―――なんだよ。オレになんか用?
湿気った苛立ちだけが、ただ一つの原動力だった。
その僅かなリザーブタンクをだましだまし酷使して、無数に行き交う傍観者達を睨み付ける。
傘で目線を隠せばバレないとか思った? 分かるんだよ、そんなの。あからさますぎて笑っちゃうね。笑わないけど。
―――中途半端な正義と、与り知らない人間への自己犠牲。
その二つを両天秤に掛けた時、大抵の人間は後者の受け皿に傾くもの。
そんなことを責めるつもり毛頭ない。
だって誰だって、そうだから。
誰だって安全圏から遠巻きに見て、正論を吐いていたい。その方が楽だし、気分が良い。
誰だって、そう。
だから別に、傍観者の心中の天秤の動きを責めるつもりは、ない。
……でも、だったら……。
「最初から、見てるんじゃ、ねーよ」
自身のものとは思えない高音で地面にそう吐き捨てる。誰にも届いていないのも承知の上だ。
どうやら、オレの口はそういうスラングな言葉を言い慣れていないらしい。
どうも上手く口が回らないし、違和感が残る。
……尤も、単に全身が冷えきったせいかもしれないけど。
………。
アスファルトに叩きつけられて飛沫を撒き散らすほど冷たく強い雨の中、ビルの合間に踞ってから、一体どれだけの時間が過ぎただろう。
寒いと感じるはずの肌は痛み、歯の音を鳴らすことすら出来ない。
……オレ、死ぬのかな。
走馬灯ってヤツすら見えないのに。当然といえば、当然、なんだけ、ど。
雨に滲んだ視界の中で傘を持った沢山の人影らしきものが無軌道に流れていく光景。
………こ、んな味気、ないのが最、期の景色か。呆、気ないもんだな、ホ、ント。
……も、う、どう、で、も、いいか。
「――――風邪ひくぞ」
雨と雑踏のノイズに掻き消されてしまいそうなバリトンが、そう呟いたような気がした。
滲んで使い物にならない視界を、首と眼球の動く限り探した。
でも……見当たらない。再び見ようとする気力すら起きなかった。
……空耳、か。
今更、そんな、ご都合展開に期待するなんて、オレ、はロマン、チストだ、ったの、か?
引力の赴くまま落とした視界の中に、履き潰された革靴が映る。
あ、れ。
聞き、違いじゃ、ない?
首が、言うことを聞かない。
自分の脳や頭蓋骨の重さが、この時ほど恨めしいと思ったことはなかった。
……あぁ、どう、し、よう。
こんな言葉にも、オレは応えられないのか。
……い、やだ。そ、んなの、いや、だ。いやだ。
「……アンタ、誰?」
辛うじて、動いた。
口が、喉が。
言葉を、紡げた。無対象じゃない、"誰か"に対して。
それだけなのに、なんでオレは思い出したように震えているんだろう。
「―――ヒトに名前を訊くんなら、まず自分が名乗るのが社会のルールだろーが」
よくわからない感動を後目に、安全圏に立たない正論が耳に響く。
……そりゃ、そうだ。こいつの言ってることは正しい。
こいつにオレの事情なんて分かりっこないし、オレがどれだけの窮地に立っているかも分からないのだから。
「……悪い」
乱れた呼吸に言葉を乗せる。
……反応はなかった。
あぁ、呆れられたか。
そう、だよな。
オレは名乗れって言われてるのに、絞り出せた言葉はぶっきらぼうな謝罪だけ。
こんな奴、相手にしないな。普通。
…………。
なんだよ、立ち去ら、ないのか?
