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*214.魏の末周の初めには年號が無かった  漢武帝より年號を使うことが始まって,事柄を記すのが便利になった。これは本当にいつの世でも変わらない優れた方法である。  しかし後の世になって年號を用いない者があらわれた。周書の崔宣猷傳に「明帝が即位したが,周禮によって天王を稱して,年號を用いなかった。宣猷が事柄を記すのに(年號を)用いることを請い,それに從った。」とある。 これはつまり、周の明帝の即位当初は年號が無かったのである。しかしこれが(年號が無いのは)初めてではない。調べてみると西魏の廢帝及び恭帝には皆年號が無く,その時宇文泰が國の実権を握っていたが,專ら周禮を用いていたため,年號を設けず,ただ元年、二年というように稱していたのである。  周の孝閔帝が禪譲によって代って皇帝となり(周を建国してからも)それは続き,そのまま明帝の三年に至って,宣猷の上奏によって,また年號を用いるようになったのである。 **214.魏末周初無年號   自漢武帝創置年號,便於記事,誠萬世不易之良法。然後世有不用年號者。周書崔宣猷傳「明帝即位,依周禮稱天王,不建年號。宣猷請仍用以紀事,乃從之。」是周明帝即位之初,無年號也。然不始於此,按西魏廢帝及恭帝皆無年號,其時宇文泰當國,專用周禮,故不設年號,但稱元年、二年。周孝閔帝禪代亦因之,直至明帝三年,因宣猷奏,乃復用年號耳。
*214.西魏の末年と北周の初年には年号が無かった   漢の武帝から年号を置くことが創始され、事件を記すのに便利になった。実にいつの世でも変わらない優れた方法である。しかし後世には年号を用いない者があった。『周書』崔宣猷伝に「明帝が即位すると、周礼により天王を称して、年号を用いなかった。崔宣猷が年代を区切るのに年号を用いることを請願すると、明帝はこれに従った」とある。これは北周の明帝の即位当初は年号がなかったということである。しかしこれが始まりではない。調べてみると、西魏の廃帝と恭帝のときにはいずれも年号がなかった。その当時は宇文泰が国政に当たっており、もっぱら周礼を用いていたため、年号を設けず、ただ元年・二年と称していたのである。北周の孝閔帝が禅譲によって王朝交代してもそれは続き、そのまま明帝の三年にいたって、崔宣猷の上奏により、再び年号を用いるようになったのである。 **214.魏末周初無年號   自漢武帝創置年號,便於記事,誠萬世不易之良法。然後世有不用年號者。周書崔宣猷傳「明帝即位,依周禮稱天王,不建年號。宣猷請仍用以紀事,乃從之。」是周明帝即位之初,無年號也。然不始於此,按西魏廢帝及恭帝皆無年號,其時宇文泰當國,專用周禮,故不設年號,但稱元年、二年。周孝閔帝禪代亦因之,直至明帝三年,因宣猷奏,乃復用年號耳。 |    前頁|[[『廿二史箚記』>トップページ]][[巻十五>巻十五 魏齊周隋書并北史]]|  次頁| |[[後周詔誥用尚書體]]|214.魏末周初無年號|[[隋書志]]|

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