~青色通知12.0(??の場合)~
―――実況検分っていうものに初めて付き合わされたが、まさかこんなにも時間を食ってしまうとは。
被害者も加害者もいない事故では目撃情報が一番有力なものになってしまうから、警察が躍起になるのも無理はないが……善意の第三者を長々と拘束するのは如何なものかと思う。
雲間からお義理程度に出ていた橙色の夕日は、もう姿を消していた。
空を見上げても星一つ輝かない真っ暗な闇が広がっているだけだ。
―――僕もバカな真似をしたものだ。
あの少年―――前田 陸くんと言ったか。
彼の必死な表情に気圧されて、僕は道を開けてしまったのだから。
……とりあえず、我関せずな人達ばかりで目撃者も居らず、しかも自損事故のみだったお陰で、僕の身柄は何とか拘束されずに済んだのは幸いかもしれないが。
「ふぅ……」
溜め息ひとつ。
何だかやり切れない気持ちだけを抱えているのが億劫になってきた。
こういう夜は適量の酒でも煽って寝てしまうのが一番だ。そう思い、僕は陸くんの血液で汚れたジャケットと鞄を肩に引っかけると、事故現場とは駅を挟んで反対側に位置する歓楽街を目指した。
―――やれやれ。
流石にアフター5だけあって、こんな都会と田舎の中間くらいの町でも人で溢れかえっている。
こちらに赴任してからまだ一週間にも満たないが、地方だからと言って仕事量が減るとも限らない。……これからは、こんなにのんびりと出来る時間も減るかもしれないな。
まぁ、かと言って、あんな風に事故現場やトラブルに巻き込まれるなんてことはそうそう無いだろうけど―――。
『―――離せっ、離してよっ!!!』
―――裏路地から穏やかではない女の子の声。
……なんだ、補導か何かか?
「ンだよ。なんか泣きながら走ってきてるから俺らが慰めてやろうと思ったのによ~?」
「へへっ、よく見たら可愛いじゃん!」
「あっ、そういやコイツ、前に"私はツーチウケトリニンだー"とか騒いでた女ッスよ」
「あー? ばぁか。制服着てんじゃねーか。パチだよパチ!!」
『………ッ』
何だか良からぬ展開な上に、聞き捨てならない言葉が飛び交った気がする。
……はぁ、今日は厄日か?
僕の周りの人間も気付いてるはずなのだが、ここの県民性なのか誰一人として関わろうとする人が居ない。
世知辛い世の中だな、まったく。
携帯から警察を呼んでも恐らくは間に合わないだろう。
……仕方無い。虎穴に入らずんばってヤツか。
覚悟を決めて、僕はその声がする路地裏へ足を運んだ。
「……何してるんだい?」
『ッ!!?』
一斉に僕に視線が注がれる。
……5、6人の今時の不良らしき人物が、セーラー服姿の女の子を取り囲んでいる。薄暗くて顔は確認出来ないけど、スタイルの良い可愛らしい女の子だと感じた。
そして、その周囲を取り囲む連中は陸くんとは毛色の違うワル気取り、といった所か。
なんともまぁ、大時代的でベタなシーンに出くわすものだな、僕も。
「うっせーよ、優男」
「消えろよタコ」
「それとも、俺たちに小遣いくれるのかよ?」
「あーいいねぇ、いくらくれんの?」
……まったく。こういう下卑た輩が異性化疾患にならないというのが不思議で仕方がない。
"性別選択権行使通知書"も渡すべき相手を限定すべきだと思うのだが、お役所仕事は何でも平等主義だからな。
こういう阿呆共にも、湯水を悠々と越える勢いでバラまいているのだろう。
税金の無駄遣いもいいところだ。
まったく国政と地方自治体は何をやってるんだか。
「申し訳ないが、僕はキミ達に貢ぐ為に仕事に励んでるわけじゃないからね。
残念ながら、キミ達に渡すべきお金は一銭もないよ」
「あぁっ? 死にてーのかよ!」
「てめーの意見なんざ聞いてねーんだよ」
「さっさと金出せよカス」
「そいつで、この女とシケこんでやるからよぉ?」
『っ、やめて―――んぅッ!!?』
「おーっと、アンタは黙ってろよ」
路地裏の影で、寒々しい色の刃がいくつもこちらに向けられる。
えーと……銃刀法違反、拉致監禁、脅迫、並びに強姦未遂か。
現行犯逮捕と正当防衛の材料は十二分に揃ったかな。
後は―――
「異性からモテないから集団で強姦、金が欲しいから他人から奪う。思考が幼稚園児並みだな。少し人生を嘗めていないか?」
「っ、てめぇぇええっ!!!」
―――コイツらから手を出させればいい。
この手のタイプは我慢が利かない奴が多い……とは言え、こうも簡単に引っ掛かってくれたんじゃ張り合いが無さすぎる。
まったく。こんな幅の裏路地じゃ集団の意味も無いことに気付かないのか?
