~青色通知15.0(最後のるいの場合)~
一人暮らし用の安物の家具を黙々と運んでいく引っ越し業者のお兄さん達を後目に、私はがらんどうになった部屋に立ち尽くしていた。
―――今日で、この部屋ともお別れか。
いくら階段の傾斜が急でも、日の当たりが良くなくても、私が暮らしていた場所だ。
ちょっとくらいセンチメンタルな気分になったっていいでしょ?
例え、思い出の多くが遠回りだったとしても、それが私の歩んできた道なら尚更。
さようなら、通知受取人だった私。
さようなら、大好きだったあなた。
……なんてね。
「―――すみません、一応全部運び終えました」
ちょっとだけ詩的な感傷に浸っていた私を現実に引き戻す引っ越し業者の声。
……少しは空気を読んで欲しい。っていうのは無理な注文なのかなぁ?
「あ、じゃあ出発しちゃって下さい」
「はいっ、失礼しますっ」
帽子を脱ぎながら深々と頭を下げた後に、屈強そうなお兄さん達は小走りにマンションから去っていく。
「……ふぅ」
がらんどうの部屋に取り残された私は思わず溜め息を吐きながら、イヤホンで耳を塞ぐ。ランダム再生で流れてきたのはお気に入りのピアノバラードだった。
「お疲れ様でした、私」
何となく感慨が深くなって、私は思わず呟いていた。
……だって、間違った道を歩んできた私に労いの言葉を掛けてくれる人なんて居ないし。
だから、自分で自分に言葉の飴玉をあげるくらい許してほしいな。うん。
携帯の時計に目をやると、そろそろ11時を回る頃だった。……今頃、二人は学校かな?
完全に――とは言えないけど、蟠りが溶けだした初紀ちゃんと陸なら……きっと仲良く出来る。
……奥手な二人のことだから、なんか見ていて微笑ましいカップルになりそうだね。
手を繋ぐだけで顔面から湯気とか出てそう。特に陸はそっち方面に弱そうだし。
「……ふふっ」
タコみたいに真っ赤に茹で上がった顔の陸を想像してしまって、思わず笑ってしまう。
……唯一残念なのは、そんな陸や初紀ちゃんの姿を見られないってこと、かな。
人の縁なんて時間と共に薄れていくものだし、私なんて……数日しか一緒に居なかった子のことなんて、きっと忘れられちゃうし。
それだけが、少しだけ残念。
少しだよ、うん……少し。
「……ぐすっ」
寂しくなんてない。
ハルさんと離れてから今まで、ずーっと一人だったんだから、すぐ慣れる。大丈夫だよ。
「……っく、ひっく」
なのに。
「ふ……、ぇ……っ」
なんで、涙が止まんないかなぁ……。
「―――すまない、遅くなった」
「っ!?」
背後からの跋の悪そうな声。
弾かれたバネみたいに振り返った視線の先には、私の主治医であった男性が頭を掻いている姿があった。
「せ、先生っ!? ぐすっ、来てたんなら呼び鈴ぐらい鳴らしてくださいよっ!!」
「一応、鳴らしたのだが……返事がなかったから、勝手に上がらせて貰ったよ」
私の首もとにぶら下がっているイヤホンを指差しながら、先生は取り繕った笑顔で言う。……相変わらず底意地の見えない人だな。
「とりあえず、涙を拭いてくれ」
「……泣いてません」
「僕が誤解を受ける」
「泣・い・て・ま・せ・んっ」
「分かっているさ。花粉症だったんだろう? 今は杉花粉がよく飛ぶ時節だし、荷物の運び出しの際にで埃も舞ったと思うから仕方がないよ」
「……ぐすっ、よく覚えてますね」
「一応は君の主治医だった人間だからね」
仕方なしに私は差し出されたハンカチを受け取る。
流石に神代家のお坊ちゃんだけあってか、手に取ったハンカチの肌触りも抜群に良い。
……涙を拭うついでに鼻でもかんでしまおうかとも思ったけど、それはなんだか子供っぽくて嫌だから止めた。
「落ち着いたかい?」
「……最初っから落ち着いてますよーだ」
「そうだったな。じゃあ、行くかい?」
しばしの静寂の後に―――私は頷いた。
私の手荷物が入った小型のスーツケースを抱えた神代先生の後を追うように、階段を一歩一歩……踏み締めるように、噛みしめるように、降りていく。もう、登ることはないだろう傾斜のキツい階段を。
出口が見えてきた―――
「僕を恨んでいるかい?」
―――と、同時に掛けられる声。
