「ありがとう」
唐突に、武田さんは切り出した。
「多分……私、ちゃんとお礼言ってないよね」
「え?あ。ああ、そんなこと…」
武田さんが言っている事。それは、今年の文化祭で起きたちょっとしたイザコザの事だろう。
まだ女になりたてだった俺はその時、店員のスカートの中を盗撮していた犯人をぶん殴るという暴挙に出た。
その一件以来俺は……
「また何か起こっても、助けてくれるよね?お姉さま」
……などと呼ばれている。
「ところで、何描いているの?」
武田さんは、ひょいとカンバスを覗いた。
そこには、赤と白で塗りたくられた猫がいる。
「かわいいー!」
「そう?」
「うん!凄いカワイイですよぉ!」
照れて鼻をこすったら、絵の具が付いてしまった。
「武田さんは何描いてるの?」
美術の時間だ。当然何か描いているものだと思った。
「それが……、まだ何も描いてなくて」
「そうなの?武田さんは絵が上手かったと思ったけど」
「確かに、中学から美術教室には通ってたけど、でも…」
「?」
「私には、描きたいモノなんてないんです」
どういう意味だろう?
「描きたいモノなんて、何でもいいじゃん。思いついたのとかさ、最近見たものとか」
「……きっと、それがお姉さまの凄い所なんだね」
ますます混乱してきたぞ?
その混乱ッぷりが顔に出たのか、武田さんは微苦笑すると、俺の筆立てから何種類か筆を抜き取った。
「私には、たくさん筆があるんです」
「……うん」
「これだけあれば、色んなモノが描けると思う。ううん、思ってた」
「うん」
「でも違った。全然、違ったんだ…」
精一杯笑顔を作って、武田さんは言った。
「私は、ひとつも絵の具持ってなかったんですよ」
カワイイと思っていた。けれど、その笑顔には、何も無かった。
とても、空っぽな笑顔……。
筆を元の位置に戻すと、武田さんは立ち上がった。
「それじゃあ、私……」
「じゃあさ」
考えていない。口が勝手に動いている。
「描こうよ、一緒に」
「描こう、って……絵を?」
「うん。武田さんと一緒に描けば、この絵ももっと良くなると思うし」
「ダメだよ、だって」
「先生も言ってたじゃん、合作も認めますって」
「違う。そうじゃなくて、きっとグチャグチャになっちゃうよ」
「そうして欲しいんだよ」
武田さんが驚いている。
俺もだ。自分が次に何を言うのか分からない。
「絵の具だったらさ、色だったら、いくらでも俺が出すよ。だから、武田さんはそれをカンバスの上でグッチャグチャにして、混ぜまくって…」
そうか、俺は、
「自分の色を作ればいい」
こう言いたかったのか。
「簡単に、言うんだね……」
「うわっ?」
な、泣いてる…!?
「え?え?あれ!?何か言っちゃった?ごめん、ホント考えなしで喋ってて!ていうか言葉が口をついて出てきたというか!?」
ふるふると首を振っている。
「……また、ありがとうを言わなきゃいけなくなったじゃないですか、お姉さま」
カワイイのは知っていた。
けど、こんな笑顔をするだなんて、初めて知った。
最終更新:2008年07月21日 04:56