青色通知13.0&13.1

 ~青色通知13.0(陸の場合)~


 ………なんだ、ここ。

 上も、下も、前も、後ろも、乳白色の霧に包まれた真っ白な世界。
 ……あれ、ちょっと待て。
 俺、前にこういう夢見たような気がする。 そん時は確か―――

「―――よぉ」

 ―――目の前に、俺と同じくらいの背丈の男の声と影。
 ……良かった、また俺が女になっちまって辱めを受けるようなマゾ夢を見てるわけじゃないらしい。
 ……ちなみに、目の前に居る筈なのに影としか言えないのは、この真っ白な霧に視界が遮られて、その男の顔すらも見えないせいだ。
 でも、俺は……その顔すら見えない男を知ってる気がする。

「―――ショボくれた顔しやがって。それでも俺のガキか、あぁっ!?」
「………」

 久方振りに聞く、乱暴で威圧的な巻き舌混じりの懐かしい喋り。それは―――

「………親父」

 一番会いたかった、けれど一番会いたくなかった男がそこに居た。
 夢じゃなくて、俺、死んじまったのか……?

「ケッ、一人前ぶりやがって。なーにが"親父"だ、このクソガキが」
「っ、ンだと――!?」
「―――てめぇでロクにメンテもしねぇバイクに跨って、勝手にすっ転んでる奴なんざ"クソガキ"で十分だって言ってんだ、ボケが」
「っ………」

 ―――悔しいけど、返す言葉もなかった。親父の言うとおりだ。
 あん時はたまたまエアバッグが開いて助かったようなもんで、もし、アレが……るいや初紀を後ろに乗せてた時だったら。
 そう思うと……背筋の震えが止まらない。

「……ま、レース中に転んで御陀仏になった俺が言えた義理じゃねーだろうけどよ」

 そう言って親父の影は、跋が悪そうに頭を掻く。

「……なぁ、親父」
「あン?」

 夢なのか天国なのかは知らないが、折角親父に会えたんだ。
 ……聞きたいことは山ほどあった。けど一番聞きたかったのは、やっぱり――――。



「なんで、あのバイクにエアバッグなんて付けたんだよ? ……"そーいうのは邪魔だ"とかいつも言ってたじゃねぇか」
「―――さぁな」
「っ、なんだよ、それッ!?」
「ンだよ。"てめぇのタメだ"って言えば満足なのか?
 ケッ、バカバカしい。
 お涙頂戴ならヨソでやれや。サブイボが立つっての」
「あぁッ!? こっちは真剣に訊いて―――!」
「―――てめぇはンなこと気にしてる場合かって言ってンだよッ!」
「ぐ……っ!?」

 不意に、掴まれた胸倉。
 吐息が掛かるくらいに近い位置にいるはずの親父の顔が霧に邪魔されて見えない。
 ……見えない筈なのに……何故かその怒りに満ちた表情が感じ取れるような気がした。

「こんなトコで油売ってるヒマがあるんなら、とっととてめぇの大事なオンナんトコに行ってこいッ!
 てめぇがあのジャジャ馬に跨ったのはその為だろーがッ!!」
「――――っ!」

 胸元を掴む手が離れ、親父の影が背中を向く。

「……俺にかーちゃんが居たように、てめぇには、てめぇの大事なヒトが居るんだろ。
 そんなら、いくつ後悔して良いように、今はそいつのタメにガムシャラに突き進めや。
 ……そうするとよ、何でか知ンねぇけど、思ったより後悔しねぇからよ」

 ―――背中越しの柔らかい声が迷っていた俺に道を示してくれている気がした。

「……ったく、死んじまっても出来の悪いガキに説教するたぁな、"親父"ってのもかったるいモンだ」
「親父」
「ンだよ?」
「……ありがとよ」
「……ケッ、感謝してンなら墓前に焼酎でも供えとけっての」

