グレーゾーンのメイドと家政婦2-7

  • 作者 ◆Z.OmhTbrSo氏

「はじめくん、起きてください」
 やよいは庭の地面に倒れているはじめを見下ろしながらそう言った。
 そのはじめはというと、体の上に千夏を乗せている。
 はじめは千夏にやましいことをしたわけではない。ないのだが、なんとも説得力にかける構図だった。
「いえ、起きようにも……」
「3秒以内に起きてください」
「は、はい?」
 やよいの右手の指が、三本立った。
「3……」
 そして、カウントと同時に一本ずつ折れていく。
「えと……」
「2……」
「ど、どいて、千夏さん!」
「1……ゼ」
「はい、起きました! 起きました、やよいさん!」
 千夏を強引に押しのけて、はじめはようやく立ち上がることができた。
 その様子を見て、やよいは満足そうに微笑んだ。

 はじめはやよいの足下に、ピアスや指輪が落ちていることに気づいた。
 指で差し、やよいに問う。
「あの、それ……なんです?」
「先ほどまで、はじめくんを探して町中にいる人々に尋ねて回っていると、話しかけてこられる方がいらっしゃったのです」
「はあ」
「人相のよろしくない方ばかりでしたので早々に話を終わらせたのですが、1人の方がしつこくついてきて、
 あろうことか無理矢理腕を握ってきたものですから、つい、こう……クイッっと」
 やよいが腕を振り上げ、続いて振り下ろす動作をした。
「その方を地面にねじ伏せましたところ、お友達の方々が大層憤慨されて、殴りかかってこられました」
「ええ?! 大丈夫だったんですか?」
「ごらんの通りですよ、はじめくん」
 やよいは、はじめに向けて両腕を広げた。どこにも変わった様子は見られない。
 美しい黒髪にも、色あせのない女中服も全く乱れていない。はじめは安堵のため息を吐き出した。
「……あ、ところでなんでピアスなんか?」
「今これだけしか持っていないんです、と言いながら差し出してきたのです。
 私はいらないと言ったのですが、土下座までされてしまったものですから、仕方なくもらってきました」
「……なるほど」
 相手はおそらく町中を歩いていたやよいをナンパしたのだろう。
 そしてやよいがつれない態度を見せたことに腹を立て、無理矢理言うことを聞かせようとして返り討ちにあった。
 金を持ち合わせていなかった彼らは代わりの品としてピアスや指輪をやよいに差し出した。
 真相はおおかたこんなところだろう。
 しかし、今の状況でそんなことを聞かされても背筋が寒くなるだけだ。

「ねえ、はじめ」
 にこにことした笑顔で、マナがはじめに話しかけた。
「えーっと……なにかな?」
「なにかな? じゃないでしょ。言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
 言わなければいけないこと。
 はじめはマナの顔を見つめながら、脳内からこの場にふさわしい台詞を検索しだした。
 つい先ほどまで、自分は千夏と絡み合うようにして地面に倒れていた。
 その様子を見て、やよいとマナがどう思うかは想像に難くない。
 台詞はあっさりと見つかった。
「ごめん、マナ、やよいさん。わざわざ探しに行かせるほど心配させちゃって。
 あと、千夏さんとさっきみたいな状況になってたことも謝るよ。
 ただ、誤解はしないで欲しいんだ。2人が心配するようなことはしていないから」
「違うわよ。私が聞きたいのはそんな言葉じゃないわ」
「……ええ?」
 今度こそ、はじめは当惑した。
 てっきり、千夏とのことでマナが怒っているのだと思っていた。
 しかし、マナは謝罪を要求していない。
 では、一体どんな言葉を言って欲しいのだろうか。

「……ガソリン代使わせてごめん。あとでちゃんと返すから」
「それも違う。まあ、後で利子つけて倍返ししてもらうけど」
「……髪、今日も綺麗だな」
「あら、ありがと。……で、今の台詞は馬鹿にしてるつもり?」
「いや……そんなつもりはないんだけど。えっと、他には……」
 はじめは脳を脊髄まで掘り下げる心地で思案を開始した。
 だが、いくら掘り起こしても台詞はでてこない。
 ボキャブラリーがないというわけではなく、この場にふさわしく、
かつマナの要求する言葉というものが見つからないのだ。
 はじめがそのまま言葉をひねりだせずにいるうちに、マナの口が開いた。

「なんで、言い訳しないの?」
 はじめは、たった今まで巡らしていた思考を停止させられた。突然の不可解な台詞によって。
 聞き間違いだろうか?今、マナがこの場にふさわしくない台詞を言ったような……。
「ごめん……なんだって?」
「だから、どうしてさっきから謝ったり見当違いのことばかり言って、言い訳しないのよ?」
「……」
 どうやら聞き間違いでは無いらしい。
 また、マナの台詞に込められた意味と、はじめの聞き取った言葉の意味が違っているわけでもないようだ。
 マナは、はじめが言い訳をしないことを不満に思っている。

