399.金や元には共に漢人、南人の名称がある


 金、元が中原を奪取した後には,共に漢人、南人の区別があった。金は先に奪取した遼の地の人を漢人とし,ついで奪取した宋の河南、山東の人を南人とした。
 元は先に奪取した金の地の人を漢人とし,ついで奪取した南宋の人を南人とした。
 金史の完顏勖傳で,女真族には文字が無く,遼を破って契丹の漢人を得るに及び,始めて契丹の漢字が通用するようになった。これによって遼の地の人を漢人としたことがわかるのである。
 賀揚庭傳では,世宗が楊庭に言っている:「南人は危険を冒してでも強く諫言するが,漢人はもとよりずる賢く、諫言が必要な事態に直面しても多くのものがそれを避けようとする。非常事態で南人が詩賦を習わなかったため,科挙に及第する者が少なかったが,近年は河南、山東の人で科挙に及第する者が多くなり,もう少しで漢人よりも多くなりそうである。」
 このように河南、山東の人を南人としていたのである。
 元史の百官志の序では,諸官職は皆蒙古人をその長とし,漢人、南人がそれに次いだ。元の文宗が詔で各道の粛政廉訪使の司官には,蒙古人は二人,ウイグル人、河西の人、アラビア人、漢人、南人は各一人を用いよとしている。これでもまた漢人、南人とそれぞれ分けて名づけているのである。
 程鉅夫傳では,世祖が鉅夫を御史中丞に任命した(際の話がある)。御史台が鉅夫は南人であるから,用いるべきでないと言うと,世祖は言った:「お前たちはまだ南人を用いたことが無いのに,なんで南人を用いるべきないということがわかるのだ?今より各省、各部、御史台、各院には必ず南人を採用せよ。」これは鉅夫が元南宋の人で降伏してきた者だったので,南人といわれたのである。これによって南宋の人が南人とされたのがわかるのである。

399.金元倶有漢人南人之名

金、元取中原後,倶有漢人、南人之別。金則以先取遼地人爲漢人,繼取宋河南、山東人爲南人。元則以先取金地人爲漢人,繼取南宋人爲南人。金史完顏勖傳,女真無文字,及破遼獲契丹漢人,始通契丹漢字。此以遼地爲漢人也。賀揚庭傳,世宗謂楊庭曰:「南人礦直敢爲,漢人性姦,臨事多避難,異時南人不習詩賦,故中第者少,近年河南、山東人中第者多,殆勝漢人。」此以河南、山東人爲南人也。元史百官志序,諸官職皆以蒙古人爲之長,而漢人、南人貳焉。文宗詔各道廉訪司官,用蒙古二人,畏兀、河西、回回、漢人、南人各一人。是漢人、南人亦各分名目。程鉅夫傳,世祖命鉅夫爲御史中丞。臺臣言鉅夫南人,不宜用,帝曰:「汝未用南人,何以知南人不可用?自今省部臺院必參用南人。」按鉅夫由南宋人入附,故稱南人。此以南宋人爲南人也。

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最終更新:2008年07月27日 16:45