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1 沿革

 

1.1 井上勝の決心

新橋横浜間に鉄道が開業してから11年を経た1893年(明治26年)、我が国の鉄道の延長は3,200㎞に達し、なお急速な進捗を遂げていたにもかかわらず、蒸気機関車は殆ど欧米から輸入していた。我が国鉄道建設の功労者で、永く鉄道局長官の要職にあった井上勝は、鉄道技術の独立、機材の国産化を自ら実行しようとその職を辞し、民間車両会社の設立に着手した。

親友の井上馨(侯爵、外務大臣・農商務大臣・大蔵大臣などを歴任)の斡旋で賛同した渋沢榮一、岩崎弥之助の援助と黒田、毛利、前田などの旧藩主、大倉・藤田・住友・安田といった当時の第一線実業家の支持を受けて会社設立に入ったが、明治27・28年の日清戦争が起こって一時延期になった。

 

1.2 汽車製造合資会社の誕生

1896年(明治29年)に官営の八幡製鉄所が創立されるとともに景気が戻ってきたので、9月7日に出資者を募り資本金65万円という当時としては稀に見る大資本の汽車製造合資会社が誕生し社長に井上勝が就任した。大阪島屋新田に土地を購入し赤煉瓦2階建ての事務所とイギリスに発注した鉄骨を用いた工場を建て、1899年(明治32年)7月5日に開業式を行った。蒸気機関車など鉄道関連品の製造を目的とした会社である。

我が国に鉄道が開通して10余年、1890年(明治23年)3月28日に創業した平岡工場は東京市小石川区で客車の製造を開始したことは夙に知られているが、そのころ新宿にあった農事試験場付属の農機具製造工場が芝の三田四国町に移転して三田製作所と改称し、客車の製造に進出して平岡工場に次ぐ規模となって大いに栄えたが日清戦争後の不況期に注文が激減したため鉄道車両製造から撤退し印刷機分野に転進した。関西では梅鉢鉄工所が1880年(明治23年)に堺市並松町で客車の製造を開始した。

一方、蒸気機関車の製造は1896年(明治29年)7月24日に創業した株式会社鉄道車両製造所と同年9月18日設立した日本車両製造株式会社が名古屋で起業したがまだ機関車は完成していなかった。しかも、前者は受注し機関車の製造途中にありなが創業5年目の1901年に不景気の影響で資金が枯渇して倒産した。

鉄道車両製造はその黎明期から景気の好不況や国の動向に影響されやすい事業であった。

  

1.3 平岡工場

1890年(明治23年)、鉄道作業局新橋工場に勤務していた平岡熙は職を辞し、3月28日に東京小石川にある東京砲兵工廠の鍛工・鋳鋼・木工の工場を借りて平岡工場を設立し、6月24日に開業した。平岡工場は車両メーカーの草分けで日本鉄道㈱を始めとして全国の鉄道会社から多くの注文を受け多額の利益を上げた。本業である鉄道車両(客車・貨車)の製造の傍ら陸軍の命によって兵器の製造修理を行い、日清戦役に際しては全工場を挙げて兵器の製造に従事した。砲兵工廠の借用期限は1986年(明治29)年3月31日までであった。

借り上げ工場の返却を見越して建設していた本所区錦糸町の工場の完成に従い順次移転し、4月から新工場での操業が始まった。

汽車会社は開業に際して平岡工場を合併しようと申し入れたが平岡は合併を拒み、その代わりに副社長として汽車会社の育成を応援することになった。しかし、渋沢、井上馨の強い合併の意欲に応えて、1901年(明治34年)5月1日に汽車製造合資会社に合併し東京支店となった。創業から合併までの間に客車約350両、貨車約1,250両を製造したと推測されている。

 

  1. 拡張と不景気の明治時代

 開業初年から利益配当をすることが出来た幸先の良い発足であり、日本鉄道㈱から長谷川正五を、関西鉄道株からは出羽政助を迎え入れ技術陣の強化を図った。

先の日清戦争で我が国の領土となった台湾では統治上南北を結ぶ縦貫鉄道の建設が急務となっていた。当社は台湾鉄道建設部から建設工事に必要な資材購入の特命を受け、橋梁部品に引き続いて橋梁も受注した。橋梁の中には我が国では未踏の分野であるプレートガーダーがあったのでこれらの工事を円滑に行うために総督府鉄道の台北工場の一部を借り受け台北分工場とし、橋梁の組立のみならず改造、修理などを行い、縦貫鉄道の橋梁の殆どを製造した。1907年(明治40年)、台湾縦貫鉄道の完成に伴い台北分工場はその使命を終えて閉鎖した。

