ゆっくりいじめ系2837 風に乗ってどこまでも

「いい天気じゃのう。そう思わんかい、ゆかりん?」
「ゆかりんもゆっかりしてるわ!」
「おおそうか、それはよかったわい」

澄み切った空に、暖かな日差し。
とある家の縁側で、お爺さんとゆっくりゆかりんは仲良く日向ぼっこをしていました。

「こうして煎餅を摘まみつつ縁側にいると、年を取ったと気づかされるのう……」
「ゆかりんは17歳だけど、おじいさんはお年寄りだもの」
「17年も生きてないじゃろうに」
「ゆかりんってばぴちぴちね!」
「あっはっは、よう言うわ。ほれ、煎餅をもう一枚やろう」
「むーしゃむーしゃ、しあわせ~♪」

そんなくだらない話をしつつ、彼らはのんびりとしています。
巷では野良ゆっくりやゆっくり虐待などが社会問題になっているらしいですが、まるでどこ吹く風といったもの。
とてもゆっくりとした光景でした。

「そう言えばゆかりん。今朝タンスの裏に落ちたマカを取ってくれたじゃろう」
「ゆ? ゆかりんゆっかり頑張ったわよ!」
「そうじゃな。それでふと思ったんじゃが、ゆかりんはどこまで薄くなれるんじゃ?」
「ゆゆゆ?」

ゆかりんには体を薄くする能力――つまり、隙間に入りこむ能力があります。
元々は大きな岩の割れ目などに隠れるとき使うらしいのですが、
ペットとしての生活では先ほど言った通り、タンスの隙間に入るぐらいしか能がありません。
お爺さんは久し振りにその能力を見て、少し気になったのでした。

「ゆっ! おじいさんの頼みならしょうがないわね。ゆっかり見て頂戴!」

そう言うとバスケットボールのような丸い体が、まるで中身が吸い取られていくように、徐々に薄くなっていきます。
9cm……8cm……まだまだ薄く、もっと薄く。
そして2cm……だいたい文庫本の厚さよりも薄くなっていき―――


「ババァーン!!!」


何ということでしょう、紙のようなペラペラになってしまいました。
傍から見れば、ゆかりんを印刷して切り抜いたポスターのようです。
もし見知らぬ誰かがこの姿を見た場合、元となった妖怪が2次元と3次元の境界をいじくったと思っても仕方ありません。
もちろん髪の毛や帽子もペラペラで、口だけがアニメのように動いていました。超薄型テレビもびっくりでしょう。

「おおっ!? そんなに薄くなりおって、大丈夫なのか!?」
「ゆっかり触ってもいいのよ?」

お爺さんが言われるままに恐る恐る触ってみると、本当に紙のような重さです。
質量保存の法則に従っていれば、ゆかりんは2畳くらいの大きさに広がっていてもおかしくありませんし、
重さは全く変わらないはずなのですが、今や中身どころか皮の厚みも本当にあるのか怪しいものでした。
どうして生きているのか、中身はどこへ消えたのか、ゆっくりとは謎だらけです。

「ほ―……。しかし、本当に大丈夫なんじゃな?」
「ゆゆーん、心配し過ぎよおじいさんは」


その時、一陣の突風が吹きました。


「ぐわっ!? 目が、目がぁぁぁ!」

風が運んできた砂が偶然お爺さんの目に入り、思わず持っていた手を放してしまいます。
すると当然ながら、ゆかりんは空中に放り出されてしまいました。

「!?」

ゆかりんは地面に落ちると思ったのでしょう、目をつぶって来るべき衝撃に備えます。
けれど、なぜか痛みはやってきません。
それどころかまるで羽毛みたいなふわふわとした感覚が周りを包み込んでいました。

