ゆっくりいじめ系2108 ありすを洗浄してみた。3

 そのありすは、いわゆるレイパーと呼ばれる類の存在ではなかった。
 ありすにはゆっくりした恋ゆっくりのまりさがいて、
 二匹は同じ群れに生まれ、子供のころから互いに想い合った相手であり、
 出合ってから一年の歳月を重ねる間に近々愛を結ぶ約束を交わし、多くの子を設けようと誓った幸多きカップルであった。

 ――つい、この間までは。との但し書きが着くが。




    *           *           *




 ぽいん、ぽよん。
 ぽゆん、ぽよん。

 夜の帳が既に下りた森の中。間抜けな音が、ぽやん、ぽわんと響いている。
 その音、気の抜けたバスケットボールが地面に跳ねる音に似ていた。
 音の発生源は、一つではない。二つ、寄せ合うようにして跳ねている。
 背の高い木々の枝葉から漏れる月明かりの中、その丸いナマモノは必死の形相で前へ、前へと跳ねていた。

「ゆっ、へっ、ゆっ、へっ……も、もうすぐだよ!」
「ゆぅ、はぁ、ゆぅ、はぁ……も、もうすぐね!」

 この時、れみりゃがふらんが徘徊する夜の闇を無謀にも疾駆するのは、二匹のゆっくりである。
 それぞれまりさと、ありすだった。

「ゆっ、ほっ……はやく、ゆっくり、したいねっ」
「ゆぅ、はぁ……そうね、まりさ、ここはゆっくり、できないものねっ」

 言い交わす二匹は、絶えず見えない何かに怯えているようだった。
 覚悟の強行軍だ。夜のおそとを出歩くことが、どれほどゆっくりできないことか、二匹は当然よく知っている。
 同じゆっくりの夜行性捕食種ばかりではない。
 野犬や狐狸といった動物たちから、幻想郷の主たる住人である魑魅魍魎の類まで、夜に活性化するゆっくりの外敵はとても多いのだ。
 それをおして、夜間の旅路を採らなければならない理由を、二匹は共有していた。

「でもっ……夜なら、群れのみんなも、追いかけて……これないものねっ……」
「ゆぅ、へっ……そうだね、追いかけて、これないものね……ゆぅ……」

 或いは、外敵が多いからこそ夜を選んだというべきか。
 二匹の旅路は逃避行だ。同じゆっくりから、捕食種ではないゆっくりから逃げている。
 それも、同じ群れに属していたゆっくりから。
 だから、夜を選んだ。夜に逃げれば、わざわざ危険を冒してまで自分たちを追いかけてくるようなことはないだろうから。

 二匹は何も、群れにおいてゆっくりできない罪を犯したわけではない。
 ありすはレイパーではなく、まりさもゲスではなく、むしろとてもゆっくりした、ゆっくりの優等生のようなゆっくりだった。
 だが、群れは自分たち――正確にはありす種に生きる価値を認めなかった。
 そういう群れになってしまった。
 群れがレイパーの被害を受けたということは、確かに幾度かあった。
 だが、それは常によそ者の――流れ者のありす種による仕業だった。群れの中からレイパーを出したことは、一度たりともない。
 例え、被害を受けたゆっくりやその家族の内心はどうであれ、流れのレイパーの罪の責を群れのありす種に負わせるなんて、
 全然ゆっくりできないことだとみんな了解しているはずだった。

 ならば、どうして群れは変わってしまったのだろうか。
 原因は、はっきりしている。一匹のゆっくりが、
 ドスの側近を務めるぱちゅりーが、憑かれたように危険も顧みず人間の里に足しげく通うようになったのはいつのことだっただろう。
 最初は、色々なことを教えてもらったと嬉しそうに周りに話していた。
 人間の里に行くたびに、いろいろなごほんの内容を教えてもらえて、ぱちゅりーの知識は少しずつ増えていくのだといっていた。

