project nemo_26前編

あらかじめ言っておこう。彼はすでに、人間ではない。
こう言うと、彼は笑って聞き返す。では、人間の定義とは何だ?
頭があって首があって、足があって手があって、胴があって。深い思いやりを見せる一方で、他人に対しどこまでも暴力的になれる。これが人間だと言うならば、きっと私はまだ人間であるはずなのだ、と。
とは言え、多くの者はそれを聞き、そして彼の姿を見て否、と声を上げるだろう。貴様は、人間ではない。せいぜい、意思を持った機械だ。
それに対して、彼はやはり笑って答える。ならば、それこそが新しい人間なのだ。人間の定義は、今日と言う日をもって変化する。
私こそが新人類、ジェイル・スカリエッティである。





ACE COMBAT04 THE OPERATION LYRICAL Project nemo



第26話 Project nemo


夜明けの近いミッドチルダの薄暗い空を、一機の鋼鉄の翼が、蒼い光を纏って駆け抜けていく。速度、毎時マッハ4。高度は五万フィートに達していた。
かつて無いほどの超高速は、しかし操縦桿を握るパイロットの心理状況に、何の影響も及ぼさない。機体には目立った振動もないし、異音もない。せいぜい、背中を預けるシートにビリビリと伝わるエンジンの鼓動と、シュー、シューと言う自身の酸素マスクをつけた呼吸音のみだ。
――いや。それと、もう一つ。
チラリと、燃料計の数値に眼をやる。ひょっとしたら、何かの手違いで思った以上に燃料消費が少なくなっていないかとわずかな期待があったのだが、表示される数値はやはり案の定、急激な勢いで『0』に近付いていた。
おいおい、そんなにがっつくな。燃料は半分しか入れてないんだぞ。ドロップタンクもないんだし。苦笑いを零して呟いてみたが、機体は何も言わない。ミッドチルダ製の燃料はユージア大陸のそれより質がいいとか聞いたが、事実ならさぞかし、愛機は美味いものを食べているのだろう。
いいなぁ、お前は気楽で――酸素マスクの内側に、ため息を一つ。憂鬱な気分に浸りながらも、しっかりパイロットの眼はAWACSとのデータリンク情報が投影されたディスプレイから離れない。耳はヘッドホンに傾けられ、新しい情報が入り次第即座に応答できるよう心構えしていた。
空中管制機、E-767が捉えたレーダー情報は、データリンクを通じて愛機、F-22ラプターのディスプレイにリアルタイムで表示される。画面に映るのは二つの光点、片方は自分だ。「Mobius1」と銘打たれた、自機の現在地を示す光点。もう片方には、名前が無い。「UNKNOWN」とのみ付け加えられた、マッハ3で飛行する所属不明機である。こちらの速度はマッハ4だから、距離は縮まる一方だ。もう間もなく、愛機は自分自身が搭載する電子の眼、AGP-77火器管制レーダーが目標を捉えるはず。
奴の針路はメチャクチャなようで、首都クラナガンを囲む管理局の防空部隊の陣形を大きく切り崩している。次元航行艦隊を全滅させてからは、ただ一発の、機関砲弾さえ撃つことなく、だ。
相手はステルスかな、と胸のうちで漏らす。AWACSの強力なレーダーなら何とか捉えられるようだが、それでも認識は弱い。F-22のレーダーも戦闘機が搭載するものとしてはほとんど最高峰のレベルにあるが、それでさえ目標をまだ捕まえられない。いい加減、映ってもいい頃なのだが。これ以上距離が縮まるならば、いよいよ戦闘は肉眼によるドッグファイトとなるだろう。
直後、響き渡る電子音。来たか、と呟いて身構える。ウエポン・システム、マスターアームスイッチをオンへ。巡航形態から、鋼鉄の猛禽類は戦闘機へと戻ろうとする。
その瞬間、ヘッドホンに声が響いた。通信機に飛び込んできた、男の声。

「君が来たか、メビウス1」

聞き覚えは、ある。忘れもしない。数ヶ月前のJS事変、メガリスを再起動させ、世界を滅ぼそうとした狂人。
ヘルメットのバイザーを上げて、キャノピーの向こう、青とも黒とも呼べる薄暗い空を睨み、とうとう肉眼で捉えた。真横に伸びる黒い翼、形は妙だが戦闘機に違いない。
応答するつもりは無かった。が、確認のため、あるいは相手が敵であると自身に再認識させるため。メビウス1は、口を開く。