刃渡りが二桁センチに届くかどうかの刃物が、僕の上半身に集中する。
僕は溜め息を吐いて、肩から下げてジャケットと鞄から手を離した。
―――まったく、遅いな。待つ身にもなってくれ。
刃物を見る必要性は全く無い。不良達の見せる予備動作にはフェイントの頭文字ひとつ無かったのだから。
「歯、食いしばっておきなよ? ……舌噛むと、窒息死も有り得る」
「―――っ!?」
万一にも過剰防衛になってしまわないように、一応忠告はした。
突き出されたナイフを屈んでかわし、ガラ空きになった顎に遠慮なく蹴りを浴びせると、受け身も何もとらずに地面に沈む。
手応えありっ、脳震盪でしばらくは動けない筈だ。まず一人。
……お次は入射角左右25度ずつから二人がかりか。やれやれ。
「人を殺すには、刃を立てちゃ骨に阻まれて主要臓器まで届かない。
漫画にも載ってる話だよ」
「な―――っ!!?」
二人の間を駆け抜けて、背後を取り両者の後頭部を鷲掴みにする。
「さて、キミ達は人の話に耳を傾けない石頭らしいが……どちらがより石頭かどうか試してみよう……かっ!!」
互いの頭から鈍い音がして、二人が倒れ込む。
互いに気絶させるくらいの石頭だけど、その衝撃に自分が耐えられないなんて、意外に脆いな。
「うらぁあぁあっ!!」
『―――あぶないっ、後ろっ!!!』
分かってるよ、お嬢さん。
こんな丸出しの半端な殺気なんて目を閉じていても感じ取れる。
振り向いて、身構えて、手のひらを放つっていう予備動作を上乗せしても、背後から襲い来る奴より、まだ僕の方が早いのだから、危険は一切感じない。
―――心臓を一突き。
僕の手のひらが、大雑把にナイフを振りかぶり、がら空きになった不良懐に届いた瞬間に勝負は決していた。
「あ、がっ、はぁ……ッ!!」
ひゅー、ひゅー、と普段の呼吸からはありえない音がして、暴漢が倒れ込む。
「……さて、後はキミだけだが」
「う、動くんじゃねぇ!!!」
『―――っ!!?』
不良グループの最後の独りが、セーラー服の女の子の喉元にナイフを突き立てる。
……くそっ、二手三手ほど動きが遅れたか。
「動いたら、こ、この女ぶっ殺すぞッ!!?」
「―――ッ」
1と2の距離ならば実力差で縮められても、0と1ではいくら何でも間に合わない。女の子を無傷のまま、この馬鹿を叩き潰すことは実質不可能だ。
「へっ、へへへっ、形勢逆転だなぁ?」
「………」
勝ちを確信したように不良グループの最後の一人が下卑た笑いを上げる。
……しかし。
―――キンッ
「―――が、……っ!!?」
その笑いは長くは続かなかった。
苦悶の表情を浮かべて脂汗をタラタラと垂らしている不良。
よく見ると女の子のカカトが不良の股関節にクリーンヒットしている。
『……ばーか』
……僕でも狙うのを些か躊躇う、正に"キンじ手"を容赦なく彼女は放っていた。
『今だよ、おにーさんっ!!』
「――――っ!!?」
「……おぉぉぉおっ!!!」
少しばかり同情をした後に、僕はその卑怯者の顔面を目掛けて渾身の力を込めた拳を放つ。
……先程、事故現場で聞いたような鈍い激突音と共に、彼の頭部は雑居ビルの壁に叩きつけられた。
パラパラ、と雑居ビルの壁に使われたコンクリートの破片が落ちる音と共に、不良グループの最後の一人も崩れ落ちた。
鼻骨が折れたような感触がしたが……まぁ、自業自得だろう。
「……大丈夫かい?」
『………はい、あ、そのっ…ありがとう…』
僕の放った拳の衝撃で、思わず腰を抜かしてしまったのだろうか、その場にへたり込む女の子に手を差し伸べる。