 確かに、ぱちゅりーは少しずつ賢くなっていくようだった。
 だが同時に、ありすは違和感を感じていた。少しずつ賢くなるぱちゅりーが、少しずつおかしくなっていくように感じられた。
 どこがどう、とはいえない。何かが極端に変わったわけでもない。
 ただ、少しずつ、ぱちゅりーは『ゆっくりするため』になら、『ゆっくりらしくない』考え方をするようになっていくように思えた。
 おかしくなったぱちゅりーが、ドスにまで変なことを吹き込んで、一緒におかしくしてしまったと気付いたのは、
 随分後になってからのことだった。

 そうして異変に気付いた所で、だからといってなにも手も出せず、気がついたら、歯止めなんて利かなかった。
 あっという間に、群れ全体がおかしくなってしまっていた。

「もうすぐ、『ゆーまにあのもり』を、抜けるわっ……」

 ゆーまにあのもり。
 ありすは眉根を曇らせて、ありすの故郷だったこの森の名前を呼ぶ。
 本当は、この森に名前なんかなかった。おかしくなったぱちゅりーが、「もりさんややまさんにもなまえがあったほうがべんりよ」と
 ある日突然主張しはじめて、この故郷を『ゆーまにあ』と名付けてしまった。
 確かに、土地にも名前があったほうが便利ではあった。
 例えば、位置関係がはっきりして、狩りや遠出の際にもどこへ行くのかがわかりやすくなった。
 新しい場所にどんどん新しい名前をつけていくことが、群れのゆっくりの間で流行った。
 新たに見つけた場所の名前を聞くたびに、世界が広がっていくような喜びを群れのゆっくりたちは共有した。

 でも、とありすは思うのだ。
 世界は広がったようで、実は狭くなったんじゃないかって。
 どこそこの森、どこそこの山。名前を付けることで、その場所とそこに存在するものが結びついてしまった。
 特にゆっくり同士の付き合いにおいて、群れのゆっくりはひどく他の群れに対して狭量になっていった。

『あの森のゆっくりの群れはどうだ、どこそこの山出身のゆっくりはこうだ』
『それに対してゆーまにあの森のゆっくりは、これだけとってもゆっくりできている』
『だからゆーまにあの森のゆっくりはそれだけえらいんだ』

 とても、居心地が悪い雰囲気をありすは感じた。みんな、ゆっくりできていない、と素直に思った。
 だから、ありすは群れの仲間たちから少し距離を置いた。自分もそんなゆっくりできないゆっくりにはなりたくなかった。
 それは無意識の危険信号だったのかもしれない。だからこそそれだけでは足りないのだと、もっと早くに気がつくべきだった。
 みんながみんな、自分と違うもの、否定していいものを探し始めたらどうなるか、気がつくべきだった。

『……ありすたちは、レイパーになるゆっくりだよ』
『れいぷでゆっくりをころすゆっくりだよ』
『おお、こわいこわい』

 結局、ありすたちがある日気がついたときには、みんなの『ゆっくりできていない』探しはもうありす種に向けられていた。
 そしてみんなから『わるもの』を見る目で自分が見られていることに気づいた時。
 ありすはやっとドスとぱちゅりー、そしてその他の群れの長老たちが何をしようとしているのかを悟った。

 それは、ありすにだって子供の頃、何度も経験したことがあることだった。
 子ゆっくりが何匹か集まれば、必ずといっていいほどいじめていい相手というものを見つけ出す。
 ちょっとした違い、ちょっとした鈍さ、それを目ざとく見つけ出して、その劣った部分を責め立てる。

 何故って?

 そんなの簡単だ。楽しいからに決まっている。
 みんなと違うことは、悪いことだ。
 みんなと同じことができないのは、気持ち悪いことだ。

 そう、『わるいやつ』がはっきりしていると、みんなゆっくりできるのだ。

 まだ、わからない?