 ……ったく、親父のこのヒネくれた性格は死んでも直らないってお袋が言ってたけど―――どうやら本当らしい。

「……じゃあな、陸」
「―――っ、親父ッ!!?」

 乳白色の霧が、親父の影を包み込んでいく。それに溶け込むように、親父はゆっくりと歩き出した。

「……そうそう、今度会う時は酒でも呑める歳になってろよ?」
「親父ッ! 待ってくれ―――親父ぃッ!!」

 ゆっくりと霧の中へ姿を消していく親父の影を必死で追いかける。
 ガムシャラに走っているはずなのに、その姿は霧に阻まれて小さくなる一方で……。



「―――親父ッ!!!!!」


 ―――心底から叫び、手を伸ばした俺の視界の霧が急に晴れた。
 ……そこに映ったのは、霧と同じ色をした―――真っ白な天井だった。

「………はぁっ、っはぁ……」

 ……今し方まで走っていた余韻なのか、息苦しくて仕方がなかった。
 でも……息苦しい理由は違っていた。
 今の俺は走るところか、天井や霧と同じ真白いベッドに横たわっていたのだから。
 ―――夢、だったのか……?

「気が付いたか」

 男の声がした。その声のする方へ目を向けると、白衣を着た医者らしき妙齢の男と……もう一人居た。

 ……事故現場で俺を看てくれた若い男だ。白衣こそ着ていないが、やっぱ医者だったんだな、この人は。

「それでは、神代さん」
「はい。ご協力、ありがとうございます」

 妙齢の医者は、若い男に一礼するといそいそと部屋から出て行った。
 ……この状況から察するに、俺は案の定病院に担ぎ込まれたんだろうな。
 アタマから出た血の量は大したコトはないと思ってたンだが―――。

「―――数時間振りだな。前田 陸くん」

 思考を遮る若い男の声に、俺は反射的に身体を起こし、頭を下げていた。

「……すいません」
「何がだい?」
「いや……俺のワガママでこんなオオゴトにしちまって」
「……いや。キミを行かせたのは僕の判断だ。責任は僕にある。
 それに―――"今のキミの状況"だったら誰もキミを責められないよ」

 ―――"今の状況"?

「……まさか、キミが"御堂 初紀"と"坂城 るい"の知り合いだったとは」
「っ!?」

 ありえない人間の口からありえない名前が出て来て、俺は目を丸くした。
 なんで……コイツが、初紀とるいを知ってるんだ……!?

「……名刺、やっぱり見て貰えてなかったみたいだな」

 若い男は、目を見開いて言葉を探している俺を後目に軽く溜め息を吐く。

「……自己紹介が遅れた。
 僕は―――神代 宗。
 厚労省直属の"異性化疾患対策委員会"という機関で資料係として働いている」



 若い男の長ったらしい自己紹介に、俺は慌ててポケットに突っ込んだまんまの名刺を取り出す。
 そこには確かに、若い男の言っていた通りの字面が並んでいる。

 ―――神代 宗、か。………先に自己紹介が無かったら読めなかったな、多分。
 ……悪かったな、ゆとりで。

「ん? つーことは、神代……さんは医者じゃないんスか? 俺ぁてっきり―――」
「―――正確に言えば"元"医者だ。医師免許の期限もまだ切れていない。
 一応、僕の所見はこの病院のものと変わり無かったよ。間違いなくキミは大丈夫だ」

 ……なんだ、この妙な感じ。一を訊けば十返ってくる。
 頭の回転が早いヒトなんだろうけど、そのソツの無い受け答えに、微弱ながらも敵意みたいなものを感じる。

「……他に質問は?」
「あ、えっと……そ、そうだ……初紀は!!?」
「家に帰らせた。キミがいつ目覚めるかも分からなかったからな」

 ……まるで、初めから俺の疑問を全て先読みしてるかのような神代さんの即答振りに、二の句が浮かばなくなる。

「……ちなみに、坂城 るいと僕との間に私的な繋がりは無い。僕は彼……いや、彼女の主治医だった。それだけだ」
「………」
「他には何かあるかい?」

 質問を待つのが億劫になったのか、神代さんは俺の言葉を待たずして答えを弾き出す。
 その内容は俺の思う質問に対して寸分の狂いもなく答えていて、気色悪くすら感じられた。