当社創業の主目的である機関車の製造は1901年(明治34年)に第1号機関車が竣工をし、台湾総督府鉄道部に納入した。1B1形タンク機関車である。これに引き続いて北海道・東武・参宮・中国の各鉄道に納入したところ官営の鉄道作業局からも注文を得てA10形機関車を1903年(明治36年)に納入し、井上勝の念願であった蒸気機関車の国産化が軌道に乗った。

機関車の製造だけでなく工作機械の製造をこころざし、まず自家用の直立ボール盤を製造、明治34年には車輪旋盤を製造して客先に納入し、我が国における第3番目の工作機械メーカーとなった。

前述のように、1901年に平岡工場を合併して機関車のみでなく客車と貨車の製造が増え業績が向上した。しかし、鉄道車両業界は政策や景気の影響を直接に受ける体質で操業度の変動が大きい業界である。このことは後々まで変わることはなかった。

1906年(明治39年)鉄道国有法が公布され大きな私鉄17社が国有鉄道に買収された。車両メーカーにとっては大手の顧客が1つになることは受注が偏る危険が生じるおそれがと予想された。ところが、翌年には大恐慌が起こり不景気となったその時期に設備も生産能力も当社より優れた川崎造船所が鉄道車両の製造に進出した。そこで、日本車両㈱、川崎造船所と汽車製造の3社は共同受注・適正配分を主務とする”鉄道車両製造共同事務所”を設立し、その目的を達成することができた。しかし、受注量の安定には程遠いので鉄道院に最小限度の受注量の保証を得ること強く要望して、成功した。また、1908年には蒸気機関車の製造国産化が本決まりとなった。

これに対応するために受注体制を強化し設備を充実するための資金を調達しやすくする目的で1912年(明治45年)6月に株式会社に改組し、翌年11月に資本金を270万円に増資した。

この間、三菱重工業神戸造船所が蒸気機関車の製造を開始したので、さらなる同業者の増加という事態が生じた。

 

  1. 発展と関東大震災、引き続く不況の大正時代

 受注態勢の強化が功を奏して機関車の生産台数は増加したが、1914年(大正3年)7月に第1次世界大戦の戦火が拡大し、材料難に直面した。そこで加工度の高い工作機械の生産に本格的に進出し、国内向けのみならずインドに多量の旋盤を輸出し業績に貢献した。

 1917年(大正6年)、高田商会から注文を受けて田熊常吉発明のタクマ式ボイラの製造を開始した。社長以下技術陣を動員して学術的改良を多数行い、100以上の実用新案を編み出すなどした結果、「世界一のボイラ」と東京帝国大学の加茂教授が絶賛するボイラに育て上げ、業績に大いに貢献した。

翌年にはタクマ式ボイラを直接受注して設計から製作・据付までの総てを行うことになり、ボイラメーカーとしての基盤を固めた。

11月には第1次世界大戦はドイツの降伏とともに終結して戦後の好況期を迎えたがその反面物価や人件費の高騰がはなはだしく労働組合運動が活発化した。

 1919年(大正8年)10月、ワシントンで開かれた国際労働者会議に政府代表の顧問として長谷川正五が出席した。その際、労働者代表の顧問として当社の工員堂前孫三郎が同行した。このことは当時の我が国工業界における当社の地位の高さが察せられる。また、この月から他社に先がけて8時間労働制に踏み切っている。

 1921年(大正10年)、東京支店が所在する錦糸町の敷地が区画整理で道路用地に削られることが決定したので、その代替地として江東区砂町の前田・毛利両侯爵家が所有する土地を買収した。芦の茂る低湿地であったので、軽便鉄道を敷設して荒川放水路の浚渫土を運搬して埋立てを行った。

 1922年には中国の山東鉄道と朝鮮総督麩鉄道局から標準軌間(1,435ミリメートル)の蒸気機関車を受注し、大陸へ輸出する最初の蒸気機関車を製造した。

また、当社は初めて電気機関車3両を製造し浅野セメント北海道工場に納めた。電気部品は東洋電機製で、勾配線に使用するため電磁ブレーキを装備した。使用の結果、成績良好と認められて翌年には1両追加受注した。

