~青色通知7(彼の場合)~
……なんだ。なんだなんだこの状況。
頭が痛ぇ。しかも物理的に。
落ち着け、まぁ先ず落ち着け、俺。
下にあるものはなんだ? それはベッドです。
上にあるものはなんだ? それは掛布団です。
……ちょっと待て、ちょーっと待て! 現実逃避してねぇか、俺? 中1の英語の教科書みてぇなこと言ってケムに巻こうとしてねぇ?
それにさ、掛布団と俺の間に何か居るだろ。いや、何かじゃねぇって分かってんだけど……こう、なんつーか、アレだ。現実感がねぇっつーか。
……てなわけで。
「……初、紀?」
とりあえず名前を呼んでみる。
「っ、は、はい……」
帰ってきたのは素直な女の子の返事。
……夢だ。絶対ぇ夢だ。夢から覚めて、また夢か。面白い冗談だな畜生。
真っ赤なパーカーに負けず劣らずの赤面……潤ませた目……パーカーのジッパーと、その下からブラウスの合間から見える白い肌……濡れ光る唇。
夢から覚めた夢にしちゃ、その質感がリアル過ぎやしねぇか?
……ふぅ、なんでこんなに冷静なんだ俺。
「……あ、あの、ごめんっ! そのいつの間にかここに寝かされてて、そのっ、わた……し……」
………………あ。
あれこれと言い訳を並べて慌てて離れる初紀の温もりを無くして気付いた。もとい気付いちまった。冷や汗が、こめかみから頬を伝って、流れる。その一粒の水滴に沿って……血の気が引いた気がした。
「………初紀」
「な、……なに?」
「―――緊急事態だ」
「………え?」
「お前のパンツを貸してくれ……頼むっ! ダチとして一生のお願い―――だはっ!?」
……初紀から久方ぶりにグーが飛んできた。……頬が痛ぇ。それに……下の………。やっぱ、夢じゃねぇってことだよな……。
「お、お前なぁっ!! いくらさっきまでアレだったからって、き、急にそんな……。お、乙女の下着は男に易々と貸せるもんじゃないって学校で習わなかったのかよっ!!? おいっ!!!」
「い、いや、初紀、口調が乙女じゃなくなってンぞ」
「うっ、うるさい! ド変態っ!! また殴られたいかっ!!!」
………顔を真っ赤にして、自身の身体を抱くようなポーズを取ってこちらを睨みつける初紀。
……そのポーズ、カラダのラインが浮かび上がって、なんかエロいぞ……。―――とか言ったら蹴りが飛んでくるだろーな、きっと。
……つーか、何か、すっげぇ誤解をされてるよな、多分。
とりあえず誤解が解けるように説得をしねぇと蹴りどころか命に関わるような事態なりそうだ。
「……あのな、初紀。そのっ、俺はだな! お前のパンツを正しく使うつもりなんだっつの! ……そりゃ、もう、パンツ冥利に尽きるっつーか」
言い得て妙だがそうとしか言えないのが切ない。
……つーか、ヤバい。段々と内部的被害が拡大してるような気がする。いや、事態は着実に悪化してる。
初紀には色々と話したいことがあったのに、これじゃ全く話が進まない。
「……いっぺん、三途の川辺に逝ってみる……陸?」
そんでもって、外部的にも事態は収拾がつきそうにない。コイツはマズい。非常にマズ過ぎる。
初紀に三途の川の橋渡しをされる前に白状しちまった方が……いいよな、多分。
「違うっつってんだろ!!? その……お前の男だったの時のパンツを貸してくれって言ってんだよっ!!!」
「………はい?」
ヴィジュアライズするならば、頭に複数の"?"マークが初紀の頭に浮かんでいるような表情。
そして……しばしの間の後、その頭に浮かぶマークは"?"から"!"へ勢い良く変わる。お前はメタル○アの敵兵士か初紀。
「ひ、陸……ま、まさか……そんな趣味で私と交友関係をっ!!?」
「そんな人を変態みたいな目で見るんじゃねぇっ!!!」
「みたいじゃなくて、変態さんだっ! 真性の変態さんじゃないかっ!!!