「ジェイル・スカリエッティか。その機体に乗っているのか」



乗っているのか、と問われて一瞬、男は答えに迷う。
おそらくあの機体、尾翼にリボンのエンブレムを描いたF-22のパイロットはこちらがまだ人間、そうでなくとも最低限、人の形をしているのだと考えたに違いない。周辺索敵用の高精度カメラがズーム機能で捉えた映像によれば、猛禽類のコクピットでヘルメットと酸素マスクで顔を覆った男がじろじろと、こちらの機のどこにコクピットがあるのか探し回っているのだから。
まぁ確かに、"乗っている"のは間違いないか――もはやプログラムと化した思考が、問いかけに対して肯定。面倒なのは、相手はまだ彼が思うところの"古いタイプの人間"であるため、いちいち合成音声に出力して、電波に乗せて通信機に送ってやらねばならない。まったく面倒だな、と本来の身体があれば呟いていたことだろう。

「いかにも。私はジェイル・スカリエッティ、この機体に乗っているよ」
「――死んだはずだ、貴様は」
「ああ、そうさ」

思いがけぬ言葉に、通信機の向こうで無言の驚愕が響く。
いいぞ、驚いてる驚いてる。子供のように楽しげに、男は、スカリエッティは続けた。

「君の言うとおり、私は一度死んだ。メガリス上空で君に撃墜されて、虫の息だったところをあのベルカ公国の連中が助けてくれたが――」

人間であれば、思い出すように。メモリーの中で、一枚の画像データを展開し、改めて確認する。培養液の中に放り込まれ、眠っているように眼を閉じ、沈黙するスカリエッティ。すなわち、自分自身。その身体。もはや抜け殻であるため、存在する価値はさほどない。くれてやっても構わないとさえ、狂人は考えていた。

「いかんせん、私の身体はもうボロボロだった。エレクトロスフィア、この技術が無ければおそらく私は、本当に死を迎えていただろうね」

だが、こうして私はここにいる。身体を失ってなお、"私"と言う存在は決して変わらず、ここにいる。
ありふれた言葉で言うならば、彼はすでに、プログラムとなっていた。ホログラフを投影して身体を作り出すことは可能だが、それとて本体ではない。電子上の存在、まさしくこの狂人は、人間ではなくなった。ついに、人の形であることにさえこだわることをやめたのだ。
だから、"乗っている"と言う言葉も厳密に言えば少し違う。機体の一部、セントラルコンピューターや姿勢制御、火器管制装置と一体化している。この黒い翼――二〇隻もの次元航行艦を一撃で葬った機体、X-49"ナイトレーベン"先行試作型は、イコールでスカリエッティと言えた。その逆もまた然り、であるが。
通信の相手、リボン付きの異名で知られるパイロットは、何も言ってこない。"敵"がもはや人間ではないことに驚いているのか。あるいは、そんな話はどうでもよく、いかにしてこの未知の機体を撃墜するかを考えているのか。いかにプログラムの身になろうと、相手の心を読むことはかなわなかった。

「あぁ、そうだった。君に紹介しておこう」

後方より接近しつつあったF-22が、ついに自身を形成する黒い翼に追いついた。発砲こそまだしてこないが、機体各部に搭載されたレーダー波受信アンテナは猛禽類の攻撃の意志を受け取り、中枢部に存在するスカリエッティと言うプログラムに警告を発していた。あえて、彼は無視する。
"もう片方"のプログラムは反応する構えを見せたが、それより強い上位コマンドを機体に発することが出来る狂人によって、行動は抑えられる。
落ち着きたまえ。まだ自己紹介が済んでないだろう――ほら、見ろ。君の元になった男だ、すぐそこにいるぞ。

「メビウス1、紹介しよう。このナイトレーベンの戦闘に関する全ての行動を司るプログラムだ。名前は"nemo"と言う」
「――"Project nemo"か」

なんだ、知っているのか。ベルカの連中、口が軽い。
相手が知っている、と言う意味の返答を出したことで、スカリエッティはわずかに拍子抜けを喰らってしまう。せっかく用意しておいた"笑う"と言うコマンドが無駄になった。
まぁ、すぐにまた驚くさ。手の内は隠さず、ここで一度に見せてしまうとしよう。そう、例えば――