 そのころ、東京支店には関東車両工組合(機械労働組合連合会系)と誠睦会(労働総同盟系)があり互いに組合員の拡大を競っていた。1923年(大正12年)春、関東車両工組合から組合員の切り崩しをしたという理由で誠睦会の幹部3名を馘首するよう会社に申し入れてきたが会社はこれを拒否したことからストライキが発生した。40日に及ぶ長いストライキは組合側の疲弊で終結したその50日後の9月1日に関東大震災が起こり江東地区は焼野が原となり、死傷者多数を出す被害を被った。東京支店も一部を残して建物、製品ともに灰燼に帰し、多くの従業員を失いそのうえ平岡工場時代からの貴重な資料を焼失し、その損害は計り知れない。役員会の資料によると直接の被害は約160万円と記されている。

 震災後は不況となり経営は困難を極めたが、バス車体の製造、中国・満鉄向け機関車や橋梁の製造に力を注ぎ工事量の確保に努めるとともに技術の進歩は停滞することなく続けた。

1924年には新京阪電鉄から電気機関車3両受注した。車体には空いている部分があるので荷物室とし、荷物電車としても使用できる電気機関車で、電気部品は東洋電機製、台車は米国から購入した。さらに1925年(大正14年)には南満州鉄道から当社と芝浦製作所(現在の東芝)に大形電気機関車の製造を発注してきた。このような情況から電気機関車の将来性を考えて大倉商事会社と組んでドイツAEG社より電気部品を輸入し、当社で電気機関車に組立てて鉄道省に納入する計画を立てAEG社と契約を結びキ技術陣を整える措置を取った。ところが、間もなく鉄道省の方針が電気機関車も国産品を採用することに決定したのでこの計画は中止となった。しかしながら、芝浦製作所・汽車会社の製造体制は継続し、満鉄から多くの大形電気機関車を受注し製造した。その後、1927年に運輸省が蓄電池機関車2両を発注しときを始めとして同省が発注する電気機関車は車体と台車は汽車会社、電気品は芝浦製作所という製造分担が確立し、ED16形電気機関車の受注に次いで鉄道省の幹線電化計画に基づく電気機関車国産化の方針に従い芝浦製作所と共同して急行旅客列車用のEF52形電気機関車の設計、製作に着手した。

また、転轍機の轍叉の製造を開始し、川崎の富士製鉄敷地内に川崎分工場を設けたのもこの年である。

 1928年(昭和3年)3月、1000台目の蒸気機関車C535号機を竣工した。この機関車は輸送量の増加と客車の鋼製化による重量増加により牽引力の大きい機関車の必要に迫られて開発された旅客用高速蒸気機関車で、欧米でその優秀性が喧伝されていた3シリンダ式を採用した大形機関車である。

 

1.6 不景気からの脱却と戦争協力の時代

 昭和のはじめは人員整理や作業時間の短縮などの対策を行う一方、ロード・ローラー、紡績機械、タクマ式ボイラの製造に努め経営を維持した。

 不況にもかかわらず進めていた東京支店の移転工事は着々と進み、1931年(昭和6年)に砂町の新工場で操業が始まった。

 この年の9月に勃発した満州事変でにわかに景気は好転し、金輸出の再禁止政策の実施で輸出が活況を呈し始めた。時運に乗って、満州方面に車両・橋梁・タクマ式ボイラを多数供給した。

 好事魔多し。1934年(昭和9年)9月、室戸台風が関西地方に襲来し、未曾有の高潮のために大阪工場は1週間も水没し、多くの設備、製品のみならず貴重な書類にも甚大な損害を被った。さらに、追い討ちをかけるように、翌年の8月にも再び高潮に見舞われ大きな被害が発生した。

 1936年(昭和11年)、創業40周年にあたり、社業の一層の発展を期し資本金を1,000万円に増資し、本社を東京丸の内の丸ビルに移し、東京・大阪両工場に設備の大増設を行った。しかし、車両や軍需品の需要は激増しその要求に応じきれなくなったので、当社の創業目的である鉄道以外の部門を切り離すことになり、3年以上も作り続けて技術的にも成功を収めていた紡績機械部門を大倉商事の関連会社に図面・特殊機械・ノウハウ等総てを譲渡した。一方、ボイラ部門の設備拡充・研究費増額・待遇改善を要求した田熊常吉はそれを認めなかったことを不満として会社を去った。しかし、タクマ式ボイラに関する多くの特許を取得しており優秀なボイラ技術者と製造部門は残ったので特許タクマ式ボイラの製造は継続した。

