乾燥機の蓋を開けたら、水色のブラジャーが入っていました。
そっと蓋を閉め、深呼吸。洗濯機の上の小窓から外を眺めると、今にも降りだしそうな曇天が広がっている。
ああ、もうすぐ一雨来そうだなぁ、だからベランダに干すのではなく乾燥機を使いたいんだけどなぁ。
たっぷり一分ほど現実逃避をしたあと、もう一度蓋を開けるとやはり幻覚でもなんでもなく、確かに女性物の下着が入っていた。
「誰の物でしょうか」
思わず呟きが漏れる。いえ、誰の物だなんて、どんなに考えても該当者は一人しかいないのですが。
もちろん僕ではありません。女性物の下着を自分で身につけるような趣味もありませんし、
他所様のを盗んでくるような人間でもありません。
これはやはり、昨日雨宿りに訪れた彼女の物ですよ……ね。
僕の部屋に下着を忘れていくような女性は彼女以外はいません。
彼女、と言っても別にお付き合いしているわけではないのですが。
あれ、そう言えばどうしてこんな事になっているのでしょう。
常識的に考えて、恋人同士でもなければ、男の部屋でシャワーを
浴びて帰っていくなんて事がありうる筈が無い。
しかし、その常識的に考えてありえない事が、この夏既に3回も起こっている。
彼女はこの行為をなんとも思っていないようですが、
僕の方はというと密かに思いを寄せる女性が自室でシャワーを浴びているという
90年代の少年ジャンプを思い起こさせるシチュエーションに、毎度理性と本能の全面対決を強いられていました。
何せドア一枚を隔てた向こうに生まれたままの姿の彼女がいるのですよ。
これなんてエロゲ状態なのによく耐えたと自分でも思います。
もはや据え膳を食わない忍耐力世界一として、ギネスに申請してもいいのではないでしょうか。
……そろそろ現実に戻りましょう。
この生乾きの洗濯物を乾燥機に入れてしまいたいのですが、
そのためにはこの先客に退いていただくしかありません。
一人暮らしなのだから僕以外は誰もいないはずなのに思わず周囲を見回してしまい、それから乾燥機の中の危険物を手に取った。
「…サイズを見る位構いませんよね」
誰にともなく呟いてタグを探す。そこにはC65と記されていた。
Cカップ、Cカップか……あれでそんなにあるものなのでしょうか。
てっきりAかせいぜいBくらいだと思っていましたが、見た目ではよく分かりませんね。
僕もまだまだ修行が足りないようです。
そのまま可愛いデザインだなぁと感心して眺めていると、唐突に重大な事に気づきました。
えーと、ここにこんな物があるということは、昨日の帰り道の彼女はひょっとしなくても……
記憶のHDDを巻き戻せ、一時停止して胸元をクローズアップだ。
……ダメだ、分からない。どうして科学捜査班を僕の脳内に呼べないのでしょう。
せめて画像解析ソフトをインストールできればいいのに……!
下着を握りながら自分のスペックの低さに身もだえしていたら、急なドアのチャイムで身体が飛び跳ねた。
慌てて乾燥機に下着を戻して玄関へと向かう。
「…どちら様ですか?」
今日だと新聞の集金にはまだ早い。
セールスの類いならお断りですよとトゲトゲした声でドア越しに応対すると、
俺だけど、と聞き慣れた声が不機嫌そうに返って来た。
失敗した。すぐにドアを開けて彼女に微笑みかける。
彼女は僕の顔を見た途端に苦虫を噛み潰したような顔に変わり、いつも通りかよと小さく呟いたようだった。
いつも通りではいけないのでしょうか。女性の心はよく分かりません。
「いらっしゃいませ…ええと何の御用で…」
「宿題教えろ。数学だ」
どうぞ、と言う前に廊下と僕の身体の間の狭い空間をすり抜けるようにして、
ミュールを脱いで上がっていく彼女の後姿を見て小さく溜息をつく。
身体のラインが出るようなTシャツにショートパンツ。
非常によくお似合いですが、その格好は如何なものかと思います。露出度が高すぎです。
Tシャツの襟ぐりは大きめに開いていて、先程擦れ違う際に一瞬ぎくりとするほど際どいところまで見えてしまった。
シンプルなデザインの淡いオレンジ色で、カップとストラップの境目にレースで作られた花をあしらってあり、 そのカップに収められていたものの大きさは盛りの小さいオムライス…いやいや……目玉焼きに色がついたレベルでしょうか。
我ながらよくも一瞬でそこまで観察できたものです。
時々人間というものは計り知れない能力を発揮するものですね。
「古泉ー? どうしたんだよ」
リビングから聞こえる彼女の声に返事をして、ドアの鍵をかけて急ぎ足で彼女の元へ向かう。
彼女はソファーに座って早速ミニテーブルに勉強道具を広げはじめていたので、
その斜め横の床に直に座ろうとしたら俺の横にいたほうが教えやすいだろ、と強引に隣りに座らせられた。
ショートパンツから伸びる健康的な太ももが眩しくて仕方がない。
忘れられていた下着を発見した時点で情熱を持て余し気味だというのに、
こんな格好で思いを寄せる女性に隣りに座られた日には。
彼女が鬱陶しそうに首もとに触れる髪を払うと、シャンプーのものでしょうか、
シトラス系の香りがふわっと漂ってきて、
その肩に顔をうずめたいなという沸いて出た思いをアイアンショットで頭から追い払う。
悪霊退散、煩悩退散。柑橘類の香りごときで人生を狂わされる僕ではありませんよ。
何せ僕にはもっとすごい事をされても理性を保っていられた実績がありますからね。
「…で、これとこれが解からないんだが…」
「ああ、これはで、す、ね」
そう言いながら身を乗り出して教科書の問題を指す彼女の胸元を何の気無しに見てしまい、
首をギギギと音がしそうなほど不自然な動きで真正面に戻した。
ああもう本当に勘弁してください、何故そう無防備なんですか!
