律「……んん」

 重たい瞼を擦りながら起き上がると、そこは街灯の光など一縷も入らない深い森の中だった。

律「うわっ!?」

 目の前には赤々と燃える焚火。その向こう側で炎に照らされた野暮ったい顔に律は心臓を跳ね上がらせた。

「……ビビり過ぎだろ。俺は幽霊かっての」

 青年は据わった目で律を一瞥し、缶ビールに口を付ける。
既に何本か空けているのだろう。酒気を帯びた吐息は律を不快にさせた。

律「……酒臭いよおっさん」

「直ちにおにーさんに訂正しろ。さもねーとこの山ん中に捨ててくぞ」

 言いつつも青年はさほど気にしてはいないようで、焚火に当てられて焼ける何かの様子をしきりに気にしている。

「うっし。そろそろ頃合だな」

 竹串に刺された魚が香ばしく焼けていた。
内臓は取り除かれているもののその技は明らかに素人のそれであり、見てくれは食欲が失せるほどに不格好だ。

律「? なにそれ」

「魚だよ見りゃわかんだろ。ほら食えよ」

 辛うじて原型は保っているが差し出されてはいそうですか、と食べられるようなものではない。
だが青年は眉間に皺を寄せる律に強引に突き出す。

「ほら食えって、ほら!」

律「分かった分かった! 食うからちょっと引っ込めよ!」

 警戒心も済し崩しに、律は見ず知らずのこの青年の空気に飲まれていた。
そして青年も同様、普通ならば喧嘩を吹っ掛けてきた者などその場に捨て置くのだがそうしなかった。何故ならば……。

(コイツ馬鹿そうだな……)

律(コイツ馬鹿っぽいな……)

 互いが互いに相手の事を腹の中で軽く見ていたからだ。
馬鹿が馬鹿を馬鹿と蔑む。傍から見ていてこれほど滑稽な状況は無いだろう。

 閑話休題。
 自然の中の会食を終え、青年は生い茂る草木の中大の字に寝そべった。
服が汚れる事を厭わないずぼらな性格なのか、はたまた寝る場所に拘る余裕が無いほど疲れていたのか。
恐らく前者だろうと考えながら、律は山道に似つかわしくない大型のバイクに目をやる。

律「……時代錯誤も良いとこだなこれ。こんな荷物積んで何処に行くつもりだったんだ?」

 ハンドルに吊ってある革のバッグの中からはコップや皿などの日用品が見え隠れしていた。

「アテの無い旅ってやつさ。いつ止めるかも決めてねーし何をするかも決めてねーよ」

律「ふぅん……」

 気障ったらしい喋り方が耳に残る。
ぞわりと首筋を這うような感覚を紛らす為に薄汚れたマグカップに注がれたコーヒーを舐めるように飲むと、味気無い苦味が口の中に広がった。

律「にがい……」

 だが不快な苦味は頭の靄を晴らすには丁度良い。
 破り捨てられた願い。否定された想い。突如現れた青年。物語の分岐点。
ごった返しとなっていた頭の中が徐々に整理されてゆくがやるべき事、物語の模範回答は解らない。
 龍の力を欲したあの少女ならば、全ての解答が解るのだろうか。

「そう言うお前はなんだってこんなとこに来たんだ? 桜高っつったら電車でお出かけでもって距離じゃねーだろ此処は」

律「私は……」

 言いかけて口を閉ざした。
話したところで何も変わりはしない。だがだからこそ此処に来た理由、自分の想いをさらけ出す事に抵抗があった。

「…………?」

 青年は訝るが問い詰めようとはしない。
上体を起こし、脇に置いてあった煙草に火を点けると紫煙を空に吐き出した。

律「知りたい?」

「うんにゃ、ぶっちゃけ大して興味ねーわ」

律「よし、じゃあ話すわ」

「何でだよ!?」

 きっと下らないと一蹴されることだろう。
それが解っていればどれだけ重い気持ちも笑い種にして打ち明けられそうだから。
だから律は、話す事にした。

律「何なら聞き流しても良いよ。子供の戯言だと思ってくれないかな、後藤さん」

「……お前、あの時のガキ共の一人か」

 後藤は南極で心の臓を貫かれたのを思い出す。
実際には僅かに逸れていて九死に一生を得たのだが。
 自分の夢を踏み越えて進んで行った者の葛藤を自分で見る事になるとは、後藤は皮肉に笑う。