 中国大陸に広がりつつあった戦雲は1937年(昭和12年)に支那事変に進展し、車両の需要が増えそのうえ戦車をはじめとする軍需品の増産要求が一段と高くなった。これに応えるために大阪製作所の隣地を借り入れる一方、更なる飛躍発展を期して大阪製作所を岡山県に移転する計画を建て1940年(昭和15年)に岡山県児島湾の埋立地33万㎡の土地を買い入れた。

 戦局が拡大するにつれて物資の統制がきびしくなり資材入手が困難になる中、1940年5月22日に開業以来2000号目の機関車を鉄道省に収めた。記念すべきこの機関車は大型急行列車用に新たに設計・製造されたC59形の1号機、C591である。

 この年の12月8日に真珠湾を奇襲攻撃しマレー半島に進軍する大東亜戦争の開戦が発表されて時局は一変し、国内はもとより、満州・北支那向けの機関車の増産の要求がますます大きくなった。ところで、当社製の戦車は精密堅牢で好評であったが、本業である機関車の製造に専念するために、戦車製造の免除を陸軍省に申し出て、これが認められた。

外地向の機関車の製造が多忙な中、D52形蒸気機関車の大増産し、朝鮮鉄道局元山線向の直流3000ボルト電気機関車デロイ形(国内の鉄道は1500ボルト)の受注・製造では芝浦製作所と共に多数受注したが蒸気機関車の製造で多忙を極めていたので台車と車体4両分の製造をし、5両目以降の芝浦製作所に技術移転を行い当社は電気機関車台車の製造を取りやめた。また、青函連絡船用の新しい可動橋を完成して本州・北海道間の輸送力増強に大きく貢献した。

 1943年(昭和18年)、岡山工場の操業を開始した。翌年、社制を変更して支店工場の呼び名を製作所に改めた。太平洋戦争はますます熾烈となり、軍の要求によって上陸用舟艇の製造も行った。

アメリカ軍の空襲が本土に及びはじめた1945年(昭和20年)に資本金を4000万円に増資した。ところが、3月9日夜半に東京大空襲があり江東地区は大量の焼夷弾攻撃を受け近隣の住宅と共に炎につつまれた東京製作所は事務所を始め工場、倉庫と材料・完成した車両などすべてを消失し鉄骨の工場建屋だけが残る廃墟と化した。従業員の中には空襲の犠牲になった方もあり、家を失った人も多く多く、そのうえ交通機関が停止しして通勤が困難を極めたために業務は一時停止した。しかし、通勤が可能な社員が次第に出勤し自力による建屋の修復、機械の修理が始まりやがて戦災に遭った車両の復旧工事から業務は開始した。 

 

 昭和20年6月1日午前、大阪製作所は空襲による激しい焼夷弾攻撃を受け、数十人の死傷者が出て木造の建物は殆ど消失する被害を受けた。その後も再三の空襲があり、7月24日には1トン爆弾が3発落下し、炸裂した穴は水溜りとなり、工場は爆風で屋根が飛び、錆びて赤茶けたトタン板があちこちに散乱した惨憺たる有様となった。数次の空襲で約五十名が犠牲が出たということである。

 このような中、8月15日に終戦の日を迎えて工場の人たちは呆然となったが、工場は翌16日の1日だけを休業として17日からはそれまでと同様に復旧作業と機関車の製造を続けた。

終戦直後の9月17日に鹿児島県枕崎に上陸した台風は日本を縦断し、廣島や大阪に甚大な被害をもたらした。安治川の岸壁を乗り越えた濁流に運ばれた材木や小船が会社の塀を破壊して侵入したため工場全体が泥の海と化し操業停止に追いやられた。排水、機械の整備、電気機器の補修などに約1ヶ月を費やす大打撃を被った。

 

 

1.7 苦難の戦後やがて技術革新の時代

無条件降伏で連合国軍の占領下に入った日本はその命令(GHQ命令)によって様々な変革が行われた。民主化政策の一つである財閥解体の影響を受けて当社は特別経理会社と制限会社に指定された。これによって資金の調達は困難になり、土地建物や機械の購入、電話1台の増設さえ許可願いを出しも決定までに時間がかるような束縛を受け、復旧再建が急がれる時期に他社に大きな遅れを取った。