「……ゆゆ?」

不思議に思ったゆかりんは、こっそり片目を開けてみます。
茶色くてざらざらした地面が見えました。ですが、一行に距離が縮まりません。


そう、ゆかりんは空中に浮いていたのです。


うまい具合に薄くなった体が風を受けとめているのでしょう。
落ちる気配は微塵もなく、むしろ気流に乗ってどんどん浮かび上がっていきます。

「ゆっかり~ん♪ まるでお空を飛んでるみたい!」

目をやられた苦しみにのた打ち回っていたお爺さんは、それを聞いてぎょっとしました。
なぜなら、その声がだいぶ上から聞こえたからです。具体的な位置は、目の見えないお爺さんには解りません。
お爺さんの脳裏には、まるでビニール袋のように空へと舞い上がるゆかりんの姿が浮かび上がります。

「こ、これ。すぐにもどってくるんじゃ! 飛んで行っちゃいかん!」
「ゆゆ~ん。ゆっかりできるわ♪」

しかしゆかりんはそんな心配をよそに、お爺さんの言葉など耳に入っていませんでした。
屋根の近くで気持ち良さそうに、ひらひらと風に舞うばかりです。

……ふと、ゆかりんはこのままどこかに飛んでいこうと思いました。
飼い主が老人ということもあって、ゆかりんはこの家に飼われてからあまり外に出たことがありません。
そのためこの千載一遇のチャンスに、ちょっと遊びに行こうというわけです。

「おじいさん、ゆかりんちょっと出かけてくるわね」
「だ、だめじゃ! すぐに下りてきなさい!」
「だか断るわ!」

ゆっくりは一度決めたことは簡単にはあきらめてくれません。
それがゆっくりできると信じる限り、自分の信念を貫く生物(なまもの)です。
その信念のおかげか、ゆかりんは体をうねうね動かして風をつかめることに気付きました。
するとハングライダーのように、思った方向へと進んでいきます。

そう、まさにこの瞬間、ゆかりんは空を飛んだのです。


「あいきゃんふらーい!!!」


こうして、ゆかりんの空の旅が始まったのでした。



   ◇ ◇ ◇



お爺さんの家を出て、町を抜け、風に身を任せたゆかりんはゆっくりしてない速度で飛び続けます。
視界に入った家々は次々と流れていき、平らな頬で風を切る独特の感覚。
うーぱっくに乗ったこともないゆかりんにとって、この初フライトは驚きの連続でした。

「お空ってすごいのね……」

一方、ゆかりんを見つけた生き物たちも驚きの連続です。
縁側を歩いていた猫は踏み外し、
不審なものを見た番犬は吠えたて、
近くを飛んでいた雀は落下する。
ふと空を見上げたセールスマンなんて『俺、疲れてるのかな……』と正気を疑うほどでした。

「そーらをじゆーに、とーんでーるわー♪」

今やゆかりんの興奮は最高潮。
お気に入りのアニメの歌を歌うほどです。
――翌日、地方紙の一面に『怪奇! 謎の歌声!?』という記事が書かれたとかなんとか。




さて、しばらくしてゆかりんは街並みが変わってきたことに気が付きました。
色のついた瓦屋根が減っており、代わりに灰色の建物や道路が多くなってきています。
そう、なんと住宅街を抜けて都市部についてしまったのです。

「ゆーん……そろそろおじいさんのおうちに戻ろうかしら」

見慣れない景色が広がり、急に不安になったのでしょう。
珍しい景色もたくさん見たので、ゆかりんはそろそろ帰る頃合いだと思いました。

そんなとき、ゆかりんは何か黒いものがこちらに向かってくることに気が付きます。
なにか剣呑な気配を察したゆかりんはそちらをじっと見つめていると、それは大きな黒い翼をもった鳥であることが解りました。

「カァー! カァー!」
「ゆゆっ! カラスさん!?」

都市部にすみついた烏にとって、ゆかりんは自分たちの領空内に踏み込んできた侵入者に思えたのでしょう。
あっという間に距離を詰めたかと思うと、鋭いくちばしを使って下から突き始めます。