 それは、気に入らないことを全部『わるいやつ』のせいにして叩いてしまえば、なんとなくすっきりー!した気分になれるからだ。 
 それに、ドスはみんなをゆっくりさせることができなくても、みんなが『わるいやつ』を叩いている間は自分もゆっくりできるのだし。
 みんなで『わるいやつ』に『せいさい』を加えている間は、群れ全体が一つにまとまっていられる。
 運悪く、『わるいやつ』にとして指定されたゆっくり以外は。
 そしてありす種は、まさにその『わるいやつ』に指定されたゆっくりに他ならない。
 ありすはそんなひどいお芝居の役周りに付き合うつもりは、さらさらなかった。

「……ひがしのドス、うけれいてくれるかしら」

 だから、ありすは森を逃げ出そうとしている。
 恋仲であったまりさに連れられて、日増しに強まるゆーまにあの森でのありす種迫害から逃れるために。
 ゆーまにあの群れの縄張りに隣接する、強大な東のドスの縄張りへと。

「ゆぅ……それは、いってみなきゃ、わからないよ」

 危険から物理的に遠ざかるにつれて、ありすの中で不安の暗雲がどんどん大きく広がってゆく。
 疲労ではなく、心労から徐々に跳ねる速度が落ちてゆくありすに気づいて、まりさが叱咤の声を掛ける。

 確かにまりさにしても、逃げ延びれば東のドスに保護してもらえると確信があっての逃避行ではない。
 このまま群れに残った場合、何が我が身に起きるかわからないという恐怖に駆られたからこその逃走劇だ。

「ありすが、ゆーまにあの森を出たいなら。ゆっくりしないで、いくしかないよ」

 先のことはわからない。
 それでも、進む先にしか生き延びる可能性は残されていないように思えた。少なくとも、幸福の可能性は森の外にしかなかった。
 そして、ありすだってその可能性をあきらめるつもりなどなかった。
 ありすと共に、この先のゆん生を生きていきたかったから。まりさもまた、ありすと共に生きていくと誓ってくれたから。
 その誓いを、どんな形であれありすは最後まで貫くつもりだった。

「だめなら、きたのドスのところにいくよ。あそこのドスは、どんなゆっくりもうけいれてくれるってきくよ」

 そこまで険しい表情で続けてから、まりさはありすに改めて視線を向けなおして、「ゆっくりまわりみちだね」と笑った。
 そうだ、最後まであきらめない。可能性すべてにすがりつくんだ。
 大好きな、今までいつも支えてくれたまりさと、これからもずっと一緒に生きていくために。

「……ちょっとしたはねゆーんね」

 まりさの笑顔が、ありすの心を勇気付ける。
 疲れた身体に、まだまだ走り続ける力を分け与えてくれる。

「もうすぐだよっ。もうすぐもりをぬけて、ぷるとのおがわだよ!」
「ぷるとのおがわをわたったら、もうひがしのドスのなわばりね……!」

 東のドスの群れに受け入れられたら。
 たとえ、そうでなくたって。

 まりさは一緒にいてくれると誓ってくれた。
 ありすはそれだけで胸が一杯だった。しあわせー!で身体中がいっぱいだった。

「そこまでよ!」

 この裁きの時が来る直前まで、しあわせー!で身体中が一杯だった。

「「ゆゆーっ!?」」

 それは、森を抜け、川原に出る本当に直前の事だった。
 鋭い叫びが、前から響いた。後ろからではなく、前から。
 東のドスの群れが支配するはずの領域の側に、突如多くの気配が沸いた。

 ありすは驚き、たたらを踏んだ。
 まりさはとっさに危険を察知したのか、跳ねるのを止めるや一歩後ろに下がった。、

「このむれからにげられるとでもおもってるの? ばかなの? しぬの?」
「おお、おろかおろか」
「レイパーで、しかもひがしのドスのスパイなんて……」
「おお、はじしらずはじしらず」

 前方から投げられる声は、一つではない。
 闇の分厚い緞帳の向こうに、数多の気配が沸いていた。
 追っ手ではない、はずだ。ありすは努めて、予想外の事態に冷静であろうとする。

「か、かくれてひとのわるぐちなんてとんだいなかものね! とかいはは、あいてのまえできちんといけんをいうものよ!」
「もちろん、でていってあげるわ」

 精一杯の虚勢を込めたありすの呼びかけに、闇の中の声は笑いの気配を乗せて応じた。
 前にいるのは追っ手ではない。誰にも気付かれずに群れを抜け出したのは。
 捕食種でないことも間違いない。れみりゃにせよ、ふらんにせよ、狩りの対象に襲い掛かる前に会話の猶予を設けるほど悠長ではない。
 捕って食うことが目的である以上、唸り声を上げて威嚇することはあっても襲う時はほぼ例外なくいきなりズドン、だ。
 だから追っ手と捕食種、両者ではありえないはず。警戒しつつも、だからありすは必要以上に恐れない。

