* * *
自分たちの住む町についた頃だった。
唯たちに連絡しようと携帯を取り出すと、一通のメールが届いていた。
差出人はムギだった。
内容は、唯が倒れたということだった。
私たちはそれを読んで、すぐに唯の家に駆けた。
唯は無理をしていたのだ。
この前、一緒に電車に乗っていた時から、
それは一目瞭然のはずだった。
‐平沢宅‐
‐唯の部屋‐
憂ちゃんに通された先で、唯は横になっていた。
自室のベッドでおでこに冷却ジェルシートを貼られ、
ムギに付き添われている。
唯の苦しそうな顔を見て、私は思わず声を上げる。
澪「唯、倒れるなんて、一体どうしたんだ!」
紬「落ち着いて澪ちゃん」
ムギが私を落ち着かせる。
紬「倒れたっていうのは、ちょっとふらついて、足を躓かせただけよ」
澪「そ、そうなのか」
紬「でもね高熱が出てるみたいなの……」
澪「それって、もしかしたらインフルエンザなのかもしれないってことか!?」
インフルエンザの流行時期は一般的に一月から二月。
しかし、三月に感染した例もあるため、油断は出来ない。
憂「あの、それは無いと思います。筋肉痛は訴えてなかったので……」
憂ちゃんが替えの冷却シートを持って、部屋に入って来た。
慣れた手つきで、唯のおでこのシートを入れ替える。
新しいシートが乗せられた瞬間、冷えたのか、唯は身体を震えさせた。
その拍子に、唯の目が少し開いた。
唯「んー……。あれ、澪ちゃんとりっちゃんもいるー……?」
インフルエンザでなくとも、高熱は出ている。
唯の声はとても衰弱していた。
律「ああ、いるぞ。大丈夫か、唯?」
唯「あんまり。えへへ、ちょっと無理しすぎちゃったよー……。
そうだ二人とも、猫をさらった犯人は見つけられた?」
憂「猫を、さらった?」
緊張が走る。しまった。
憂ちゃんにはその話を伏せていた。
しかし今となっては、それを伏せる意味も無いかもしれない。
包み隠さず、事実を私から話すことにした。
といっても、猫がさらわれていたという事実だけに限定して話していた。
* * *
全ての話を聞き終わった憂ちゃんはぽつりと、
そうだったんですか、とだけ言った。
隠していたことに対して糾弾するといったことは無かった。
私たちが先輩だから遠慮していたのかもしれない。
しかし、それは間違っていた。
憂ちゃんはむしろ、更に核心をついていた。
憂「でも、今まで隠してきたことを私に話したってことは、
その事件が既に解決されているってことですよね?
純ちゃんの猫はどうなったんですか?」
言葉に詰まった。こういう時、憂ちゃんの飲み込みの良さと、
頭の回転の速さには驚かされる。
唯にもそれはある程度だけ、同じことが言える。
澪「……見つかったよ」
憂「本当ですか!」
憂ちゃんの表情がぱあっと明るくなった。
澪「でも」
だけどもう、立ち止まることも、隠すことも出来ない。
私は覚悟を決めた。
澪「梓がいなくなった」
私の言葉に驚いたのは憂ちゃんだけではない。
当然、ベッドに横になっていた唯も飛び上がった。
唯「あ、あずにゃんが!?」
紬「安静にしてて、唯ちゃん!」
唯「安静になんかしてらんないよ、だって……!」
しかし唯は言葉を言い切る前に、咳き込んでしまった。
ムギが優しく背中をさする。
その状態に堪えかねた私は、唯に言い聞かせた。
澪「唯。梓の心配はいいから、今はゆっくりしてろ」
唯「ええっ、そんな……」
もう私は泣ききった。
今更ここで、弱気になっていられる場合ではない。
私の無謀な調査に付き合ってくれた律もいるじゃないか。
今度は私が、唯に付き合っていく番なんだ。
私は深く呼吸して、言うべき言葉を選んでいった。
澪「いいか、唯。私は今からあったことを全て話す。
その上で梓を探しに行くわけだけど、とても梓の行き先は現状ではわからない。
無闇やたらに日本中飛び回ったって、仕方ないだろう」
そうだ。それでいいんだ。
選んだ言葉は瞬時に音となり、唯の鼓膜を揺らす。
澪「私たちには時間が必要なんだ。