後藤「誰の悪意だよ……。笑えねぇなぁ」

律「何か言った?」

後藤「大人の戯言さ」

 恨み言をつらつらと垂れ流す気にはなれなかった。
自分は敗者で、律達は勝者。
想いをそのままぶち撒けてしまえばそれは醜い負け惜しみになるような気がしたから。

律「私らが南極に乗り込んだ時さ、幼馴染みが一緒にいたんだ。澪っていうの、知ってる?」

後藤「みお、ミオ、澪……。あぁあのおっぱいネーチャンか。資料でちらっと見たな」

 じわじわと色濃く滲んでゆき、思い出されてゆく記憶。
律の顔もその時見た資料に載っていた事に気付く。

後藤(名前は確か……。ド田舎? なんかそんな感じだったか)

後藤「……田舎」

律「は?」

後藤「いや何でもない」

 煙草の灰がフィルターに達し、火種が零れ落ちる。

律「人と話す時はいっつもおどおどしててさ、その癖私に対してだけはやたらと偉そうな事言うんだ。馬鹿律! なーんて言って拳骨してきてさ。それがまた痛いのなんのって」

 身振り手振りは大仰に、愚痴を零しているわりにはやけに楽しそうだった。

律「でもなーんにも出来ない奴だった。そりゃ頭も良いし、顔も女の私から見てもすんごい綺麗だけどさ。人から見たあいつの良い所はあいつにとっては欠点だったんだよな」

後藤「はあ、顔も良い頭も良い。運動神経なんざあのガッコに通ってんなら聞くまでもねーし。なんにも困んねーじゃん」

 安直過ぎる答えだった。
だがむしろ律はそれを望んでいた。真摯な態度も核心を突くような言葉も望んでいない。
ただ上辺だけ捉えて、次の日には忘れるであろう率直な感想が聞ければそれで良い。
 誰かに聞いて欲しいと思う反面、心の奥底の弱い部分には触れて欲しくない。きっとそんな辻褄の合わない気持ちの現れなのだろう。

律「だけど虫一匹殺せないような奴だったんだ。ちょっと紙で切ったぐらいの血を見ただけでびくびくしてさ。そんな奴が私と同じって理由だけで桜高に入ったんだ。世話の焼ける奴だよ」

後藤「お前、それって……」

 後藤は何か言いかけて口を閉ざした。

後藤「それってわりぃ事なのかね」

 ぽつりと呟いた。
ぶっきらぼうではなく、教え諭すような口調だった。

後藤「ほっといても変わっちまうのが人間ってもんだろ。お前が何をしても何もしなくても、そうなっちまうもんさ」

 でも、と否定したい自分が居た。
けれどそれがあまりにも独り善がりの我儘だと思って、それを口に出すのは許せなかった。

後藤「その過程で傷付いたり傷付けたりする事もあるけどさ、まぁそれが大人になるって事なんだろうよ」

 色んな覚悟を決めたのに。
 こんなにも自分が矮小に思えて。
 心の奥の方は決して揺るがさないと決めたのに。
 こうもあっさりと懐柔されてしまう。
 それは彼が精神的にも、人を傷付けて、傷付けられる事に関しても、ずっとずっと大人だからなのだろう。

 全てをさらけ出してみたくなった。

 でもきっと駄目だ。きっとそれをしてしまえば……。
 多分泣いてしまうだろうから。

律「子供の戯言……。全部聞いてくれるかな」

 駄目だ。なんでこれ以上甘えようとするんだ、田井中 律。

律「……あ」

 あーあ。

 おい、何泣いてんだよ。俺はそういうの苦手なんだって。

 ごめん、でももう何か無理なんだ。私なりに色々考えてみたけど……。
 何にも解らないんだ。澪の事も、私の事も、皆の事も。
 何も見えてこなくてさ、今まで私はそういうの向いてないからって言い訳し続けてたのに……! もうそんな自分にも嫌気が差してきたんだ……!