「君、知っているかね。君の戦闘データをコピーした機体が、クラナガンを襲撃したことを」
「それがどうした」
「あれは、まだデータが不完全な形で無理やり飛ばしたに過ぎないんだ」

返答は、来ない。格闘戦用に搭載された機体各部の小型カメラがF-22のコクピットを睨み続けるが、機上のパイロットに変化は無い。じっとまっすぐ、こちらを睨み返してくるだけだ。だが、視線は訴えている。何だ、早く続きを言え。言った直後に撃墜してやる。
ではお望み通り、続けてあげよう。ここに来て、プログラムが"笑う"のコマンドを発動させた。ただし控えめ、高笑いではなくフ、と言う人間であれば短い笑みだ。

「今度は違う。そう、"nemo"は完璧な形で君のデータを取り込んだ。メビウス1と言う存在をより効率的に、より存在価値を戦闘に特化させたもの――そうだよ。まさしく敵
は、君にとっての敵は、君自身さ」



馬鹿げてやがる。
ヘッドホンを通じて耳に入った、人ならざる人の声を聞いて、メビウス1は胸のうちでそう吐き捨てた。
こんなものが"俺"だと。俺自身だと。ふざけやがって――こんなもの。視認距離に収めた敵機。全翼機、ちょうどB-2ステルス爆撃機のような形状をした翼が二枚重なり、複葉機となっている。全翼複葉機。超音速飛行時に発生するソニックブームを打ち消す機体形状として研究が進んでいるが、まだ理論段階のはず。ミッドチルダに設計案を持ち込んで、こちらの技術で開発したのかもしれなかった。現に、魔力反応が検出されている。
すでに、APG-77火器管制レーダーは敵影を捉えていた。ステルス性は高いようだが、零れ落ちる魔力反応は打ち消せない。レーダーモードを対魔導師、対魔導兵器戦に切り替えれば、ロックオンは可能だった。
エンジン・スロットルレバーの上で、左手が踊る。ウエポン・システムを操作、使用する兵装をAIM-120AMRAAMに選択。ディスプレイに表示されるF-22の搭載兵装図のうち、胴体ウエポン・ベイ内部にあった中距離空対空ミサイルが点滅する。

「そう焦るな、リボン付き」

ピアニストの如く動いていた指が、止まった。無視することは出来たが、奴はなんと言った? "焦るな"? まるで、こちらが攻撃を仕掛けようとしたのを見抜いていたかのような言葉だった。
否、本当に見抜いているのかもしれない。何しろ相手は、自分自身――馬鹿なことを考えるな。狂人の戯言って可能性もある。
脳裏をよぎった自己の思考を投げ捨て、メビウス1は前に集中する。だが、狂人の声は止まらず続いた。

「聞きたくないかね? 私の今回の目的を」
「……いや、興味ないな」
「そうは言うが、こちらはまだミサイル警報を聞いてないぞ。IFFも、まだ私の機体は"ENEMY"ではなく"UNKNOWN"ではないか?」

事実だ。IFF(敵味方識別装置)は、まだ目標を明確に敵としておらず、あくまでも所属不明機として認識している。設定を操作するのは簡単だが、何故今まで気付かなかった。
フフ、とその時ヘッドホンに響くのは、不気味な、かつ不自然な笑い声。奴の口ぶりからは自分はすでに肉体を失ったようなことが予想されるが、だとしたらどうやって喋っている。話している。機械による合成音声だから、不気味で不自然に聞こえたのかもしれない。

「どれだけ強いエースだろうと、結局は古い人間なんだね、君は。ミスもするし、躊躇もする。残念でならないよ」
「哀れんでもらうのは結構だが、そろそろいいか? こっちはさっさと、お前にミサイルをぶち込んで帰るつもりなんだ」
「おっと、失礼」

ヘッドホンから聞こえるのは、やはり不気味な、そして不自然な笑い声。くそ、何なんだこいつは。
不快感がいよいよ頂点に達し、右手で握る操縦桿の頂点、ミサイル発射スイッチに指をかける。少し力を入れれば、あっという間にミサイルが放たれるだろう。
その寸前、スカリエッティが口を開く。