陸のへんたいっ! ガチホモっ!! 阿部さんっ!!!」
俺がさっき言った"乙女じゃない"発言を気にしてか、初紀は妙な言い回しで俺を非難する。
そんな言い回しをフツーの女子がするかどうかは甚だ疑問だが……。
……ヤバい。下半身がヤバい。もう限界だ……!!
「だぁぁああっ! だからっ! 夢精しちまったから今、パンツの中がヤッバいんだよっ!!! だから初紀が使ってたパンツくれっ!! 今すぐっ!!!!」
静寂が辺りを包んだ。
……人ん家で何叫んでんだ俺。
いっそ殺せ、殺してくれ。
マジ死んでいいわ俺……。
無言で初紀は俺から身を翻し、足早に部屋から出て行った。
……当然っちゃ当然だよな。いきなり自分の部屋で、ダチがガキの素を出しちまったんじゃ嫌われて当然だな……はぁ。
―――もしかしたら、こんな経験もこれでオシマイかもな。
不意に、頭をよぎる……さっきの夢。
あんな風な夢見といてどのツラ下げて初紀のオヤジさんに初紀を欲求の対象として見てねぇなんて偉そうに言えるんだよっ、くそっ。
……それに、俺が惚れてんのは……るいだっての。話してみるとちょっとばかりガキっぽかったけど、やっぱ贔屓目ナシに可愛い。だから、るいと……その……"そーいう夢"を見るのは当たり前かもしれねぇけど……何でそこで初紀にキスされてたんだ? 溜まってんのか、俺――――
「―――ほら」
柄にもなく思い悩んでた俺を現実に引き戻したのは、不意に懐に投げ込まれたビニール袋だった。
中身は……無彩色なストライプのトランクス。
その先には、開きかけのドアの陰から見える初紀の右手。
「っ、その、初紀……悪―――」「―――風邪引くから早く着替えなって。
―――あ、あとその下着は返さなくていいから」
何だか気恥ずかしくて、許しを乞いたくなった俺の言葉を断ち切るように、初紀は無機質な言葉と共にドアを閉めた。
「………ふぅ」
溜め息を原動力にして、俺はベッドから立ち上がり、ベルトに手を掛ける。
よっぽど溜まってたのか?
そう自分に突っ込みを入れたくなるくらいの、その……量と濃度にまた溜め息が出た。
とりあえず、俺は勝手にタンスの上の箱ティッシュを拝借し、早々に処理を済ませることにした。
「――――終わったぁ?」
ドア越しに初紀の何事もなかったような声が聞こえてきた。
俺は慌てて、その残骸をビニール袋にまとめながら返事をする。
「……あ、あぁ、悪い、もういいぞ!」
ドアが開き、初紀が戻ってくる。……けど、少し雰囲気が違っていた。
「……あれ」
「変……?」
その理由は、髪型。初紀が昨日の予行デートの雰囲気作りの為に、るいに似せた短めのポニーテールじゃなくなっていたからだ。
クセのない、ツヤのある黒髪が真っ直ぐに下ろされていて……まるで、浮き世離れしたお嬢様みたいに綺麗だと、正直思った。
「……リアクションないと女の子は不安になるよ?」
「えっ? あ、あぁ、すげぇ似合ってんよ。……可愛い」
……何口走ってんだ俺!? ヤバい。虚を突かれたせいか似合わないコトばっか言っちまってる自分に気付く。
何か、今日ここに来てから調子狂いっぱなしだ……。
「……ゼロ」
「……は?」
「今の、嬉しかったから。その、予行デートの減点は帳消しにしたげるよ、うん……」
「あ、あぁ、そりゃ、どうも……」
顔を赤らめて二の句を探す初紀と俺の気まずい沈黙。……何だこの空気。
危機的状況から脱して、冷静になると……その、さっきまで見てた夢のせいか初紀の顔が直視出来ない俺がいる。
どうしよう、すっげぇ気まずい。
「あの、さ」
あれこれと思いあぐねている内に、初紀が俺に声を掛けていた。
「な、なんだよ?」
「その、……ごめんっ!」
弾かれたバネみたいに頭を下げる初紀。いや、何でお前が謝るんだ? 謝るなら人ん家に勝手に押しかけて、人ん家のオヤジさんとケンカして、人ん家で勝手に夢精した俺じゃねぇのか?
