「――はい、採点終わり。お疲れ様、久美ちゃん。合格よ」
夕暮れの讃州中学の教室で、もくもくと私の追試の答案に赤ペンを入れていた結城美森先生が顔を上げた。
「は~っ、やーっと終わったぁ……」
「……でも、合格点ギリギリ、ってところね。久美ちゃんは中近代史は得意だけど、特に神世紀300年以降の
近代史の知識が弱点みたいね」
「だって、あんまり興味わかないんだもん……神樹さまのご加護でずーっと平和な歴史なんて、つまんなくて」
「それだって、大切な歴史の一部なのよ? バランスよく勉強しなくちゃね」
「はーい」
いつも通り、優しいけれどきびきびとした美森先生のお説教を聞きながら、私は机の横のカバンを取り上げた。
今日は友達を待たせているから、早く行ってあげなくちゃ悪いのだ。
「それじゃあ、気を付けて帰ってね。あ、それと、今日の宿題も忘れちゃダメよ?」
「わかってまーす」
椅子から立ち上がりながら、私は教壇の美森先生をちらり、と見る。とん、とんとプリントをまとめている先生の横顔は
とてもきれいで、まさに『オトナの女』って感じだ。
きっと先生は、昔から男の人にモテたに違いない。――あの、おっきなおっぱいの事を差し引いたとしても、だ。
それなのに――と、私は思う。
「……ねえ、みもりん先生」
生徒の皆が呼び親しんでいるあだ名で、私は先生に呼びかけた。
「うん? なあに、久美ちゃん?」
先生はにこっと微笑んで、私の方に振り返る。差し込む夕日に照らされたその笑顔に、私は一瞬ドキッとしてしまいつつ、
ふと頭の中に浮かべた疑問を口にした。
それは多分、私だけじゃなく、この学校の生徒みんなが思っている事のはずだ。
「……みもりん先生は……」
「うん」
「――どうして、ゆーゆー先生と結婚したの?」
「…………」
私がせいいっぱいの勇気でした質問に、美森先生はただ黙って、こっちを見つめ返してくるだけだ。その視線に耐えられず、
私はつい、ふいっと顔をそらしてしまう。
そして、胸の内には、
(――やっぱり、聞いちゃいけない事だったのかな……)
という後悔がわきあがってきていた。
ゆーゆー先生――結城友奈先生は、私達の学校の、体育の先生だ。
いつも元気で、声が大きくて、時々私達と同じ、子供みたいなところも見せるけれど、困っている時には必ず助けてくれる、
正義のヒーローみたいな先生だ。
そのゆーゆー先生と、みもりん先生が結婚しているという噂――というより、それは単なる事実だったのだけど――は、入学後、
すぐに伝わってきた。
――まさか、女の人同士で結婚なんて、そんなのヘンだよ。ただ、名字が同じだけなのに。
初めに聞いた時は、そう笑っていた私達だったけれど、それぞれの先生に冗談交じりに聞いてみた所、
――うんっ、本当だよっ。
――ええ、その通りよ。
と、あっさり認められてしまい、なんだか驚くよりも先に、拍子抜けしてしまった。
実際、二人の先生は学校内でもとても仲がいい。それは見ている私達が困ってしまうような、べたべたとした間柄ではなく、
とても仲良しの親友同士のような関係性だった。
それを目の当たりにした私達は、疑うでもなく、嫌がるでもなく、みんなしてあっさりと受け入れてしまったのだけど――
けれど、やっぱり心の中のどこかでは、ずっとずっと、こう思っていたのだ。
どうして、女の人同士で結婚したの――? と。
「……大切な、人だから……かな」
「え……?」
不意に美森先生がぽつりとつぶやいたその言葉を聞いて、私は先生の方を向く。
先生の視線は、もう私を見てはいず。その代わりに、窓の向こうへと向けられていた。
――死のウイルスから、四国を守るために築かれた、『壁』の方角へと。
「もちろん、私達も、ただ何となく結婚したわけじゃないのよ? ……何度も話し合って、本当にそれが、ふたりの幸せに
つながるのかどうかって、二人でうんと悩んだの」
そのまま先生は、何かを思い出すかのような表情で語り続ける。
「でもね、どれだけ考えてみても、私には、友奈先生といっしょにいる事で、不幸になる未来なんて想像できなかったの。
もしも誰かに何かを言われることがあっても、隣に友奈先生がいてくれるなら、きっとどんな事だって乗り越えて行けるって。
……きっと、友奈先生も、それは同じだったんだと思う」
「………」
先生の声はとても優しくて、私は黙って聞き入ってしまわざるを得なかった。
「……それに、友奈先生は放っておくと、すぐに無茶な事をしかねないでしょう? だから誰かが責任を取って、そばで