もう一つの民主化政策である労働組合の育成は戦後の激しいインフレのもと日本共産党と戦前の日本労働総同盟の指導で労働運動が高まった。その影響を受けて汽車会社労働組合が結成された。全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が計画した1947年(昭和22年)2月1日のゼネストはGHQ命令で中止されたが個々の組合は待遇改善や賃上げを要求し、ストライキが起こっていた。10月には汽車会社労組も賃上げ等の要求を掲げてストライキを宣言した。会社はその要求を呑まなかったのでストライキとなったが団体交渉の末、22日間のストライキは終結した。

 このような状況下、運輸省からの機関車と電車の受注を得て鉄道車両の製造は続けられたが受注量は少なく、機関車は戦時中のおよそ20%に過ぎなかった。しかし、技術面では新製品の研究開発が熱心に進められていた。1947年(昭和22年)には運輸省発注の北海道向ロータリー除雪車(キ620)、進駐軍向けの温水ボイラの製造を開始した。自主開発で完成した三輪自動車ナニワ号は斬新なスタイルと優れた性能を発揮したが量産体制を整えることが出来ず、立ち消えとなった。

 翌年、資本金を1億2000万円に増資したが、戦後インフレの進行が激しく、金融は極度に逼迫した。そのような状況の中、運輸省から新形蒸気機関車E10形5両と貨物用のD52形を旅客用のC62形に改造する工事、戦時設計の粗末な63形通勤電車の量産や宇高連絡船用の可動橋を製作し、自主開発製品としてはクレイマーミル、振動篩の製造を開始した。

 悪化を極めた経済状況に歯止めをかけるために、GHQは財政金融引締め政策いわゆるドッジ・ラインを立案・勧告した。その結果、1949年(昭和24年)度の国家予算は厳しい均衡予算となり、国家予算による仕事量は大幅に縮小した。当社は各製作所合わせて1,500名余の解雇と岡山製作所を閉鎖して苦境を切り抜けた。 ところが、天はわれに与せず、東京製作所は昭和1949年にキティ台風で、大阪製作所は翌年のジェーン台風で高潮が工場内に進入して工場設備だけでなく製品にも多大な損害を被った。

 産業構造の変革で蒸気機関車の需要は激減し運輸省向けの機関車は昭和24年のC62形が最後となり、1951年(昭和26年)に中華民国・台湾向のD51形と日本製鉄八幡製鉄所に納めたC形タンク機関車の製造で蒸気機関車製造の歴史は終わった。創業以来53年、その間に製造し送り出した蒸気機関車の数は2603両であった。

 一方、鉄道開業以来、国営事業として政府官庁によって経営されていた鉄道事業は1949年(昭和24年)6月に独立採算制の公共事業体“日本国有鉄道(国鉄)“となった。

 戦時中から社長を務めていた船田要之助が1947年(昭和22年)に退任し、生え抜きの佐々木和三郎が就任したが、病を得て在任2年で逝去した。次期社長に就任した玉置善雄も3年で逝去する悲運に見舞われた。次期社長の決定までには時間がかかり後藤悌治を迎えたのは昭和28年であった。

 この間に世界はめまぐるしい変化をしていた。1950年6月に突然朝鮮戦争が始まり需要が急激に増えて景気が一気に回復し、翌々年春にはサンフランシスコ講和条約が発効して制限会社令が解けて日本が大きく発展に向いつつある時期に3人の社長が短命であったことは会社の発展に大きな損失であった。

 1952年(昭和27年)7月18日に奈良県吉野地方を襲った地震は奈良薬師寺の月光菩薩像に大きな損傷を与えた。古くから首の付け根に深いヒビ割れが認められていた月光菩薩の首が動くようになったのである。文化財保護委員会は首が離れてしまうとこのないように、体内に金具を入れて強力に固定したうえで切れ目を新技術の合成樹脂で接着する方針を決定した。失敗を許せないこの復元作業を文化財保護委員会が当社の技術力を高く評価して委嘱された作業であった。万全の準備と慎重な作業によって昔と変わらぬ崇高なお姿を拝することが出来るようになった。

 10年ほど途絶えていた電気機関車の製造は1951年(昭和26年)にEF58形で再開された。このEF58形機関車の車体形状は従来のものと異なりデッキをなくしてその長さだけ車体を長くし、その部分に客車暖房用の蒸気発生機を搭載した。

この蒸気発生機は当社が国鉄から電気機関車に搭載する暖房用の単管式強制貫流罐の製作を命ぜられて技術陣の総力を挙げて完成した単管式強制貫流型KSK特許蒸気発生機である。