ホント、先生ってば空気読みませんよね。天然なのか敢えてなのかはこの際置いといて。
「本気で恨んでるなら刺し違える覚悟で包丁握ってるか、"陵辱されたー"って世間に言い触らしてますよ?」
「命の抹殺か社会的抹殺かの二者択一か……それは恐ろしい」
「あははっ、こーんな可愛い子だったらみんな信じてくれますし?」
「否定はしないが、自分で言うと価値が下がると思うが」
「くすっ、そんなコト、本気で思ってるなら恋愛で二連敗なんて喫しませんよーだ」
『恨んでないか』と問われたら、首を縦にも横にも触れない私が居て、笑って誤魔化すしか出来なかった。
……気持ちの整理をつけるには、まだまだ時間が必要なのかもね。うん。そういうお年頃だもん。
―――外に出たら、空っ風と照りつける太陽が私達を出迎えてくれた。
水気を失った落葉が、どこか知らない場所へと消えていく様を、どことなく自分に重ね合わせてしまう。
「さぁ、乗って。あまり時間に余裕がない」
そう手招きする神代先生の横には、意外にも銀色の小さな国産車が停車していた。
これ、先生の私用車……なのかな? それにしてはちょっと安いような気もしなくもない。
「僕が自分の給料で初めて買った愛車だよ。可愛らしいだろう?」
確かに、可愛らしい。
……訊いてもいないのに、その小さな車を得意気に自慢してくる先生が。
意外とこの人って可愛らしい人なのかも。
「じゃ、その可愛らしい車で―――今度こそ……エスコートをお願いしますねっ」
乗り込んだ助手席の車窓から、少し背の低いマンションを見上げる。
その上には、私の新しい門出を祝うみたいに、澄み切った高い高い空が広がっていた。
自分勝手で自己満足に、どこまでも透き通る青。私はそれを黙って睨みつけることしか出来なかった。
―――平日昼間の高速道路なんて初めて乗ったけど、なんともまぁスムーズに流れること。
小さい頃に、形ばっかりの家族サービスで海水浴に行った時なんかはちっとも流れもしなかったくせに。
……こういう時だけは目的地に着くのが早いなんて。時間って不公平だよ。
最近普及率を伸ばしているらしいETCを積んだ先生の愛車は、サービスエリアでのトイレ休憩を差し引いても、平坦な口調でアナウンスされたカーナビの予定時刻よりも20分以上早く着いてしまった。
立体駐車場からエレベーターで下りて、ただひたすらに長いアスファルトの道を真っ直ぐに歩けば……もう、そこはゴール地点―――ううん、スタート地点って言った方が正しいかな。
兎に角、旅人が慌ただしく行き交う拠点に辿り着く。
「………」
なんだか、不思議な気分だった。
慌ただしい人の流れ。
目的地も、飛び立つ目的も、人種さえも違う人達が、こんなにも同じ場所に集まっていることに違和感を覚えたからかもしれない。
こんなにも沢山の人達が居る筈のざわめいた空間で、私は独りぼっちになったような気さえする。
「……どうしたんだい? 気分が悪いか?」
「体調は、平気です。ただ―――」
「ただ?」
「………私、やっぱり寂しかったんだなぁって、今更実感しちゃって。っ、えへへ……おかしいですよねっ」
今度は笑うしかなかった。自分で自分を嘲笑うだけしか出来なくて、涙も出なくて。
人間、"ここぞ"って時には笑うか泣くしか出来ないって何か聞いたけど、どうやら、それはあながち間違いでもないらしい。
「僕は人の傷や病を癒やす術を学んだ。
けれどキミの気持ちを完全に理解することは出来ないよ。僕は坂城さんじゃないし、坂城さんは僕じゃない。
だから僕はキミを笑わないし、励ましもしない」
「……ぷっ、あはははっ!」
何だか、失礼だとわかっていても、何だか微妙にズレてる論点を真面目に話している先生に笑ってしまう。
「先生らしい返事ですね。安心しました。もし中途半端に同情なんかしたら、平手打ちが飛んでますよ?」
「……そんな清々しい笑顔で物騒なことを言わないで欲しい」
―――冗句を交えながら、私は先生と色んなコトを話した。
初めて陸や初紀ちゃんと会ったときの事とか、………ハルさんの事とか。
……最初に先生と出会った時、こんな風に先生と打ち解けられていれば、少しは違った未来を歩めていたのかな?
