「ついてないなぁ」

 純がそうこぼしたのは、三年生への進級を目前に控えた春休み、春期講習後の喫茶店でのことだった。

「急にどうしたの? 純ちゃん」

 気遣うように、憂。純がだるそうに独り言を呟くのはいつものことなのだが、心優しい憂はその度に
こうして話を聞いてあげている。偉いというか、人がいいというか。もちろんそれが憂のいいところ
なんだけどね。
 そんな憂の心遣いに感謝しているんだかしていないんだか、純はぺたりと頬をテーブルにくっつけると
やる気のなさそうな声で答える。

「どうしたもこうしたも、軽音部よ軽音部」

「軽音部?」

 関係ない話かと思い知らぬ存ぜぬを決めていた私だったが、どうやらそうでもないらしい。思わず口を
挟むと純の視線は私の方へと向いた。

「そうよー、梓。私はついてない。あーついてない」

「……なにが?」

 もったいぶるような言い方に呆れながらも先を促してやる。本当なら目の前のショートケーキを崩す作業に
集中したいところだが、純は自分の話を聞いてもらえないと拗ねて面倒なことになるのである。
 が、しかし。私の物言いは別の意味で面倒な事態を引き起こしてしまったらしい。

「なにが、じゃないわよ! いい、梓。軽音部にはもう澪先輩がいないの。いないのよ!」

 妙なスイッチが入ってしまったのか、純は急に立ち上がると高らかに叫ぶ。熱くなるのは勝手だけどここが
お店だってことは忘れないでほしい。ああもう、他のお客さんの視線が痛いよ。

「純ちゃん。お店では騒いじゃだめだよ」

「あ、ごめん……」

 憂に諌められようやく状況を思い出したのか、純は顔を赤らめながら再び腰を落ちつけた。

「で。今の軽音部には澪先輩がいません」

「いや、改めてそんなこと言われても当たり前でしょとしか言えないんだけど」

 確認するまでもなく、澪先輩はもう軽音部には所属していない。
 澪先輩だけじゃない。律先輩もムギ先輩も、そして唯先輩も。もう軽音部にはいないのだ。

「そう、梓にとってはそれが当たり前よね。でもね、私にとってはそれが不公平でならないのよ」

「いや、訳わかんないし」

「訳がわからないのはアンタが幸せだからなのよ! きー! 悔しい!」

「だから言ってる意味わかんないって!」

 ハンカチを噛むフリまでしながら純はこれみよがしに悔しがる。
 駄目だ、会話がさっぱり成立しない。  

「ほらほら二人共、また声が大きくなってきちゃってるよ」

 ここで頼れる翻訳者憂が間に入ってくれる。

「つまり、純ちゃんは自分の入部が澪先輩の卒業と入れ違いになっちゃったことが悔しいんだよね?
それでついこの間まで一緒にいられた梓ちゃんと比べたら、自分はついてないなって思っちゃった、と」

「おお、平沢さん大正解! スーパー純ちゃん人形をプレゼントしよう!」

「わーい、ありがとう」

 きゃいきゃい笑いあう純と憂。そんな楽しげな二人を見て、私は。
 自分の中でほんのちょっぴり嫌な感情が顔をのぞかせていることに気づく。

「なーんだ――そんなことか」

 言ってからしまったと思う。憂は驚いたように、純は少し睨むように、私を見つめていた。

「む……そんなことってなによ、梓」

「あ、いや、ごめ――」

「あーあ、そりゃそうよね。梓は二年間先輩たちと楽しく部活できた幸せものだもんね。私みたいな不幸な人間の
気持ちなんてわかんないかぁ」

「……っ! そ、そんな言い方ないじゃん!」

 口にしようとした謝罪の言葉は、純の売り言葉によって買い言葉へと塗り替えられた。

「大体不幸ってなに? 純って確か憂と一緒に軽音部の見学に行って、自分で入部しないって決めたんでしょ?
自業自得じゃん、そんなの」

「だからだよ」

「え?」

 急に。
 純の口調からふざけた色が消える。

「見学に行ったからこそ悔しいの。なんであの時入ろうって思わなかったのか。なんであの時入りたいって思える
なにかを見つけられなかったのか……ほんと、ついてないよ」

「純……」

 正直、純の言葉に驚きを隠せずにいた。
 知らなかった。純が軽音部にこんなにも執着してたなんて。

「澪先輩がって言ったけどね、もちろんそれだけじゃない。軽音部の空気そのものが、すっごく羨ましかったんだ」

 柄にもなく真面目な様子で純は語る。

「途中からでも入部すればよかっただろって思うかも知れない。でもね、気づいた時にはもう手遅れだったんだ。
先輩たちや梓は『軽音部の人』。私は『軽音部じゃない人』。そんな境界線がはっきり見えるようになってた。
憂はさっき私の入部と先輩の卒業が入れ違いになったのが悔しいって言ったけど、あれ、実はちょっと違うんだ。
入れ違いになったことが悔しいんじゃない。入れ違いにならないと入部なんてできなかったのが、悔しい」