蒸気発生機は数次の改良を経て旅客用電気機関車及びディーゼル機関車の総てに装備されるほか、大型の機種を工場や病院に多数納するようになり、高評を博した。

車両・ボイラ・橋梁の各部門ともに新製品の開発を競い、その結果カーダンパーや振動機械などの新製品を出し、ボイラ部門では都市ガスを使って夏は吸収式冷凍法で冷熱源とし冬はガスを燃焼して温熱源とするKSK冷暖房ユニット(ガス・エア・コンディショナ)の製造を開始した。橋梁部門ではボックスガーダーの製造を始めるなど多忙を極めた。乗り心地改善を目指して研究していた台車用の空気ばねを完成した。また、車輪旋盤に代わる車輪転削盤を開発し好評を博したが更なる効率化を目指して、転削盤をピット内に設けて車輪を台車に取り付けたまま転削出来る形に進歩した。 

昭和初期に10両ほど製造した実績を踏まえて、戦後直ちにディーゼル機関車の研究を開始し、流体変速方式が電気式や機械式に勝ることが明らかになり、数種類のディーゼル機関車を設計・製造した経験から国鉄の標準となり得るDD形式の機関車を1957年(昭和32年)に完成して江若鉄道に納めた。この機関車の改良型が国鉄のDD 13形となり、約10年にわたっておよそ600両が作られた。そのうち212両は当社製である。

1956年(昭和31年)になると日本経済の発展は目覚しく、経済白書に「もはや戦後ではない」と表現された。10月に国鉄は五カ年計画を立案し電気機関車795両、ディーゼル機関車620両、貨車24,000両を新造して旅客の混雑緩和と貨物輸送の円滑化を図ると発表された。しかし、大阪製作所の能力を満足するような機関車の数はなく、操業を維持するために努力して開発してきた新製品は受注生産のため利益には繋がらなかった。1958年には大都市の通勤電車に用いる中央線用90系の試作車両を始め、東京・大阪間を8時間で走るはこだま形特急電車を製造し業績の向上に貢献したが大阪製作所の仕事量不足による・・には及ばなかったたが。資本金は前年に引き続いて行われて10億2千万円となった。

1960年(昭和35年)は岩戸景気といわれた年で、当社は技術的に難度の高い工事を多数完成した。我が国に初の振動クイ打機の製造、DD14形ディーゼルロータリー雪かき機関車、大阪環状線用の安治川橋梁、西独ワルター社との技術提携により製作したベンソンボイラ1号機の運転開始、出水製紙プラントの完成などであった。

1961年(昭和36年)にはパナマ運河会社から曳き船用電気機関車39両を受注し、プロトタイプ6両を製造した。この機関車は老朽化した運河の諸設備を改修する事業の一部で、車両の重量は従前と変えないで曳き船能力を従来の2倍にするという厳しいものであった。6両は現地で最も過酷な使用条件にあるガツン堰に送り、長期にわたって実際の曳き船作業を行って運転面の改良事項を洗い出して残りの機関車に反映させた。この結果20両の機関車と3両のクレーン車の追加発注を受けた。

1962年(昭和37年)、ボイラと建設機械の製造を担う滋賀製作所が完成し同時に25億5千万円に増資した。

1957年に始まった東海道新幹線建設工事にあわせて試作電車を製造し、鴨の宮基地に納めた。この電車は翌年時速256キロを記録した。国鉄天王寺駅の駅ビル鉄骨工事を完成し、ユーゴスラビアへパルププラント輸出するほか、小回りの利く小型フォークリフトの製造を開始した。

1963年(昭和38年)にはごみ焼却プラントの製造を開始し、この事業の基礎を作った。

10年に亘って会社の発展に大きな足跡を残した後藤社長が退任し、新社長に笹村越郎が就任したのは東海道新幹線の開通と東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)で、この年に資本金を26億5200万円に増資した。

当社は新幹線の建設工事では野洲川橋梁をはじめ多くの橋梁を製造し、新幹線電車0系を6編成(1編成12両)製造し、鳥飼基地には車輪研削盤を納入した。この車輪研削盤は12両連結した新幹線電車を編成のまま1つの台車の2軸を同時に研削できる機械で高速運転列車の安全と乗り心地の向上に大きく貢献した。また、オリンピックの水泳競技が行われた国立屋内総合競技場主体育館の鉄骨を製造した。

 