「いたいっ! ちょ、やめてちょうだい!」
「カァー! カカァー!!」
「あっ! だめっ! おめめはやめてっ!!」

必死に攻撃の手を止めるよう求めるゆかりんですが、烏に言葉は通じません。
それに烏だって、このペラペラした何かを排除しようと必死なのです。

そして渾身の一撃を受けた時、まるで体を貫かれたような感覚がゆかりんを襲います。
体が薄かったためかうまく力を逃がしたらしく、幸いにも中身が出ない程度の傷で済みましたが、ゆかりんはあること気づきました。

今の体だと、本当に体が貫かれるかもしれないのです。

スキマ状態で体に穴が開くとどうなるのか解りませんが、
中身が一気に漏れるとか、一生穴があいたままとか、良くない想像しか思いつきません。
そして、おそらくその通りでしょう。
ゆかりんは今までに感じたことのないほどの恐怖に背筋を寒くします。


「もうやだおうち帰る!」


自然にその言葉が口から出た時、奇跡が起きました。
偶然この付近を流れていた気流に巻き込まれ、一気に空へと浮かんでいったのです。

「カァー!?」
「ゆゆゆ!?!」

紙のような薄い体は烏とは段違いの速さで舞い上がりました。
二匹が呆然としている間も、気流はどんどん距離を離していきます。
烏も一瞬遅れてから獲物を逃がさないよう追いかけますが、その間の距離は縮まりません。

「……カァー」

やがてあきらめたのでしょう、そのまま烏はどこかへと去っていきました。




「ゆっかりしてないカラスさんだったわね!」

ゆかりんは安全を確認すると、ぷんぷんと怒りました。
でもゆかりんはゆっくりしているゆっくりですから、それでカラスさんを許します。

「―――ゆっ! そういえばおうちに帰るところだったのよ!」

そう思いだしたゆかりんは、お爺さんが待っている家に帰るために体を傾けました。

「……ゆ?」

ところが、風が強くてうまく傾けれません。
とても速い気流なのでしょう。どんなに体の向きを変えようとしても、同じ方向に流れていきます。
そしてそれを理解したとき、ゆかりんは絶望に打ちひしがれて「ゆがーん!!!」と叫びました。

まだまだゆかりんの旅は始まったばかりです。



   ◇ ◇ ◇



「ゆぅ……どうしましょう」

最初の楽しい空の旅はどこへやら。
さらに風に流されながらも、ゆかりんはこのゆっくりできない状況をどう打開するか考え始めました。
とても賢いゆかりんは、三分ほど考えてどうすればいいか思いつきます。

「そうだわ! ゆっかり下りればいいのよ!」

地面に下りる→お爺さんのおうちに帰る→ゆっくりできる。
簡潔明瞭。完全で瀟洒なプランです。
そもそもお爺さんの家はどこにあるのかとか、死亡フラグ満載な街中を通って生きて帰れるのかも考えてくれれば、
より一層完璧なプランになることでしょう。

「……どうやって下りるのかしら」

ですが、ゆかりんはどうすばいのか解りませんでした。
知っていることなら何とかなるのですが、知らないことはどうしようもないのです。
体を傾けて滑空すればいいじゃんとか言ってはいけません。
そうなると流れ的に無事に着地して、お爺さんを訪ねて三千里。無事におうちに帰れるかハラハラドキドキのSSになってしまいます。


「元に戻ったら……だめね、ゆかりん潰れちゃうわ」

今は高度約50m、大体ビル10階分の高さでしょうか。
それで真下を見続けているのですから、高所恐怖症の人でなくても怖いもの。
地面に落ちれば大惨事になることぐらい、ゆっくりにだって解ります。

「あーでもないし、こーでもない……」

ゆっくりなりにどうすればいいか考えても、焼け石に水。名案など浮かんできません。
結局、ゆかりんは無い手を拱くしかありませんでした。

「もうやだ、おうちに帰りたいわ……」

先ほど烏から助けてくれたその言葉も、二度目はないようです。




ふと気づくと、何やら変な臭いが気流に交じってきました。
ツンとしたような嫌な臭いに、ゆかりんは思わず顔をしかめます。

都市部を過ぎると、海沿いの工業地帯。
その長い煙突から出てくる煙が、横から気流に乗っているのです。

「ゆっ! なにごれ!」

化学物質を含んだ煙は、容赦なくゆかりんを襲いました。
それは煙突から出たばかりなので、まるで燻製にされそうなほど熱い毒の煙。
一回咳をするごとに喉が焼け、目からは滝のように涙が流れ落ちます。