歩まなかった未来への展望。
……でも、私は……。
……私は。
「……先生?」
「うん?」
待合い用の長いソファに腰掛けていた先生の前に立って、私は深々と頭を下げた。
「……ごめんなさい。
私がちゃんと青色通知を受けていたらこんなトラブルにならなくて済んだんですよね」
許して貰おうなんて思ってない。だから、私は頭を上げて先生に向き直る。
「―――でもね。
私は、今の私が一番好き。
だから、後悔してないよ。
遠回りだけど、初めてそう心から思えた。様々なカタチで私と向き合ってくれた人に、出会えたから。
ハルさんだけじゃない。
陸や、初紀ちゃん。
もちろん神代先生もです。
ホントに、……ありがとう」
私は、独りぼっちの舞台に立って、たった一人の観客に、自分のありのままの思いを吐露した気分だった。
―――暫くの沈黙を、雑然とした騒音が埋めていく。
「……荒療治もここまで上手くいくと気味が悪いな」
「えっ?」
あれ? 私……今、結構イイ事言ったよね。むしろ涙腺にグッと来るような感動的なコト言ったよね?
……なのに、何この反応。
「……っ、話は後だ。13番の搭乗口に行くと良い。ここを壁沿いに真っ直ぐ行った先だ」
「え、あ、な、何が、ですか……?」
「早くっ!!」
「ひゃっ、はいぃっ!!」
物凄い剣幕で急かされて、私は弾かれたピンボールの如く走り出していた。
13番搭乗口、13番搭乗口……。
……あれ。でも私、先生からチケット貰ってたっけ……?
「「―――あっ」」
目的の搭乗口の看板を見つけた視線を降ろした先に、私の見知った人の姿が目に映る。
それは、お互いの姿を認めた瞬間でもあったらしく、口形が全くおんなじになっていた。
大好きだった人が、鉄柵の向こう側に居る。
でも、どうして……?! どうして、あの人がロス行きの飛行機の搭乗口なんかに……?
『―――だから、その人と同性婚が認められる国に行って……結婚するつもり』
―――あ……っ!?
陸に連れ出されて天海市に行った時の一幕が脳裏をよぎる。
……そっか。
他にどんな目的があったのかは分からない。けど……今なら委員会に属した身でありながら、暴露本を書いた理由だけなら説明出来る。
―――あの人は初めから、委員会を辞めるつもりだったんだ。
「………」
私の姿がしっかり見えているはずなのに、背を向けるあの人。
ちょっと前までなら裏切りとしか思えなかったあの人の気持ちが……ぼんやりと見えてくる気がした。
だって、あの人は……私なんかより、ずーっと意地っ張りだから。
"逃がした魚"の後悔ばっかりが積み重なって。それを悔やむ自分が誰よりも許せなくて。
……許されたくなくて。
矛盾した気持ちのせめぎ合いに押し潰されたくなくて、逃げ出すしか道を知らないから。
―――なら、その頑なな心を開くには、どうすればいい?
―――決まってる……!!
大切な人が、私に教えてくれたじゃないか。
理屈なんかじゃない。
今の私の気持ちに素直に従えばいい。
私が、そうしたいんだ。
……ただ、私はアナタが大好きだったから、そうしたいんだっ!
さぁ、大きく息を吸い込んで―――
―――届かせるんだ。
「ハルさぁぁーーーんっ!!!!!」
喉や腹筋が引きちぎれるくらいに、遠くで鳴り響く飛行機のエンジン音なんか吹き飛ばす勢いで叫ぶ。
まだまだ成長途中の身体に精一杯に響かせて。
カラダの痛みなんか知るもんか。
私の知らない誰かに見られていたって知るもんか!
だって、今、この瞬間! 私の声の、想いの届く場所にアナタが居るんだから!
振り向かなくてもいい、アナタはそこから、私の声を聞いてくれればいいっ!