……今まで薄暗くてはっきりと目視出来なかったその顔を、漸く女の子は僕に見せてくれた。
……そこで、ハッとする。右目の黒子と、少し強気な綺麗な顔立ち。
この顔……どこかで見たことがある。いや、どこかなんて曖昧なものじゃない。
―――病室で、だ。
「坂城………"くん"」
―――僕は思わず、その少女の名を呼んだ。
『……っ、"神代"……さんっ!?』
そして、彼……いや、彼女もまた目を見開いて僕の名を呼んでくれた。
~青色通知12.1(るいの場合)~
漸く、陸と初紀ちゃんをくっつけることが出来て、私は元も立ち位置に戻ろうとしてるのに―――今になって、どうしてこうも昔の知人に会うんだろう。
神仏なんて信じてないし、単なる偶然だって言いたいけど……ここ数日でハルさんが生きている事実を知ったり、こうして神代さんにバッタリ出会ったり……偶然じゃ考えにくいような"大きな力"が働いてるような気さえする。
それを、"運命"っていう誰もが手垢を付けたような言葉で片付けるのは簡単だけど―――そんなの私は信じないし、信じたくない。
じゃあ、今、私とこの人が喫茶店でお茶してるのも、単なる偶然なのかって訊かれると……うん、何とも答えづらい。
「―――坂城くん。いや、坂城"さん"と呼ぶべきかな?」
何を考えてるのか読みとれない笑顔がテーブル越しに向けられて私はそっぽ向いた。
「………好きに、してください」
「つれないな。僕とキミの間柄じゃないか」
「助けてくれたことには感謝してますよ。だからこうしてお茶にお付き合いしてるわけですし。
……それに必要以上のコミュニケーションは、御法度じゃないんですか?」
「あははは。外見は綺麗になったのに、相変わらず手厳しいな」
「……人の根っこなんか、そう簡単には変わりませんよ」
「正論だね。変わることは終わってみれば簡単なように見えて、始める時は難しく感じる。
だから、そう簡単には変わらない」
私は、目の前で美味しそうにブラックコーヒーを啜りながら、講釈を垂れるこの人が、昔から苦手だった。
人当たりが良くて、綺麗な顔立ちをしていて、頭が良くて、腹の奥底じゃ何を考えているのか全く分からない人。
それが―――神代 宗(かみしろ しゅう)という男性だ。
あまり私達の世代では馴染みのない名字だけど、"神代家"と言えば、大人達は誰もが知っている家名らしい。
なんでも、昭和の初め頃から今まで、神代と名の付いた政治家が国会から籍を外したことは無いという。
一族の中には、内閣副総理や参・衆議院の議長を務めた人物も居たという、正に政界の名家だ。
名字が読みにくいし、妙に不遜なイメージを受ける字体なので、昨今では"かみしろ"と、平仮名で表記しているのだとか。
……それなら私も選挙ポスターで何度か見た覚えがある。
神代さんは、そこの直系に生まれた次男坊だと院内の噂で聞いたことがある。
ただ、彼が活躍する場は政治経済の分野ではなく……医療だ。
つまり、先生は先生でも政治家様じゃなくてお医者様なのだ。
私と付き合いがあった頃は研修医でどことなく頼りない雰囲気があったけど、今はその陰りも感じられない。
人はオトナになっても成長出来るものなんだな、って神代さんを見ていると―――正直にそう思える。
「それで、予後はどうだい?」
「"予後"って……もう何年経ったと思ってるんですか」
溜め息混じりに神代さんの危惧を突っ返す。
まったく、いつまで私の主治医でいるつもりなんだろう、この人?