ゆかりんは体を必死に動かしてなんとかこの煙を避けようと思いますが、
気流の都合上後ろから流れてくるため、どうしようもありません。
所詮は風に流れを任せられた身。風より早くは移動できないのです。

「げほっ、ごほっ! どうずればっ、えほっ! いいのよっ、ごほっ!」

まるで中身を吐きそうなほどせき込みますが、それで苦しみが薄まるわけでもなし。
人間だってこの空気をまともに吸っては危険なのに、ゆっくりにはたまらないことでしょう。
ゆかりんの表情は涙と鼻水でボロボロで、とても酷いものでした。

「おじいざん、げほっ! だずげでよおじいざん! げほっ、ごほっ!」

そのお爺さんの話を聞かなかったのは誰だったのか。
どうしてこうなったのか。どこで間違えたのか。
もしかしたら因果応報と言うべきかもしれません。



「……げほっ……」

少しして、ゆかりんは目も口もしっかりと閉じ、まるで怒ったような表情をあしていました。
こうすれば煙による被害は最小限に抑えれると気づいたからです。
熱まではさすがにどうしようもありませんが、ゆっくりにしては最良の対処法といえたでしょう。
この程度の温度のままであれば、そう簡単に蒸し焼きにはなりません。

「……?」

ですが、ゆかりんは気づきました。
どんどん湧き上がってくる嫌な予感。
このままなら大丈夫という安心感が崩れる音。
例え認めたくなくても、認めざるを得ません。

周囲の温度がだんだんと上がっているのです。

不幸なことに、気流のルートはとある工場の煙突の上を通っていました。
煙突の真上を通るということは、煙が出ている最高温度の場所を通るということでもあります。
例えるなら、沸騰したヤカンの口で火傷をするようなもの。
勿論、温度は段違いですが。

「……! ……ごほっ!?」

いったい何が起こっているのか、目を開けれないゆかりんにはわかりません。
ただ煙突に近くなるにつれて、じわじわと熱くなる感覚に耐えるだけ。
その生殺しのような恐怖が、ゆかりんの心を締め上げます。

どこまで熱くなるのか。
どこまで耐えられるのか。
いつになったら終わるのか。

目をつぶった今では、耳が唯一の頼りでした。
けれど先ほどから聞こえるのは一定のリズムを刻む無機質な音しかなく、。
それが煙突が響かせている音だということにも気付きません。


ゴウン……ゴウン……

機械的な響きは、ゆかりんの精神をやすりのように削っていきます。
音を聞かないためにどうすればいいか考えましたが、ゆっくりにはどうしようもありません。

ゴウン……ゴウン……

音はどんどん大きくなっています。
何で大きくなるのか、一体音の先に何があるのか。

ゴウン……ゴウン……

表面がちょっと焼け始めました。
つい叫び声を出しそうになりましたが、苦悶の表情で耐えます。

ゴウン……ゴウン……

ゆかりんはふと気付きました。
この音が大きくなるにつれて、周りも熱くなっているのです。

ゴウン……ゴウン……

ああ、もう目を閉じていても全て解ったのでしょう。
音の発生源はすぐそこでした。
そして、一番熱い場所も。
自分がこれから進む場所も。
これからどうなるのかも。

ゴウン―――



「ズギマぁぁぁぁぁ!?!」

今まで叫ぶことはなかったゆかりんは、初めて叫びました。
気流に横から入ってきた煙とは段違いの熱さ、痛さ。
それはいわば、塗炭の苦しみ。
まるでもやもやとした、赤くない炎に焼かれているかのよう。

