「…………よ」
誤魔化し笑いを浮かべながら、ビシッと手を上げて挨拶してみた。その薬指にはシンプルなシルバーのリングが嵌まっている。
まあポロシャツにスウェットパンツの出で立ちは些か色気は欠けるような気もするが、これだけでも多少はご機嫌取りになるかと思い、帰ってきて外したものをわざわざ填め直してきたのだ。
「………………」
……だというのに、扉の向こうに立っていた後輩は、笑み一つ見せずこちらをジトリと睨んできた。――畜生、指輪効果も薄いか流石に。
「……ええっとまあ取り敢えずどうぞどうぞお上がり下さい」
「僕がなんでわざわざ尋ねて来たか、判ってますよね?」
「……え、えぇっと、お仕事で何か判らないところでもあったかしら? ならお姉さんが優しく教えてア・ゲ・ル♪」
「上がらせて貰いますね」
それだけ言うと、テヘッ、としなを作るこちらに目もくれずズカズカと上がり込む後輩。
……うわぁ、短い付き合いじゃないが、こんな可愛くない後輩クンは初めて見たよお姉さん。泣いちゃうぞ、そしてその前に泣かすぞこんガキャア。
「……これはまた、随分と一人暮らしの『男』らしい部屋ですね……」
「昔に比べりゃだいぶマシなんだぜ、これでも。万年床はないし」
「……あまりに男らしい物言いに涙が出そうです……まあいいですけど」
呆れたように見やる後輩の視線の先に広がるのは、1LDKながら出来る限り生活しやすいよう最適化されたマイスイートホーム。
整頓していない訳ではない。少なくとも足の踏み場はある。
ただまあ服とか雑誌とかが、本当に少しばかり手に取りやすいように配置してあるだけだ。散らばっている訳じゃない。
……以前だったら本当に、当たり前のようにコンポの上に下着が干してあったり、中央の卓袱台上に弁当の容器が積んであったりしたのだから。マシである、間違いなく。
そんな健気に思いを馳せる俺を尻目に、それらを無造作にどけてスペースを作ると、後輩はこちらに問いもせずに卓袱台前に座り込んだ。……にも関わらず正座な辺り、礼儀正しいのか正しくないのかよく判らないのだが。
「…………」
「…………」
それを見下ろす形で沈黙。
「……あー、んじゃ俺は茶でも一つ」
「お気遣いはいりませんから、先輩もそこらに座って下さい」
「……ハイ」
逃走失敗。すごすごと腰を下ろしながら、この部屋の主が誰だったか少し悩んでしまった。
そうして対面に胡座をかいたところで、後輩は真っ直ぐにこちらを見据える。――毎度、羨ましい程澄んだ瞳で何よりだ。
「では、率直に尋ねます」
「ハーイ」
「真面目に」
「……ハイ」
――どうあっても、逃がすつもりはないらしい。全く後輩のくせに随分偉そうで厄介で――
「……なんで、避けるんですか…………?」
――今にも泣きそうな顔は、もっと厄介だからやめろ。
目を逸す。
「――だから言ってるじゃねぇか。最近忙しいんだよ、嘘なんかついてない」
「嘘ですよ。あれだけ休日出勤が嫌いな先輩が、ここぞとばかりに休日を全て埋めるなんておかしいじゃないですか」
「偶然だ。それに別に会社内でいつも会ってるだろう? これのどこが避けてるって言うんだよお前」
「……それは、そうですけど…………」
僅かに責めるだけですぐに俯き加減になってしまうのは、結局いつもと変わらない後輩の姿。どう見ても悪いのは、毎度何かと用を付けては休日の誘いを断る俺だろうに。……少しだけ、心が痛んだ。
それきり部屋に落ちる沈黙の帳。蛍光灯に照らされたそれは妙に重くて、まるで息が詰まりそうだ。
――それを誤魔化すように、胸ポケットからタバコを一本取り出した。惰性で腰に手をやり、ポケットがない事に気付いて軽く舌打ちする。
――苛々する。
こいつに、じゃない。何に、でもない。
強いて言うなら、この空気に。
何と明言すら出来ない、この会話に。
テーブルの上に百円ライターを探し当てて、タバコの先で弾く。
点かない。
弾く。
点かない。
……三度目でようやく、咥えタバコに火が点いた。
――クソ不味い。クソ、やっぱりこっちは薄過ぎて何の味もしやしねぇ。胸ポケットに入った二箱の内にそれを確認して、苛立ち紛れにテーブルに放る。肺まで吸い込んで、深く吐く。
タバコを挟む指の隣りに、キラリと光るシルバー。
……本当に苛々する。苛々するから――
「――そんなに嫌ならやっぱりこの指輪、お前に返した方がいいんじゃねぇか?」
――アッサリと、そんな最低の言葉を口に出来た。
「――――ぇ」
突然の言葉に、顔を上げて呆然とする後輩。
その先にはおそらく、鋭い目で睨む俺の顔。
「大体な、お前はまだ若い。確かに長い事一緒にやってりゃ俺に情が移る事もあるだろうさ。だがこの部屋を見れば判るだろう。どうしたって俺の根はやっぱり男なんだ。いつか噛み合わなくなる時があるかもしれない。
壊すのは作るよりずっとたやすい。……一時の焦りで人生決めるのは簡単だ。だが人生ってのはな、そう簡単にリセットっつー訳にはいかねぇんだよ。
幸いお前は人気だってあるんだし、選択肢だって少なくはない。だからこそ少なくとも俺は、早くからこんな自分を縛るような真似はしなくてもいいと思う」
そこまで捲し立てると煙を一つ吸って、吐く。蛍光灯に向かい昇る煙。……後で換気扇を回さないと、と酷く場違いな思いにかられた。
意味もなくタバコを灰皿に揉み消して、胸ポケットからいつものラークを取り出そうとして――結局、何とは無しに再びテーブルの上のハイライトを手にした。
今度は一度で点く火。オレンジの光が微かに指輪の上で揺らめく。
後ろを向いてテーブルに凭れかかり、また煙を吐く。
「あ………………」
顔は見ない。多分コイツは泣く。だから今だけは見ない。コイツの為ではなく、自分の為に。
この女は、この期に及んで更に最低の言葉を吐くのだから。
「でもまあ、あれだ。まあそう割り切るにはまだ盛んな歳でもあるだろうし、自慢だが俺もいい身体してるしなー。……なんなら、相手するだけならいいぜー?」
そうして、振り向いて二カッと笑う俺は本当に最低で。
……本当に、俺は――
「……せんぱーい、そこまででいいですよー?」
――あれ?