「端的に言おう、メビウス1。私は、メガリスで出来なかったことをもう一度やる。そう、争い好きな人間を救うんだ。だけど今回は、もう一つ目的が加わる」

もう一つの目的? この狂人は、まだ何かやろうとしているのか。

「少し考えたんだ。あのベルカ公国の連中を同盟、いや、契約だな。とにかく手を組んで、彼らの考えを見させてもらった。人間が争い好きなのは当然として、そこに至る経緯。思想、文化、意見、国籍、人種の違い。それこそが人を争い好きにさせる原因なのだろうね――君にはよく分かるだろう」

分かりたくもない、と言いたいところではあるが。言いかけて、メビウス1は言葉を詰まらせた。心のどこかで、自分じゃない自分、もう一人の誰かが狂人の考えを、この部分だけは正論だろうと認めてしまっていた。
ユージア大陸戦争も、それ以前のクーデターも、ベルカ戦争も。結局のところはみんな、意見の違いによる対立から始まっている。

「人が争いをなくすには、争うことの愚かさを教えるだけでは駄目だ。もっと根本的な、まず相手の考え、立場を理解する、理解出来る環境を整えることから始めないと。そこでだ、メビウス1。私は次元世界の全人類を、私と同じ存在にしようと考えた」
「っ、何だと!?」

冗談じゃないぞ、と彼は口走る。今の奴と、スカリエッティと同じ存在にしようと言うなら、それはつまり――

「その通り。みんな、肉体を捨ててエレクトロスフィアに入る。素晴らしいぞ、プログラムとなった我が魂。なんて身軽なことか。ここに言語や文化の違いはない。いちいち言葉にせずとも、相手に誤解なく自分の考えが伝わり、その逆もまた然りだ」
「だが、それはお前の統制下に入ると言うことだろう」
「無論だ。世界の行方は、私が握っている。ただし――」

この野朗、最初からそういうつもりか。だが、メビウス1はただちに攻撃態勢に入れなかった。薄暗い空の向こう、黒い翼がここに来てようやく、初めて動きに変化を見せていた。あれは、ゆっくりと右に旋回している――?
ハッと、ディスプレイに視線を落とす。二時方向より、友軍機のシンボルマークを掲げた光点が多数、接近しつつあった。敵の待ち伏せに偶然成功した、管理局の戦闘機と空戦魔導師の連合編隊。敵機は、彼らに機首を向けていた。

「ただし、エレクトロスフィアに入れる人数は限界がある。今のままでは、人口が多すぎる」
「よせ、やめろ!」

IFFの操作スイッチに手を伸ばす。目標、"UNKNOWN"から"ENEMY"へ。電子音がF-22のコクピットに鳴り響き、対象をロックオン。今度は躊躇することなく、メビウス1はミサイル発射スイッチを連打した。
愛機の胴体下ウエポン・ベイが機械音を鳴らして開かれ、搭載されていたAIM-120が切り離される。わずかに高度を下げて、尾部のロケットモーターを点火。魔力推進の証である白い航跡を空に描いて、全弾六発、ナイトレーベンへ殺到する。
機体はマッハ4まで加速していたから、ミサイルそのものの速度も高い。着弾まで残り六秒、五、四、三――黒い翼の機首で、何かがチカッと光った。直後、薄暗い空を明るく、太陽の如く照らす凄まじい光が、空の向こうで炸裂した。
瞬間、メビウス1は目撃する。レーダーに映っていたはずの友軍機が、みんなまとめて一気に、一つ残らず消え去ってしまっていた。
光の炸裂は一瞬だったが、視線を振り向ければ、そこには何もない。まるで、最初からそこには何も存在しなかったかのように――戦闘機の残骸すら、破片も残さず消えたと言うのか。何だ、スカリエッティは何をした。
問いかけの対象に、ミサイルは迫っていたはずだった。本来は視認距離外から放たれるAIM-120にしてみれば、現在の距離は至近距離も同然。それらが六発、一斉に降り注ぐ。
どうあっても回避など出来る訳がない。
予想は、文字通り木っ端微塵に粉砕されていた。背後に迫ったミサイルの群れを、ナイトレーベンはすでにマッハ3にまで加速しているにも関わらず、まだ余裕があるのを見せ付けるかのようにして、急加速。
ドッと、まるで瞬間移動でもしたかのような目標の機動に、必中を誇るはずのAIM-120は当たらない。
否、彼らは自身が当たったつもりでいた。近接信管が目標を捉え、今なら爆風と衝撃、飛び散る破片でダメージを与えられる。そう判断しての起爆が、間に合わなかった。次々と炸裂するミサイルの爆炎と黒煙を置き去りにして、黒い翼は急上昇する。