「なあ、普通こういうときは、男のくせに言い訳するな、とか言うもんじゃないか? 女の子はさ」
「ええ、私以外の女の子であればそうでしょうね。そこにいる女の人とか」
 マナは、ちらりと千夏の方を見ると、またはじめと向き合った。
「だけど私はね……謝って欲しいわけじゃないのよ。うふふふふ。
 はじめが知らない女と抱き合っていたのは事実なわけだから」
「いや、だからそれは……」
「誤解? ええ、きっとそうなんでしょうねえ。
 どうせなにかの弾みでさっきみたいなことになったんでしょう?」
「ああ、卓也がいきなり千夏さんを後ろから押して、たまたま目の前に僕がいて」
「真実はそうなんでしょうね。だけど、はじめがその女の人と抱き合っていたのは事実。
 ……私はね、はじめ」
 唇の端をあげて、マナが笑った。その笑顔に、はじめは鬼を見た。
 小さな体躯の中から、凶暴な津波のごとき気配が漂ってきている気がする。
 水が目の前を覆い尽くし、自分を飲み込み翻弄する想像が、はじめの脳裏を掠める。
「あんたがみっともなく言い訳する様をこの目でじっっっくりと、拝みたいのよ。
 そうでもしなきゃ、このイライラは治まっちゃくれないのよ。うふ、ふふふふふふ」

 はじめの肩が小さく跳ねた。
 マナの笑顔が、不可視の気配が、そして笑い声が、はじめに恐怖を与えたのだ。
 はじめは両手を伸ばして震わせ、否定の動作をする。いや、マナを制止しようとしたのかもしれない。
 はじめはただ、自分でもよくわからない動機で両手を動かしていた。
「落ち着け。落ち着くんだマナ」
「落ち着いてなんかいられないわよ。……ああ、その怯えた表情、いいわね」
「頼むから聞いてくれ。今のお前は怒りで気が触れて居るんだ。
 いったん深呼吸して、それからまた話そう。な?」
 必死にそう言うはじめに応え、マナは目を閉じて深呼吸を開始する。
 胸を反らして吸気し、背筋を丸めて息を吐く。深呼吸の動作を2回行った後で、再びはじめへ笑顔を向ける。
「さ、続きして」
「つ、続き……?」
「言い訳して頂戴。誠意を込めて釈明して頂戴。ジェスチャーを交えながら語って頂戴。……さあ、早く」
 ――ああ、ダメだ。ちっとも落ち着いてなんかいない。
 四つん這いになったときのようにがっくりした心地で、はじめは小さなため息を吐き出した。

 その時、波風たたぬ湖面のような目をしたやよいの姿が目に入った。
 いつも冷静なやよいであれば、きちんと事情を察しているはず。
 多少の折檻は覚悟しなければならないだろうが、それでもマナを相手にするよりは話が通じるはずだ。
「やよいさん! 話聞いてましたよね?」
「はい。一部始終を完璧に」
「じゃあ、マナをなんとかして落ち着かせてください!」
「落ち着かせる? ……何を言っているんですか、はじめくん。マナは普段通りではないですか」
「え? ……いや、どう見たって普通じゃないですよ!」
「まあ。女性に向かって普通じゃないとか異常だとか、そういうことを言ってはいけませんよ?
 そんなことを言うはじめくんにはおしおきです」
 何気なく伸ばされたやよいの右手の指が、はじめの耳に添えられた。
 そして。

「――メッ」
 という声と共に、やよいの右手がはじめの左たぶをつまんで、勢いよく上へと持ち上げた。
 細い腕からは想像できないほどの力で頭を持ち上げられ、はじめはつま先立ちになる。
「い、痛い痛い痛い! 離してください!」
 やよいは悲鳴をあげるはじめに近寄り、持ち上げられていない右耳へ向けてささやいた。
「反省していますか?」
「はい! 宇宙の深淵の闇よりも深く! 反省してます!」
「あら、そうですか。――それでは、もっともっと反省してもらいましょう」
 はじめはミシリ、という音を聞いた。
 その音の正体がいかなるものであったのか――実際ははじめの耳たぶが捻られた際の音だったのだが――、
はじめは知らない。
 ただ、頭の皮を引き剥がすような痛みから逃れたかった。
 背筋、腰、太もも、下腿、足首、足の指へと伸長することを命じる。
 だが、やよいとはじめの身長はほぼ同じである。
 いくらはじめが背伸びしようとも、その程度では上へと腕を伸ばした状態のやよいから逃れられるはずもない。
「あっ、あ、あああああああ!」
「ふふふふふふふふ」
 この笑い声がマナのものであったのか、それともやよいのものであったのか、もはやはじめには判断できない。
 ただ、一つだけ閃くものがあった。――マナだけではなく、やよいも怒っているのだ、と。 
 今さらながら、はじめはそのことに気づいたのだった。