 とはいえ、姿の見えない相手の口振りから察するに、こちらに好意を抱いていないことも確かだ。
 そもそもこんな冬場、しかも夜更けに活動しているゆっくりがいること自体、不審だった。
 確かに冬といっても暖かい日なら、縄張りの境界ぎりぎりまで狩りに出かけてその日の内には帰ってこない仲間が出ることもある。
 そんな、遠出して日のある内に帰巣できなかった仲間と、偶然出くわしてしまったのだろうか?
 だが同じ群れのゆっくりならば尚更、敵ではないとはいいきれなかった。群れは、ドスに忠誠を誓うゆっくりが多数派なのだ。
 どう言い逃れるか、無理ならばどう逃げるか、ありすは相手の姿を求めて目線をきょろきょろと泳がせる。

 そして。

「いけんするためじゃなくて、あなたをえいえんにゆっくりできなくするためにだけどね!」 
「ゆげっ……」

 暗闇の中、啖呵を切りながら進み出てきたゆっくりたちの姿に目を限界まで見開いて言葉を失った。

「ど、どぼぢで……?」

 目の前で、茫洋と開けた未来の前で、ようやくありすが手にしようとする光明の前で、ありえないことが起きていた。
 未来へ続く道筋が、急速に狭まってゆく。
 届いたかに思えた光が急速に遠ざかり、闇へと置き換わっていく。

 今、目の前の闇の中から現れて、ありすの希望を根こそぎにしようとする『連中』の名前を、ありすはよく知っていた。
 その恐怖を、その悪夢を、ありす種である彼女が知らないわけがなかった。

 目の前に現れたものは、群れから放たれた追っ手だった。目の前にいるはずのない、群れからの追っ手だった。
 そして追っ手として群れから出るものたちのうち、考えうるその中でも最悪の存在でもあった。
 どんどん数を増す『連中』の姿に耐え切れず、ありすの恐怖と悲しみに塗りつぶされた叫びが夜の森に響く。

「どぼぢで『ゆっくりたあて』がまえにいるのおおぉぉぉ!!?」



 ――『ゆっくりたあて』。

 ありす種を迫害するためにぱちゅりーが中心になって作り上げた、ありす狩りのための特別なゆっくりたちだ。
 その目的とするのはありす狩りだが、そこに属するゆっくりもまた、その多くがありす種だという。

 そこに属するものたちは、ありす種も、そうでないものも、例外なくレイパーありすの子どもだった。
 レイパーありすが襲い、孕ませ、朽ち果てさせたゆっくりたちの子どもたちだった。

 ぱちゅりーはその生まれながらにして親の亡い赤ちゃんゆっくりたちを『群れに授かった子どもたち』として集め、
 彼女たちにドスと群れ全体のためだけに働くことと、『ゆっくりたあて』として教育された仲間以外のありす種を憎むように仕向けた。
 そして、ことありす種には見た目からしてレイパーとなるありす種とは違うのだと自覚させるために、生まれながらに身に着けていた
 ありす種の証であるカチューシャを捨てさせた。
 不思議な事に、そうしてカチューシャを捨てたありすたちには、新たに青いリボンがどこからか生まれるのだった。

 こうして変異したありす種が、誰ともなく『ろりす』と呼ばれ始めたのがいつのことからかわからない。
 そしてその青いリボンをつけたありすこそが『ゆっくりたあて』の象徴になり、彼女たちの団結と忠誠心の証になった。

 それは同時に、ありすや群れのあり方に疑問を持つゆっくりたちにとっての恐怖の対象でもあった。
 このありす――否、ろりすたちは今、ありすを殺し、ドスと群れの恩に報いるためならば夜の闇すら欠片も恐れない。
 自己の身の危険すら問題としない狂信が、鋭利過ぎる刃となって少しでも意見を異にするゆっくりたちに容赦なく突き立てられるのだ。