「今のはABL、空中発射レーザーだよ。チャージに少し時間がかかるのが難点だが、威力は見ての通りだ」

通信機に舞い込む狂人の、得意げな声。たった今、何十人もの人間を死に追いやったとは思えない。まるで子供だ、とメビウス1は思った。
父親に、あるいは母親に、自分の成果を認めてもらって喜ぶ子供のような。不自然なはずの合成音声からは、確かにそんな様子が伝わってくる――狂ってる。今更だが、本当にこの男は狂ってる。自身が掲げる救いと理想のためならば、大量虐殺をも、何のためらいも無く行う。
ジェイル・スカリエッティ。もはや人でなくなったその存在は、倫理や罪悪感の欠片も残ってはいない。

「さぁ、次はクラナガンだ」
「っ!?」

なんと言った、こいつは。クラナガンだって? あそこには、彼女がいるはず――ぎり、と歯軋り。こいつなら、間違いなくやる。そこに何が住んでいようと、誰がいようと。
スカリエッティなら、躊躇無くあのとてつもない威力を誇るレーザーを、市街地に叩き込む。

「もちろん、タダで行けるとは思わないよ。私も、後ろから撃たれるのはあまり気分のいいものではないからね」

黙れ、黙れ、黙れ。自然と、操縦桿とエンジン・スロットルレバーを握る両腕に力が入った。
こいつは、撃墜する。どんな無茶苦茶な機動を見せようが、どれだけ手強かろうが、必ず、絶対に。
俺は、そのために今、ここにいる。

「来たまえ、リボン付き。もっとも、君に勝ち目はないが」
「――そうかな」

ウエポン・システムを操作、撃ち尽くしたAIM-120から使用兵装、AIM-9サイドワインダーへ。APG-77の操作パネルにも手を伸ばし、レーダーをドックファイトモードへ変更。
格闘戦となれば、先ほど見せたあの急加速は厄介だ。おまけに、こちらは加速魔法を切らねばなるまい。マッハ4での空中戦など、とてもじゃないが旋回が維持できない。何より、燃料消費が激しいのは問題だ。ガス欠でやられるなど、目も当てられない。
勝ち目は、確かに無いかもしれない。だが、脳裏に浮かぶは彼女の姿。もう一度、共に空を飛びたい。今度はコールサインではなく、本名で呼び合って。
そして、彼は宣言する。
無限の名を冠した、エースの証。
空を飛ぶため、代価として自身が背負う役割の名。
それは、すなわち――

「メビウス1、交戦」



果たして、何度目だろうか。一対一の一騎討ち。最小でも二機編隊によるコンビネーションが基本とされる現代の空戦において、なかなかこういったことは起こらない。
ただ、一対一と言う環境は、メビウス1の戦闘機乗りとしての本能を燃え滾らせる。それは酒のような陶酔感に浸れるものでもあり、麻薬のような強烈な刺激を持つようであり、よくないものだと認識しつつも、一種の面白みが感じられた。訓練、実戦問わずだ。
かつてのライバル、黄色の13との対決も、同じエースの名を背負う魔女、高町なのはとの対決も。いずれも、高揚感があった。
だが、違う。コイツとの戦いは二度目だが、前回と同様、込み上げて来る感情に高揚感や、面白みはまったくない。胸を焦がす黒い炎は、怒りと憎しみ。
ジェイル・スカリエッティとの一騎討ちは、すなわちメビウス1にとってそういうものでしかない。
加速魔法を解除して、格闘戦へ突入。蒼き魔導の衣を纏っていた猛禽類はそれを脱ぎ捨て、鋼鉄の翼を露にする。律儀にも、速度が低下したF-22に合わせて、ナイトレーベンは減速し、組み合う姿勢を見せた――そうだ、こういうところが苛立つんだ。振り切ろうと思えば簡単に振り切れるのに。