 途切れ途切れになりながら、やよいへと話しかける。
「どうすれば、機嫌……直してくれます、か? ……謝るだけじゃ、だめ……なんですか?」
「言葉ではなく、行動で誠意を示してもらえれば、考えてあげますよ」
「なにを……すれば?」
「今後、私たち2人以外の女性と怪しまれるようなことはしないでください、というのが要求なんですが、
 どうもはじめくんは口約束を守ってくれそうにないですから、私の教育を受けてもらいます。
 二度と私たち以外の女性と逢引きをできないようになりますけど、それでも条件を呑みますか?」
「きょ、教育? って……一体何を……」
「さあ? うふふふふ。どうしますか?」
 条件を呑むか、呑まないか。
 その教育とやらの内容がわからないため、はじめは頷くことができない。
 だが、この場でやよいの出した条件を呑んでしまえば、耳の痛みからは解放される。
「やよいさん……僕は――」
「はい」
「2人が許してくれるんなら、その、条件を――」
 呑みます、と言おうとしたら。

「ダメだ! はじめ!」
 突然割り込んだ大声に遮られると同時に、やよいの指から解放された。
 膝から力が抜けて、はじめはその場にへたりこんだ。
 顔を上げると、すぐ目の前にやよいの女中服のスカートがあった。
 やよいの横顔は、驚きと緊張で固くなっている。
 やよいの視線はただ一点だけを見据えていた。
 その視線の先には――やよいの体へ向けて正拳を放った、千夏の姿があった。
 千夏の拳は両腕を交差させたやよいの腕によって止められていた。
 千夏の行動によって、はじめは解放されていたのだ。

「はじめ、大丈夫か?!」
「千夏さん……あの、なんで……?」
「話は全て聞いていた。はじめ、お前がこんな目に毎日逢わされているというのに、気づいてやれなくて悪かった」
「えっと……ええ?」
 千夏が言っている言葉の意味がわからず、はじめは目をしばたたかせた。
「お前はこの2人に、いいようにこき使わされていたのだな。
 人の謝罪も聞かず、訳のわからないことを言いながら暴力を振るうなど……」
「いや、違うんだよ? 今日はたまたまで」
「嘘は言わなくてもいい。お前はこの2人を前にして、本当のことを言えないのだろう。
 何かの弱みを握られていて、それで脅されているから」
 仇敵へ向けるような眼差しで、千夏がやよいを睨む。それにたじろぐことなく、やよいは正面から見返す。
 ただ2人の女が視線を交わし合っているだけの光景だというのに、
周囲の音がかき消えるような錯覚をはじめは覚えた。
 無音に包まれた藤森家の庭に、千夏の声が響く。

「あなたは人として、恥を知るべきだ」
「酉島さん。人の話を聞かないという点に於いては、あなたも同類でしょう?
 私たちとはじめくんの関係を勝手に誤解しないでください。
 あなたは私とはじめくんと、マナのことをどれだけ知っているというのですか?」
「確かに私は、はじめと知り合って間もないし、あなたたち2人のこともよく知らない。
 だが、あなたがはじめの優しさにつけ込んでいるのは事実だ」

 やよいの無表情に、亀裂が入った。
 ただ眉根を寄せるだけの動きであったが、そこからは抑え切れていない怒りが漏れ出している。
「酉島さん、他人の家に無断で押し入り、人の恋人を奪い取ろうとする女性のことを何と呼ぶか知っていますか?
 そのような人のことを、泥棒猫と世間では呼ぶのですよ」
「あなたがはじめの恋人だというのも疑わしいものだ。恋人ならば、相手のことを思いやるべきだろう」
「……酉島さんは、恋人がいらっしゃったことがありますか?」
「いや、無いが」
「では、わかるはずもありませんね。
 男と女の関係は、たとえ恋人同士であったとしても、戦いが絶えないということが。
 信じるだけではなく、時にぶつかることによって相手との密接な関係を作る。
 そうしてこそ、真の愛というものが芽生えるです」
「くっ……」
 口惜しげに千夏がうめく。
 それは自分に恋人がいた経験がないため、やよいに反論できなかった悔しさがさせた行動だった。
「と、とにかく! 私ははじめの心を踏みにじるような、そんな行動を看過することなど、できない!」
「それならば……どうするおつもりで?」
「あなたを倒し、はじめを解放する。それが友人としての情けだ」
「いいでしょう。望みも好みもしない戦いではありますが……口で言ってわからない方には、拳で語るといたしましょう」