 ―――だからこそ、俺はこの質問を投げ掛けた。

「―――アンタは、俺の敵ッスか? 味方ッスか?」

 見開かれた、若い男の目。……程なくして、彼は心底愉快そうな笑いを堪えながら、口を開く。

「っ、くくっ、随分と突拍子もないコトを言うな、キミは」
「……なんで、医者じゃないアンタが俺なんかを気にするのか?
 ……納得がいかないんですよ。
 たまたま、事故現場に遭遇した赤の他人にわざわざ名刺を渡すなんて……不自然じゃないスか」



 "医者だ"と思い込んでいたから、あの事故現場での彼の行動に合点がいった。でもそうじゃないなら、何故?
 ―――それが、俺に浮かんだ最後の疑問だった。

「くくっ、なるほど。キミは頭の良いバカか」
「な―――っ!?」

 知り合って間もない人間にバカ呼ばわりされるとは思わなかった。
 ……怒りとか、そう言った感情が浮かぶ余裕もなく、俺はただ驚きに目を見開くだけで精一杯で、言葉も出なかった。

「……敵とか味方とか、そんなもの自己と他者との間の感情に縛られた流動的なものだ。
 だから、一概にキミの望む回答をあげられそうにない。
 ただ……僕は、無条件に他人の味方を出来るような、そういった綺麗な人間じゃない」

 不意に笑みが消えた神代さんの無感情な目に……背筋が凍る気がした。

「―――キミに、利用価値があるから近付いただけだ」
「………っ」
「やれやれ。そう身構えられても困る。確かに僕はキミの味方じゃないかもしれない。
 ―――ただ、敵だと言ったつもりもないが」

 ……なんなんだ、コイツは。
 何を考えてンのか、全く見えない。
 さっきまで、小さな敵意みたいなものを感じたような気もするのに、今は―――柔らかな物腰で笑顔を浮かべているだけで、何の感情も見えそうにない。

「―――単刀直入に訊こう。キミはセックスをしたことがあるか?」
「ぶっ!!?」

 単刀直入に訊きすぎだろうがッ!
 つーか、赤の他人から"ヤッたことがあるか"なんて訊かれるなんて、すげぇレアな体験だろうな……いや、体験したくねぇけど。

「無いようだな」
「返事を聞かねぇで勝手に決めンなッ!!」
「では、あるのか?」
「……ねぇよ」
「時間の無駄だな」

 あのさ、今すげぇ目の前の優男をぶん殴りてぇんだけど、良いか? ぶん殴って。



「……んで、それがどーしたンスかッ?」

 ……冷静に考えると、ムキになるのも何だか癪な気がする。だから、そっぽ向いて布団に潜り込もうとした―――が。

「―――結論から言おう。
 キミは異性化疾患に掛かっていない」
「………え?」

 ―――俺は、言葉を失った。

「詳しいことはキミの身体を調べてみなければ分からない、が、キミには突発性、普遍性、若年性―――ありとあらゆる異性化疾患の潜伏症状や兆候が見られない。
 つまり、だ。
 キミは女性になる危険性がほぼゼロだと言っていい。極めて希少な献体の持ち主なんだろうな」

 ……小難しいコトを言ってっけど要するに俺は、ほぼ女にはならない身体らしい。なるほどな。

 ………って、オイオイオイッ!!?

「ンなバカなッ!!?」
「何がバカなんだろうか?」
「それなら、どーして俺に青色通知が来るんだよッ!?」
「それに関してはこちらの不手際だ。申し訳ない。
 まだ、"委員会"が全てを統括管理してる訳ではないからな」
「………っ」

「嬉しくないのか? 尊厳は守られたまま、自らの性別を享受することが出来るのに?」

 男で居られるってコトが嬉しくない、そう言えば嘘になっちまう。……けど。

「……俺が、初紀やるいと一緒にこの数日ずっと悩んでたことは何だったんだよ……?」
「……杞憂だったとしか言えないな」

 ―――ッ!