初紀が頭を下げる道理なんてこれっぽっちもない筈なんだが。訳が分からない。
「……私のせいなんだ。陸が、その、……む、むせーしたの」
「………。はい?」
余計に訳が分からなくなった。……つーか仮にも女の子を自称するなら夢精とか言うなって。
そもそも、夢精って男の生理現象だろ? ……青色通知の件で凹んで、そーいう気になれなくて、ヌいてなかったのは他の誰でもない、俺のせいじゃねぇか……。
―――……いや、確かに夢精の原因の一旦は初紀にあるわけだが、それは夢の中の初紀であって、現実の初紀になんら責任はねぇわけで、夢の中の初紀は勝手に俺が………だぁあっ! 考えるとややこしいことこの上無ぇっ!
「いや、だから、なんで自分のせいで、その……っ、……夢精したとか思うんだよ」
「……さわった、から」
………………はい?
国語的に言うなら主語も目的語もない、動詞の過去形、とでも言えばいいのか?
消え入りそうな初紀の言葉の意味を察するなら―――俺の息子が勢いよく噎せ返った原因は、初紀が息子をさわったかららしい。なるほどな。
………。
……触っただぁっ!!?
「な、なんでッ!? どーしてッ!!?」
「……………」
いやいやいや、何でそこで黙るんですか初紀サン!?
「……ねぇ、陸……?」
パニクる俺を後目に初紀は一世一代の大決心でもするかのように年相応な女子の胸元の前で右拳を握りしめる。
なんだ………なんなんだよっ!?
まだ夢の続きなのかコレ!!?
初紀の決意の表れであるはずの胸元に掲げられた右拳がゆっくりと下がっていく。
―――ジー……っていう金属音と一緒に。
その音が初紀の着ていた真っ赤なパーカーのジッパーを下げてるものだと気付いた時には、その、パーカーはするりと床に落ちていて。
数週間前から見慣れてるはずのブラウスとブレザーのスカートの姿になる。
見慣れてるはず姿なのに、何故か俺の心臓はイタいくらいに高鳴っていた。
「―――わたしじゃ、……ダメ、かなぁ……ッ?」
今にも泣き出しそうな真っ赤な顔に、潤ませた目。
……ヤバい、ヤバい、ヤバいッ!!
さっき暴発したばっかの息子に血液が集まり始めてんのが分かる。別に女の裸を拝んでるわけでもねぇのに、初紀のその訳の分からない行動にビンカンに反応しちまってる俺が居る!!
「な、何がだよ……」
数メートルもない距離なのに、初紀は俺の質問にも答えずに、ゆっくりと俺との間隔を詰めていく。
……それだけならまだいいさ、頭に"?"を浮かべいても、まだ冷静で居られる!
……それだけじゃねえんだ。
さっきまで着てたパーカーの色に負けず劣らずの赤面をしながら、初紀はスカートの右腰に手をやった。
……おい、おいおいっ! まさか……!?