「―――ご結婚、おめでとうございますッ! どうか、どうか末永くお幸せにっ!! 私は……坂城 るいは、アナタの……有島 美春さんの幸福を……心から祈っていますっ!!!」
私から、愛する人へと旅立つ大好きだったアナタへの―――精一杯の祝詞。
だって、大好きだったんだもの、一緒に恥ずかしい思いをするくらい大目に見て欲しい。
返事は要らないよ、だから。
―――私のことを、罪としてではなく、大切な思い出として……アナタの胸に刻ませて下さい。
「……………あ」
祈るように瞼を閉じようとした先で何かが動いた。……ううん、違う。何かじゃない。
―――ハルさんだ。
鉄柵の向こう側のあの人が、高々と手を上げながら振り返っていたんだ。
ここからでも分かるくらいの、ウサギみたいな目から、大粒の雫をポロポロと零しながら。
「―――約束するよっ! 絶対に幸せになるからねっ!! いつか……、っく、いつか、誰もが羨むような二人になるっ!!
それと……ひっく、ありがとう……それに……ごめんなさいっ!」
―――あぁ、やっと、だ。
やっと聴けたんだ、私………うぅん、"ボク"は。
アナタの気持ちは"ボク"に伝わったよ。
だから、"ボク"も精一杯の叱咤激励で、アナタを送り出す。
「絶対……絶対幸せになってくださいねっ!! じゃないと、……ぐすっ、ぜったいに……許さないんだからぁっ!!!!」
大好きだった人が投げかけてくれた正直な気持ちが、嬉しくて寂しくて。
言葉に出来ない気持ちが胸の奥でぐるぐると渦巻いて、目が熱を帯びて、喉の奥が渇いてくる。
……ありがとう。
「―――"また"ね、ハルさん」
今度は決してハルさんに届くことはない声量で呟いていた。
多分、これは、自分に言い聞かせる言葉。
"最後"なんかじゃない。"最後"になんかさせないよ。
……ほら。"私"って、欲張りだから。
アナタとの縁をこんな所で途切れさせるもんか。絶対に。
長い長い飛行機への通路を歩むにつれて、次第に小さくなるハルさんの背中を、私はいつまでも見つめていた。
「―――年月が掘り進めた溝を、人は些細な切欠だけで乗り越えられるものか」
いつの間にか私の背後には、このお別れを演出した仕掛け人が立っている。
……まったく。話が拗れたらどうするつもりだったんだろう? ねぇ、先生?
「……使うかい?」
「……」
私は、先生から差し出されたブランド物のハンカチを受け取る。
そして、目頭を拭った後で―――
「な―――なにをするっ!!?」
―――思い切り鼻をかんでやった。
「……ぐすっ、これで、おあいこですよ。
いがみ合いなしっ、後腐れなしっ!」
子供っぽくたって気にしない。それが、私なんだから。
慌てふためく先生を見られて満足したし。
なんだか、もう吹っ切れちゃったし。
いつまでも過ぎたこと引きずってると、イイ女になれないらしいし?
「あ。……ねぇ、せんせ?」
「……なんだろうか?」
ブランド物のハンカチで鼻をかまれたことに納得がいかないのか、先生は小難しい顔をしながら返事をした。
「―――すっかり忘れてました。
これ。お返ししますね。……もう必要ないですから」
本来なら、この紙切れは性別選択権の行使を行わなかった場合―――女性になった、という記録を戸籍に記入するための証拠として返却が義務付けられている。
でも、返却をしなくても戸籍に記帳さえしていれば特に問題はないし、処罰も適用されない。
だから、大抵はゴミ箱行きになるのだとか。
でも―――この紙切れを、陸みたいに破り捨てる勇気も、他の誰かみたいに受け入れる勇気も持てなかった。
そんな宙ぶらりんな自分との決別する意志を、決意の表れを、しっかりと見届けてほしくて。
スーツケースの中から"坂城 塁"と宛名書きされた青色の封書を取り出して……先生に差し出した。
「……確かに、承った」
先生は、受け取った青の封書と鼻水にまみれたハンカチを、ジャケットの内ポケットに仕舞う。
……私が言えた義理じゃないけど、汚くないのかなぁ?
「……さ、私もそろそろ行きましょうか、先生」
私は腹を括って、先生に再びからっぽの掌を差し出した。
……が。
「……? その手は、なんだろうか?」
……え? この期に及んで先生は何をすっとぼけた事を言ってるのだろう?
「いや、だからチケットですよ。チ・ケ・ッ・ト!