「てめぇに何が分かるンだよッ、あぁっ!!?」

 ……すべてを否定された気分だった。俺だけじゃない。初紀も、るいも、まとめて否定された気分だった。
 それだけが我慢できなくて、俺はベッドから跳ね起きて、目の前の男の胸倉に掴み掛かっていた。

 ……この男―――神代さんのせいじゃない。そんなコトは、分かっている筈なのに、自分で自分が止められなかった。






  ~青色通知13.1(神代の場合)~


 ―――僕にも、こんな若々しい頃があったな。

 そんなことを血相を変えて僕の胸倉に掴み掛かってきた少年を見て、思い返し苦笑する。

「キミの考えてることなど、僕の知ったコトじゃないな」

 流石に襟元が鬱陶しくなってきて、僕は彼の両手を左手で振り払う。

「ッ、てめぇ―――っ!!」

 体勢を崩すと同時に振りかぶられる少年の右拳―――は僕の顔面の真横を通り過ぎる。
 歓楽街を闊歩する格好ばかりの素人よりは筋が良いように思える。
 ……が、やはり遅い。今の合間に三発は拳を放り込める自信がある。

「な――っ!?」

 無防備に放り出された彼の右拳を、手のひらで捕まえて握り潰す。
 一応、外傷が残らない程度に、だが、反撃をされない程度の痛みを与えるくらいの力を込めながら。

「ッぐぅっ!?」
「甘く見ないで欲しい。僕はこれでも"はつ"の兄弟子だ。その気になれば――――――君の手を砕くことも造作もない」

 ……手ツボのリアクションから見るからして……ふむ、どうやら、陸くんは胃腸が弱いらしい。
 僕が主治医なら胃薬を処方してあげようかと思うが、素直に服用してくれるとは思えない。
 勿論、彼の拳を握り砕くつもりもなければ、そんな無茶をする若さも僕にはない。だが―――

「……だから、なんだよ? てめぇの言いなりになれってのかよっ、あぁっ!!?」

 ―――多少の老いを実感させるような若々しく、猛々しい陸くんの眼光が突き刺さる。
 油断してると噛み付かれそうだ。まるでサバンナで肉食獣とにらめっこしているような錯覚を覚える。
 ……が、相手は人間だ。一応の説得は試みる。

「喧嘩なら相手を見てから売れと言っているだけだよ。痛い目を見るだけだと思うが?」
「ッ、ご忠告ありがとよ……神代さんよぉッ!!!」
「――――ッ!?」

 頭突きッ!?

 説得の甲斐もなく気勢を上げて突貫してくる、包帯を巻かれたまだらめの茶髪。
 慌てて陸くんの拳から手を離し、身を退こうとしたが間に合わない、かッ?!



「……くッ」

 頬に熱を帯びた痛みが走る。掠めただけとはいえ……油断したか。
 ……やれやれ、その速度での頭突きが僕に直撃していたら、事故で縫合した傷口が開くとか考えないのか? そんな出血大サービスとか要らないぞ、僕は。

 ―――頭突きの勢いで項垂れたまま、彼は動かない。
 客観的な事実を端的に述べただけ、そう思っていたが、どうやら僕は地雷を踏んでしまっていたらしい。

「……初紀やるいがしてくれたことを、まとめて全否定されて……黙ってられるかよ」

 ……俯いたまま、陸くん震えた声で呟く。
 自分のプライドが傷つけられたせいで堪忍袋の緒が切れたワケではないのか。
 なるほど、彼は自分より他人のためにチカラを発揮するタイプなのか。
 ……だとしたら少々、軽率な発言だったのかもしれないな。