 その言葉をきっかけに、空気が変わる。
 やよいがガードしていた腕を解放すると、千夏は弾かれるように後方へ飛び距離をとる。
 無言のまま、千夏は構える。左足を前に出し、両の拳を顎へ近づける。
 対するやよいは構えらしい構えをとらない。両手をだらりと下げて、拳さえも作らない。
 千夏の足が地面を蹴る。突進の勢いを利用した右拳をいなしながら、やよいは相手の左側へ移動する。
 返す刀で、千夏の右肘がやよいを襲う。やよいはかろうじてガードしたものの体勢を崩された。
 前屈みになっていたやよいは、蹴りを受けて数歩先の地面までたたらを踏んだ。
 その隙を、千夏は逃さなかった。
「はあっ!」
 千夏の長い足から放たれる前蹴りが無防備なやよいの背中へと伸びる。
 が、それは空を蹴っただけだった。
 やよいは、自身の背中を狙った蹴り足より体勢を低くしていたのだ。
 そして地に伏せたような体位のまま、前進。
 予測外の動きに戸惑いながらも、千夏は後方へジャンプし、追撃を逃れた。

 高揚を隠しきれない様子で、千夏が口を開く。
「やはり、初めて会ったときからただの家政婦ではないとは思っていたが、その通りだったか。
 あなたの使う拳は、何と言う?」
「勘違いしてもらっては困ります。私はただの料理人の一弟子に過ぎません。
 拳法や戦い方など、習ったことは一度もありません」
「ではなぜ、そこまで戦える?」
「昔から、ずっと守りたい人がいたから。これからもその人と共に生きたいから。ただそれだけです」
 やよいはそう言うと、最初と同じ自然体の構えをとって千夏へと気を向ける。
 千夏もまた、戦いの構えを見せる。
「そう思っているのならなぜはじめに――――いや、口で問うべきことではないな」
「あなたのような人には、口で語るよりぶつかりあった方が理解しやすいでしょう?」
「ああ、そうだ。いくぞ――やよい!」
「来なさい!」

 踏み込みと同時に休むことなく放たれる千夏のジャブを、やよいは後退しつつ捌く。
 千夏の上段蹴りをくぐるように躱し、左足の踏み込みを利用し、掌底を放つ。
 体をくの字に曲げつつも、千夏はその場で耐える。
 千夏が右手を振りかぶる。フックを放つようにみせたそれは、フェイントだった。
 そのことに気づかずに右拳を受ける構えをとっていたやよいは、反対から飛んできた拳に胴を殴られる。
「くっ……このっ……」
「まだまだ!」
 続けて始まる数10センチの限られた空間内での打合い。
 手を伸ばせば確実に相手を捉えられる状況。
 それほど接近している状況だというのに、どちらにもクリーンヒットは生まれない。
 攻め、受けともに両者の実力は拮抗している。
 そして、2人の攻防はより高みを目指すように速さを増していく。

 そんな2人の、アクション映画さながらに白熱した戦いを見つめるものがいた。
 はじめとマナだ。玄関の入り口に二人揃って腰を下ろしている。
 当事者であるというのにいつのまにか口も挟めなくなっていた2人は、既に傍観者の気分を味わっていた。
「……なんだか、仲いいね、あの2人」
「……ああ」
 はじめは気の抜けた返事をした。
 やよいと千夏がいきなり戦いを始めたせいで、はじめを責め立てる気をマナは完全に失っていた。
「はじめ、お茶でも飲む?」
 と、はじめを気遣うことまでしてみせる。
「ん……いいや」
「そう。……ね、はじめはどっちが勝つと思う? 私はやよいが勝つと予想するけど」
「2人に怪我がなければ、どっちでもいいんだけど。そうだな、相打ちが一番かな」

 そんなはじめの願いが通じたのかどうかはわからないが、やよいと千夏の戦いは相打ちに終わった。
 最後に技を放ったのはやよいだ。ふらふらになりながら放ったアッパーが千夏の顎を打ち上げたのだ。
 しかし、その一撃で意識を刈り取られた千夏は前のめりに倒れ、やよいも巻き込んでダウンした。
 そのままやよいも意識を失い、結果的に勝者無しという形で2人の戦いは幕を下ろしたのだった。

 脱力した2人をはじめとマナが部屋へと運び込む頃には、時刻は夕方の6時になろうとしていた。

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最終更新:2007年10月31日 20:38