刺激が強すぎます。ハバネロなんて目じゃありません。
この部屋に監視カメラでも仕掛けてあって、僕が狼に変身したらドッキリ大成功と書かれた
プラカードを持った涼宮さんたちが乗り込んでくるとか、そういったオチが用意されているのではないでしょうね…?
頬に手を当てると、そう熱くなってはいなかった。
よかった、まだ外見だけはいつもの僕を取り繕えているようです。
「おい、聞いてるのか?」
怪訝そうな表情を浮かべて僕の顔を覗き込む彼女から反射的に距離を取る。
急に顔を近づけないで下さい。近いです!
あなたはどうも危機意識というか、男女間の距離の取り方とか、そういった事が欠けているようです。
僕相手だからまだいいものを、他の男の前でこんな事をしたら何をされるか分かったものではありませんよ。
あなたのためを思って、申し訳無いのですが今日こそは言わせて貰います!
ソファーの上に正座をし、彼女の方へ向き直る。
「……あの、非常に申し上げにくい事なのですが!」
「なんだ、言ってみろ」
うっ、負けちゃだめだ古泉一樹。なんだかもう逃げ腰気味だけれど、彼女のためには大事な事なのだから。
「ええと、最近は何かと物騒ですし、あまりそういった服装で出歩くのは控えた方がよろしいかと」
彼女の発する不機嫌オーラに気圧されながらもそう言うと、とうとう彼女の目が完璧に据わってしまった。
「お前は俺の父親かなんかか? 服装を指図される謂れは無い」
確かに父親でも兄でもありません。あなたからしたらただの友人です。
しかし僕はあなたに恋愛感情を持っています。だから他の男にそんな姿を見せないで欲しいのです。
なんてはっきり言えたら苦労はしませんけれど。
「ですから、要らぬトラブルを引き込んでしまうかもしれなくて…」
「はっ、トラブル? 俺みたいなのにそんな馬鹿な気を起こす奴がいるとは思えないね」
彼女は皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、僕の言葉を笑い飛ばした。
あなたはいつもそうですね。一度怖い目に遭わないと分からないのでしょうか。
それではあなたの隣りの僕だって狼候補の一人だってことを、少しだけ教えて差し上げましょう。
彼女の両腕を取りソファーに押し倒すと、安物のスプリングが悲鳴をあげた。
ソファーに沈められた瞬間こそ、その表情は一瞬だけ揺らいだけれど、
彼女は掴まれた手と僕の顔を一瞥するとすぐに表情から色を消し去った。
「…言わせていただきますけれど、あなたは」
彼女の腕を頭の上で交差させ片手で押さえ込むと、丈の短いTシャツがずり上がって白いお腹が覗いた。
それは紺色のソファーの上でいやに艶かしく際立っていて、僕は小さく息を呑む。
「非力な女性なんです。何かあってからでは遅いんですよ」
「何か、って?」
唇をぺろりと舐め、覆い被さる僕を睨み上げる。
唾液で光る唇に自分のそれを押し付けたくなる衝動を必死に抑えた。
いつの間にか降り出した雨は叩きつけるような強さで、ざあざあと人を不安にさせる音を立てている。
「それくらい、言わなくともお分かりでしょう?」
空いた片手で彼女のわき腹にそっと触れると大きく身体を震わせて表情を歪めたが、
やがて何かを諦めるかのようにゆっくりと目を閉じて顔を背けてしまった。
「…どうして抵抗しないのですか」
彼女に触れた手を肋骨を辿るようにして少しずつ上に滑らせる。
これ以上進めたら引き返せなくなりそうで、胸のふくらみに届きそうになる直前に手を止めた。
お願いですから今すぐ僕を蹴り飛ばして出て行ってください。
あなたにもっと酷い事をしてしまうかもしれません。
現に今だって僕の頭の中では、足に体重を掛けてしまえば抵抗できなくなる、
そうしたあとで存分にその唇を貪ってやればいい、
何もかもを挑発めいた事をする彼女の所為にしてしまえ、と囁く声が聞こえるのですから。
ぐちゃぐちゃとした思いを全て無表情の仮面の下に押し込めて、じっと彼女の反応を待つ。
彼女の首にまとわりつく髪をそっと指で払うと、こくりと小さく唾を飲む音がした。
「……どうせ力では敵わない。好きにしたらどうだ」
投げやりなその一言に一瞬で頭に血が昇った。
僕がこれ以上何もしない、できないと本当に思っているんですか。
あなたへぶつけたいどろどろとした欲望で、僕の中はこんなにも満たされているというのに。