それは唯、お前にも同じことがいえる。
お前には風邪を治す時間が必要なんだよ」
だから。
澪「だから私たちと一緒に梓を探す、その本番の日までに風邪を治すこと。
そして、みんなで本番を迎えること。
それまで絶対に諦めるな。良いな?」
唯「澪ちゃん……」
澪「私たちだって、今すぐ探しに行きたい気持ちを堪える必要があるんだ。
それは勿論、今後のために。
だから今は、私たちに出来る精一杯のことをやろう!」
最後は周りに言い聞かせるように、私は締め括った。
みんな、引き締まった顔をしている。
ここにいる全員が一つになったようだった。
私は全員が頷いたのを見て、今日あった話、
つまり映画研究会、部費、そして梓のことを全て話した。
唯は時折深く考える仕草を見せたが、
その度に本当に頭を抱えていた。
やはり熱が下がってから話した方が良かったか。
でもそれはそれで、私の隠し事が気になってしまうかもしれない。
話が一通り済んだ頃には、外はすっかり暗くなっていた。
唯が心配だったが、本人は絶対すぐに治すと意気込んでいる。
憂ちゃんも付いてくれているだろう、あまり心配はないのかもしれない。
私たちは唯を憂ちゃんに任せて、各自の帰途につくことにした。
【Yi-side】
憂「じゃあ、おやすみ」
唯「おやすみー」
憂が部屋の電気を消して、部屋を出て行きました。
あずにゃんがいなくなったのは、これで二度目。
非常に悔しい気はしますが、今の私には心配することも難しく、
頭を少し働かせようとしただけで、酷い頭痛が襲います。
だからこそ、一杯寝る。
今は出来るだけ一杯寝て、絶対、間に合わせる。
そう心に決めて、私はゆっくり目を閉じました。
* * *
翌日。昨日から続く高熱は、あまり下がっていませんでした。
それでも昨日より、身体は動かしやすいように思えます。
そういえば日本人の体温は世界平均に比べて低いとか。
そうだとすれば、この熱も実は世界標準なのかもしれません。
そんなくだらないことを思いながら、私はカーテンを開けました。
窓の外には、不愉快な光景が広がっていました。
空に居座る重々しい雲が、地上を覆っていたのです。
夕焼けの次の日が晴れで、それ以外は雲のある日。
そういえば昨日の夕暮れは、特に暗かったような気がします。
それでも、ここまでのものは想定出来ていませんでした。
* * *
今日のこの体調では当然、学校は休み。
憂がベッドの側に置いてくれた薬を口にして、
私は再びベッドの中に潜り込みました。
少し楽になってきた頃合いに、一度熱を計ります。
結果、三十七度九分。まだ少し高めです。
大人しくベッドに潜りながら、ふと考えていました。
あずにゃんは一体どこへいったのか。
不思議と無意識に考えを進めているうちは、
頭がまるで痛くなりませんでした。魔法です。
さて、あずにゃんは去り際に次のように言ったと、
澪ちゃんから伝えられました。
“ううん、でも努力は続けるよ。
今度は多くの人を、遠くから見ていようと思う。
誰かを幸せに出来る人、多くの人を見渡せば一人ぐらいいるよ。
それにもう、残された時間は、少ないからね。”
何度聞いても、涙が出てきそうになります。
しかし今はそれどころではありません。
一体、この言葉を最後に、どこへ行ったのか。
あまりに考え続けると流石に頭も気付いたのか、
痛みを訴え出しました。
私は急いで、あずにゃんの言葉を近くにあった紙に書き記しました。
そういえば、一度紙を使って、物事を整理したことがあったな。
そんなことを思っていると、また酷い頭痛が襲ってきました。
* * *
ぱっと目を覚ますと、窓の外も少し暗くなっていました。
雲は相変わらず、晴れそうにありません。
玄関の方から、ただいまという声が聞こえてきました。
憂が帰って来たようです。
急いで部屋を出て、おかえりと言ってあげたいところですが、
生憎この状態で憂の前に行くのは憚られます。
憂「大丈夫だった、お姉ちゃん!?」
と思ったら、向こうから来てしまいました。
風邪がうつったら大変だよ、憂。