「それは申し訳ない。……訂正する、すまなかった」

 僕は頭を下げた。
 抵抗もなく頭を下げた僕の姿が、陸くんにとってはそんなにも意外だったのか、陸くんは上がりきった怒りのボルテージの捌け口に困ったように目を逸らす。

「っ……バカにしたり、謝ったり、アンタが何を考えてるのか、俺にはわかんねぇよっ」
「僕にはキミの方が分からないがな」
「……遠回しにバカにしてンだろ、それ」
「いや、そんなつもりはない」
「じゃあ、どんなつもりだっつのッ」
「キミの機嫌を取るつもりも、機嫌を損ねるつもりもないだけだ」
「……チッ」

 珍妙な押し問答が、少年の舌打ちで止まる。
 ……漸く、陸くんの頭の血が下がりきったらしい。
 少し話を本題に入るのが遅れたが、今なら何とかなりそうだ―――

「―――閑話休題だ」
「……」

 ―――そう思ったのだが、彼は俯いたまま答えようとしない。

「どうした?」
「前に初紀も言ってたけどよ」
「……あぁ」

 ……なんとなくだか、空気が重い。陸くんは何を言いたいんだ?

「―――"閑話休題"って、なんだ?」

 ……至って真面目な陸くんの発言に全身のチカラが抜けた気がして、思わず僕は目頭を押さえる。

「……辞書を引くことをお勧めする」
「………悪かったな、ゆとりで」
「周囲環境の所為にするのは戴けないな」
「……そーなのかもな」



 ―――――――
 ―――――
 ―――

「さて。本題に移ろうか。」

 病院着から学生服に着替えながら、そっぽを向いている陸くんに、僕は強い語気で話し掛ける。
 声は確かに届いているはずなのだが、彼からの返事はない。

「陸くん……聞いているのか?」
「………」

 ……やれやれ。どうも僕は同性に嫌われる性質らしい。
 異性を惹きつけるものとは真逆のフェロモンでも出しているのか僕は?

「……アンタが俺に言ったことをそのまま返すよ。
 俺はアンタの考えてることなんざ知ったこっちゃねぇンだよ」
「その通りだな。
 だが―――キミには、僕に協力しなければならない絶対的な理由がある」
「……どーいうこった」

 怪訝そうに睨みを利かせる彼を短時間で懐柔することは、恐らく無理だろう。
 ―――なら。

「"坂城 るい"。彼女の身柄を僕らが預かっている」
「ッ!!?」

 ―――彼の最大の弱点を突くまでだ。

「先程、名刺を渡しだろう。
 僕は"異性化疾患対策委員会"の人間―――つまり、坂城 るいを含む全通知受取人を監視、管理する立場にある。
 彼女は未成年であるにも拘わらず"通知受取人"の恩恵に与っていたのだから、除籍と起訴の理由には十分だろう?」
「っ」
「それに、"はつ"―――"御堂 初紀"に関しても同罪だ。
 彼女は結果的には"未遂"だから厳重注意に留まるが、この件に関しては学校に報告が行く。
 これから将来を決める大事な時期に差し当たって、打撃にならないとは言えないだろうな?」
「っ!」
 それに、キミを無免許運転の現行犯で警察に突き出すことも出来るということを忘れるな?
 ……さぁ、後はキミの返答次第だ」
「………ッ!!」

 最早ぐうの音も出ないか。代わりに陸くんの口角からは、血が流れ出るほどの強い歯軋りが聞こえてくる。ギリギリ、ギリギリと。
 ……彼も生傷の絶えない男だな。



「……アンタ、それでも人間かよッ!!?」
「―――関係ないな。
 民意を反映させ、大多数の人間で取り決めたルールを、簡単に無視する者を庇う道理が何処にある?」

 冷酷と言われようが、こうでもしなかれば彼は意固地になって話に耳を傾けはしないだろう。
 ……多少強引な方法ではあるかもしれないが、致し方ない。

「……アンタは他のオトナよりは、ちったぁ話せると思ったけど―――……見込み違いだったみてぇだな」
「それはどうも」

 失望したと言わんばかりの若い眼差しが向けられる。
 そして、心なしかその苦々しい眼差しは、同時に自身の無力さを恥じているようにも見受けられた。

「……人を傷付けたり、誰かから何かをパクったりした訳でもってねぇのに、ただ"ガキだった"って理由だけで―――アンタら大人が勝手に決めたルールに縛られなきゃなんねぇのかよっ!!?」
「そうだ」