振り向くと、先程までの表情とは一変して、やけに胡乱な目付きを向けてくる後輩の姿。
「……待て、俺今結構真面目な話してたよな?」
よな?
なのになにゆえにコイツは、
「せんぱーい、ハイライト、ハイライト」
「ん?」
指摘されて手に持つタバコをじっと見るが、特に変哲はない。……あ。
「……あー」
重要な事を忘れていた。
にこりと無邪気な笑みを浮かべる後輩から、何やら邪気を感じる。
「『いや、正直ハイライトは不味いんだが、人騙したり自分が凹んでたりする時はこの薄さがなんか楽なんだよなー』……以前の先輩の談ですね。さて、どっちですか? どっちもですか?」
「……あー、いや、でも結構マジなところもあったりしないこともなくて」
「前半の長い下りですね。はいでも僕は先輩を心から愛してますから。はい論破です。他に何か?」
「ちょ、お前、あんまり年上のおねえさんをからかうもんじゃ」
「……なら、可愛い後輩を苛めて楽しいですか? 先輩は」
瞬間、ぽろりと笑みの端から雫が零れた。
「え、ちょっ――――」
「好きなんですよ。自分も辛い癖にそうやって口八丁で僕を勝手に導こうとして、挙句看破されてアタフタする先輩がもう世間体とか可能性とかどうでもいいくらい好きなんです。愛してます。お願いだから突き放さないで下さい。
まだ足りませんか? 信用出来ませんか。なら納得して観念するまで言い続けますよ。僕は先輩が――」
「まっ、待て! 判った! 判ったからやめろ! 俺が悪かったから、な!? 恥ずい! 死ぬ! あああだから泣くなってば!? あーよしよしよしよし! 俺も大好きだから!」
結局またボロボロ泣き出してしまった後輩を、慌てて抱き締めてグワシグワシと撫でてやる。
「……だ、って……うーっ……!」
「あーもうだからゴメンって!」
――頼むから神よ、俺の代わりにコイツを女にしてくれ。
「……またお恥ずかしいところをお見せ致しまして……」
「……いや、悪いのは俺だからいいんだが……」
先程とは違う意味で気まずい空気の中、取り敢えず謝ってみる。
そして、後輩はまたいつものように真っ直ぐに笑って、
「……じゃあ、これで仲直りですかね」
「ガキかよ……」
思わず俺は、頬を染めて目を逸した。
「で」
「うん?」
ずいと一歩乗り出す後輩。ずさと一歩引く俺。
「結局休日何やってたんですか?」
「あー」
「今度は真面目に答えて下さいね。泣きますよ?」
「判った、判ったから……」
――敵わん。くぅ、正直堪忍して欲しかったのだが。
「まあつまりだな」
「はい」
「…………花嫁修行」
「……はい?」
……微かな声で答えた俺に、目を丸くして聞き返す後輩。……鬼だ、鬼がいるぞ。
「っ…………だから! 花嫁修行だと! でも、何だか上手く行かなくて……あああこれ以上言わすと評定下げっぞてめぇ!」
熱い顔を隠して怒鳴る。後ろから刺さる呆れたような視線が心にザクザクと刺さって気分は最早致命傷だ。
「……もしかして、それであんな別れ話みたいな話を?」
「う、いや、まあそれもあるが、それだけではなく以前から思っていたことも少しあったりとかなくもなくて――だな、その。いやだってやっぱり家事の出来ない女ってのは流石に……ッ!?」
途端、後ろから抱き付かれた。
そのままガシリと右手をロックされる。
「お、お前いきなり何を――」
「先輩先輩、もう指輪反対の手でいいですよね? うん、じゃあいい子ですから外して下さい、ほら」
「まっ、待て! 俺にも心の準備ってもんが――ってだから泣くなよッ!?」
「先輩が苛めるからです。しまいには動物愛護団体に訴えますよ?」
「せめてもう少し人道的な何かに行けッ!?」
「でもほら、僕は寂しいと死んじゃいますから」
「いつから齧歯類だお前はぁっ!」
――――本当に、泣く子と後輩には敵わん。あ、いや同じか二つとも。
最終更新:2008年09月06日 22:31