 今まで純の心の奥の方で眠ってた、本当の気持ち。

「今年のバレンタインデーの時、軽音部の部室で先輩たちが大学合格したこと伝えにきたでしょ? あの時の梓たち、
すごく仲良しに見えた。……私なんか、立ち入れないって思うくらい。軽音部にはそういう空気がずっと前から
あったんだ。今さらになって入りたいだなんて、言えなかった」

 それは純にとってはとても大切な気持ちで、私なんかが口出ししていいものじゃないんだって、わかってる。

「だから……だから、私梓がすごく羨ましい。あんな素敵な部活に二年間いれて、先輩たちが卒業しちゃったことを
『当たり前』って割り切れるくらい充実してる梓がすごく幸せそうに見える。それを掴み取れた梓がラッキーに見える
んだよ。そしてそれの価値もわからないまま自分から遠ざけてしまった私は――すっごく、ついてない」

 わかってる、はずなのに。

「……違う」 

 口を開かずにはいられなかった。

「……梓?」

「そんなの違う。純にはわかんないよ、私の気持ちなんて。二年間一緒にいた先輩が遠くに行っちゃった私の気持ちなんて」

 溢れそうになった感情が目元まで上ってきているのを感じる。それは悲しさでもなければ、怒りでもない、名前の
わからない黒い感情。さっきから私の心の奥で渦巻いていた嫌な気持ちそのものだった。

「卒業しないでって何度も思った。泣きながら本人たちにお願いまでしちゃった。それくらい大切な関係だった。
純、今立ち入れないって思うくらいって言ったよね? そうだよ。他の人なんて立ち入らせないくらい、私たちは
強い繋がりがあったの。そんな繋がりを二年の間に築き上げてきたの!」

 言葉も、感情も、止まらない。それどころか、底をつくことを知らないかのように、次から次へと湧いてくる。
 黒くてどろどろして熱くたぎるそれは、きっとマグマみたいに触れれば火傷のような痛みをもたらすもの。先輩たちの
卒業を意識し始めてから、私の心の奥底で少しずつ溜まり始めていたマイナスの想い。
 私は今それを、純に向けてぶちまけているんだ。
 酷いこと言ってるって、わかってる。それでも、純を傷つけるとわかってても。
 これだけは、言わずにはいられなかった。

「私たちが一生懸命作り上げた思い出を、宝物を、『ラッキー』だなんて言葉で片付けないで!」

 ひとしきり叫ぶと、体中から力が抜ける。
 背もたれに体重を預けるとどっと疲労が押し寄せてきた。もちろん肉体的ではなく、精神的な。

「ついてないって言うんだったら……それを手放さなくちゃいけなくなった私の方が、よっぽど不幸だよ」

 最後に口をついてでた言葉は、当てつけのように純へと飛んでいく。
 そうだ。純の言う不幸なんて、私に比べたら大したことない。
 純はこの辛さをわからないから、その程度のことで自分が不幸だと思えるんだ。

 ――ああ。嫌な子だな、私。

「っ。そんなの、知らないよ……」

 呻くような純の声にはっとする。
 それが苦しげに聞こえるのは、きっと私の言葉のせいで。
 思わず耳を塞ぎたくなる両手を私は必死に抑える。

「それだって結局、梓が失えるだけのものを持ってたからでしょ。失うことすらできない私は、どうすればいいのよ」

「そんなの……それこそ私の知ったことじゃ、ない」

「…………」

「…………」

 不毛な言い争いは、いつしか沈黙に変わる。
 言いたいことを全て言ったはずなのに、心はまだもやもやしたままだった。

「そっか」

 その沈黙を破ったのは、妙に明るい声だった。

「うん、わかったよ二人共。純ちゃんの言いたいことも梓ちゃんの言いたいことも、しっかり伝わってきたよ」

「憂……」

 言いながら正面に座る憂へと視線を向ける。その隣に座る純もまた私と同じように憂を見つめていた。
 ああ、純も私と同じなんだ。憂の言葉が救いの言葉に聞こえているに違いない。
 憂ならきっとなんとかしてくれる。 
 憂ならきっとこの場を綺麗に収めてくれる。
 そんな期待が、純の瞳の中で輝いていた。そしてきっと、私の瞳の中でも。

 ――それにしても。

「つまりね、二人の話をまとめると、」

 憂はなぜ、この状況で、笑っているのだろう?