思わず目を開けてしまい、出来立ての煙に目がやられ、再び滝のような涙を流してしまいます。
だけど先ほどと違って咳き込むことはしませんでした。
咳き込む暇がないほど叫び続けていましたから。

ですが、それも数秒のこと。
そのまま煙突の真上に来た時、紙のような薄いからだは最大限の効率で熱と煙を受け止め、一気に天高く打ち上げられます。

熱で涙は蒸発し、体は大量の煤と火傷で埋め尽くされ、
次の瞬間に白目をむいたかと思うと、ゆん生最大の苦痛によって気絶しました。



ゴウン……ゴウン……

少しだけ遠くなった煙突の音。
けれども気絶したゆかりんには聞こえません。
体を動かせないまま、気流に流されるままに移動しています。

風に乗ってどこまでも。



   ◇ ◇ ◇



意識を取り戻したとき、目の前―――つまり真下にあったのは、群青色の世界でした。

「これは……お水さん?」

程よく傾いた太陽が織りなす光のアートは幻想的で、先ほどまでいたコンクリートだらけの場所とは似ても似つかぬ場所。
ゆかりんには、ここがいったいどこだか解りません。

住宅街を飛び、都市部を過ぎ、
さらに海沿いの工業地帯を抜けたのだから、ここは当然海の上。

「たしか、変なもくもくさんがあって……ゆっかりどうなったのかしら?」

ゆかりんは思いだそうとして―――やめました。
記憶は忘れていましたが、火傷は今でも残っています。
体中の痛みに、きっとよくないことがあったのだと、忘れたままの方がいいのだと理解したのでしょう。

ふと、ゆかりんは泣きたくなりました。
それもそのはず。ペットとして苦痛とは無縁の生活を送ってきたゆかりんにとって、
今日の出来事だけで一生分の痛みと苦しみを味わったのですから。
だから周りに誰も飛んでないことを確認すると、ゆかりんはちょっとだけ泣きました。

「ゆぐっ……でも、ようやくゆっかりできそうね」

ここには烏や煙突はありません。
もうゆかりんを傷つけるものは何もなく、ただ美しい景色が広がるだけです。
ゆかりんは海を知りませんでしたが、海を綺麗だと思うことはできました。

―――そして、海はただ綺麗なだけでした。




「ゆぅ……暑いわ……」

しばらくして、ゆかりんはここがそんなに良い場所じゃないことに気付きます。
今日は快晴。雲一つない空に映える太陽は、じりじりとゆかりんの背中を焼いてばかり。
見える景色もいろんなものがある街中と違って、ただの青一色。
ここには確かにゆかりんを傷つけるものは何一つありませんでしたが、
それと同時に楽しませるものもありませんでした。

「お腹へったわね……もうやだ、おうち帰りたい……」


ゆかりんが思い浮かべるのは、お爺さんと一緒に食べたお煎餅。
ゆっくりでもおいしく食べられるように、砂糖をまぶした甘いお煎餅。
のんびり日向ぼっこをしながら食べたそれは、とてもおいしかった。


「……お煎餅さん」

あれはいつの話だったのか。
数か月前?
数週間前?
数日前?
―――いえ、本当はたったの数時間前。

数時間前のゆかりんは、こんなことになるだなんて思わなかった。
いつも通りゆっくりした日々を過ごすものだと信じていた。
そういえば、今頃おやつの時間じゃないだろうか。きっとおいしい羊羹とかだろう。
今夜の夕食は何だろう。もしかしたらゆかりんの大好きな甘露煮かもしれない。
おいしいあまあま。
おいしいごはん。
ゆかりんがあの時、お爺さんの言うとおり素直に下りていれば―――