「そう怖い眼で睨むなよ、リボン付き」

通信機に舞い込む、相変わらず余裕ぶった不気味な声。叩き落してやる、と愛機の操縦桿を握り締め、メビウス1はキャノピーの向こう、黒い翼を追いかける。
まずは上昇、敵の頭を押さえ込む。操縦桿を引いて、機首を上げた。たったそれだけで、愛機は天へと向けて鋭く駆け上っていく。主翼先端から空を引っ掻いたような白い水蒸気の糸を引き、F-22はナイトレーベンの後方上位に位置する。次は加速、奴との距離を詰めて、ミサイルの必中距離へと持ち込む。
目標、黒い翼は機体全体を翻し――全翼機の名の通り、奴は機体そのものが主翼であり尾翼なのだ――回避しようと右旋回。こちらも鋭い、躊躇の無い高速ターン。逃がすかよ、とそれを見たメビウス1は、エンジン・スロットルレバーを叩き込む。通常推力最大、操縦桿を右手前に引いて敵機に追従する。
加速しながら、鋼鉄の猛禽類は右旋回するナイトレーベンを追いかける。コクピットにかかるGは決して軽いものではなく、パイロットは圧し掛かるように迫る重力に歯を食いしばって耐えるしかなかった。あちらは無人機、操作しているのはプログラムだから、同じ苦労を味わっているとは思えない。
キャノピーの向こうに広がる無限の世界、薄暗い空が、少しずつ色を失い、灰色になっていく。グレイアウト、重力の流れによって血が、脳に行き渡らなくなっている。それにも関わらず、メビウス1の左手はエンジン・スロットルレバーの上で踊る。使用兵装、AIM-9を赤外線誘導から魔力探知誘導へ。敵機に熱反応が見当たらないのだ。ひょっとすれば通常のエンジンではなく、魔力駆動で動く推進器を用いているかもしれないとの予測だった。
ピ、ピ、ピとヘッドホンに小気味良い電子音が響きだして、メビウス1はよし、と確信する。間違いない、あのナイトレーベンとか言う機体は魔力推進だ。通常の、ユージアやオーシアで生産されているAIM-9ならロックオンは無理だが、ミッドチルダ製のミサイルはおおむね対魔導兵器戦を考慮してあった。
追従旋回は続く。鴉を追う猛禽類は、いよいよその距離を縮めつつあった。ロックオンまで、あと少し。耳に入る電子音、IRトーンと呼ばれるロックオンの証は徐々に、断続的だった音を長く連なって鳴らす様子を見せている。
灰色になった視界の中で、パイロットは敵機を睨む。全翼機の、黒い敵機。そいつがHUDの真正面に移動してきたところで、ヘッドホンに流れる電子音が高く、途切れることなく鳴り響いた。ロックオン。この距離ならば、フレアをばら撒いても間に合わない。

「おっと、そうはいかないよ」

通信機に、スカリエッティの声が響いたのと、時を同じくして。ドッと、機体がわずかに揺れるほどの衝撃波があった。
何だ、何が起きた。そこで、あっとメビウス1は気付く。ヘッドホンに流れていたIRトーンが、来ない。真正面に見据えていた敵機の姿さえ、視界内に消えていた。あるのは見失った目標がまだいるものと思い、無様に一機で旋回を続ける猛禽類がいるだけ。
ちらりとレーダーに眼をやって、敵機の位置を再確認。左上方。視線を上げれば、いつの間にか高度を上げて、ゆったり水平飛行していた黒い翼があった。ご丁寧に、翼を左右に振って挨拶するような仕草を見せた――くそ、瞬間移動でもしたのか。なんてデタラメな加速力なんだ。

「だが脅威であるには間違いない――違うかね、メビウス1? "nemo"の予想には、今頃君が目の前のことをデタラメだとか思っていると出ているよ」
「……!」

こっちの機動や、戦闘中に考えてることはお見通しか。腹のうちを直接覗き込まれているような不快感が背筋を走り、しかしリボン付きは諦めない。背筋の不快感を薙ぎ払うようにして、操縦桿を左に倒して引き続き、スカリエッティ機の追撃に入る。
見上げた先、黒と青の絵の具が混ざったような色をしたキャンパスの向こう。ナイトレーベンは悠々と、F-22の上昇を待ち構えていた。
コクピットでメビウス1が感じたのは、苛立ち。何をのんびり飛んでいやがる。俺はそんな飛び方しないぞ。怒りと共に再度、操縦桿を引いて愛機を急角度で上昇させる。
水平飛行を続ける黒い翼をロックオンするのは、彼でなくとも難しいことではなかった。右後方下位から突き上げるように空を昇る猛禽類は、敵機の推進部からダダ漏れしていく魔力反応をしっかり捉えている。電子音が響きだして、今度こそロックオン。警報は向こうにも鳴り響いているだろうに、それでも鴉の動きに変化は無い。