何かの留め金が外れる音がした。
次いで、さっきと同じような"ジー"っていう……金属音。
―――宿主の取っ掛かりを失った衣服は引力に身を任せて落ちるのが道理だ。
ふぁさ。という音と共に……初紀の……女の子としての脚が露わになる。その……女特有のしなやかな丸みを帯びた脚と、ブラウスの裾の合間から見える水色から……目が離せない。
「ほら……見て、陸……」
「おい……。な、なんだよ、なにがどーなってンだよッ!? 説明しろよ、なんとか言ってくれよッ! ……初紀ぃぃっ!!」
迫る初紀、声だけの威勢で後ずさる俺。俺はあからさまに劣勢だった。
今現在、俺と向き合ってるブラウス一枚の奴と、男だった頃にタイマンを張った時だってこんなビビッたことはねぇ。それくらいの動転だった。
―――なのに、俺の心のどっかは酷く冷えきっていて。
"あぁ、俺の知ってる男の初紀は本当にもうどこにも居ねぇんだ"って。
本気で殴りかかっても軽く去なされたライバルでありダチであったアイツには、もう会えないんだって。
呑気にそんなことを考えてる俺に嫌気が差した。
今の俺なら―――というよりは今の初紀が相手なら―――男女の体格差を活かして目の前の誘惑を弾き飛ばすことだって出来るはずだ。
でも、蓋を開けてみりゃこのザマだ。
ブラウス一枚で迫ってくる美少女相手に俺は完全に気圧され、ビビり、腰が抜けて動くに動けねぇ……!
しかも厄介なことにカラダはその状況を舌なめずりして期待してるみてえに……いや、すっかりその気になってガチガチなってやがる!
―――ヤれ、ヤっちまえって。
男として、決して抗うことを許さない本能が俺を籠絡しようとしてきやがる……。バカじゃねぇのかっ!? お、俺は……初紀を、ダチとして―――。
「……見てよ、ほら……これが御堂 初紀。ちょっと前まで、陸が何度喧嘩をふっかけても敵わなかった奴の裸だよ?」
ブラウスのボタンがひとつ、ふたつと外れていく。徐々に露わに初紀の白い肌。そして、女としての証である膨らみを支える水色の下着。
それは、ちっと前まで拳を交えた相手とは思えないほど綺麗で………ちっとも見覚えがない。
―――それは、初紀も同じことだった。
「陸もこうなりたいっ!!? 私や、るいちゃんみたいに……っ!!!」
「初紀や……るい……?
んぅ……っ―――!!!?」
初紀の言葉の意味を咀嚼しようとした瞬間に、その口が塞がれる……。
思いの丈をぶつけるだけの、乱暴なキス。
―――やめろ……初紀、やめてくれッ!!!
ここで俺がキレちまったらお前にどんな面下げてダチを続ければイイんだよ……なぁ、やめてくれよ……頼むよ……。
それでも初紀との口付けを拒みきれない本能の俺が……先ず、両手を支配しようとした。突き放さないといけない筈の初紀の線の細いカラダを力一杯抱きしめたい衝動に駆られる。
……やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめてくれ!!
紙一重の理性でカラダを縛り付けても、沸騰した頭を初紀の舌で掻き回されるような強烈な錯覚がまたそれを求めていた。
フツーなら殴り飛ばしちまいたいほど気持ち悪いモノの筈なのに、初紀のそれを求めてカタくなる自分が腹立たしい。
あと数秒、初紀の唇が離れるのが遅かったら俺の理性は吹っ飛んでいたかもしれない。室温の空気が互いの唇を冷やし、俺達の吐き出す乱れた呼吸が、その室温を上げていく。
「……こんなのないよ。
………男だった時ならさ。こんなキス、気持ち悪いだけだったんだろうけどさ。
……今は求めちゃってるんだよ、もっとして欲しい思っちゃうんだよっ!?
こんなの壊れちゃうよッ! おかしくなるッ!! 陸には、そんな思い……して欲しくないよ……」
初めて見る初紀がそこに居た。
困難に対して悩んだり、戸惑ったりする姿は度々見てきたが―――それを嘆き、それに怒る初紀の姿は……今まで見たことがなかった。
「……だから、私が―――」
「―――っざけんなっ!!」
初紀の言葉の先を俺は怒号で遮った。
……だって、そんなのオカシイだろ?!