飛行機の無銭乗車なんて聞いたことありませんよ!」
「……あぁ、そうだったな。その事なんだが」
先生らしからぬ歯切れのよろしくない言葉。
「……なんですか?」
「坂城さん、君は……
――――」
「………。はい?」
言ってる意味が分からなかった。
理路整然としてる筈の先生が、何を言ってるのだろう?
新たな門出にはお誂え向きの、抜けるような青空を打ち壊すかのような、ひとことだった。
~青色通知15.1(最後の初紀の場合)~
36.3℃。
電子体温計に表記された数値を見て、母さんがこくりと頷いた。
内心で、胸をなで下ろす。
モンスターペアレント、とはちょっと違うけど……母さんの許諾を得ずに無理に学校に行こうものなら……ううっ、違う意味で悪寒が走るよ。
―――定期試験も近い今日この頃。
タダでさえ、ここ数週間でかなりの欠席を重ねてるのに、これ以上家で悠長に寝てる訳にもいかないよ。
……それに。うん。
今日は、学校に行かなきゃいけないんだ。絶対に。
「じゃ、行ってきまーすっ!」
居ても立ってもいられず、私は家から飛び出す―――
―――つもりだった。
「―――初紀」
「ふぇっ、な、なに……?」
呼び止める母さんの澄んだ声に、思わずパブロフの犬の如くフリーズする自分のカラダが恨めしい。
油を射し忘れたブリキ人形みたいにぎこちなく振り返ると、母さんが真顔のまま近寄ってくる。
「こっちに座って、目を瞑って下さい」
「な、なんで―――」
「―――早く」
前方には鬼気迫る表情でにじり寄る母。背中にはタンスという名の壁。
逃げ道を完全に塞がれた私には、眼前で上辺だけ優しそうに笑う母さんに従う以外の選択肢は残されていないらしい。
……私は白旗を上げる代わりに、母さんに背を向けて座り込むしかなかった。
「あ……ぅ……」
不意に、するりと髪を撫でる感触がして、思わず全身が強張ってしまう。
「ほら、じっとして下さい。
こんなボサボサな髪じゃ、陸くんがガッカリしますよ?」
「……なんでそこに陸の話が出て来るかなぁ」
「だって、早く孫の顔が見たいですから」
……母さん、今、無邪気な声色でとんでもないコトを口走らなかった?
……。
気のせいだよね、うん。聞き流そう、聞き流せ、私。
―――思い立って切ってから間もないとはいえ、男だった時よりは随分と長くなった髪に通される櫛。
当たり前なんだけど、"オンナ"としても"オトナ"としても経験値が乏しい私とは比べモノにならないほど、その手つきは丁寧で、手慣れていて。
……なんか、ちょっぴり悔しい。
「―――変わりましたね、初紀」
私のよく分からない嫉妬心を後目に、母さんが感慨深そうに呟く。
「……自分でも、そう思うよ」
いや、一月前と比べたら性別すら変わっているんだから、当然と言えば当然……なんだけどね。
「違いますよ」
「えっ?」
「"こっち"のコトですよ」
「わ……っ!?」
私の上半身を背後から抱き止めるように回された母さんの両腕。
そして、その両掌は私のあまり発展していない胸元にあてがわれて……って何冷静に実況してるんだ私っ!?
「ちょ、……ん……っ、はあ……ど、どこ触ってるの母さん!?」
「しーっ」
………あ……聞こえる。
母さんの掌を介して、とくん、とくんって、私の鼓動が。
「……やっぱり変わってないかもしれませんね」
あれ、あれ。
なんだろ。
今、私、凄いバカにされた気がする。
特に胸囲についてバカにされた気がする。
あの、さ。
……怒っていいのかなぁ?
「もう、しっかりしてください。もうすぐ新しい家族が出来るんですから」
「ご、ごめん……って、えっ?
えぇええぇっ!!!?」
この人、今、さり気なく凄い爆弾を投下してきたよっ!!?
溜め息混じりに朝の風景で言う台詞じゃないよっ!!!