言葉に出来ない意思表示を込めて、視線を持ち上げる。
そこで、彼を初めて見た。
左手に傘、右手に煙草、薄汚れたジャケットに、焦茶色のハットをした……お兄さん、とも、おじさんとも呼称しがたい男が、そこにいた。
切れ長で、一見ヒトを寄せ付けそうにない無愛想な目が、真っ直ぐにオレを見つめている。
……何故だか、オレは確信した。
―――あぁ、この人は、オレの言葉を待っているんだ、と。
そう思った途端、冷えきっていた感情と身体が溶けていく気がした。
……言わなきゃ、でも、なにを?
何て言えばいい? わからない。
オレ自身がわかっていないのに、何を言えばいいんだ?
どうしよう。
「―――オレ」
整理がつかないまま、感情だけが先走る。
「……誰なんだ?」
「…………あ?」
時間が、止まったような気がした。
彼の右手から煙草が滑り落ちて、火種がジュッ、とアスファルトの水に浸って消える。
その刹那に、オレの視界に自身の手足とアスファルト以外のものが写り込んできた。
それはオレのより二回りは大きいであろう彼の掌。
思ったよりも綺麗な手をしていて少しだけ驚いた。
引力に逆らって見上げると、無愛想な顔が、真っ直ぐにオレを見つめている。
「……立てるか?」
普段なら難度の低い質問に、力なく首を横に振る。
どれだけの間、この場所でこうしていたかは定かじゃないけど、冷えきった手首足首から先の感覚が無いのだから。
「―――チッ」
舌打ちが聞こえた。
そりゃ、そうだ。
こんな得体の知れない奴なんて関わりを持った時点で後悔するものだろう。
……どうせ、オレなんか。
冷えきった背中が、突然柔らかな熱を帯びる。
「え………?」
「羽織ってろ、ちったぁマシだろ」
これ、こいつのジャケッ―――
「―――せぇのっ!」
「え、あ、……わ……ゃっ?!」
彼の気勢と共に、身体から地面の感触が消える。
代わりに膝の裏側と上半身がほんのりと温かみを覚えた。と、同時に彼が持っていた傘がひっくり返って地面に落ちる。
景色はあっという間に様変わりし、今しがたまで遥か上に位置していた焦茶色の帽子が映る。
「っ、オイ、男のクセに変な声出すなっ、誤解されんだろ。ったく」
男は周囲をキョロキョロと見回しながら傘を拾い上げ、不機嫌そうに毒づいた。
「……あ、び、びっくり、した、だ、けだ……! って、え……っ?!
っ、けほっ、けほ……っ!」
「いーから黙っとけ、下手すると死ぬぞお前」
全てお見通しだ。
そう言わんばかりに、男は鼻で笑いながら末恐ろしいことを言ってのける。
……けれど、それが冗談でないことはオレが一番よく分かっていた。
「っ、見せもんじゃねぇぞ、興味本位で見てんじゃねぇッ!!!!」
周囲に対して敵意を撒き散らす男。
……ははっ、オレなんかより数倍堂に入っている。悔しいような、嬉しいような複雑きわまりない気分だった。
「ったく、重てぇな……いや、"軽い"のか」
「な、にが―――」
「―――黙ってろっつの」
「………うん」
―――……今は。今だけは。
名も知らない、この背中の温もりを信じてもいいか。……微睡む景色の中でそう思った。
―――前言撤回。
今、オレは後悔している。
甘っちょろいことを言ってた自身を全速力の助走をつけてぶん殴ってやりたい。
なんで身体が弱ってたとはこんな外道にほいほいと連れてかれたのかと。
……現状を説明しよう。
今、オレは外気に触れて冷えた肌を両腕で隠しながら、今しがたまでオレが着ていたびしょ濡れTシャツを両手に持つド変態を睨み付ける。
意識を取り戻したオレが最初に目にした光景から、数秒が経過していた。
「な、にすんだ、てめぇっ!!?」
今しがたオレが突き飛ばしたド変態が、非難の声を挙げる。
「そ、そ、それはこっちの台詞だッ!! ヒ、ヒトが気を失ってる間に……な、な、何するつもりだったんだッ!!?」
慣れない胸の膨らみを押さえながら言葉を返す。……やっぱり見ず知らずの人間を頼ったりしたオレがバカだったんだ……!