「キミの異性化疾患で主治医になったのは平成17年だから……もう4年弱か。早いものだね、時間が経つのは」
指折り数えながら彼は苦笑した。
「オジさんみたいなこと言わないでください。神代先生はまだまだ若いじゃないですか」
私が"成長した"と言われた数年で、神代さんはそろそろ三十路に到達していてもいいはずの歳になっているはずなのに、彼は身に纏う雰囲気しか変わっていない。外見は……あの頃のまんまだ。
「お世辞はいいよ。キミら若者からしたら、僕は十二分にオジさんだ」
歳と反比例するようなあどけなさで笑いながら、感慨深そうに神代さんはブラックコーヒーを再び口にする。
ソーサにカップを置いて一呼吸してから神代は再び口を開いた。
「―――それに、もう僕は"先生"と呼ばれる身分じゃないんでね」
「えっ?」
「医師免許は健在だけど、今は病院では働いていないんだ」
「どうして、ですか?」
「―――"蛙の子は蛙"だったって事だよ。今はこういう仕事をしてる」
言いながら、神代さんは椅子に掛けていた高そうなスーツの内ポケットから、メタリックレッドの名刺入れを取り出して―――その中から一枚の名刺を私に差し出してくれた。
なんか高そうな和紙で作られていて、素手で触るのが申し訳無く感じたから、私はテーブル備付の紙ナプキンで手を振いてから名刺を受け取る。
"異性化疾患対策委員会
資料係 神代 宗"
名刺にはそう書かれていた。
「キミなら、聞いたことあるかもしれないけど―――」
……いえ、初耳ですけど。
―――と口を挟む暇もなく、神代さんの立て板に水の弁論は続く。
「―――これまで厚労省直属の管轄だった"異性化疾患に於ける性別選択権行使の通知"―――いわゆる青色通知と呼ばれるものだよ―――や、通知受取人の管理、異性化疾患の研究、当該患者のケア、援助等を主にした政府組織だよ」
……えと、言ってることの半分も理解できていないんですが。
「っと、すまない。政府のお偉いさんとばかり話していると、どうも言葉がややこしくなっていけないな」
……なんか、遠回しにバカにされてない? 私の被害妄想なのかな……。
イジケ始めた私を気遣ってか、神代さんは苦笑混じり再び話の口火を切る。
「では、こういった質問に変えよう」
でも、その苦笑いは直ぐに消える。
「―――キミの担当するはずだった通知受取人"有島 美春"さんを覚えているかい?」
「―――ッ!!?」
神代さんから急に聞き慣れた名前が出てきて、私は目を見開いた。
私が異性化疾患で入院した時、確かにハルさんは付きっきりで私の面倒を見ていてくれてたから、神代さんに面識があってもおかしくはない。
けど―――今になって、どうしてハルさんの名前が神代から出てくるのだろう。
たかだか病院で何度か会ってるだけ顔見知りの二人が、特別に繋がっているとは考えにくい。
「……どうやら、覚えているようだね」
「―――忘れられたら、どれだけ楽でしょうね」
私の言葉の真意を知ってか知らずか、神代さんは神妙な面持ちで話を続ける。
「……彼女は、厚労省の記録によれば交通事故で亡くなっている。しかし―――」
「―――生きていたってことですか?」
我ながら白々しい言葉を吐き出していた。その事実は自分自身の目でハッキリと確認してるというのに。
「驚いたな。そこまで察しがいいとは」
―――実際、それを知らなかったら半狂乱で神代さんに掴み掛かっていたところだと思うけど。
「……そう、ですか」
「もしかして、読んだのかい? ―――"群青の蝸牛"」
首肯で答える。それが、ハルさんが生きてることを知った直接の原因ではないにしろ、その本について知識がないわけじゃない。
……神代さんも、知ってたんだ。
まぁ、あの本は国を非難する暴露本の類だから、"神代家"のネットワークがあれば必然的に彼の耳にも届くのだろうけど。
―――あの本が無ければ、私は今頃どうなっていたのかな……。
……そんなことをぼんやり考える。
「……私の症例まで事細かに書いてありましたし」
きっと、私は苦虫を噛み潰したような顔をしていたと思う。
だからなのかな、神代さんは私に対して深々と頭を下げてきた
「……申し訳ない」
「……なんで、神代さんが謝るんですか?」
あなたは関係無いじゃないですか。そう二の句を繋げようとした、その時。
「―――それが僕からの条件だったからね」
「え……っ」
彼の思いも寄らない発言が私から言葉を奪い去った。
―――え……?
どういうこと? 神代さんから、ハルさんに出された"条件"?
―――ブーッ、ブーッ
神代さんの言葉の真意を問い質したくて、身を乗り出そうした瞬間に、私の携帯が煩く鳴り響いた。
サブディスプレイには"初紀ちゃん"と表示されている。
どうして、こんな時に―――!?
「……出ないのかい?」
「………絶交した"友達"からですから」
「なんとも複雑な関係だな」
「私も……そう、思います」
今は、放っておこう。初紀ちゃんから伝えられる言葉は目に見えているし、もう関わりは絶ったのだから。
程なくして、無機質な留守録の音声ガイダンスに切り替わる。
『ただいま、電話に出ることが出来ません。発信音の後に、お名前、ご用件を録音して下さい』
―――ピィーッ
『るいちゃん、助けて……ッ! 陸が……陸が、た、倒れて……動かなくなっちゃって……!! 私、どうしたらいいかわかんなくて……!!!
き、きゅーきゅーしゃ……何番だっけ……117だっけ、177だっけっ!!?』
「「――――っ!!?」」
もう、知らない振りを通すことも出来なくて私は留守録の制限時間ギリギリで通話ボタンを押した。
……ちなみにどっちに掛けても単調なガイダンスが流れるだけで、一生救急隊に連絡は取れないよ……初紀ちゃんっ!!!