「ドスのおさめるむれをうらぎるなんて、ぜったいにゆるされないのよ」

 今、この瞬間、むき出しにされたその牙にありすが追い詰められているように。

「ゆ、う……どうして? どうしてここがわかったの……?」

 じりじりと、ろりすが間合いを詰めてきた分だけありすは背後に後じさる。
 今の群れは、裏切り者を絶対に許さない。いなくなったことに気づかれた後で、群れから追っ手が掛かることは予想していた。
 だからこそ、一切ゆっくりしないでこの境界線まで一目散に逃げてきたのだ。
 ゆっくりは持ち運べる明かりを持たない以上、たとえスィーを使ったって夜に素早く森を移動する手段なんてない。逃げ切れる、はずだったのだ。
 それなのに、ろりすたちは先回りして目の前にいる。
 ありすとまりさが、家族を捨ててまで選んだ未来への道を遮っている。

 どうやって?
 その疑問に対する答えを、ありすは持たない。
 だが、なんのために? ということであれば、自問するまでもなくはっきりしている。
 ありすを、この場で殺すため。それ以外の目的なんかあるはずがない。

「うふふふふ……」

 死への絶望にその顔をゆがめたありすを嘲笑う声は、後ろから聞こえた。
 驚き慌てる間に、後ろにも回りこまれたのだ。ありすは自分の迂闊さを悔やんだ。
 振り向く間に、不安にも襲われる。ありすが気付かない間にろりすたちが後ろに回りこんでいたのだとしたら.

 まりさは、最愛の恋ゆっくりは、無事でいてくれているのだろうか。

「どうして『ゆっくりたあて』がまりさたちのまえにいるのかしらね?」
「ゆ? まりさ?」

 まりさは、無事だった。表情は豹変、じっとりと湿度の高い笑顔を顔に貼り付けて、しかしまりさは無事だった。
 その口から名前を呼ばれて、ようやくのこと。
 ありすは、自分が聞いた笑い声が、後ろに留まるまりさが上げたものだったことに気が付いた。

 心の中に湧き上がった不安が、その瞬間急速に変質していく。
 ありすにはまりさの笑顔の理由がわからない。
 前方に現れたろりすなど一顧だにせず、まりさが満面に湛える嫌な笑みは完全にありすにのみ向けられていた。
 ありすはこれまで、まりさからこんな小ばかにするような視線を向けられたことはない。
 それどころか、まりさが誰かにこうもあからさまに蔑む眼差しを送るところすら、見たことがなかった。

 いったい、これは、目の前にいるこのゆっくりは本当にありすが愛したまりさなのだろうか。
 そんな馬鹿げた疑問すら、重大な深刻性を持ってありすの脳裏を過ぎる。それほどの違和感だった。

「それはね、ありす」

 まりさが何か言っているが、ありすはその声音を聞いて、しかし内容はよく聞いていない。軽いパニック状態だった。
 まりさが本当のまりさかどうかなんて、いったい、別の誰かがすりかわっているとでもいうのか。
 ばかばかしい、とありすは意識して自分の頭からそんな妄想を追い払う。
 だいたい、目の前にいるまりさのおぼうしは間違いなくありすの愛したまりさのおぼうしだし、
 まりさのお声は間違いなくありすの愛したまりさのお声だ。口調は何故か、どこかゆっくりできないものに変わっているけど。
 長い間、とかいはな愛を育んだ二匹だ。例え何者かがおぼうしを奪って成り代わっていたところで、その声で真贋の区別は絶対につく。

 そうだ。声さえ聞けば。望むと望まざるとに関わらず。
 ありすには、その真贋がついてしまうのだ。

「まりさがゆっくりたあてにしらせておいたからよ」
「……ゆ?」

 あたりまえだ。ほんものかどうかなんてすぐにわかる。

「ゆぅ? わからない? まりさが、ドスをうらぎろうとしているありすがいるって、れんらくしたの」

 すぐに、わかる。たとえわかりたくなくても、わかってしまう。
 ながいあいだ、いっしょにあいしあったのだから。

 だから。

 いま、めのまえで、ありすをうらぎったとほこらしげにつげたのは、まちがいなく、ありすのあいした、あのまりさだ。

「まりさ、おつかれさま。もういいわよ」
「ゆゆっ、ありがとうねろりす。じゃあまりさはつかれてるし、ちょっとおやすみさせてもらうわ」

 ろりすとまりさが、親しげに言葉を交わす。互いの労を労っている。
 その光景を目の前にして、ありすはまったく凍り付いていた。
 何が起きたか、わからないからではない。
 わかってしまったからこそ、凍り付いていた。