いくら、ダチだからって……文字通り身体張ってまで、俺の女体化を食い止めるなんて―――正気の沙汰じゃねぇって……そんなの、バカな俺にだって分かる!
……確かに今の初紀相手なら、俺は男と女のカンケーになれるとは思う、カラダは痛いくらいに正直だから。
……けどよ、そしたら俺は初紀をダチとして見られなくなりそうで―――好きになっちまいそうで……怖ぇんだ。
初紀との、今の気兼ね無いカンケーを俺は捨てたくない。
……わかってンよ、全部、てめぇの都合からキてるワガママだ。そんなてめぇのワガママのせいで、どんだけ初紀が俺を心配したか、初紀を苦しめたかッ!
……本当に"ざけんな"って言いたい相手は他の誰でもねぇんだ。
俺なんだ。全部、俺なんだよ!
一歩も足を動かすことが出来ない俺が蒔いた種だ!!
……それを、初紀にぶつけるなんて―――死ね、死んじまえ! 俺!!
「―――そうだよね。あは、あははははっ、なにやってるんだか。あー恥ずかし恥ずかし」
肩を震わせて、目に涙をいっぱい溜めて―――俺のダチは精一杯に笑う。
そして、一瞬頭突きされるかと勘違いするほどに勢いよく頭を下げていた。
「初―――」
「―――ごめんっ! ……本っ当に、ごめん……いや、だったよね。
気持ち悪かったよね、私なんかと……その、……そのっ、キ……スして」
「ンなワケあるかっ!」
怒りと、苛立ちと、本音が入り交じった複雑な声で、俺は初紀の言葉を否定していた。
「え―――?」
「―――その……服着ろよ。いつまでも下着姿で居るんじゃねぇよ、風邪引くぞ」
俺は漸く力が入るようになった気だるいカラダに鞭を打ち、床に乱雑に散らばった初紀の服を拾い上げ、持ち主に差し出す。
……なんでこう、ヒネた言い方しか出来ねぇんだよ俺って奴は!
その言葉の意味を、初紀が理解したか俺には知る由もない。
でも――――
「……ありがとっ」
―――初紀は、涙が零れたとは思わせないほど、柔らかくて優しい顔で笑ってくれた。
そして、渡された服をテキパキと着ていく初紀。
―――感謝なんてとんでもない、むしろ悪意を持たれて当然。……詰ったり殴ったりされて丁度良いはずの俺を、初紀は笑顔で受け入れてくれる。
………なんでだよ。なんでそんなイイ奴なんだよ……お前は。
考えもナシにお前の挑発に乗って、欲求のままお前を抱いちまおうとか思った俺を、なんで赦してくれんだよ……。
「―――ばーか。だから経っても陸はどーてーなんだよっ」
「な―――っ!!?」
すべての衣服を着終えた初紀は、イタズラっぽく笑いながら俺を挑発する。
売り言葉に買い言葉で返そうとした刹那―――
―――もう、何度目かも分からない初紀の唇の感触を、味わっていた。
舌は触れない、なんの背伸びをしてない初紀の"本当"のキスに、俺は……俺自身の意志で拒むのをやめた。
その唇の温かみの名残を惜しむように、初紀はゆっくりと俺から離れる。
「―――女になった私に戸惑うことはあっても、真正面から私と向き合ってくれて。
"はつき"の名前を受け入れてくれて。
私をきちんと女の子として見てくれて。
バカで、人付き合いヘタで、鈍感で、喧嘩っ早くて、でも根っこは優しくて。だから、損してばっかで。だからカッコ良く見えて。
……そんな陸が……好き、でした」
言い終えて、"初紀"は俯いた。下ろされた髪が邪魔をして表情が読み取れない。
"でした"、か。こんな俺でも、異性として好きになってくれた奴が―――こんな身近に居てくれたのか。……とか思ってんのかな、初紀は。
……俺はズルい奴だ。なんとなくこうなる予感はあったんだよ。うっすらとだけど。
"はつき"と呼び名を変えた時には、もう気付いちまってた。なんつーか、こう……言葉にすると、わかりにくい部分で。