~青色通知12.2(初紀の場合)~
……待合室のソファに腰掛けて、どれくらいが経っただろう。
「私、―――で何――み物――てきます」
「い―――がい――てくるよ。キミは―――」
「じ――し――れない――です。
……かみ――さん―、―――に付いてて――ませんか? ……―――します」
「……―――のお――いを無――出来ないな」
「………――――ます」
ピカピカに磨かれた床しか目に映らない私の挟んで、二人が何か話していたみたいけど、全然耳に入ってこなかった。
血液で赤黒く染まったタオルを握りしめてみても、カサカサした感触を覚えるだけで―――私の手は全く汚れていない。長い長い一本道の廊下の先にある窓の外は真っ暗で、そこから近くに見えるはずのデパートすら灯りを落としている。
自覚はしてなかったけど、それくらいの時間が経っていたんだな……。
………。
どこからか響き渡る秒針の音だけが酷く耳障りで、気が狂いそうになる。
……その度に、陸が傷口にあてがっていたタオルを強く握りしめて、胸を締め付ける焦燥感にジッと耐えることしか出来なくて。
「―――"はつき"さん、だったかな」
「………」
力無く頭を上げて声の主の方に目をやる。……確か、この若い人は―――るいちゃんが連れてきたお医者さん……だったっけ。随分若い人だな、ブレザーとか着たら高校生にも見えそうだ。
……気のせいかな、この優しそうな顔と、寂しそうな目―――どこかで見たような気がする。
―――あれ?
「るいちゃ……坂城さんは?!」
気が付くと、るいちゃんの姿が、この長い廊下のどこにも見当たらない。思わず辺りを見回す。でも、居ない。
「……確かに、こちらの方が重傷かもしれないな」
ポツリと若いお医者さんが呟いたのを私は聞き逃さなかった。
……どういう意味は分からなかったけど。
「―――大丈夫だよ、彼女なら飲み物を買いに行っているだけだ。直に戻ってくる」
「……そう、ですか」
そこで会話が途切れる。
既視感はあるけど、恐らくは初対面であろう人と―――何を話して良いかなんて分からないし、気を遣うことも億劫になってたから。
「あの男の子……陸くん、と言ったかな」
「………はい」
「さっきも言ったけど彼は軽い失血による昏倒だ。
……今は単に傷口の縫合してるだけだし、命に別状は無い。
そこまでキミが気落ちする必要はないよ」
そう言い終えると、人の良さそうな笑顔が向けられた。
確かに、さっき―――るいちゃんの部屋で聞いた気がする。
……陸が何故、頭から血を流したのか、その事の顛末も含めてだ。
彼が、初めて会った私にも気を遣ってくれていたのは分かるけど―――私の中に立ち込める靄は、祓われることはなくて。
「……ありがとう、ございます。―――えと……」
さっき自己紹介された気もするけど、とっさに彼の名前が出てこなくて、しどろもどろになってしまう。
彼からすれば、かなり失礼なことをしてる筈なのに……その笑顔は崩れない。
それどころか、私に対して深々と頭を下げてみせる。
「すまない。あんなに動揺してる時に自己紹介なんかするべきじゃなかったな。
僕は―――」
「―――なに口説いてるんですか? せーんせ?」
話の腰を折ったのは、長い廊下の先から……数本の缶の飲料で両手を塞ぎながら戻ってきた、るいちゃんだった。
からかい気味の軽い口調と悪戯っぽい笑みで彼を一瞥する。
「失敬だな。僕は別にそんなつもりじゃ―――」
「―――彼女は、"そんなつもり"にもなれないような魅力が無い子ってコトですか?」
「そんな事は言ってないだろう、彼女は将来有望だ」
「やーっぱり口説いてたんじゃないんですか」
「底意地の悪い子だな、キミは」
「底意地が見えない先生に言われたくありませんよーだ」
「もう"先生"じゃないと言っただろう」
「じゃあ、"シュウちゃん"とでもお呼びしますか?」
「………遠慮しておく」
軽い口論の末に、るいちゃんは勝ち誇ったように舌を出すと、「よいしょっと」ってわざとらしく私と若いお医者さんの間に割って入るように、備え付けの長ソファに無理矢理に座る。
二人を見てると、なんだか美男美少女の微笑ましいカップルみたいだな……。
そんな不謹慎なことを考えてしまう。
「はい。こっちで良い?」
眉間に右手をあてがいながら、やれやれと溜め息を吐くお医者さんを無視してるいちゃんが温かなミルクティを差し出す。
「ありがと、るいちゃ―――」
「―――勘違いしないでね。"御堂さん"?」
「……っ」
他人行儀に呼ばれる名字と、やんわりとした笑顔での拒絶。
……まだ、るいちゃんの"友達じゃない宣言"は続いてるらしい。そんな必要なんて、どこにもないのに。
るいちゃんを、そうさせているのは他でもない私自身の筈なのに、心の隅っこで傷付いてる私に腹が立つ。
「―――"御堂"?」
不意に、訝しげに私の名字を反芻しながら私に目を向けるお医者さん。
「どうしたんですか、神代さん?」
ブラックの缶コーヒーを彼に手渡しながら、首を傾げるるいちゃん。
―――"神代"?
