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12.史記自体の中で記述が相互に分かれている箇所

  史記「田儋伝」に、項梁が斉へ進軍し、章邯を共に討とうとした。田儋は、楚が田假を殺したあとで出兵しようとしていた。「項羽本紀」によれば、項梁が「田假は親交を結んだ国の王であり、困窮して我がもとに来て帰順してきた。これを殺すのは不義である」と言ったとある。しかし「田栄伝」では、この言葉を楚の懐王の言葉としている。
  「斉悼恵王世家」に、悼恵王の子である哀王が、兵を起こして諸呂を誅殺しようとしたとき、まず燕王劉澤を誘い入れて斉に迎えた。祝午を燕に行かせ、燕の国の兵を動かして併せて率いさせた。劉澤は帰ることができなくなり、そこで長安へ行って哀王を帝に立てる議をすることを願い出た。哀王はその行動を支援した。しかし「劉澤伝」には、誘われて斉に入ったということは記されず、ただ次のようにある――「太后が崩御し、劉澤は言った。『帝は若く、諸呂が権を握り、劉氏は孤弱である』と。そのまま斉と兵を合わせ、劉澤がまず長安に至った」と。(『漢書』も同じである。)
  「朱建伝」にいう、「黥布が反乱を企てたとき、朱建がこれをいさめたが聞き入れられず、やがて黥布は誅され、朱建は罰を免れたという。このことは「黥布伝」の中にみえる」云々と。しかし今の「黥布伝」にこの語はない。
  「佞幸伝」の序盤に、高祖には籍孺という寵臣がおり、孝恵帝には閎孺という寵臣があった、とある。しかし「朱建伝」には「孝恵帝には閎籍孺がいた」とあり、二人を一人にまとめている。『漢書』もまた「閎籍孺」としている。
  「酈食其伝」に、酈食其が高祖にまみえた事がすでに叙述されているのに、「朱建伝」でも改めて酈生(酈食其)が高祖にまみえた事を重ねて述べており、その内容は前の伝(酈食其伝)と少し異なっている。
  「周仁伝」に、周仁(周文)は、清潔でないことでかえって寵愛を受けた。景帝が崩じたのちも、仁はなお郎中令であり、終始何も建議をすることがなかった。景帝はこのため二度も自ら仁の家に行幸という、とある。考えるに、既に「景帝が崩じた」と述べたのに、さらに「景帝が再びその家に行幸する」と言うのは文の意味が通らない。『漢書』では「景帝崩」の三字を削除しており、意味が明瞭である。
  「田仁伝」に、戾太子(劉拠)が江充を斬り、兵を起こして丞相の劉屈氂と戦った事件について、すでに「丞相が司直の田仁に命じて城門を閉ざし守らせたが、田仁が太子を釈放したことにより、司法の尋問を受けて誅された」とあるが、その下にはまた「仁が兵を起こし、長陵令の車千秋がこれを事変として上奏し、田仁の一族は陘城で族死した」とある。文は重複して繁雑であり、なおかつ意味不明である。

12.史記自相岐互處

  史記田儋傳:項梁趣齊進兵,共擊章邯。儋欲楚殺田假,然後出兵。據項羽紀:項梁曰「假與國之王,窮來歸我,殺之不義。」而田榮傳則以此語爲楚懷王之言。
  齊悼惠王世家,悼惠子哀王將發兵誅諸呂,乃先誘燕王劉澤入齊。使祝午至燕,發其國兵並將之。澤不得歸,乃願往長安,議立哀王爲帝。哀王遂資其行。而澤傳不言被誘入齊事,但云:太后崩,澤即曰:「帝少,諸呂用事,劉氏孤弱。」遂與齊合兵,而澤先至長安。(漢書亦同) 
  朱建傳謂,黥布欲反,建諫之不聽,布誅,建得不誅。事在黥布傳中云云。今布傳無此語。
  佞幸傳序,高祖有籍孺,孝惠有閎孺。而朱建傳又云孝惠有閎籍孺。是并二人爲一人。漢書亦云閎籍孺。
  酈食其傳既敘食其見高祖之事,而朱建傳又重敘酈生見高祖之事,與彼傳小異。
  周仁傳,仁以不潔清得幸。景帝崩,仁尚爲郎中令,終無所言,景帝以此再自幸其家。案既云「景帝崩」,乃又云「景帝再幸其家」,文義不順,漢書刪「景帝崩」三字便明。
  田仁傳,戻太子斬江充,發兵與丞相劉屈氂戰」之事,既云「丞相令司直田仁閉守城門,因縱太子,下吏誅死。」下又云:「仁發兵,長陵令車千秋上變,仁族死陘城。」文既繁複,且不可解。


   前頁 『廿二史箚記』巻一   次頁
過秦論三處引用 12.史記自相岐互處 史漢不同處

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最終更新:2025年11月03日 23:44