とりあえず一日中安静にしていたことを伝えると、
憂は大きな溜め息を吐きました。
よほど心配していたのでしょう。
憂はすぐに笑顔になり、お風呂の用意してくるねと言って、
部屋をあとにしました。
* * *
お風呂は短めに済まして、
栄養不足にならないよう食事を出来るだけ取りました。
憂の努力のかいあって、思った以上に箸が進んでしまいました。
さすが私の自慢の妹です。
今日一日、一体どれだけの時間をここで過ごしたでしょう。
ゴロゴロするということは幸せなことですが、
それが必要なことと言われてしまうと、とても退屈なものに変わってしまいます。
しかし、退屈だからといって止めてはいけないのが辛いところです。
なんとしても、澪ちゃんとの約束を違えるわけにはいきません。
昨日や朝に比べ、だいぶ体調は良くなっていました。
これは良い機会だと思い、私はベッドの中から、一枚の紙を取り出しました。
それは、私があずにゃんの言葉を書き記した紙でした。
私はそこに、様々な書き込みを加えていきました。
“ううん、でも努力は続けるよ。 → 諦めないあずにゃんの意思
今度は多くの人を、遠くから見ていようと思う。 → 目的。それに合った行き先?
誰かを幸せに出来る人、多くの人を見渡せば一人ぐらいいるよ。 → 期待
それにもう、残された時間は、少ないからね。 → もうすぐ天使の世界に帰るということ”
特に目を引く四行目。
もうそんなに時間が無いことを、はっきりと思い知らされます。
あずにゃんが来たのは入学式の前日。
あの日言った“一年間”という言葉が正確な一年間なら、
残りはあと一ヶ月もありません。
実際は、思っているよりも少ないのかもしれません。
一行目は今更見る必要もありません。
あずにゃんとは、そういう素敵なことが出来る子なのです。
問題は二行目と三行目でしょうか。
三行目には期待という言葉を使いましたが、
概ね目的、つまり二行目と同じ捉え方でも問題ないでしょう。
唯「遠くから見ていようと思う……」
二行目を、注意深く声に出して読んでみました。
特定の一人の人物についていかないことは、間違いないでしょう。
唯「多くの人を見渡す……」
多くの人を一度に見れる場所。さらに“多くの人を”ということは、
この桜が丘より賑わった町が行き先である可能性が高いです。
言ってしまえば、都会でしょうか。
しかし都会で多くの人を見渡すのは、簡単なことではありません。
以前、テレビで見たことがありますが、
あの群集に巻き込まれてしまっては、人間観察どころではないでしょう。
唯「……そっか」
ということは、群集から離れた場所。
つまり高層ビルなどの高い場所から人を見渡すということを、
あずにゃんは暗示していたのではないでしょうか。
しかし、それだけでは数が多すぎます。
高層ビルならいくつでもありますし、あずにゃんは天使です。
どんなセキュリティが強固なビルでも、侵入は容易いでしょう。
ところが一つ、私には思い当たる節がありました。
たった一回だけ、あずにゃんが人を見渡せそうと評価した
建造物があったのです。
あれは文化祭一日目が終了し、家でテレビを見ていたとき。
隣で見ていたあずにゃんがテレビを指差し、問いました。
あのテレビに映っているのは、なんですか、と。
そして私はこう答えたのを覚えています。
唯「東京タワーだよ」
* * *
紙に今までの思考の過程を書き込みました。
その紙を何度も見直してみますが、問題点は見つかりません。
あとは例の記憶が正しくて、
その通りにあずにゃんが行動してくれていれば良いだけです。
それが一番の問題点ですが。
私はぼんやりと、今まで何度も考えてきたことを思い出していました。
あずにゃんが“不幸を呼ぶ天使”で、
今回の猫さらいもそれによって引き起こされた。
今まで私の身の回りで起きた不幸も、あずにゃんが原因。
それはあずにゃんが“不幸を呼ぶ”性質を持っているから。
本当に?誰しもが、不幸の遠因を持っているものなのに?