「―――ゆっかりした結果がこれよ」

皮肉交じりにそう言うと、ゆかりんはもう一度泣き始めました。




しかし、さらに時がたつと、泣いている場合では無いことに気が付きます。

「喉も乾いたてきたわ……あら、これまずいんじゃない?」

漠然とした状況でしたが、そこは賢いゆっくり。
本能的に何となく危険なことだけは解りました。

それは水分不足。

記憶を失ったゆかりんは覚えていませんが、煙突の煙で大量の涙を流しました。
さらに太陽がギラギラと照らすこの状況。水分が不足しない方がおかしいのです。

「ゆかりんどうしよう……」

基本的にゆっくりは、何も食べなくても生きることは不可能ではありません。
餡子さえ漏れなければ、どんなに火傷ができても死ぬことはないでしょう。
ですが、水分補給だけは定期的にしなければ死ぬ――というより、だんだん動かなくなります。
最終的に中枢餡が乾いたとき、ゆっくりは意識を失うのです。

ここは海の上、空の中。
幸いにも湿度が高いので少しずつ乾いていくことになるでしょうが、動けなくなれば間違いなく落ちます。
例え動けても、動きにくくなるだけで運が悪ければ落ちるかもしれません。
そして、落ちたら死ぬのです。

「……暑いわ」



喉が乾いた。
ジュースさんが欲しい。

喉が乾いた。
お水さんでいいから欲しい。

喉が乾いた。
お水さんが欲しい。

喉が乾いた。
お水さん。

お水さん。

お水さん……



「ゆっがぁぁぁ!!!」

あれからどれくらい飛んでいたのでしょうか、突然豹変してゆかりんが叫び出しました。

「お水さん! そうよお水さんよ! どうして目の前にあるの飲めないのよ!!!
ゆかりんは喉が渇いたの! お水さんが欲しいの!
ゆっかりできるジュースさんじゃなくていい! ただのお水さんでいいの!
目の前にあるのに! たくさんあるのに! どぼじてのめないのぉぉぉぉぉ!?!」

泣いたら水分が流れ出るはずなのに、解っているのに、ゆかりんは再び泣き始めます。

「おなが減っだ! 喉乾いだ! 体いだい! ゆっがりでぎない!!!
なんで? なんでゆがりん、ごんな目にあっでるの?
いっぱい汚れぢゃったじ、お風呂さん入りだい。
おいじいあまあまをいっばいだべだい。
そしてジューズざんを飲んで、おじいさざんになででもらっで……ゆあぁぁぁぁ!!!」

流れ落ちた涙は風に攫われどこかへと消えてきますが、
留まるところを知らないように次の涙があふれ出ていました。

「死にだぐない! いやだいやだいやだ!!! 死にだぐない!!!
おじいざん、だずけでよおじいざん!!!
ゆがりん困っでるのよ? 早ぐぎてよ! 助げに来でよ!
ゆがりんを! ゆがりんを! ……ぞうよ、ゆがりんが悪いのよ!!!!」

何かに気づいたのか、それとも最初から気づいていたのか、突然自分が悪いといい出します。
でも、後から悔やんでも、遅すぎる。



「どぼじておじいざんのいうどおりにじながっだのぉぉぉぉぉ!!!!!」



   ◇ ◇ ◇



その後どれくらい空を飛んでいたのか。時はすでに夕暮れ。
真っ赤に染まった大海原の上で、ゆかりんはいろいろと抜け落ちた表情をしつつ、ただひたすら前へと飛んでいます。

「ゆー……ゆっかりー……」

あの時泣きわめいた後から、ゆかりんはずっとこんな表情でした。
淡々と、淡々と、生き残るためだけに空を飛んでいるのです。

……ゆかりんは気づいていませんでしたが、このフライトにはちゃんと今日中に終着点がありました。
日が暮れた後は海面の温度が一気に低下して、上昇気流は発生しなくなり、今のようにふわふわと移動することができなくなります。
つまり、夜になるまでがタイムリミット。そこから先は――落ちるだけです。