俺だって、初紀が気にならなかったワケじゃない。
でも、るいが好きだって言う俺を、初紀をダチとして見ていたい俺を、否定したくなくて。
そして―――"あのこと"が頭からこびりついて離れなくて。
それで逃げ回ってたことを……ついに言われちまった。だから―――
「ううん、今も好き。大好き。
―――だから、さよならしなきゃね」
「―――えっ?」
初紀は俺の返事を待たない。
それは単なる諦観じゃなく、何かを伝えようとする覚悟にも見えた気がした。
それは俺が邪魔していいような生半可なものじゃない、……晴れやかな笑みだった。
「―――聞いて欲しいんだ。………るいちゃんのこと」
~青色通知7.1(彼女達の場合)~
気が付くと窓辺から夕陽が差し込んでいた。
時計を見やる、もうこんな時間か。
最近は、日が長くなった。これから段々と暑くなってくるなら、夏物の洋服とかも買わないとな……。
そしてまた寒くなって、繰り返して、季節が何度も巡る。……女の子としての季節が何度だって巡る。
いつかは、こんなこともあったなぁって、アイツと笑い会える日がいつか来るのかな。
時間が解決してくれるのかな。……その"時間"に苦しめられた分を"時間"が癒してくれるなんて、皮肉な話だけど。
……そんなことは絶対にないって頭の何処かでは分かってる。でも、それに期待してしまう私が居るのも事実だった。
―――髪を下ろした私を……るいちゃんに似せていない私を、女の子として見てくれた陸なら……なんて。御都合主義も良いところだ。
―――その、私自身を女の子として見てくれた人が、ただそこに居ないだけで……色鮮やかだった景色が急にモノクロになるような錯覚。
好きだから。さよなら。
なんだろ、こんな有名人が演じて漸く成立するかしないかの、ちょっと前の月9ドラマみたいな展開。
陸が、私の部屋を出て行ってから、今さっきまでピーピー泣いてたのに、なんだか笑ってしまう。
よく純正な女子はドラマみたいな恋をしたいとか言うけど、私は真っ平ゴメンだ。
そんな誰かの筋書きに気持ちを振り回されるこっちの気持ちも考えて欲しい。
誰だ、こんな話を考えた奴、脚本家出てこい。グーをお見舞いしてあげるから。
―――そうだ。
そんな下らないこと考えてる場合じゃなかった。
……もう、君に頼ってもいいんだよね。私は、"条件"を果たしたんだ。
スカートのポケットに入れておいたケータイを取り出す。
本文を作成して、交換したアドレスを指定して………あとは送信ボタンを押せばおしまい。
……………。
あぁ、何を躊躇ってるんだろう、私は。
せっかくの努力を無駄にするつもりか私は。あれだけ恥ずかしい自分を陸に曝けておきながら……今更、何を躊躇う必要があるんだろう。そのための努力だったはずなのに。
……気付くとディスプレイには"送信中"の画面。
今なら、まだ間に合う。電源ボタンを押せば今なら、まだ。
「あ……っ」
1秒、遅かった。躊躇いがちに押した電源ボタンは、一瞬だけ表示した"送信完了しました"の文字を消して、待ち受け画面に戻しただけだった。
『"努力"はしたよ。るいちゃん。そっちに陸が行くから……後は、よろしくね。』
―――バカ。
そう、るいちゃんが呟いた気がした。
―――バカ。
………これじゃ何のために初紀ちゃんをけしかけたのか分からない。本末転倒、全くの無意味。
携帯を閉じて、カフェラテを飲み干してから、溜め息ひとつ。
唯一、救いなのは念の為に"仕事"をキャンセルしておいたことかな。
……初紀ちゃんは可愛いし、格闘技をやってたらしいからスタイルも申し分ない。決して成熟してるとは言えないけど、それでも抜群のプロポーション。
そんな娘からアプローチされれば並大抵の男ならオチる。………そう踏んだのになぁ。例え、元男だったとしても。