「まり……さ……? どういう、こと?」

 わかっていて、理解したくないから、我知らずそんな問いを口にしていた。
 自分でも、ばかばかしい問いだとしか思えない。
 まりさがまりさである以上。何が起きたかなんて、この上なくはっきりとしているのに。

「ありす、おどろいてるみたいね。つまり、こういうこと」

 まりさが口元に浮かべた笑いは、ろりすたちと同質の冷たさを備えていた。
 軽く体を前に傾けたまりさのおぼうしに、ろりすの一匹が口に咥えた何かを飾り付けた。

 それは、三日月の形をした小さな帽子飾り。
 普通のまりさではない、『ゆっくりたあて』に与するレイパーありすの落とし子たるまりさ種の徴。

 まりさが、最初から最後まで、決してありすの味方などではありえなかったことの、
 出会った最初の瞬間から、迫る最期の瞬間まで、ありすに対する群れのスパイであったことの、
 まりさが最初から最期まで、ありすの敵であったことの、紛れもない絶対の証。

「……だっ。だましたの!? だましたのね、まりさ!」

 氷が、解ける。心を鎖していた氷が。跡形もなく、揮発するほどの勢いで。
 身を焦がすような、心を焼き滅ぼすような、光をいっさい発することのない真っ黒な炎。
 ありすの中に唐突に燃え上がったその炎が、心を閉ざしかけた氷をたちまちの内に消し飛ばす。

「ゆゆ? まりさはむれのためにはたらいただけ。むれをうらぎったのは、ありすよ」

 炎の燃料は、怒りと絶望。
 だがありったけの激怒をぶつけてなお、それに怯むでもなく薄く、まりさは湿った、陰りのある笑いを動かさなかった。
 彼女の反応は、とても薄い。今まで共にしてきた時間を、根本から疑わせるほどに。
 ただ、まりさにとって当然のことを、当然のこととして告げるだけだ。
 さながら、まるで面識のない赤の他人にものごとの道理を説くように。

「むれをうらぎったゆっくりは、えいえんにゆっくりできないことになるの。あたりまえじゃない」
「ゆあ……ゆあ、ゆがああぁぁぁぁっ!!」

 ありすは叫んだ。
 言葉にならなかった。考えなんて、まとまるわけがない。
 心の中は煮え立つような激情と、凍りつくような絶望でぐちゃぐちゃだった。
 今までありすがありすのままでいられた、拠って立つべきものが、跡形もないほど粉々に打ち砕かれてしまっていた。

 まるで、宙に放り出されたような感覚。 

 出会ってからいつも、まりさは一緒だったのに。


 いつも、ありすよりさきをすすんで、ありすをひっぱってくれたのは。
 いつも、ありすのしらないいろいろなことをおしえてくれたのは。
 いつも、ありすをそばでやさしくささえてくれたのは。

 これからもいつもいっしょだと、みらいをちかいあったのは。

 であってからいつも、ずっとずっとふたりでつみかさねてきたまいにちは。




 ――ぜんぶ、うそだったの?




「……じね!」

 瞬間、ありすの頭から思考が消失した。
 口にしたこともないような単純な罵声が、抱いたこともなかったような純粋な憎悪に乗って喉の奥から迸った。
 恐怖が消え、怒りに置き換わり、殺意となってまっすぐにまりさを射抜いた。
 その殺意の射線を辿って、ありすが一個の弾丸と化して地を蹴り、飛んだ。

「じね! うらぎりものはじねっ! ゆっぐりじね! じね! じね!」
「うらぎったのはありすだっていってるでしょ?」

 そう嘯き、心外そうに眉根を寄せるまりさの顔がひと跳ねごとにぐんぐん迫る。
 まりさへの疾走、その最後の跳躍は、ありすのゆん生で最良の跳躍だっただろう。
 ありすはまりさの身体を食い破るべく、まっすぐ、綺麗に飛翔した。放物線を描き、金色の髪をなびかせて。