「ゆふっ、ゆふふふ……」

前には何もありません。
後ろにも何もありません。
あるのは赤くきらめく海水ばかり。

ゆかりんは全く見えてこない目的地―――海の向こうの陸地に、心が折れかけていました。

「なんにも……なーんにもないのよ……ゆふふふふ」

この海が途切れた時、陸地が見えた時、このゆかりんは心から喜ぶでしょう。
例え着陸できなくっても、海以外のものが見えるのですから。
それに陸地なら9割9分死んでも、1分だけ生き残る可能性があります。
そんな無謀なことに、ゆかりんは天命を賭けたのでした。

当然ですが、海を横断するだなんてそう簡単なことではありません。
ましてや風に舞う紙屑ただ一切れ、行けると思う方が間違いです。

「ゆふふ……ゆかりん、もうだめかも」

体はまだ動くのでしょう。ややぎこちないですが、うねうねと動かしていました。
けれど体より先に、心が駄目になる。

「もうとぶのいやぁ……おなかすいたぁ……のどかわいたぁ……ゆっふっふっふっふ」

そう言って気が緩んだ瞬間、重心がほんの少し前へと崩れました。
たったそれだけで、進行方向が海面へと変わります。
それはつまり、―――海へ向けて一直線。緩やかな自殺。


「もう、ゴールしても……いいわよね?」


死を覚悟したゆかりんに残されているのは、走馬灯を見る時間だけ。

ペットショップで生まれた時の記憶。
金バッチを取るための勉強の記憶。
高級な希少種として陳列されている時の記憶。
お爺さんに買われた時の記憶。
そこから先は―――おうちで過ごした、ゆっくりとした記憶。
ゆっくりとしたおうち。
ゆっくりとしたごはん。
ゆっくりとしたおじいさん。
本当に幸せな記憶。

そしてまだ十分な時間を残して、走馬灯は終わりました。
最後にゆかりんは一言。





「もうやだおうち帰る」





   ◇ ◇ ◇



「……ゆ?」

一瞬の間をはさんで、気づいた。気づいてしまった。
自分が何を言ったのか、気づいてしまった。

「でも……まさか……」

『もうやだおうちに帰る』
その言葉が奇跡を起こしたのは、いつのことだったか。
――奇跡は二度起きた。


「おうちに、帰ればいいんじゃない?」


そうなのだ。
今思えば大きなお水さんの上に出てから、気流に流されるような感覚がない。
下から押し上げられるような感覚があるだけで、左右の回転はできるはずなのだ。

ためしに重心を元に戻し、体を半回転させてみる。――できた。

「ゆふっ、ゆふふふふ。これじゃゆかりん、まるでバカじゃないの」

その笑い声には、もう狂気の色はない。
あるのは純粋なおかしさと、自分に対する不甲斐なさが半々。
……本当に、馬鹿じゃないの。死ぬの? いいえ、死ななくて正解よ。

「……急げば晩ごはんまでには間に合うわ」

たぶん、そんなに前へは進んでいないのだ。
風は後ろからあんまり吹いていなかったから、何も考えずに風に流されるままよりも、今から全速力で飛んだ方が早い。

「どうせなら帰りも風に乗れないかしら。その方が早いし」

ゆかりんの頭は信じられない速度で回転する。
もはやその速度はゆっくりではない。
命がけのこの状況で生きる目的に向かって、ゆっくりできることへと向かって、ゆっくりを求めて潜在能力を発揮していた。
ゆっくりできると信じる限り、自分の信念を貫ける。
それがゆっくりだ。

「家にいた時、風さんはいつも同じ方向から吹いていた? いいえ、そんなことはなかったわ。
ということは、風さんはどれも同じ方向に吹いているわけではない。
つまり、おうちに向かって吹く風に乗ればいいのよ。ゆかりん天才♪」

通常では全く思いつかないようなことを、すぐさま思いつく。
これが自分の、ゆっくりゆかりんとしての素質なのか。

「この広いお水さんにある波だって、全部同じじゃない。よく見れば、逆向きに移動している場所があるわ。
――ゆかりん、まずはその周囲を探すのよ」

そして、風に乗るのだ。
風に乗ってどこまでも……いや。

「風に乗って、おうちまでね」





それから、どれくらい時間がたっただろう。
もう日は沈んで、空にはお月さんが上っている。

「もうすぐよ……もうすぐなんだから……!」

海を超え、工業地帯を抜け、都市部を過ぎ、住宅街を飛んでいた。
はやる気持ちを抑えつつ、最後の最後で墜落しないように飛ぶ。
お爺さんのおうちまであとちょっと。
本当にあとちょっとだった。