1965年(昭和40年)に手狭になった丸ビルから日本ビルジングに本社を移転した。新幹線の開業とオリンピックの開催という2大偉業とそれに呼応して行われた昭和30年代の設備投資が過大であった影響を受けて日本は急激に不況となり仕事量の減少を招いた。しかし、除雪能力を一段と大きくしたDD53形ディーゼルロータリー雪かき機関車を納入し、ビルマとマレーシアへディーゼル機関車の輸出、さらには二重効用吸収式冷凍機の製造を開始、アメリカAS社製のA3ボイラの販売を始めるなど営業活動は活発であったが、新幹線の車両の製造はなかった。

翌年、国鉄からの発注は非常に少なくなり、機関車の製造は新形式のDE10形ディーゼル機関車3両過ぎなかった 。ところが、世間一般の景気は回復し始め、吸収式冷凍機は好調で病院・ホテル等に納入し、橋梁部門では阪神道路公団の高速道路、あるいは東京経団連ビルの鉄骨などを製造した。

1967年(昭和42年)、新製品としてアスファルト製造プラント製造開始とともに大阪営業所を開設し営業活動を活発にした。

1968年(昭和43年)、東京製作所の貨車製造を担う宇都宮製作所が完成して稼動を開始した。広島営業所と台北駐在員事務所を開設していわゆるいざなぎ景気に対応する体制を整え、振動機械や直焚き冷温水発生機の製造開始し、フィリッピン・イリガン・プラントの完成、スーダンとマレーシアへディーゼル機関車を輸出した。

ところが、国鉄の経営は急激に悪化して国鉄車両の増備計画が縮小したため国鉄の発注想定量よりもメーカーの製造能力の方が過大であることが明白になった。その規模は汽車会社が国鉄から受注していた1年分に相当していた。車両工業会の会議でも車両メーカーの余剰生産能力を他の分野に向ける必要性があることが真剣に語られていた。

当社は営業活動を一層活発にして新規顧客、新製品の販売に注力した。その結果、新製品として鋳物工場向の小型原料供給装置の製造を開始するなど社員はそれぞれの立場で最大限の尽力をした。

しかし、会社首脳部による開発方針は示されず、既に述べたように夫々の技術者の発想による優秀な新製品は多数生み出されたが開発費の回収ははかばかしくなく、機関車に代わる付加価値の大きくしかも安定した受注が見込める新製品は生まれず、開発費の累積は膨大な不良資産を積み上げていた。

滋賀製作所に建設機械工場が完成した1970年(昭和45年)の5月14日に第一勧業銀行本店において井上馨頭取が立会い、汽車製造株式会社(資本金26億5200万円)と川崎重工業株式会社(資本金280億円)の業務提携の覚書調印が行われた。業務提携の内容は2年後に川崎重工が汽車会社を吸収し合併することを前提としていた。経済界を始め業界もまして従業員にとっても全く唐突な発表であった。新聞は経済面に汽車会社が資本金を上回る31億円余を粉飾決算していたことが発覚し今後の経営継続不可能となったと報道した。これによって笹村社長が退任し、川崎重工業の米谷修二が社長に就任するとともに川崎重工業との協議が始まった。

営業活動は活発に継続しビルマからはディーゼル機関車とパルププラントをDHL受注し、国内向けの本邦最大の吸収式冷凍機や紀州製紙㈱発電プラントを受注した。

この年は日本万国博覧会が大阪で開催され日本中が好況に沸き立った感があった。

1971年(昭和46年)に入って泉北ニュータウンの塵埃処理機とSCP廃液処理設備を受注し、世界最大のホットシンタースクリーンとスクラップシヤを完成するなど業務は着実に継続した。

川崎重工業㈱との協議の結果、大阪・滋賀・宇都宮の3製作所は川崎重工業の組織に入り、東京製作所は閉鎖と決定した。

 東京都は昭和40年代に都市部にある工場を他へ移転させ跡地を住宅地化する計画を立案していた。都心から地下鉄で15分の地にある東京製作所はこの計画に該当するので何時の日か移転しなければならない状況にあった。工場敷地は東京都の住宅団地となった。

汽車製造株式会社は1972年(昭和47年)3月31日に76年の歴史を閉じることとなった。

日本の機械工業の黎明期に創業して鉄道の運営に必要な鉄道車両、主要な機械類や構造物を製造したのみならず鉄道以外の分野の各種機械・ボイラ・橋梁・製紙プラント、塵処理プラントと幅広い製品を世に送り出し、需要家の要望に応え・創意工夫と独創的アイディアを活かした製品を多数製造して我が国の発展に大きく貢献し、我が国の機械工業の初歩から発達過程を歩んだ数少ない会社のひとつに幕が下りた日である。