 破滅へ向かって、まっしぐらに。

「ドスのもりに、レイパーのきたならしいこえがひびくのはゆるされないわ」

 そんな、事務的ですらある淡々とした声が、ありすの極端に狭まった――まりさ以外の全てをオミットした視界の外から聞こえた。
 次の瞬間、その狭い視界の下方から、茶色い何かが突き出してきた。
 避ける余裕も、その意思もなかった。ありすの頭の中は、まりさを殺すことだけで占められていたから。
 そしてありすと茶色い何かは一点で交差し、『とすっ』、と軽い音と衝撃がしたかと思うと、
 ありすは喉の奥に焼き付くような――いや、焼き尽くすような激しい痛みを覚えた。

「ゆべっ……!!」

 それは、死を予感させるほどの苦痛だった。
 ありすは絶叫すら上げられず、飛び出そうなほどに剥いた眼球をぎょろぎょろと動かして、必死に我が身に起きた事態を知ろうとした。
 まともに声が出ないのは、何も痛みのせいだけというわけではなかった。
 ありすは最初、目の下に伸びる茶色い棒が何かわからず、数回転ほど地面をごろごろ転げまわり、十分すぎる苦しみを味わった末に、
 ようやくそれが口の中に突き立つ木の棒なのだと理解した。
 もっとも、たとえ理解が及んだ所で苦痛の源に対処するための手段は貫かれたありす本人には存在しない。
 のた打ち回れば回るほど、口から突き出した長い棒が激しく地を打ち、その衝撃が中身をえぐり、かき回す。

「えべっ、ゆえぼぶぇべっ! ふびぃぃぃ、うびぃぃぃぃ!!!!」

 それでも、ありすは死ぬ事が出来ない。ありすの口のサイズに等しい太さの棒が、カスタードを吐き散らすことすら許さないから。
 中身を失わない以上死ぬ事も出来ず、継続的に与えられる苦痛が意識を失うことすら許さない。

「びっ……ぶいぃぃ……ぶぃべぇっ……ば、ばでぃざぁぁぁ! びゅぐっり、びぶぇえ……!!」

 塞がれた口から漏れ出る音は、死の世界に落ち込みつつあるものが生あるものに遺す呪詛の言葉だ。
 まさに生き地獄という状態で、ありすはぎろりとまりさを睨み据えた。
 この世の全てを呪うような眼差しで、この世の全てそのものだったまりさをぎろりと睨みすえた。
 睨んだものを道連れにする力が自分にあったなら。
 そう願い、力ない自分に絶望し、だがせめて、もはや免れる望みはない死の瞬間まで憎悪と憤怒を叩きつけてやろうと、
 命を緩慢に削られてゆく苦悶の中、まりさに向けた視線だけは決して反らさず睨み続けた。

「ドスのもりを、レイパーがきたならしいめつきでみることはゆるされないわ」
「……びゅっ」

 その儚い抵抗の術すら、ろりすたちは行使する権利を認めない。
 視線が突然、二匹のろりすに遮られたと思うと、視界が同時に暗転した。

「ゆぶびっ!! ゆぶぁゃあばばぁばぁぁぁぁぶぁばぁっ!!?」

 ワンテンポ遅れて、新たに焼かれるような苦痛の源が二つ増えた。
 両目を深々と鋭く尖れた枝が抉っていることを、もはやめくらのありすには永遠に認知する事はできない。

「ドスのもりを、レイパーがみにくくうごきまわることはゆるされないわ」
「ぶびゅっ……っびゅびぃ!!? ゆべびぃっ、ゆびいいぃぃぃぃ……っ!!!!」

 それどころか、ありすはついにのたうつことすら許されなくなった。
 激しく横殴りの衝撃を受け、横転したありすの底部にすかさず幾本もの鋭い木の枝が続けざまに突き立てられた。
 その全てが、皮を軽く突き破り、中身の奥深くまで達する深手だった。
 これでもう、ありすは二度と大地を跳ねたり這い回ったりすることは出来ない。