どういった経緯かは想像の域を越えないけれど、初紀ちゃんは、そういうところで嘘を吐けるような器用な性分は持ち合わせていない。……だとしたら、初紀ちゃんに落ち度は無いに等しい。
余程、陸という人間が自制心に富んだ人間だったか、臆病者だったか。或いはどちらもか。
溜め息ふたつ。
―――……ねぇ、ハルさん。私、どうすれば良かったのかな……。私さえ居なければ、普通に結ばれるはずだった二人が、私のせいで壊れていくなんて……思いもしなかった。
そして、心のどっかで胸を撫で下ろしてる私も居る。これじゃ、初紀ちゃんを卑怯だとか罵る資格もないよ……ホント。
このままじゃ、どう転んでも誰も望みやしない展開が待ち受けてるだけ。
………どうしよう。
「空いてる器、お下げしてもよろしいですか?」
暗に"早く帰れ"と言わんばかりの店員の物言いが、私の思考を遮る。……少しだけ腹が立ったから、私は首肯だけで返事をして、窓の外に目を向ける。外は、オレンジ色に染まっていた。
それは初紀ちゃんがこの喫茶店を出てから、かなりの時間が過ぎていたことを物語っていた。……どこまで私は暇人なんだか。
―――そう思った刹那。
客の出入りを知らせる電子音が店内に鳴り響いた。
まさか。と思って入り口に目を向ける。
………違った。どうやら営業を終えたサラリーマンが一息入れようと新聞を片手に来店しただけだ。
……何をバカみたいに意識してるんだ私は。
「――――るい」
視線を汗をかいた冷グラスに落とした、その瞬間に―――聞き慣れた声。
視線を上げた先には、肩で息を整えている、まだらな茶髪の不良少年。……陸だ。
「やっ、やぁ。ひーちゃん、奇遇だね~、どしたの?」
「―――ヤメにしようぜ。こーいう腹の探り合いで誰かが傷付くのは、もうゴメンだっつの」
流石に純正の男の子だ。物言いがストレートで、変な気を回さなくて済む。
尤も、今のままじゃ純正な男の子で居られる時間は限りなく短いのかもしれないけど。
「―――何処まで聞いたのかな?」
「……初紀が知る限り、全部だ。まだ半信半疑だけどな」
「初紀ちゃんがひーちゃんを好きだってことも?」
「あぁ」
「ひーちゃんが私のこと好きだって知ってるのも?」
「………あぁ」
「……私の"青色通知"のことも?」
「あぁ」
「……ハルさんのことも?」
「あぁ」
「……"条件"のことも?」
「"条件"? ちょっと待て、なんだそりゃ」
溜め息みっつめ。……初紀ちゃんのバカ。
「……ま、いいよ。キミには関係無いことだし。
……とりあえず座ったら?」
「ンな悠長なコトしてられっか……行くぞ!」
「えっ!?」
ワケが分からない。なんで私は陸に腕を引っ張られているのだろう。
まさか、無理矢理にでもホテルにしけこもうって魂胆? ……なんだ、やっぱりコイツも同じなんじゃないか。相手の同意が得られれば後はどうでもいい。自分の欲望を下半身の赴くままにぶつけるだけ。
……こんなんじゃ、私がいつも相手にしてる青色通知のチェリー連中と同じじゃないか。
……やっぱり、どうかしてたんだ、私は。
―――そう思った瞬間に熱が冷めた。
もう、こんな下らないことに時間を費やすだけ無駄だ。
「分かったよ。一緒に行けばいいんだよね」
「そうだ。るいが居ないと話にならねぇじゃねーか」
……あっさりと認めた。随分と潔いじゃないか。……もう、どうでもいいや。
会計を済ませ、私と陸は喫茶店をあとにする。
後は歩いて数分先にあるホテルに入って、相手の為すがままのお人形さんに成り下がるだけ。
実にくだらない。
―――そう思った時だった。
「………えっ?」
何か私の手元に投げ渡される。これは……ヘルメットと、ツナギ?