「人をからかうのもいい加減にしてください!」
思わず大きな声を出してしまった。掴んでいる彼女の腕がかたかたと小さく震えている。
フォローしたくてもいつものように振舞えない。笑顔を貼り付けられない。
「…すみません、僕も調子に乗りすぎました」
やっとのことで搾り出した声だけは、なんとか平静さを取り戻せていた。
そっと身を起こし、彼女から離れる。
抑え付けていた力は自分が思っていた以上に強かったらしく、彼女の細い手首は痛々しい位赤くなってしまっていた。
押し倒してすぐに冗談ですよ、驚きましたか、そう言って手を離し笑いかけるだけでよかったのに、
一瞬、彼女の怯えたような視線とぶつかり合ってからはもう自分を止められなかった。
「今日はお帰りください。あと、しばらく部屋に来ないでいただけますか」
二人きりで会うのは危険だ。また次こんな事があったなら、今度こそ自分を抑えられる自信が無い。
彼女の顔をまともに見れなくて背を向ける。自分の爪が掌に食い込むほど強く拳を握った。
「…い、ずみ」
震えた声で名前を呼ばれる。彼女が立ち上がった気配は無い。
「まだ分からないんですか。鈍いのも大概にしてください。……お願いです、帰ってくだ…!?」
急に強い力で腕を引かれ、ソファーに引き倒された。スプリングがめきりと嫌な音をたてる。
舌を噛まなくてよかった、とのんきな考えが一瞬頭をよぎったが、
僕の上に乗り蛍光灯の光を遮った彼女の表情が頭の中から余計な思考を全て吹き飛ばしてしまった。
「なんで分かんないんだよ! 鈍いのはお前だ、古泉にぶ樹!!」
僕の上に馬乗りになった彼女が叫ぶ。
目の端からは涙が今にも零れ落ちそうになっているから拭ってあげたいけれど、
頭の中は彼女の言葉を反芻して意味を考える事だけで精一杯で腕が上がらない。
「お前だから構わないんだよ! 他の誰かになんて触らせるものか!」
小さな握りこぶしを何度も僕の胸に打ち付ける。
まったくと言っていい程力のこもっていないそれは、僕の胸にじわじわと物理的でない痛みを与えてくる。
「お、れは…」
彼女の目から涙が一粒零れ落ちて、僕のポロシャツの上に小さな染みを作った。
「お前のことが」
ああ、なんだ。そうだったのか。
彼女の唇が次の音を発する前に、その震える身体を抱き寄せた。
図らずもお互いの胸が密着してしまい、心臓が破裂寸前なんじゃないかと思えるほどに速い鼓動を刻む。
彼女の長い髪がその肩を滑り落ちて僕の頬をくすぐった。
「好きです」
意識せずに言葉が漏れた。彼女が僕の耳元で小さく僕の名前を呟く。
「…好き、です」
もう一度、今度は一字一句はっきりと言ったら、彼女の耳が瞬時に赤く染まっていくのを見て取れた。
「…大事な事は目を見て言え」
彼女は僕の頭の横に手をついて上半身を軽く起こし悪戯っぽく笑った。
その拍子にまた一つ、ぽたりと落ちた雫が僕の首筋を流れポロシャツに吸い込まれていく。
「あなたのことが好きです」
三度目はちゃんと目を見て。
彼女は笑顔のようにも泣き顔のようにも取れる表情で、
よくできましたとでも言いたいのだろうか、ひたすらに僕の頭を優しく撫でる。
「僕にだけ言わせるおつもりですか? ずるいです」
そっと彼女の頬に触れた指先を唇へと辿ると、赤い舌に舐められて慌てて手を引っ込める。
ごまかしようも無いほど赤く染まったであろう僕の顔を見て彼女が微笑んだ。
「…俺も」
好きだよ、と唇だけが動く。
ちゃんと声に出して仰って下さい。そう視線で抗議すると、彼女は小さく笑って目を閉じた。
なんだかごまかされたような気がしてならないけれど、
ゆっくりと降りてくるその唇に早く触れたくて、首を少し持ち上げて求め……たところで実にタイミングよく午後五時を告げる鐘の音が大音量で響き渡り、
お互いに心臓が口から飛び出るかと思うほど、ソファーの上で身体を震わせた。
どうして機関の上の方々は消防署の近くに僕の部屋を用意してくれたのでしょう。
一連の行為を邪魔するためでしょうか。
もしそうだとしたら、今年の忘年会の席では『恨みます』を熱唱すること決定です。
「えっ……と」
先程まで熱に浮かされたような顔をしていた彼女は急に正気に戻ったのか、気まずそうに僕の上で身じろぎをした。
その度に柔らかい太ももが僕の息子を刺激して下さいまして。
うわわわ、もうなんなんですか! わざとですか!? 今この時に元気になっては駄目です!
