」
聖さんを残して、かき氷を食べていた時。
目の前に、妖怪ネズミがいた。
「ナズーリン、か。」
「初対面で名前を知られているとは。私も有名になったものだな。」
「ああ、そういえば、初対面だな。何の用だ?」
やはり。俺は、あそこにはいなかった事になってるのか。
「家の僧侶、名前を聖と言うんだが、君の事を探してほしいと頼まれてね。
 急ぎでも無いようだし、ついて来てくれないかな?」
「断る。」
「残念だがその選択肢は無いよ、○○。」
「!?」
急激に意識が遠のく。
ナズーリン、まさかお前……
それより、俺の名前は、○ーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

命蓮寺の客室。俺と聖さんが初めてあった場所。
「…………」
「…………」
正座で向かい合っている俺と聖さん。
なんて言おう。
何を喋ればいい?
二度と会わないつもりだった好きな人の目の前で。
フラッシュバックするのは、星さんの話。
挨拶の、意味。
「おはようございます、聖さん。」
あなたに近づきたい。
「……おはようございます。……すみません、こんな方法しか無かったんです。」
聖さんの目が腫れている。泣き明かしたのだろうか。胸がキリキリと締め付けられる。
「……何が、ですか?」
「あなたの思いに、応えたいんです。」
あの夜、言った言葉。
「…………」
「私、聖白蓮は、あなたをお慕いしております。」
でも、それは、あなたが好きなのは。
「----それは、」
「違います!命蓮ではなく、あなたの事を、です!
 身勝手なのは分かっています。ですが、どうか、私と、生きてください。
 一緒にいてください。あなたが、好きです!」
俺は。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「起きろー!○○!」
ムラサが上に乗っかってくる。
「おはようございます、ムラサ。もう少しソフトに起こしてくれないか?」
「うん、おはようございます、○○。お断りだ!」
あれから、俺の名付け会議がなされた。
結局採用されたのは、ナズーリンと白蓮がだした「○○」という案。
俺は、○○になった。
何故か○○という名前は妙にしっくりくる。
多分、元の俺の名前だったのだろう。
「聖さん、ちょっといい?」
「はい、いいですよ。」
朝食が終わり、聖さんの部屋に行く。
「白蓮。いつもの、してくれるか?」
「ええ、いいですよ、○○。」
二人きりの時は、白蓮、○○だ。
白蓮は畳に女座りをして手招きをする。
俺は白蓮の膝の上に頭を置く。
「本当に○○は膝枕が好きですね。」
「気持ちいいんだもんよー。」
日課。午前中の白蓮膝枕。
この世のものとは思えないくらい気持ちいい。
たまに耳かきもしてくれる。
「じゃあ、今日の夜はお願いしますよ?」
「今日の夜も、でしょ。」
「まぁ、そうなんですけどね。」
白蓮は顔を赤く染める。なぜか?
それは夜の日課。白蓮に抱き枕にされる事。
本人曰く、この世のものとは思えないくらい抱き心地がいいらしい。
たまに頭を撫でてやると、もの凄く嬉しそうな表情をする。
こっちも嬉しくなってくるからいいのだが。
デメリットといえば朝起こしに来たムラサが凄い微妙の表情するくらいだし。
今日も、命蓮寺は平和だ。
俺は、愛する人と一緒に、○○として。
ずっと生きていく。

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最終更新:2010年10月22日 02:09