確かに、そう名乗っていたような気がする。お互いのちょっと変わった名字。
私はそれに聞き覚えがあったし、"神代"さんも……それは同じだったようで、気が付けば私達は目を見合わせていた。
「……キミは"御堂 源三"さんの御親類かい?」
「―――ッ!?」
目を見開いていた。全くの他人だと思っていたヒトから、父の名前が出てくるなんて。
『じゃあ、"シュウちゃん"とでもお呼びしますか?』
るいちゃんが、先程言っていた名前と、今呼ばれた名字。
―――"神代 シュウ"?
バラバラに散らばったジクソーパズルのピースが、上手く嵌まっていく。
―――確か、あれは私がまだ小さい頃の話だ。
私が本格的に空手の稽古をつけてもらいはじめた時に―――歳の離れた兄のような門下生が居た。
彼は、師である父さんの教えを弱冠15歳で全て身につけて……家庭の事情で引っ越していった。
後にも先にも、彼以上の教え子は居なかった、とは父の談。
―――その彼が出発するの日。
寂しくて悲しくて、碌に別れの言葉も言えなかった私を、優しい顔つきと寂しそうな目で見つめながら―――
『―――"はつ"。……ごめんな。僕はキミ達が悩まなくていい世の中にしたいんだ。だから、その為に少しお勉強しに行くんだよ。……大丈夫だよ、きっとまた会える。
その時は、もっと強くなって僕とお手合わせをお願い出来るかい?』
『……ぐすっ、うん、俺、もっともっと練習して、強くなるよ。宗にい』
『うん、約束だ』
頭を撫でる、父さんとは違う優しい手の感触。……父さんとは異なる憧れの対象だった。
―――その人の名前が、神代 宗。
今、目の前に居る―――この人だ。
「わた―――"俺"だよ。……"宗にい"」
逃げ出したい気持ちを一心に抑えて……今となっては違和感だらけの男言葉で私は告白する。
……その言葉で、彼は全てを理解してくれた。驚きとか落胆とか、戸惑いなんて微塵も見せずに、ただやわらかな笑顔で―――。
「―――久し振りだな。"はつ"」
―――他の誰からも呼ばれる事がなかった呼び名で……私の名を呼ぶだけだった。
……宗にいが引っ越した数年後に聞いた話によると―――主に異性化疾患を研究する医大に進学したということだった。
だから、なのかな。私の、この制服姿を見ても驚かないのは。
「すまない。少し席を外すよ」
「……こんなときに何処に行くんですか、先生?
なんかよく分かんないけど、この子知り合いなんでしょう? 積もる話もあるだでしょうし、私が席を外しますよ―――」
「……いや、いい。少し夜風に当たりたい気分なんだ」
……そんなこと、ないか。
るいちゃんが折角気を遣ってくれても、宗にいはそれに甘えようとしなかった。
ただ、驚嘆とか愕然とか、そんな感情の気配を微塵も感じさせない笑顔のまま、宗にいは、しっかりとした足取りで救急用の出入り口へと姿を消していく。
……私なんかじゃ、到底計り知ることが出来そうもない複雑な目をしたまま。
―――残されたのは、私とるいちゃんと……気まずい沈黙だけ。
この細長い世界には、もはや私とるいちゃんしか居ないような錯覚さえ覚える。それほどに静まり返っていて、静寂に鼓膜が小さく悲鳴をあげる。
……息も身も詰まりそうな、その沈黙を破ったのは、るいちゃんだった。
「―――まったく、"前田くん"も間抜けっていうか、バカっていうか。人騒がせだよね」
あからさまな悪意を持った一言が、蔑みを孕んだ目と一緒に向けられる。
「………」
「無免許でバイクなんか運転してさ。
私が一緒の時に事故ってたら、どうするつもりだったんだか」
「………」
「身の丈に合わないコトするからっ、こんな、人に……心配かけることになるんだって。迷惑極まりない話なんだよねっ、そう思うでしょ、"御堂さん"もッ!」
「………」
「……なんで、怒らないの」
るいちゃんは少し憮然とした声色と表情で、俯いたままの私を睨みつける。
「……だって。本音じゃない言葉に怒ったって、意味ないよ」
「っ」
あんな恥ずかしい目に遭わされて、それを好きな人に見られて、その好きな人か病院に担ぎ込まれて。
……それでも私は、陸の事故の発端を作り出した、目の前の可愛らしい女の子を責めようとする気は起きなかった。
それが、気持ちを伴わない言葉だとしたら尚更。
「……はい? なにそれ?