「フォックス2」

ミサイル発射を意味する言葉と共に、メビウス1はスイッチを押す。数瞬せずして主翼下ウエポン・ベイが開かれ、中から短距離空対空ミサイルが放たれた。
白い尾を引き、AIM-9は目標に向けて急接近。なおもまっすぐ、姿勢を維持するナイトレーベンは――ただ前へと、本当に瞬間移動のようにも見える爆発的な加速力を見せた。
グラグラと、わずかに機体が揺れる。コクピットで敵機の急加速を目撃したメビウス1は、露骨に舌打ちしてみせた。コイツ、ミサイルを振り切るのか。
現に、つい今その瞬間まで捉えていた獲物が視界より消えたことで、AIM-9はどこへともなく迷走。魔力推進の光は消えて、やがて自爆。爆風や衝撃は当然届くはずなく、はるか向こうで小さく燃えたようにしか見えなかった。
さぁて、と通信機に舞い込む声。準備運動は終わったとでも言うような、スカリエッティの、狂人の言葉。そろそろ反撃といかせてもらおうか。

「君の二番機――ティアナ・ランスターにも訊いたのだがね」

ナイトレーベン、高速反転。既存の、どの戦闘機よりもはるかに小さな旋回半径と旋回速度を持って、機首をこちらに振り向けてくる。
まずい、とメビウス1は直感した。そう思う頃には、コクピットに甲高い高音が鳴る。死神の笑い声、ロックオン警報だ。

「ダンスは得意かな? いや、そうでなくともやってもらおう。さぁ、踊れ」

死神の笑い声は、すぐに振りかざした鎌が風を切る音に切り替わる。ミサイル警報、黒い翼の真下で、薄暗い空でも目立つ白煙が上がっていた。
くそ、と悪態を吐き捨てるが、だがそこまで。罵っていても状況は変わらない。メビウス1は回避機動、操縦桿を薙ぎ払うようにして横に倒す。視界がぐるりと回転し、天と地が真っ逆さまになっていく。愛機は翼を翻し、大きく左横転しながら降下に入っていった。
実は考え無しに降下に移ったのだが、かえってその選択は当たりだった。重力に引っ張られるF-22は速度を増し、背後より迫るミサイル着弾まで少しでも時間を稼ぐことが出来る。もちろん高度は失われるが、今は回避が最優先だ。
高度計の数値が吹っ飛んでいくのを尻目に、エースの眼はコクピット正面上位、バックミラーを捉える。ちらりと映った白煙、数は二つ。まっすぐこちらを見据えて、追撃してくる。その後方、まるで猟犬の動きの見る猟師のような形でナイトレーベンが同じく降下に入っていた――俺を試しているつもりか。ふざけやがって。
チャフ・フレア放出ボタンを叩く。直後、機体後部にあったカバーが外れ、赤い炎の塊が空中に放り投げられていく。フレア、マグネシウムの塊を燃やしてエンジンに負けず劣らずの赤外線を放つ代物。後方に撒き散らされたそれらは主人を守るべく、赤外線誘導のミサイルには甘くてたまらない匂いを放って幻惑する。
ドンッと、後ろで衝撃があった。バックミラーに映ったのは、薄暗い空に咲いた一輪の花、ただし花びらは爆風と黒煙。やった、ミサイルがフレアに引っかかった――しかし一発だけ。残り一発は、なおも接近。搭載燃料を使い果たし、白い尾を消し去って、忍び寄るようにF-22に近付く。

「この、野郎!」

コクピットで、メビウス1は身構える。そうして、操縦桿を思い切り強く引いた。途端に、押し潰さんと圧し掛かってくる強烈な重力。Gメーターの数値は、8を超えていたよに思う。9Gでの引き起こし。肺が押されて、吸った息が吐き出せない。腹に力を入れて、強制的に吐き出す。
低い唸り声が、喉から溢れ出した。強いGに苦しみながら、目玉だけはどうにか動かし、高度計に眼をやる。吹っ飛ぶような勢いで減っていた数値は、少しずつ安定を見せていた。それらが変動を止めた時、安堵のため息一つ漏らさず彼は、エンジン・スロットルレバーを押す。再び、通常推力最大。同時にフレア放出ボタンを強引に叩く。
急降下から姿勢を水平飛行に戻したF-22は、まっすぐ前に加速しながら背後に向けてフレアをばら撒く。獲物を追いかけていたミサイルにしてみれば、眼下に二つの美味そうな匂いを放つ根源が出現したようなもの。どちらが本物か迷っているうちに、フレア群に頭から突っ込んだミサイルはとうとう起爆。爆風と破片を撒き散らし、しかしF-22には何の損害も与えられない。
――やったか。だが安心は出来ない、敵機も降下してきたはず。
ほんの短く安堵のため息を吐く。メビウス1は、噴出した汗を拭いもせずに周辺警戒。ナイトレーベンがこの機を逃がすはずがない。アレの戦闘機動を司るのがもし本当に"俺"ならば、必ず攻撃を仕掛けてくる。