一方、川崎重工業の歴史の要点を記すと次のようである。

薩摩出身の川崎正蔵1878年明治11年)に東京築地に川崎築地造船所を設立し造船を業とした。1886年(明治19年)官営兵庫造船所の払い下げを受けて神戸に移り、1896年(明治29年)10月15日資本金200万円の株式会社川崎造船所に改組し、同郷の松方幸次郎を初代社長に迎えた。1906年(明治39年)5月に運河分工場(後の兵庫工場)を開設して製鉄事業に進出し、翌年には機関車客貨車橋桁等の製作を開始した。最初に製造した蒸気機関車は1B1形タンク機関車で1911年(明治44年)のことである。

  1918年、兵庫工場に飛行機科を設置し、翌年には船舶部を分離独立して川﨑汽船株式会社を設立した。

1928年昭和3年)に鉄道車両部門を分離して川崎車輛株式会社を設立し、1937年に航空機部門を分離し、川﨑航空機工業株式会社を設立した。

1939年(昭和14年)12月1日 に川崎重工業株式会社に社名を変更した。

1950年(昭和25年)製鉄部門を分離して川﨑製鉄株式会社(現・JFEスチール株式会社)を設立し、1966年(昭和41年)にボイラ破砕機、運搬機械などのメーカーであった横山工業株式会社を合併した。

1969年(昭和44年)に川崎車輛川崎航空機工業合併して名実ともに総合的な重工業会社となった。

     

  1. 汽車製造株式会社の終焉

 汽車会社の終焉は社員の知らない間に国鉄の一部の幹部のもとでも静かに進行していたと考えられる。このことは汽車会社蒸気機関車製造史に寄せられた朝倉希一氏の序文から想像できる。その部分を借用すると次のように記されている。

「ときあたかも国鉄は赤字経営となり、注文車両は著しく減ずるので、車両会社としても自活の道を自ら開発せねばならないときである。政府の委員会も車両会社の数を減ずべきことを提案している。このときにあたり率先して合併に踏み切ったことは同社が国策会社として起こり、遂に国策に殉じたものということができよう。」

 合併先が川崎重工業であることは川﨑造船所が1907年に蒸気機関車の製造に参入して以来、両社は業界のため受注の拡大、調整などに多大の協力をしてきた歴史があるとともに両社とも主力銀行が第一勧業銀行(現、みずほ銀行)であったことに由来している。

合併と同時に、東京製作所は既に述べたように閉鎖し敷地は東京都に売却され、住宅団地に変貌した。

大阪製作所は川崎重工業の大阪工場となり、従来どおりの製品の製造を継続しつつ縮小し順次川崎重工業のそれぞれの事業部に移管し、1987年に閉鎖、売却され、現在は新大阪郵便局をはじめ、佐川急便、鴻池運輸などが立ち並んでいる。

滋賀製作所は川崎重工業滋賀工場となり、空調機器・汎用ボイラの製造を継続した。現在は川崎重工業と分離して川重冷熱工業㈱と名称を変更した。

宇都宮製作所は兵庫工場の貨車製造部門を継承し貨車の製造を継続した。しかし、貨車の受注量の激減により車両以外の製品の製造工場に転用された。

 

 付記 

1965年頃(昭和40年代前半)に同業者である帝国車両㈱と日本車両㈱の蕨工場が期を一にして鉄道車両の製造から撤退している。

1900年(明治23年)、大阪府堺市で創業した梅鉢鉄工所(1936年梅鉢車両㈱に改称)は地方の路面電車や客車の製造から始まり、国鉄私鉄の客電車を製造し、1941年(昭和16年)帝国車両工業と改称し事業を継続していたが1968年(昭和43年)3月に東急車輛㈱と合併した。合併後は鉄道車両の製造を止め、海上コンテナーの専用工場となったと聞いている。

日本車両株式会社は1971年(昭和46年)に鉄道車両の製造を豊川製作所に統合する方針を決定し、蕨工場は翌年3月に閉鎖した。蕨工場の跡地は日本住宅公団(現:都市再生機構)が購入して住宅団地と化した。

印刷機分野に転進した三田製作所は東京機械製作所と称号を変更して新聞輪転機の製造を業として今日に至っている。

 

最終更新:2015年05月10日 17:37