「……あ」

お爺さんは、縁側にいた。
もう夜なのに、雨戸も閉めないでそこにいた。

「……! ゆかりんか!」

そうよ、と答えたはずだった。
お爺さんがゆかりんに気が付いたとき、ゆかりんは口を動かすばかりで、何一つ満足にしゃべれない。
え? どうして? なんで?
ゆかりんの胸の中で、何もしゃべれないことによる焦燥が巻き起こる。

「いいんじゃ、無理に話そうとするんじゃない。ほら、こっちへおいで」

そう言われて素直にスーッと下りると、お爺さんの両手の間へ綺麗に入りこんだ。
そして安全を確かめた後、体を膨らましてペラペラの紙からバスケットボールへと戻る。
半日ぶりと言ってもいいほどの、元の体だった。

「……! ……!!」

何か言おうと思うのだが、言葉にならない。
ただやみくもに口を動かすだけで、音が全く出てこないのだ。
だけどお爺さんは、まるで全て見通すかのような目でゆかりんを見つめていた。

「大丈夫じゃ、ゆっくり深呼吸して―――泣けばええ」



お爺さんがそう言った途端、さっきまで言葉にしたかったものが、目からあふれ出してくる。

「うぐっ……あ……」

ぽたり、ぽたりと雫で服がぬれるのも気にせず、お爺さんは優しく抱いてくれた。

「お……じぃ……ざ……」
「ほれ、ワシはここにおる。いくらでも泣くといい」
「う……あぁ………あああああぁぁぁぁぁぁ……」

泣いて、泣いて、泣き続ける。
それは海の上で泣いたときより素晴らしいもので、嬉しいこと。
なぜなら後悔の涙じゃなくて、嬉し涙だから。

「かわいそうに。体も汚れてるし、傷も酷い。すぐに直してやろう」

そう言いつつゆかりんを縁側に下ろそうとするが、ゆかりんはそれをお爺さんの胸の中でいやいやした。
するとお爺さんはゆかりんを離すのをやめて、再び強く抱きしめる。
ああ、やっぱりお爺さんは優しい。

「痛かったな、苦しかったな、辛かったな。でも、もう我慢しなくていいんだ。全部どこかへ置いていけばいい」

水分が足らない体のはずなのに、信じられないほどの涙があふれてきた。
まるで自分自身がその涙にとけてしまいそうなほど、あふれてくる。


「いつまでも、いつまでも―――ここで永遠にゆっくりと」


この優しさに沈みたい。
自分の涙に沈みたい。
沈みたい……



   ◇ ◇ ◇



誰もいない大海原に、ぷかぷかと浮かぶ帽子が一つ。

やがて大きな波に飲み込まれると、それは跡形もなく沈んでしまいました。











あとがき

Q.結局ゆかりんどうなったの?
A.最後の「もうやだおうちに帰る」で気力が全部抜けてスキマ化解除。
立体になって、帽子が脱げて、本体はそのまま沈んでしまいました。

三文芝居書くの楽しいです。
過去作と関係ないの書くのも楽しかったです。
久しぶりに書いた結果がこれだよ!

前に書いたもの

ゆっくりいじめ系2744 B級ホラーとひと夏の恋
ゆっくりいじめ系2754 ゆっくりできないおみずさん
ゆっくりいじめ系2756 ゆっくり障害物競走?
ゆっくりいじめ系2762 れみりゃはメイド長
ゆっくりいじめ系2775 信じてくれない
ゆっくりいじめ系2790 さとれない

ゆっくりいじめ小ネタ517 見えない恐怖

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最終更新:2011年07月29日 18:02
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