「この中で一番不幸なのは私ってことだよね?」

「う、い?」

 それは私の台詞だったか、それとも純の台詞だったか。どちらにせよそんな言葉には耳も貸さず、憂は冷たい笑顔を
純に向ける。

「純ちゃんは大好きな澪先輩たちと一緒に部活をできなかった、部活に入ることすらできなかった自分が不幸だって、
そう言いたいんだよね?」

「え、あ、うん……」

「じゃあ家のことやお姉ちゃんのお世話でお姉ちゃんと一緒の部活に入れなかった私も不幸だよね。純ちゃんは雰囲気が
入りづらいっていう曖昧な理由だったけど、私のは時間がないっていう具体的な理由だからもっとかな。ほら、純ちゃん
より私の方が不幸だね」

「う、憂……?」

 辛辣な言葉を並べる憂を、純は信じられないものでも見るかのように見つめている。顔を青ざめさせる友人に、しかし
憂はなおも冷ややかな笑顔を浮かべたままでいる。
 そしてその表情は私へと向けられる。

「梓ちゃん。梓ちゃんは二年間一緒に部活をしてきたお姉ちゃんたちが遠くに行っちゃって、それまで築いた絆を
手放さなくちゃいけなくなったから自分は不幸。そう言いたいんだよね?」

「…………」

 言葉が出てこない。首だけが壊れた人形のようにカクカクと首肯を繰り返す。

「そっか。それなら十七年間一緒に暮らして家族の絆を作ってきたお姉ちゃんと離ればなれになる私は、梓ちゃんより
もっと不幸。そうだよね?」

「い、や、それは……」

 今度は頷くことなどできない。だけど、返すべき言葉は見つからない。
 しばらくは私を見つめていた憂だったけど、私が声をつまらせているのを見て諦めたように顔を背けた。
 そして私と純、二人に向けて言い放つ。

「はい、これで解決だね。純ちゃんよりも、梓ちゃんよりも、私の方が不幸。これでいいんだよね?」

「…………」

「…………」

 私も純も、返事をすることはおろか憂の顔を見ることすらできない。
 だから。

「二人が言ってるのは――そういうことなんだよ?」

 震える声でそう言った憂の表情を、私たちは見ることができなかった。

「憂?」

 二人同時に慌てて憂を見つめる。
 憂はもう、笑みを浮かべてなどいない。
 私を、純を――親友を気遣う、いつもの憂の顔だった。

「ちっちゃい頃の話なんだけどね。お姉ちゃんが転んで怪我をしちゃったことがあったの。お姉ちゃんは痛い痛いって
泣いちゃうんだけど、お母さんはこう言うの。『世界では戦争のせいでもっと痛い目に遭っている人がいるの。だから
我慢しなさい』って。――どう、思う?」

 話の内容の唐突さにもだが、それよりも急にいつもの温かさを取り戻した憂に私は目を白黒させる。
 私が答えあぐねていると、純が先に口を開いた。

「ん……納得はしづらいけど、教育って意味では間違ってない、かな?」

「うん、そうだね。でも私はその言葉がすっごく嫌いだった」

「え?」

 これは私の言葉。
 意外だったのだ。こういう教育的な、『正しいお話』はむしろ憂にぴったりだと思っていたから。
 驚いている私がおかしかったのか、憂はくすりと笑みを浮かべて――もちろんさっきまでの冷たい笑みではなく、いつも
通りの温かな笑みだ――言う。

「だって、考えてみて。世界のどこかで苦しんでる人なんて想像できないけど、今目の前にいるお姉ちゃんは実際に痛くて
泣いてるんだよ? なんで会ったこともない人のためにお姉ちゃんが我慢しなきゃいけないのか、私には納得いかなかった」

 なるほど、言われてみれば憂の言う通りの話だ。
 たとえ世界のどこかで死にそうになって苦しんでる人がいたとしても、唯先輩が痛いことには変わりない。
 その誰かさんがすごく不幸だったとしても、唯先輩もまた不幸であることには変わりないってことなんだ――