 少年の悲痛な物言いを僕は一言で肯定する。紛れもない事実だからだ。
 その理不尽さに他の誰もが目を瞑り、口を紡ぎ、耳を塞ぐ。
 反吐が出そうな理不尽。それこそ、大人の決めたルールだから。

「だがキミには、キミの大事な友人を救えるチャンスがある。僕はその協力をしようと言っているんだ」
「………はっ。
 "委員会"だか何だか知らねーけど、たかだか資料係のアンタに何が出来るっつーんだよ」

 名刺を見ながら、彼はベッドに腰掛けて僕を見やる。
 ……そうか、彼には僕の家柄のことを話していなかったな。だが、そういう事情には疎そうな彼にはどう言ったものだろうか――――。

 ―――そうだ。



「―――"群青の蝸牛"という本を知っているか。
 坂城 るいと馴染みのある"有島 美春"という元・通知受取人が書いた暴露本だ」
「っ!?」

 陸くんがあからさまな反応を示した。……なるほど。彼も通知受取人や異性化疾患に興味がゼロ、という訳ではないらしい。

「―――筆者は一応彼女となっているが、あれを書くように指示したのは僕だ」
「っ、アンタが……ハルさんに?!」

 ―――ハルさん? その呼び方は坂城 るい特有のものだ。だとしたら、彼も有島 美春を少なからず知っているというコトか。
 ……それなら話は早い。

「そうだ。
 なんでも、自殺を図って昏睡状態だった恋人が目を覚ましたとか言っていたな。
 それで、"どうにかして通知受取人を辞められないか"という相談を彼女から持ち掛けられてな。

 ―――そこで僕は彼女と取引をした。

 "僕が通知受取人を辞める算段を立てる代わりに、キミが知る限りの―――通知受取人の問題点を列挙した本を書いて欲しい"とね」
「………」

 陸くんは、再び訝しげに僕を見やる。僕自身を値踏みするような目で。
 ……やれやれ、坂城さんの言った通り、僕の風貌は、第三者から見ればまだまだ頼りなく見えるのかもしれないな。
 心中でボヤきつつ、僕は話を進める。

「……当時、医師だった僕にはそれが可能だった、と言うべきだろう。
 通知受取人のシステムは機密性の保持を優先するために、実名を含む個人情報を伏せた上での、面接と簡単な性病検診によって行われるのは知っているかい?」
「……あぁ」

 ……元来、未成年はなれない筈の通知受取人に坂城さんがなれたのは、この不透明な採用システムのせいでもあるが、そこは割愛しよう。また話が拗れかねない。

「一応、通知受取人は採用時に顔写真を撮影する決まりがある。理由は至極単純に2つ。

 ―――1つ、通知受取人の賞与である"選択権給付"を受給する際にIDナンバーとPCに登録された顔写真での照合を以て本人確認をするため。

 ―――2つ、通知受取人が失踪した際に警察に届けを出して捜索してもらうため。

 ……だが、そこに穴がある」


「穴?」
「"死亡"が確認されてしまえば、通知受取人のIDも顔写真も抹消されてしまうという穴だ」
「……まさかっ!?」

 少しずつだが、漸く彼にも話の終着点が見えてきたようだ。

「そう、僕が有島 美春―――いや、有島 美春のIDナンバーを持つ人間の死亡報告書類を偽造したんだ。
 当時働いていた病院に担ぎ込まれた、交通事故で顔の潰れた遺体にIDを握らせてな」