見張ってなくちゃ、ね?」
くすっと微笑む美森先生の顔は、まるで私達と同じ、中学生みたいな無邪気さにあふれていた。
「みもりん先生……」
私が思わず、先生の名前を呼んだ、その時。
「東郷……じゃなかった、美森せんせーっ!」
廊下の方から、はきはきとした声が飛び込んでくる。
それが誰の声なのか、振り向かなくても私にはわかる。
その、底抜けの太陽みたいな明るさと、目の前の美森先生の、ぱあっと咲いた、花のような笑顔で。
「友奈ちゃん……!」
私はくるっと教室の入り口の方へ、視線を向ける。
ジャージ姿に身を包んだ、友奈先生がそこに立っていた。
教室へと入ってきた友奈先生は、私の髪をわしゃわしゃとなで回した。
「……おっ? 久美ちゃんは補習かな? うんうん、えらいえらい! でも、あんまり美森先生を困らせると、先生の
『勇者ぱーんち!』でお仕置きだからねっ」
「わ、わかってるよぅ、ゆーゆー先生~」
髪の毛をくしゃっとされながらも、友奈先生の大きくてあったかい手でさわられるのが私は好きで、ついつい笑顔になってしまう。
「……ちょうど今、テストが終わったところよ。久美ちゃんも無事、合格だから、補習はこれでおしまい」
「そっか! じゃあ、一緒に帰れるね!」
友奈先生が、うれしい様子を隠さず満面の笑みを浮かべる。こういう所があるから、子供っぽいとか言われてしまうのだけど。
「職員室に戻って、支度をしてくるわ。友奈ちゃ……ごほん、友奈先生も、着替えてくるでしょう?」
「うん、……それじゃあ、行こうか?」
教壇から立ち上がった美森先生に対して、すっ、ととても自然な動作で友奈先生がその手を引く。
その光景を見た瞬間、
(――ああ、いいな)
と。
羨望や、いやらしい気持ちを抜きに、私はとても素直な気持ちでそう思えた。
そう――この二人は、なんというか、とても。
『お似合い』のカップルみたいなのだった。
「……それじゃあ、久美ちゃん、また明日ね」
「寄り道しないで帰るんだよ? ……さよならっ!」
手をつないだまま、隣り合って廊下を歩いていく二人の背中を、私はぼんやりと見送っていた。
(……いつか、私にも)
知らないうちに、手の平をそっと握りながら。
(あんな風に、手を引いてくれる人が――そうしてほしいと思える人が、見つかるといいな)
……そんな風に物思いにふける私の背中を、
「――おっせーよ、久美っ!」
「きゃあっ!?」
誰かが思いっきり、すぱーん! と叩いてきた。
いたた、と背中をおさえながら振り向くと、そこには。
「……ったく、いつまで補習受けてんだよ? あんまりおっせーから、アタシ達の方から迎えにきちまったぜ」
「もうすぐ日が暮れちゃうよぉ~? 早く帰ろ~、くみくみ?」
私の友達、凛とそよ子が立っていた。
「ご、ゴメンね?」
私はあわてて、教室の中に置きっぱなしにしてきてしまっていたカバンを取ってくる。それから、二人と並んで昇降口へと
向かって歩き出した。
「……しっかしうらやましーよなー、久美は。歴史の成績だけはイマイチなせいで、ああやって美森先生と二人っきりに
なれんだからさ。アタシもたまには、あの先生とゆっくり話でもしてみたいんだけどなー」
「そ、そんなつもりじゃ……凛、歴史の話に興味があるの?」
「ん……いや、それよりも前にちょっとだけ聞いた、『勇者と魔王』っておとぎ話が面白くってさ! 巨大な悪に、敢然と
立ち向かう勇者、ってストーリーなんだけど、これがチョー燃えるんだよ!」
「そういうの好きだよねぇ~。……まあ、わたしもみもりん先生の作るお菓子、大好きなんだけどぉ~」
ぐっ、と握り拳を固める凛と、えへへ、と笑顔を浮かべるそよ子。
「それに友奈先生との、ラブラブぅな結婚生活だって聞いてみてーじゃん?」
「もう、そういう事をあんまり茶化すんじゃないの」
「へいへい、久美はマジメなんだからよー」
ぷー、と頬をふくらませる凛をよそに、私は二人の先生の後ろ姿を思い出す。
――あの二人は、きっと。
これからもずっと、共に手をたずさえて、生きていくのだろう。
私達の知らない過去に、育まれた絆によって。
「……行こう!」
昇降口へと着いた私は凛とそよ子の手を取って、日暮れの校庭へたっ、と走り出す。
「お、おい! 急になんだよ、久美!?」
「あはは、くみくみってば、元気いっぱいだねぇ~」
二人の友達と笑い合いながら、私も今日を、せいいっぱい生きていく。
――この時間が、いつかの遠い未来でも、私達をつないでくれる絆になる事を信じて。
最終更新:2015年02月23日 11:14