キミは"前田くん"と違って、少しはアタマが回ると思ったけど、どうやら買い被ってたみたいだね」
「………」
「どうして、会って数日しか経たない人間を無条件に信じることが出来るのかなぁ? 人なんて、一生を懸けても分かり合うことが難しい生き物なのに。
それで私に何度も何度も傷付けられてるくせに。学習能力ないんじゃない? キミも、"前田くん"もホントにバカだよ!!
このまま、もし目を覚まさなかったら……"前田くん"は、男で居られるチャンスをみすみす逃したようなものだし―――!!!」
「―――もういいよ、るいちゃん」
……るいちゃんの虚勢を張った嗤い顔が、何故か泣き出しそうな顔みたいに私には映った。
まるで"自分"を殺すことでしか、人を救うコトが出来ないって思っているような、そんな表情。
笑顔がとても可愛らしいこの子を、こんな表情にさせてしまったのは、他でもない、私だ。
だから、その作り込まれた仮面みたいな表情を見てるのが、堪らなく辛くて―――。
「―――ふえっ!?」
―――私は、精一杯に虚勢を張った繊細な女の子のカラダを、壊さないように優しく抱き締めた。
「……るいちゃんの所為じゃないから。だから、自分をそんなに追い詰めちゃダメだよ……ね?」
震えてた。
その震えが私なのか、今、抱き止めている可愛らしい女の子のものなのかは分からない。
ただ、微かな震えを私の身体が自覚しただけで。
「……そーやって、ふたりしてっ、わかったふりしてっ! 私、を掻き……乱して……っ!
うっとーしいんだよ……っ!!」
……声も震えてた。
髪を下ろしているせいで、表情は見て取る事ができないけど―――。
「っ」
彼女の足元に水滴をふたつと認めた時には、私は……彼女の温もりから突き放されていた。
「るいちゃん……?!!」
「………ばいばい。今度こそ、本当に」
―――そう、俯いたまま。るいちゃんが踵を返す。
その、刹那だった。
「―――よく分からないが、お別れは済んだかい?」
救急搬送口から戻ってきた宗にい。………と、複数のスーツを着た屈強な男達が、るいちゃんの行く手を阻む。
えっと……誰、この人達?
「神代先生には、カンケーないですよ。……邪魔です、そこ、退いてください」
るいちゃんは、目元を拭いながら大人達の醸し出す無言の威圧にも臆することなく対峙する。
―――しかし、そんな子供の勇気など初めから意に介するつもりはない。そう言わんばかりに、宗にいを含む大人達は彼女の前に立ち塞がったまま微動だにしなかった。
「そうはいかない。これは公務だからな」
―――底意地が見えない。
そう、るいちゃんが表現した宗にいの憮然とした表情が、酷く冷たいものに見えて、私は寒気を覚える。
ていうか……"公務"って、どういうコト?
「―――坂城 るい。いや、通知受取人IDナンバー"AO1617"号。
医療福祉新法、並びに児童福祉法違反の現行犯により……キミの身柄を拘留する」
「「―――っ!!?」」
―――現行犯? 身柄の拘留?! 何を言ってるの宗にい!!?
「何を驚いている? 特に坂城さん。キミには僕の身分を明かした筈だが?」
話が見えない私を後目に、宗にいの言葉に――るいちゃんは奥歯を強く噛み締めている。
「……たかが資料係に過ぎない神代さんが、こんな権限を持ってるなんて知りませんでした。
"神代家"の威光って便利ですね」
るいちゃんは負け惜しみに精一杯のイヤミを言ったつもりなのだろう。けど、宗にいは眉一つ動かさない。
「………キミの発言はこれ以降、委員会の管理下によって制限される。
余計なお喋りは控えて貰おうか。
………連れて行け」
「――――ダメっ!!」
宗にいの指示でるいちゃんを捕まえようとする男達の前に立ちふさがっていた。
……事情なんかよく知らない。
けど、なんだか……このままだと二度と、るいちゃんに会えない気がするから……!