何か萎えるものを思い出そうとして、不意に梢江という単語を思い出し一気にクールダウンできた。
中学時代にあの漫画を無理やり読ませてくれた級友に少しだけ感謝したい。
念仏を唱えるよりも効く煩悩撃退法をありがとう。
もっとも人によってはトラウマになりかねない劇薬なので、興味本位で読む事はお薦めしませんよ。
「…古泉、離してくれ」
彼女を抱き締めていた腕を慌てて離すと、彼女は飛び退るように僕から離れた。
身体の上にまだ残っている彼女の感触と温もりが薄れていくのを惜しみつつ、僕もソファーから身を起こす。
抱き締められた際に少し乱れた服装を素早く直したあと、落ち着き無く部屋中を右往左往する彼女を見ていると逆に心が落ち着いてくる。
一方通行じゃなかった、そのことだけで世界がバラ色を通り越してレインボーホログラム状態に見えてくるから不思議だ。もはや目に痛いほどに眩しい。
「…何、にやついてるんだよ。聞いてたか? もう帰るからな」
幸せすぎて脳内麻薬が過分泌され、意識が軽くあちらの世界へ飛んでいたようです。
間近に迫る彼女の声で現実に引き戻されました。
「あ、え、はい、お送りします!」



「そう言えば宿題はやらなくてよろしかったのですか?」
雨が止み、灰色の雲間から零れる光がきらきらとして美しい。
車道側を歩く僕の左手には、ろくに進まなかった宿題の入った彼女の鞄がぶら下がっている。
明日の月曜に提出するものならば、このまま彼女の家まで上がりこみ、リビングで勉強会を開いたほうがいいかもしれない。
なぜリビングかと言うと、彼女の部屋に上げてもらうと今日の僕は何をやらかすか分からないからだ。
彼女のお母さんにはウチの娘に手を出すのは構わないけど程ほどにね、と以前に許可を戴いているけれど、まさか本気では言っていないだろうし。
「…えー…あれはその、お前の部屋に行く口実」
だったから、と最後はほとんど聞き取れないくらい小さな声で呟かれる。
ただそんなことで、三年前、この忌まわしい力を6億分の一の確率で授かってしまったという不幸が帳消しになった気さえしてくるから怖い。
生きてて良かった。父さん、母さん、産んでくれてありがとう!
「暑いのですけど、手を繋いでも構いませんか」
斜め下に見える彼女の顔は真っ赤になっていた。
きっと僕も同じような顔をしてぎこちなく笑っているのだろう。
「…そういうことはいちいち許可を取らなくていいんだっ」
全くその通りですね。
彼女が言い終える前にそっと彼女の手に自分のそれを重ねたら、遠慮がちに握り返された。
最初は手をただ握っただけだったが、歩くうちに指同士を絡めた握り方へ変えていく。
一箇所で繋がった二つの影を眺めながらここ一ヶ月を反芻してみると、
涼宮さんよりも彼女に振り回されっぱなしだったことに気づく。
彼女が家に来るたびに我慢大会の連続で。この年頃の男なんて、普通は歩く生殖器ですよ?
自身の我慢強さに賞賛の拍手を送りたいくらいです。
……だからこれはちょっとした意趣返しです。
少しかがんで、まだ赤く染まっている彼女の耳に唇を近づけてこう囁いた。


「ところで、先ほどの続きはいつしましょうか?」

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最終更新:2007年11月04日 01:29