「なぁにボサッとしてンだ、とっととそれ着けろバカッ!」
罵声を浴びせかける陸は、いつの間にか長袖の上着を羽織り、ヘルメットから鋭い視線を覗かせていた。
その、彼の身体の向こうには……どう見ても高校生の持ち物とは思えないような黒光りするボディが特徴のバイク。
知識が無いので車種は分からないけど、一介の高校生が易々と手出し出来るような代物じゃないことぐらいは分かる。
「さっさとしろっつってンだろッ!」
「う、うん!」
鬼気迫る声で怒鳴られるがまま、私は投げ渡されたヘルメットとツナギを着けた。……油と汗の匂いで、ちょっと噎せそうになる。
「乗れッ!」
後部座席(?)を二、三度、手の甲で叩く仕草で、陸は私をバイクに招く。
「ちょっ、ちょっと?! 何処行くつもり―――?!!」
「"ハルさん"が住んでたアパートに決まってンだろッ!!」
「え………? ええぇっ!!!?」
ワケが分からない。想像していた話と違い過ぎる。全くの予想外!
そもそも陸は、ハルさんのことを初紀ちゃんづてに聞いただけだっていうのに……どうしてこんなにもヒートアップしてるのだろう。
「そ、そんなトコ行ってどうするつもりっ!?」
「………その様子じゃ墓参りも行ってねぇンだろ?! まずケリ着けてこい。……話は、それからだ」
………はい? ケリ? 何それ?
……まさか、ハルさんのお墓参りに行って、事実をきちんと受け止めれば、考えが変わるとでも思ってるの?
考えを改めて、通知受取人の仕事を辞めて、禊ぎを済ませてから付き合って欲しいってことなの?
………あっきれた。
そんな御都合主義が通るような昔の月9ドラマじゃないんだよ。
現実なんだよ、これ。わかる?
そんな甘い考えだけで、自分の"男"としての残り少ない時間を無駄に出来るっていうの?
……バカだ。正真正銘のバカだ、この男。
ホント、どこまで私を失望させてくれれば気が済むんだ。
溜め息よっつ。
いいよ……こうなったら自棄だ。
その茶番劇に付き合ってあげるよ。……そうして、逃した魚の大きさを一生掛けて後悔すればいいんだ。
私と、おんなじようにね。
「……わかった。行く」
「場所は覚えてっか?」
「ここからだと電車で2時間は掛かるよ? 京在線の天海(あまみ)駅ってトコの近くだけど」
「天海って……随分遠いんだな」
「女の子には色々と事情っていうものがあるんです」
「……そりゃ難儀なこって。
―――飛ばすぞ、1時間で着かせるからな。しっかり捕まってろよ」
「………そういえば、一個だけ聞いていい?」
「……んだよ、肝心な時に締まらねぇな」
「ひーちゃん、15だよね? 歳」
「あぁ、そうだけど」
「じゃあ……免許は?」
「ねぇ」
「……え」
……甘かった。
先に後悔する羽目になったのは私の方だった。
私の抗議と悲鳴は、高鳴るマフラーの音と加速度が作り出す風圧に阻まれて虚空に消えていく。
分かっていても、天海に着くまでの50分強の間、その悲鳴は止むことはなかった……。
~青色通知7~
完
最終更新:2009年05月10日 17:34