「お、おとうと!? いもうとっ!!?」
「宗くんの話だと確か女の子、とか」
……宗にい、凄いよ。
いつも一緒に過ごしてた私ですら何にも気付かなかったのに。
「予定だと、今日だって話ですよ?」
「えぇええぇっ!!!?」
母さんから淡々と聞かされる超展開に朝から私の絶叫が止まらない。
そういえば私を妊娠してた時も、母さんの体格は殆ど変わらなかったって自慢話を聞いたことがあったっけ。
「……ごめんなさい」
「……? 何が、ですか?」
「だって、そんな大変な時期だったのに……色々、迷惑……掛けちゃったから」
「? 何のことか分かりませんけど……初紀。これだけは誓って言えます。
あなたのことで迷惑だなんて思ったことはタダの一度もありませんよ?
私も、お父さんも」
「ふぇ……」
ふわりと、背中から伝わる温もり。
「こんなにいい子に育ってくれたあなたを"迷惑だ"なんて言ったらバチが当たります」
くすぐったい。そう思っていた母さんの言葉と温もりが心地いい。
「……あなたが、男の子であろうと、女の子であろうと。
たとえ世界中があなたの敵になろうと。私達はあなたの味方ですからね」
「かあ、さん……」
……涙が出そうになった。女になってしまってから、ずっと両親に対して抱え込んでた後ろめたい気持ち。
私が持つべき気持ちは、それじゃないんだ。何で、今まで気付けなかったんだろう。陸やるいちゃんから教わった筈なのに。
「……母さん」
「なんですか?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
普段なら気恥ずかしくってなかなか言えないような私の言葉を、母さんはからかいもせずに受け止めてくれた。
今なら心から思えるよ。
"……あぁ、私、この人達の子で、良かったな"って。
「……でもね、母さん」
「はい?」
「いい雰囲気なったからって、私は着ないからね、それ」
「えぇ~………」
私を抱き止める母さんの手にはいつの間にか、網タイツやらウサ耳バンドやら、やたら布地面積の薄い水着が握られていた。
……やれやれ。何とか母さんのコスプレ攻勢を潜り抜けてきたものの、とんだタイムロスになっちゃったな。
陸、もう行っちゃってるかな……?
いや、また遅刻って可能性も……。
「おはやっほーございますっ! おねーさんっ!」
「ひゃ……っ!!?」
背後から、甲高い女の子の声の珍妙な挨拶が飛んできて、同時に誰かが私に抱き付いてきた。
誰かと思って振り返ると、ブレザーを着たツーテールヘアの、私より一回り小っちゃな女の子が、ちょこんとそこに居た。
……あれ、この子、どこかで見たことある。
眉の形とか猫目とか……どうみても、"アイツ"そっくり。
……まさかっ!!!?
「………う、そ、でしょ? ねぇ、嘘だよねぇっ!!?」
「えっ、えぇっ!?」
「だって、宗にいもハルさんも言ってたでしょっ!!? その可能性は凄い、低いって!!!」
「あ、のぉ―――」
「―――っく、詐欺だよっ、そんなのっ! 訴えようっ、ねっ!? 委員会相手に訴えようっ!!!」
「話を聞いてくださぁいっ!!」
朝の通学路に、よくわかんないデザインが施された缶バッジだらけの学校バッグで私の頭を殴った音が響く。
缶バッジがつむじを直撃したせいで地味に痛い。
「……っ、つぅ~~……」
「あ、ご、ごめんなさいっ。加減できなくて……つい、バカ兄ぃと同じテンションで叩いちゃいました……」
ビジュアライズするなら、頭にヒヨコか星がいくつか飛んでいるであろう私に対して、深々と頭を下げるブレザー姿の女の子。
「"はつのり"さん、ですよね?」
「え……っ?」
男の時の名前で呼ばれてハッと我に返る。
アイツなら、私をその名前で呼ぶことはないし、さん付けするほど丁寧な性格もしていない。
……でも、アイツの面影はあるし、私を知っている。
そんな人、居たっけ……?
………あ。
居た。
居たよ、一人だけ!