「ドスのもりを、レイパーのきたないなかみでよごすことはゆるされないわ」
「ゆぐっ……ゆびゅっ、ゆぶぅ……」

 ろりすの冷たい宣告が聞こえるたび、ありすの機能は一つずつ奪われていく。

 今のありすはおしであり、めくらであり、足萎えだった。

 聞くことはできる。ありすがまりさに向ける憎悪より遥かに暗く、強い憎しみの篭ったろりすの声を聞くことはできる。
 嗅ぐことはできる。傷口から僅かずつ体内から漏れ出していくカスタードの甘い香りを、自らに迫る死の臭いを嗅ぐことはできる。
 感じることはできる。何匹ものろりすたちがありすの金髪を銜えて乱暴に引きずり、どこかに運び去ろうとしているのを感じることはできる。

 それ以外はできない。なにも、できない。
 そして、例え意味ある言葉をろりすの口から聞くことが出来ても、ありすはもうその言葉の意味を理解するだけの認知力を持たない。
 全身を激流のように駆け巡る苦痛の情報は、ついにありすの精神の限界を超えつつあるからだった。

(どぼぢで……)

 緩慢に死に逝く、身体よりも。
 先に、絶望と苦悶と憂悶に支配された心が掠れて逝く。
 ありすの心が薄まり、消え果て、ただ蠢くシュークリームと変じてゆく。
 身体より一足早く、虚無へと向かうありすの心に浮かぶのは、たった一つの疑問だった。

(どぼぢで、ありずをみんな、ぎらうの……)

 何もしていないのに。
 みんなと共にあることを祈っていたのに。
 まりさに愛されたいと願っていたのに。
 ただただ、ゆっくりを――すっきりではなく。ただひたすらにゆっくりとした日々を――望んでいただけなのに。

「ドスのもりに、レイパーのいばしょはどこにもないわ……っさっさと、きえなさい!」

 勝ち誇った叫びを聞くと同時に、どん、という衝撃をありすは感じた。
 ふわりとした浮揚感の次に、水面にわが身が落ちる冷たい感触。あの小川に突き落とされたのだ、と理解するまでに少し掛かった。

(このかわの、むこうにいけば――)

 ゆっくりした生活が、待っているはずだった。
 まりさと共に誓い合った、誰からも迫害を受けないしあわせーな生活が。
 そのまりさ自身に壊された未来が、舌を延ばせば届きそうなほどの間近にある。

 ありすの枝が突き立つ両眼から、餡子の混じった涙が二筋生まれ、すぐさま水流の中に溶け込んだ。
 ありすは流されていくだけだ。
 今までもそうだったように。死の後にすら、流されていくのだ。
 己の意志など、そこに介在はしない。
 ゆっくりの織り成す社会の流れが、川上より川下へとただ下るだけの水の流れが、ありすの行き着く先を決定する。

 例えどれほど求めるものが近くにあっても、流れがそこへと向かってくれぬ限り、ありすの努力など未来永劫結ばれることはない。
 そして、流れはありす種が総じてレイパーとして忌まれ、疎まれ、斥かれる方向へと定まっていた。

 川の流れはありすを乗せて、ゆっくり、ゆっくりと、下流へと流れ下っていく。
 凍りつくように冷たい川の水は、不幸にしてありすの皮をすぐには溶かすようなこともなく、カスタードの流出を許さず、
 思いつく限りのこの世の全てを呪う猶予をありすに与えてなお生命あるままに流してゆく。

(もう……ゆっくり……ざぜで……)

 その願いすら、ありすを翻弄し続けた『流れ』は容易に許すことなく。
 ありすに安息が許されたのは、それから日が昇り、月が没して川魚たちが活発に動き出したあとのこと。

 ありすはやはりゆっくりと、川魚たちが気まぐれに身体を食い千切る苦痛の中に悶えて死んでいった。



 この冬。
 ゆーまにあと自らを呼ぶゆっくりたちに端を発したありす排斥の流れが冬の食糧事情に絡んだ間引きを呼んで、
 数千、数万のありすの死体が幻想郷近くまで流れ着き、文々。新聞の記事にちょっとした怪現象として描かれることになるのだが――、
 それは一足先に旅立った、ありすにとっては関係のないことだったろう。

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最終更新:2022年01月31日 03:13
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