 勿論、越権行為だし違法行為だが、そこに噛み付く余裕すら今の陸くんには無いらしい。。

「……そんなの、詳しく遺体を調べられたら一発でハルさんじゃねぇって、バレちまうじゃねぇかっ!」
「誰に?」
「その、親族の人とか、警察とか……」
「だからどうした?」
「はぁっ!?」

 オクターブ上の素っ頓狂な声に、僕は気付く。
 彼との間に、決定的な論点のズレがあることを。

「……僕が死亡報告書を提出したのは役場の通知受取人管理事務だ。警察や、遺族、戸籍管理には何も連絡が行っていない。
 最初に言っただろう? 役場に登録されている情報は、顔写真入りのIDナンバーだけだ。誰であっても例外はない。
 それは坂城 るい然り、有島 美春然りだ。
 つまり、"第三者"によって通知受取人の死亡が確認されれば―――死亡届を出さずして、通知受取人IDナンバーを抹消することが出来る」
「……その"第三者"が、神代サン。アンタって訳か?」
「そうだ」

 どうやら、長ったらしい説明の甲斐もあったようだ。漸く彼も理解してくれたらしい。ただ、理解しただけで納得してくれた訳ではないらしく―――

「―――なんでハルさんに協力した?」

 静かな彼の言葉の端々と眼から、怒気が滲み出ている。
 だが、今度は言葉を取り消すつもりはない。

「言った筈だ。僕は、他人のために動けるような博愛精神は持ち合わせていないと。
 僕は自らの利益の為に有島 美春を利用した。それだけだ」

 歯に衣着せない僕の物言いが不満なのか、陸くんは再び僕の胸倉に掴み掛かってくる。

「てめぇら二人の勝手な都合で……どれだけるいを苦しめたって分かって言ってンのかよッ!!」


 ―――その、一見正論のように聞こえる怒号が、僕には我慢できなかった。

「……なら、キミはどうだ。前田 陸」
「ぐっ!?」

 僕が、本気で力に訴える真似をしないと踏んでいたのか……彼は目を見開く。
 気付けば、僕は彼と同じように襟元に掴み掛かっていた。

「……自分の都合で違法に通知受取人になり、それを他人に押し付けようとした坂城 るいも、
 自分の都合で、自らが不注意で引き起こした事故現場から逃走したキミも―――同じ穴の狢(ムジナ)だと自覚して言っているのか?」
「っ、て……めぇっ!?」

 努めて平静を装った口調には、あまりにそぐわない程の力で、僕の右手が彼の襟元を締め上げる。

「そのせいで、"はつ"は……御堂 初紀は悩み苦しんだか、キミには分かるのか?」

 ―――ぎり。

「ぁ……がっ!」
「彼奴を苦しめたのは何処の誰だ?」

 ―――ぎりぎり。

「っぐ、ぅ……っ!」
「……烏滸がましいにも程があるッ!」

 少年のカラダが宙を舞い、引力に任せて光沢のあるアイボリー色の床に背中から叩きつけられる。
 僕が、彼をカラダごと振り払ったからだ。

 ―――そこで、我に返る。

 僕は……この前田 陸という少年に対して怒りを抱いていたのか。
 ……一体、どうして?

「っ、はぁっ、……ぅ…はぁ…」

 目の前の出来事に、僕の自問自答は直ぐに霧散した。
 肩で必死に上下させ床に突っ伏して呻く少年の荒い息遣いが、僕の肝を秒速単位で冷やしていくような気さえする……。

「―――……ぅっ!」
「す、すまないっ、大丈夫かっ!?」

 自分でしでかしたことなのに、"大丈夫か"も無いし、今更、どう言葉を取り繕っても遅いだろう。
 だが、自分を律する事が出来ない歳でもない僕がしてしまったことを、素直に彼に謝罪したかった。
 あまりに子供じみた自己満足な考えだと自覚していたとしても、だ。

「っ、はぁ、はぁ……」

 ……本当にどうかしていたとしか言いようがない。素人の子供相手に僕は何を熱くなっていたんだ……?