「"くーちゃん"っ!!?」
「……あの、そんなチワワみたいに呼ばないでくださいー。
私にはちゃんと"空(そら)"って名前があるんですから」
―――私の目の前……いや、頭一つ下でむくれている女の子は、前田 空ちゃん。
顔付きは似ているけど、性格はまるで似てない……陸の妹さんだ。
「あ、ごめん。いっつも陸が"くー"って呼んでたから、つい……」
「まったくもーあのバカ兄ぃめ。いつか矯正してやるっ」
道端で物騒にシャドーボクシングを始めるくー……じゃなくて空ちゃん。
なるほど、こーいう部分は似てなくもないかも。
「……でも、良く分かったね、私が"御堂 初紀"だって」
「はつき……さん?」
「あ、名前、変わったんだよ。字は男の時と一緒で、は・つ・き」
空中を指でなぞりながらゆっくりと説明してあげる。
……ちょっと前までだったら説明するのも躊躇ったのになぁ。
「あ、ごめんなさい……」
「えっ、何が?」
「あたし、デリカシー無いなぁ……もう、やだ」
幼いなりに空ちゃんは私を気遣ってくれてるんだろう。
心なしか空ちゃんのツーテールまでしょぼくれて見える……可愛いなぁ。
生まれてくる妹もこんな風なら可愛がるかも。
「大丈夫大丈夫。陸に比べたら銀河と地底くらいの差があるから」
「……比べる対象レベルが低すぎてフォローになってませんよぉ……」
それもそっか。うーん、女心って難しい。
「……あ、はつきさんの最初の質問に戻りますけど」
「あ、うん」
最初の質問っていうのは、多分、"何故空ちゃんが私が女になった御堂 初紀だと知ってたか?"ということだろう。
「バカ兄ぃとデートしてるとこ見てたんで知ってたんですよね」
「そっかー……えぇええぇっ!!?」
最近物凄い爆弾発言をサラリと言うのが流行りなの!?
「ウチに帰ってきたバカ兄ぃを問い詰めたらはつきさんだって聞いてビックリしましたよ~」
私も現在進行形でビックリしてますよ~……。
「はつきさん、可愛かったなぁ。それに引き換えあのドンカンプリン頭バカ兄ぃめ―――」
「―――わーっ! わーっ!!」
全っ然気付かなかったっ!! まさかあんなドタバタの予行デートを見られてたなんてっ!!
「ありゃりゃ、見られちゃマズかったですか?」
「そんなコトない……けど」
「ならいいじゃないですかっ!」
……ニコニコと笑いながら肘で私をつついてくる空ちゃんに……私はなんとなく不安を覚えた。
「……でも、さ。イヤじゃない?」
「ほえ? なんでですか?」
「だって、ほら、……その……私、元は男だったわけだし。
空ちゃんだってさ、お兄ちゃんがそんなのとデートしてるなんて……」
「別にいいじゃないですかっ」
「……え?」
「"そんなの"とか言っちゃダメですよ。……そんなコト言われたら私みたいなのは自信無くしちゃいます」
「えっ、空ちゃんは可愛いよ。
うん、私が男だった時なら付き合いたいと思うっ!!」
「……もしかして、はつきさんってロリコンだったんですか?」
「ち、違うよっ!」
あらぬ疑いを掛けられた。
「あははっ。冗談はさておき。
とにかく、恋なんて当人同士のモノじゃないですか。そこに他人が茶々入れる方が無粋だって思いますよ?」
「……なんか空ちゃん、大人だなぁー」
「単に変わり者なだけかもですよ? ……あ、そうだ」
思い出したように空ちゃんがポンと手を叩く。
「変わり者で思い出したけど、バカ兄ぃから伝言です」
「……陸から?」
今の空ちゃんの一言で、兄に対するイメージがあまりよろしくないことを悟る。陸、ドンマイ。
「えーっと、
"俺は委員会に呼ばれて午前の授業を休まなきゃなんなくなったからそこンとこよろしく"
―――だそうです」
……あのさ、陸。
そんなので空ちゃん使っちゃダメでしょ。
「ちなみにバカ兄ぃのケータイは料金未払いで止まってます」
「……はぁ」
「どうやら、2000円ほど足らなかったみたいですね」
……2000円?
なんか、どこかで聞いたような金額。
「じゃ、確かに伝えましたよ~っ! 未来のおねーさんっ!!」
「な………っ!!?」
なんか、凄い恥ずかしい台詞を平然と言い放って、空ちゃんは走り去っていった。
……今までちゃんと話したことなかったけど……"空"っていうより、"台風"みたいな子だったなぁ……。
……でも良かった。
今日も陸は男の子だった。
それだけで、胸が軽くなった気がした。
……いや、自虐じゃないからね? うん。
「―――これくらいは、喜んでも、いいよね……? るいちゃん」
―――抜けるような青に向かって呟いてから、私も空ちゃんに倣って、学校への道を走り出した。
~青色通知15.1(最後の初紀の場合)~
最終更新:2010年01月04日 14:37