これを思い出す度、同じ疑問が私に浮かびます。
唯「……」
そして今、それに結論を出しました。
こんなの、こじつけです。
私たちは既にあずにゃんに“不幸を呼ぶ”というレッテルを貼り、
それを前提として考えているから、今のあずにゃんがある。
本当にあずにゃんを不幸にしているのは、
“それを自覚していない私たちなのではないでしょうか。”
いや、その性質は確かなものかもしれません。
でも、何でも自分で抱え込むのはいけないこと。
あずにゃんは自分の性質に自覚がある。
それ故、全てを抱え込んでしまう。
変えようと意気込んでいる最中でも、それを気にしてしまう。
既に私たちの変えるべき点は明らかになっています。
では、あずにゃんの変えるべき点とは?
ここまで考えたところで、憂が階段を上る音が聞こえてきました。
私は急いで紙を布団の中に隠し、
じっと安静に寝ているフリをしました。
扉を開けて、じっと寝ている私を見ると、
憂はほっと溜め息を吐きました。
憂「お姉ちゃん、熱はどう?」
唯「んー……ぼちぼちかなあ」
憂「そっか……」
唯「明日になれば完全復活出来るよ」
しかし、憂は諭すように、
憂「でも一応、明後日まで様子見ておこうね」
唯「えー」
憂「それじゃお姉ちゃん、おやすみ」
唯「……おやすみー」
憂は部屋を出て行きました。相変わらず憂は心配性です。
私なら明日には完全回復していること間違いなしです。
そうでなければ、困ってしまいます。
* * *
翌日。朝一番の重い身体を起こし、
ぼんやりした視界で部屋を見渡しました。
そういえば、今日は憂が起こしにきてくれませんでした。
今日も安静にしていろということでしょうか。
カーテンを開けて窓の外を見ると、外は大雨でした。
空に広がる黒雲が、気持ちまでも暗くしてしまいます。
それは大きな雨粒を降らせ、窓にばちばちと当たっていました。
時折それは、稲光とともに轟音を鳴り響かせていました。
唯「……あれっ?」
私は自分の机の上に、一枚の紙が置かれているのに気付きました。
そしてさらに、昨日自分の推理過程を書き込んだ紙が、
布団の中にないことにも気付きました。
途端に、嫌な予感がしてきました。
私は飛び起きて、机の上の紙を掴みとりました。
“お姉ちゃんへ
起こしてあげられなくて、ごめんなさい。
でも驚いちゃって。
今日、お姉ちゃんを起こそうと思ったら、床に紙が落ちてたよ。
あれはお姉ちゃんが色々書き込んだ紙なんだろうね。
ダメだよ、安静にしていなくちゃ。
あの紙は学校に持っていって、澪さんたちのところへ持っていくね。
この雨だから、今日中に梓ちゃんのところへ行けるかはわからないけど、
どっちにしろお姉ちゃんはじっくり休んでいてね。 憂より”
やられました。寝ている最中に、
布団の中へ隠した紙は床へ落ちてしまったのです。
もしかしたら今日中に、
澪ちゃんたちは東京タワーに行ってしまうかもしれません。
あずにゃんを連れ帰ることに成功すれば良いですが、
私だって伝えたいことがあります。
起き上がって、熱を計測してみると三十七度ちょうど。
あと僅かな時間だけ休んでいれば、平熱に戻る程度でした。
私は朝ご飯を早急に済ませ、すぐに布団の中へ潜り込みました。
早くて今日の午後、あずにゃんのもとへ皆で行くのだと信じて。