「"はつ"。キミはもう少し利口な奴だと思ったが?」
溜め息混じりに宗にいは呟く。
……そうだ。私は昔から他人の顔色ばっかり窺ってばかりで、当たり障りの無い言動を心掛けていた無難な人間だった。
でも、それを変えてくれたヒトが居た。アイツなら、きっとこうするに決まってる!
「……宗にいが何をしたいのか、私には分からないし、知りたくもないよ―――けど、私の友達に何かしようって言うなら、宗にいでも容赦しないッ!!」
「……初、紀ちゃん……」
私が排除要項に加えられたらしい。屈強そうな男達が身構える。
……うぅ、勢いで啖呵を切ったのは良いけど……如何せん数が多すぎる。
「"容赦しない"、か。こんなところで暴れるつもりは無かったが……。
公務執行妨害では致し方ないな」
―――それに、宗にいの実力は折り紙付きだ。
確かに父さんを師事していた時より多少は腕が落ちている可能性があるけど、その隙の無い構えを見る限り、その可能性は限りなく薄く思える。
……その上、女になった私の非力な空手。
結果は目に見えている。
無理だよ、絶対に―――
『―――あぁ、これか。儂としたことが一発貰ってしまってな。未だ未だ精進が足らんな』
――――っ!
……何を考えてるんだ私は。
陸だって立ち向かったんだ。父さんっていう絶対的な壁に!
勝てないからって、陸が私に喧嘩をふっかけなかったことがあった!?
"勝てないから"
そんな言葉に脅えて大切な人を見捨ててまで逃げ出すくらいなら、死んだ方がマシだっ!
「……通さない、絶対にッ!!」
人に嘘を吐いて、自分すらも誤魔化して。それがどれだけ馬鹿げたことか、私は痛いくらいに思い知った、だから―――!
「――無駄、だよ。初紀ちゃん」
「え……っ?」
猛る私の肩を叩く、まるで無気力な目で首を振るるいちゃん。
―――どうして!? ここで捕まっちゃったらるいちゃんは―――!
「―――神代さん、もう消しちゃったんでしょ? 私の通知受取人ID」
「発言は許可しない、と言ったつもりだが」
……それが、全てだった。
「………そーゆーことらしいよ。
先生は私達通知受取人を管理する機関に属した人間だからね。
私が、この街で暮らせていた地盤を根こそぎ全部奪われたんだよ」
「……そんな、そんなのって……!!」
私がいくら力を持っていたとしても、この屈強そうな男達や宗にいを蹴散らしたとしても、私は……あらゆる意味で無力だったことを痛感させられる。
「……ありがとう、初紀ちゃん。……それと、ごめんなさい」
「………っ」
るいちゃんが耳元で呟く。
そして、立ち塞がっていた私を押しのけて、大人達の立ち並ぶ壁の矢面に立った。
「……さ、神代さん。鮮やかなエスコート、お願いしますね!」
そう言って、これ以上なく清々しい笑みを浮かべるるいちゃん。
何故か、今まで見た中で、一番可愛いと思う笑顔がそこにある。
……どうして、そんな風に笑えるの?
そう訊こうとした出鼻を宗にいが挫く。
「すまないが、野暮用があるんだ。後で行く」
「あははっ、ツレないなぁ。
女心が分かってないのは、相変わらずなんですね。……ちょっとだけ安心しました。
じゃ、行きましょ? オジサマ方?」
「っ、るいちゃんッ!!!」
屈強な男達に囲まれて救急の搬送口に向かうるいちゃんを必死で呼び止めても……彼女は振り向きもしなかった。
……でも。
「―――病院ではお静かに。
私の"友達"だったら、それくらいの常識守ってよね?
じゃ、またね」
―――そう言い残して、彼女は……私の返事を待たずして去っていった。
「………っ」
……私は結局、誰も助けられなかった。
陸は眠り続ければ、待っているのは異性化疾患の発病。
るいちゃんは、通知受取人の資格を剥奪され、生活の基盤を失った。
恐らくは実家に戻されるのだろう。いや、それならまだいい。
もしかしたら懲役刑に処されるかもしれない。
……真っ暗で足掻く力も起きないようなこの感覚は……なんて言えば良いんだろう。
……あぁ、思い出した。
…………"絶望"だった。
私は、涙すら出なくなったその感情の重みに耐えきれず、ピカピカに磨かれた床に崩れ落ちていた―――。
~青色通知12~
最終更新:2009年10月30日 10:38