「ほら、どうした。まだ終わってないぞ」

ヘッドホンに声が聞こえる直前、背筋に走った悪寒は何だったのか。答えを見出す暇もなく、彼はラダーペダルを蹴飛ばすようにして踏み込んだ。
F-22は、横滑り。強引に機首を右へと曲げて、背後から掠め飛んできた赤い曳光弾の群れをぎりぎりのところで回避する。
ブンッと唸りを立てて、キャノピーのすぐ傍を通過する機関砲弾。無論、怖かった。あと一瞬、ほんの一瞬で死んでいた。生と死の交差。強い横からのGに耐えつつ、振り返って彼は確信する。背後にいたのは、黒い翼。夜のワタリガラス、不幸の前兆、ナイトレーベン。
間違いない――こいつは、"俺"だ。俺の飛び方、俺の戦い方。それをそっくりそのまま、完全にコピーしている。違いがあるとすれば、リボンがないこと、そして悪趣味な主人と同居していることだ。
いいぞいいぞ、と奇跡的な回避を見せたエースに、スカリエッティは素直な賞賛の声。そして、付け加える。さぁ、続けよう。宴はまだまだ、これからだ、と。
勝てるのか、俺は。"俺"自身に――?
心の片隅に生まれた不安をよそに、戦いは第二ラウンドへ。




苦戦。今の状況を一言で表すなら、そんなとこだろう。
いくら足掻いて敵機の後ろに着こうが、ナイトレーベンのとてつもない加速力の前に、猛禽類は手も足も出ない。ステルス性、電子戦能力、機動性、あらゆる点で既存機を上回るF-22をもってしても、この異様なる黒い翼には苦戦を強いられる。まるで次元が違う。メビウス1は、それこそUFOと空中戦をしているような気分に駆られた。敵は、人間ではない。

「くそ」

コクピットに、またしても警報が鳴り響く。いちいち振り返ってなどいられない、運を天に任せて操縦桿をぐいっと捻る。たちまち、コクピットの中は揉みくちゃになった。ハーネスで身体を固定していなければ、キャノピーに頭をぶつけていたに違いない。
翼を翻して、F-22は緩く横転しながら前へと突き進む。螺旋状の機動、バレル・ロール。その背後を、ナイトレーベンが放った機関砲弾が掠め飛んでいく。ピュンピュンピュンと、無慈悲な質量兵器の弾丸の雨が駆け抜けていくが、当たらない――いや、当たらないように撃った、とでも言うべきか。上下がひっくり返った姿勢で振り返れば、黒い翼は一定の距離を保ち、追いかけてくる。
さぁ、次の手を見せろ。通信機は沈黙を保っているが、敵機はそう言っているように見えた。
苦し紛れに、メビウス1は雲に入った。緩降下。機首が綿アメみたいな白い塊を突き破り、何も見えない真っ白な視界の中を突き進んでいく。音速に近い速度のため、雲はあっという間に突き抜けた。
敵は、と降下のため身体が浮くような緩いGの中で振り返る。自分が飛び抜けてきた雲から、数瞬して黒い翼が飛び出してきた。逃がさないよ、とでも言いたげに。
しつこい奴め。正面に向き直って、彼はハッと気付く。キャノピーの向こう、迫りつつある大地に並ぶのはいくつもの建造物だった。まずい、都市部か。ここで空中戦をやる訳にはいかない――待て。何か違うぞ。
妙な違和感。瞳が捉えたものは確かに人工の建築物であり、都市だった。だが、何一つ灯りがない。避難警報と灯火管制が出ているためか。それにしてもおかしい。この静寂感は、人が住んでいるものとは思えない。

「そうか、廃棄都市か」






タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2010年12月31日 23:52