「っ!」

 それに気づき、私は跳ね上げるように純へ視線を向ける。
 純もまた、私と同じ動きでこちらを見つめていた。

「ぷっ……あははははは!」

 綺麗にシンクロした私たちが面白かったのだろう。今度は声を上げて憂が笑い始めた。

「ふう、笑っちゃってごめんね? 二人共。でもその様子だと私の言いたいこと、わかってくれたみたいだね」

「はい……」

「恥ずかしながら、今さら……」

 頬を掻きながら、私と純。照れくさくてお互いの顔なんて見れたもんじゃない。

「つまりね。純ちゃんが『不幸だ』って思ってるならそれは純ちゃんにとっては間違いなく不幸なことで、梓ちゃんが
『自分はそれより不幸だ』って思ってても、それを否定しちゃダメなんだよ。もちろんそれは逆も同じ」

 ひとつひとつの言葉を丁寧に繋げる憂。
 なんでもないはずの言葉たちが、まるで呪文のように心に沁みてくる。

「まず最初。梓ちゃんの『そんなことか』っていう言葉は不用意だった。それはわかってるよね? 梓ちゃん」

「……うん」

 だから、その言葉も素直に出てきた。

「ごめんね、純」

 仲直りの印に右手を伸ばす。

「純ちゃんも。梓ちゃんやお姉ちゃんたちの関係をラッキーって言葉でまとめちゃったのは、梓ちゃんにも
お姉ちゃんたちにも失礼だよ。たとえそれが自分が不幸だってことを強調したかったからだとはいえ、ね?」

「うん……ごめん、梓」

 伸ばした右手は、しっかりと握られた。

「うんっ! これで本当に解決だね!」

 繋がれた手の上に、憂の手が重ねられる。
 その手がなんだかすごく温かくて、すごく安心できて、今度は私と純が笑ってしまう番だった。

「あ」

 繋ぎ、重ねた手をそのままに、純が何かに気づいたかのように声を上げる。

「ん? どうしたの、純?」

「いや……私、今掴んでるんだなーと思って、さ」

「掴んでるって……私の手?」

「まあそうと言えばそうなんだけど……つまりあれよ」

「……?」

 言葉を濁す純に私と憂は首をかしげる。
 恥ずかしいのか少し頬を赤く染めながら、小さな声で純は言う。

「だからさ。……あの時、掴めなかったもの。今は掴めてるんだな、って」

「……わぁ!」

 先にその言葉の意味を理解したのは憂だった。恥ずかしそうに、でもそれ以上に嬉しそうに、顔を紅潮させている。
 ワンテンポ遅れて、私もその意味に気づく。

「は、恥ずかしいこと言うね、純……」

 うん、きっと今は私も顔が真っ赤になってるに違いない。

 そして、ふと気づく。

「あ」

 思わず上げた声に今度は視線が私に集まる。

「今度は梓ちゃん? 聞かせて聞かせて!」

「む、無理! これは言えない!」

 憂の言葉を即座に拒否。
 純の言葉ですら恥ずかしいのに、自分の言葉にしたらもっと恥ずかしい。
 こればっかりは言うまいと口を固く閉ざす私。

「……ははーん?」

 だというのに、純はなぜだか訳知り顔で。

「あーずっさちゃん? 恥ずかしいなら私が代わりに言ったげよっか?」

「なっ! だめだめ!」

「純ちゃんわかったの!? 教えて教えて!」

「憂も食いつかないの! もー、わかった! 私が言うから!」

 純に言わせたらどんな恥ずかしい言葉で脚色させるかわかったもんじゃない。
 だったら自分から暴露したほうがマシ……だよね?
 若干後悔しつつも、溜息混じりに答える。

「いや……私も、あったんだなって思っただけ」

「んー? あったってなにがー?」

 にやにやしながら言ってくる純。繋ぐ手に少し力を込めてやると一瞬悲鳴を上げた後静かになった。

「だから……大事な繋がり。先輩たちとだけじゃなくて、ここにもあったな、って」

「……!」

 今度は声すら上げず、憂が目を輝かせる。 
 やっぱり言わなければよかった。恥ずかしすぎて目を合わせられない。

「つまりさ」

 痛みが引いたのか、純が口を開く。

「全然不幸なんかじゃないってことじゃん、私たち」

「……たしかに」

「その通りだねっ!」

 今度は三人で、笑い声を上げるのだった。

以上です
お付き合いありがとうございました



最終更新:2013年04月11日 22:13