島が黄昏に沈む夕暮れ時。
広大な玄関ホールに、独り佇む楼座様を見かけた。
……いや、独りではなかった。彼女は豪奢なホールの真ん中で、あの女と対話していた。
魔女だ。
ホールには、お館様が画家に描かせたという、黄金の魔女ベアトリーチェの肖像画が飾られている。楼座様
は、時折姉さんがそうしているように、じっと肖像画の魔女と向き合って、何事かを訴えかけているように見
えた。
家人か使用人かを問わず、この屋敷の人間が肖像画を前にしているのはさして珍しいことでもない。なにせ
この肖像画の下の碑文には、10tもの金塊の隠し場所が記されているのだ。現金にしておよそ二百億という
その莫大な富を求め、碑文に挑戦する者は少なくない。
けれど、そのときの楼座様のご様子は、金塊のために碑文に挑んでいるというふうではなかった。彼女は黄
金郷への道が隠されたその石碑に手をついて、まんじりともせず、肖像画の中の魔女を真っ直ぐ見つめておら
れたのだ。
その姿は、僕に何とはない違和感をもたらした。日常の中に巧妙に忍び寄る非日常感、まるでマグリットの
絵画にも似た、奇妙で不可思議な光景に思えてならなかった。
「あら、あなたは……」
楼座様が僕に気付かれ、微笑を浮かべながら洗練された所作で振り向かれた。女性をまじまじと見ていただ
なんて、使用人にあるまじき無礼だ。僕は急いで帽子を脱ぎ、頭を垂れる。
「嘉音です。お邪魔しましたようで……申し訳ございません」
「ふふ、お邪魔なんかじゃないわ。お仕事、大変ね」
言って、楼座様は鷹揚に微笑まれた。胸がざわつくような笑みだった。
楼座様はお館様のお子様方四兄弟の末っ子に当たり、ご年齢は確か、三十を少し越えるくらいだったはずだ。
姉さんやお嬢様のような張りのある瑞々しさはないが、かと言ってまだ老いを感じさせるようなお年でもない。
熟れた色香と共に少女のような稚気をも覗かせる、そんな危うさが彼女にはあった。
そのとき僕は、客人が過ごされるお一人の時間を邪魔するべきではなく、さっさと一礼でもして仕事に戻る
べきであった。
けれどもそれは、先ほど覚えた違和感への好奇心か、あるいは肖像画の魔女が仕組んだ悪戯であったのか……
僕はその場に留まり、あろうことか、このご婦人との暫しの会話を望んでしまったのである。
「楼座様はこのようなところでいったい何をなさっておいででしたか?」
僕のその少々不躾な質問に、楼座様は僅かに困惑なさったようだった。あるいは、娘を放って一人でいると
ころを咎められたように感じられたのかもしれない。
楼座様は少しだけ眉尻を下げて苦笑なさると、瞑目し、一拍だけ浅く息を吐かれた。
「……お父様の碑文に挑戦していたのだけれど、やっぱり駄目ね。全然ちんぷんかんぷんだわ」
そう仰って、くすくすと自嘲気味に笑う。
嘘だ。
と、直感的に感じた。
僕がそのお姿を目に留めたとき、楼座様は、碑文をご覧になってはいらっしゃらなかった。むしろ碑文の刻
まれた石碑に手をついて、身を乗り出すように、肖像画の魔女だけを見つめられていた。まるで、魔女と対話
なさっているかのように。
「ね、来て」
楼座様の白くたおやかな手が僕の左手を掴み、引き寄せた。突然の接触に僕は内心で驚くが、客人を拒むわ
けにもいかず、言われるがままに碑文の前へと引き出される。
肩口に楼座様の長い髪の毛が触れ、なにかの甘い香りが鼻腔をくすぐった。たぶん、香水の類だろう。
このお屋敷に香水を常用している女性はいない。奥様でさえ、お嬢様に気管支の疾患があることもあって、
香りのあるものを身につけることはほとんどなさらない。だからその香りは、僕の鼻に必要以上の妖しさをも
って感じられた。
「懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。――これってどういうことだ
と思う? ううん、お父様の懐かしむ故郷はわかってる。でもそこを流れる川なんてたくさんあるわよね。鮎
だってきっとたくさん泳いでいる。その中のいったいどれを下ればいいの? それとも――」
楼座様は僕の肩を抱くように背中から手を回し、近すぎると感じるくらいの距離で、悩ましげに眉根を寄せた。
たぶん、僕のことを真里亞様と同程度の子供くらいにしか感じていらっしゃられないのだろうと思う。そう
でなければ、妙齢の女性がさして親しくもない男にこれほど密着することはないだろうから。男であっても子
供であれば、体を寄せることにさほどの抵抗もないのだろう。
けれど男の方はそうはいかない。背中に当たる体温とか、服の上からではわかりにくかった膨らみの柔らか
さとか、香水の香りに混じった洗髪剤の匂いだとか、そんなものが冷静な思考をしっちゃかめっちゃかに乱し
ていく。
右代宮の女性たちは、みな総じてお美しい。夏妃奥様も絵羽様も霧江様も、もちろん朱志香様も、見目麗し
い方々ばかりだ。幼い真里亞様や縁寿様だって、きっとあと何年もすれば魅力的なレディにご成長なされるこ
とだろう。
楼座様も、その例外に漏れず、とてもお美しい方だった。生来の美貌に加え、若やかとも成熟しているとも
言えない微妙なバランスのご年齢であることが、何とはない艶めかしさを醸し出している。
僕は、……何を考えているのか。不意に心を乱した妄想を、頭を振って掻き消した。彼女は碑文の内容につ
いて尋ねておられるだけだ。早く答えなければならない。
「申し訳ございません。僕にはわかりかねます。僕は……
家具ですから」
いつも通りの決まり文句を口にすると、猥雑な妄想で熱をはらみ始めていた頭の中が、急速に冷えていくよ
うだった。
「そう? でも、興味はあるんじゃない? 口に出しては言わないけれど、兄さんも姉さんも、これは黄金の
隠し場所を示しているのだと考えている。それがこんな目立つところに飾られているというのは、謎に挑戦す
る権利は誰にでも許されている、という意味ではないかしら」
「例えそうであったとしても……僕には関係のないことです。興味ありません。家具ですから」
「……ふぅん?」
意味ありげに鼻を鳴らすと、楼座様は興味を失ったように僕から離れた。すぐ傍に感じられていた体温が遠
のく。それを少しだけ残念だと思ってしまった自分の浅ましさを、僕は呪った。
「ね、お願いがあるのだけど、構わないかしら?」
楼座様は、すっかり碑文のことなど忘れたようなサッパリとした笑顔で、ころりと語調を変えられた。
もちろん、客人の命令を拒むような権利は僕にはない。
「最近寝付きが悪くて、困っているの。夜、10時くらいに、ゲストハウスまでホットワインを作って持って
きてくれない? お仕事が忙しいでしょうけど、お願いね」
「はい、畏まりました」
僕の返事を聞き届け、楼座様は踵を返して客間の方へと消えていった。
……結局、彼女が魔女と何を語らっていたのか。僕にはそれを知る術はなく、また、肖像画の中で微笑む黄
金の魔女も、何も答えることはないのだった。