 ……そこで、不意に何かが脳裏を過ぎる。

 ―――坂城さんの部屋で半裸で気絶していた陸くんと、着衣の乱れた姿で必死に彼の肩を揺さぶっていた―――"はつ"の姿。
 ……なんだ、これは?
 なんでこんなことを今更思い出す?

「……っ、はぁ、……っ、わぁ……った、よ」

 荒い息混じりの言葉が、再び僕を現実に引き戻す。

「……神代サン、アンタに……っ、協力、するよ」
「……………。は?」

 僕は思わず言葉を失った。漸く絞り出せた声はオクターブ上のたったの一文字。

「っ……ふぅぅ……。
 ……勘違いすんな、アンタを完全に信用した訳じゃねぇし、アンタのしてきたコトを認めるつもりもねぇよ。
 ……けどよ―――」

  口元の血を手で拭い、息を整えながら少年は立ち上がり、真っ直ぐな目で僕を見つめてくる。

「―――アンタが、マジで初紀を想ってくれてることは分かった。
 ……さっきの初紀のくだりもウソなんだろ?」
「っ……!」
「……そーいう顔が出来るアンタなら、信用してもいい」

 そういう顔って、どういう顔だ?
 今し方、僕に理不尽な暴力を受けたにも拘わらず、先程までありありと感じ取れた敵意も警戒心も霧散しているように見えるのは気のせいだろうか。

「……協力、してくれるのか?」
「そう言ってるじゃねーか」

 念押しに訊く。返ってくるのは不機嫌そうな肯定。
 正直に言えば……彼の行動は理解に苦しむ。僕はただ、感情に任せて暴れただけに過ぎないのに。

「んで、何をどう協力すりゃいいんだよ?」
「―――その前に訊いておきたい」

 本当ならば、本人が乗り気な内に話を進めるべき場面だった筈なのだが……気付くと口が動いていた。

「……なんスか? まさか―――」
「―――約束は守る。二人のことも、キミの事故のことも、話を着けておく。
 だが―――」

 こんなことを言ったところで、また話が拗れるだけだろう。
 やめておけ。理性はそう言う。
 でも――――。

「―――坂城 るいには少なくとも数年は会えないと思ってくれ」
「っ!?」


 ……あまりにも真っ直ぐに、僕に向かい合う彼を蔑ろにはしたくない。してはいけない。
 先程まで彼を利用することばかり考えていた筈なのに、そんな思いに駆られるのは何故だろう。
 気が付くと僕の口は、僕の自問自答を余所に……少年に語り始めていた。

「先程、役場に問い合わせて分かった事だ、彼女……坂城 るいの両親は今、海外に住んでいる」
「……つーことは……」
「そうだ……キミの協力が得られたとすれば、司法取引として確かに彼女の起訴は免れる。
 だが、国が未成年を通知受取人として働かせられる道理が無い。
 ………そして、坂城 るいがこの街で暮らして居られたのは通知受取人としての住居や収入の恩恵があったからだ。
 今回の一件で、それが一遍に無くなる。
 つまり、だ。
 もし坂城 るいの起訴が無くなったとしても―――海外に居る両親に引き渡されてしまう。……どちらにしても、残された選択肢は別離しかないんだ。
 ……すまない、力不足で――」
「そこまで都合良くなんて神代サンに期待しねぇよ」

 矢継ぎ早に飛び出していた言葉が、尻切れ蜻蛉になりかけたその時、予想に反して落ち着いた陸くんの声がする。
 だが、その声のトーンはどこまでも低く、重苦しいものだった。

「ガキが金貰って、好きでもねぇ男に抱かれるっつーことが間違ってるって……それくらいバカな俺でも、分かるっつの」
「……それでも、僕に協力してくれるのか?」

 念を押して僕は問う。
 ……しばらくの無言の後に、返ってきたのは―――。

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最終更新:2009年10月30日 10:46
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