 そんなのも引っ括めてお前だろーが。お前の中身まで見透かして心配してくれる奴なんざいねーよ。
 お前が嫌ってたんじゃあお前自身が救われねーじゃねーか。

 でもさ、なんにも見えてこないのにへらへらなんて出来ないよ。
 皆どんどん強くなって、でも段々笑わなくなってきて……。
 このままじゃあ皆死人みたいになってくんじゃないかって……。

 それが変わるって事だよ。お前の周りの人間はそれがちょっと解りやすかっただけさ。
 死人みたいになったって、死んだとしてもそれは変化の一部さ。

 けど死んじゃうのは怖いよ。それが私じゃなくても、私が知ってる人が死んだら悲しい……。

 経験してない事は誰だって怖いよ。俺だって怖い。

 けどそんなに怖がらなくても良いって事を俺は知ってるよ。
 大きくなって背が伸びていって、小学校から中学校に進んで、今の仲間と初めて出会って……。

 お前はその時怖かったか? 悲しかったか?

 ううん、怖くないし悲しくない。

 なんでか解るか?

 ……解らない。

 だろうな。なら教えてやんよ。
 それはその時のことを他でもない自分自身が、きっと覚えてやれるって確信してるからだよ。

 何言ってんのかわかんないよ……。

 うぐ……。

 つまりだな……。大きくなってもガッコの友達と別れても、きっと思い出ってやつは残り続けてくれるって、そう思っちまってるから怖くないんだよ。ほんとはそんな事ねーのにな。

 でも死んじったら怖い。友達に死なれたら恐い。
 死んじまったら思い出も消えちまうし、死なれちまったら自分の事を忘れられちまうから。

 うん……。

 でもそれってさ、すげー狭い考えだと思うんだよ俺は。

 たとえ自分が死んじまっても一緒に居た時の事を覚えててくれるヤツはいる。
 たとえ誰かに死なれても、自分が死んじまったヤツの事を覚えててやれる。
 そうやって悲しい事を一人が背負い込んでしまわねーようにさ、不安やら疑問やらは持ちつ持たれつで回ってんのさ。

 …………。

 お前は頑張ってるよ。闘ってるよ。
 のっぺりした人形みたいになっちまう友達に呑まれないように覚えててやってんだからさ。
 一緒に遊んだり悪さしたりした時の事を覚えてて、たまーにそれに甘えちまう事は弱さじゃない。
 それが出来るヤツは傷付けたヤツ、傷付けられたヤツの事も背負えるんだ。

 ……ありがとう。

 礼を言うんならさっさと泣きやめよ。俺はそういう辛気臭いのが大っ嫌いなんだよ。

 …………。

 だから泣くなって言ってんだろ! いい加減ぶん殴るぞ?

 違うんだ。多分嬉しい筈なんだけどさ……。止めようと思っても止まらねーんだよ……。

 はぁ……。でも分かったろ? 世界はお前が思ってるよりお前に優しく出来てるよ。
 お前は主人公だから。お前達は主人公だから。

 だから塞ぎ込んで潰れちまう前に造り替えちまえ。
 うだうだ言う奴は全部通過点だ。ぶん殴って推し通れ。
 お前にとって都合の良い世界ってのはお前が我儘になんなきゃ出来ねーからよ。

 何かを掴もうと、触れようとして翳した手が宙を掴んで、私は何となく切なくなった。

 それでも目の前に佇むこの人に対する感謝の気持ちは絶えなくて、ありがとうと呟いては胸の奥がきゅっと絞まる。

 その度この人は困ったように笑うから、だから私は彼が言ったように、ほんの少しだけ我儘になってみよう。

 何がどうなっても私は私で在り続けると、その果てでどんなに理不尽な事が起きても、我儘に、子供のように駄々をこねて、きっと『元通り』を取り戻してみせる。

 そう思うと何となく、何となくだけど空が近くなったような気がした。
 小さな月に私の手が、届くまであと、どれくらいだろう。


※未完結


最終更新:2013年03月04日 20:35