「……"うん"っつったのはてめーだろが」
な、なな、何を訳の分からないことを……!
「返せっ、そのシャツ返せっ!!」
「やーなこったっ、とォ」
無愛想にそっぽを向きながら、ド変態は、ベッドの置かれたこの部屋の向こう側に見える玄関近くに備え付けられた、20世紀の遺産とも言える古そうな洗濯機に、オレが着ていた紺色のTシャツをバスケの3ポイントシュートよろしく放り投げる。
丸まった紺色のそれは綺麗な放物線を描いて、洗濯機の中心に消えていく。
「ヒュウ、ナイッシュー俺」
「っ、お前ぇえぇっ!!!」
「今、手ぇ出したら見えちまうぞ?」
振りかぶった手を引っ込めざるを得なかった。
別に恥ずかしいとかじゃないからなっ。
このド変態に対して視覚的にサービスすることが適切でないと判断しただけであって……その……あーもうっ!
「そんだけ元気がありゃ、てめーで歩けんな? ほれ、回れ右」
「は?」
「は? じゃねぇよ、そっち行け。
使い方くらいは分かんだろ?」
ド変態は溜め息混じりに玄関側ではない背後の磨りガラスの引き戸を指差した。
「着替えは、あー……そっちのタンスの上の段から適当に見繕え。サイズは……多分大丈夫だろ、俺ンじゃねぇし。
ちなみに断っとくが、脱衣場なんて豪勢なもんはウチにはねぇからな」
そう言ってド変態は、玄関側の部屋から戸を閉め、デスクのキャスター付きの椅子に腰掛けた。
その動作の途中で、さっきまでオレの背部の保温を助けてくれていた上着をその椅子に引っ掛ける。
………なんだよ。冷たい身体じゃ萎えるから温めとけっていうのか?
そんな手に誰が乗るか―――
「―――へくしっ」
……まぁ、身体を温めて、頭を冷やしてから逃げる手だてをじっくり考えればいいか。
向こうの部屋から死角になる位置でジーンズと下着を脱ぎ捨て、磨りガラスの戸を引く。
そこには小さな鏡が備え付けられた古いシャワールーム。
何処からか流れ込んでくる外気に、堪らず赤い蛇口を捻って出てきた温水に身を固める。
……そこで、オレはオレと向き合った。
「―――誰だよ、お前」
当然、といえば当然だった。
オレに見知った顔なんて、ない。……あるはず、ない。
『―――生きてるかぁ?』
「っ!?」
不意に磨りガラス戸ごしにバリトンが響く。
『あー、死んでたら返事しろ』
どっちにしろ返事出来ないじゃないかっ!?
『―――ま、色々と思うトコはあっかもしんねーけど、今日ンとこは大人しくしとけや。明日、知り合いの公僕に話を訊いてみっからよ』
「………名前」
『あ?』
「名前も知らないような奴なんて、信用できない」
『………信じるも信じねぇもてめーの勝手だ、好きにしろよ』
「…………」
『…………赤羽根だ』
「え?」
『赤羽根 真司、26歳独身、職業、私立探偵。
これでいいか? 別にこれで信じろたぁ言わねぇけど、せめて礼がくらいは聞きたかったなぁ?』
「………」
『バスタオル、置いとくぞ』
「…………あ、り……が、と」
『あ? 何か言ったか?』
「~~~~っ、なんでもないっ」
―――ド変態、もとい赤羽根サンとの初対面は、今から考えたらとても印象深いものだった。
そう、オレは振り返る。
……その後に降りかかる不幸を差し引いたとしても、オレはこの人に会えたことを感謝している。
………。
ま、あのバカ兄貴には口に裂けても言うつもりはない、けどな。
【赤羽根探偵と奇妙な数日-first contact-】
完
最終更新:2011年09月22日 12:02