「もう直ー、パソコンばっかりやってないで構ってよー」


純先輩のお宅、純先輩のお部屋。
私がノートパソコンで作曲をやっていると、背中から純先輩が抱き着いて来た。
純先輩が私に抱き着いて顔を寄せてくれる。
頬を重ね合わせてくれる。
純先輩の柔らかさと純先輩の体温を感じて、私は嬉しさと切なさを同時に感じてしまう。
その心の動きを悟られないように、わざと冷たい感じに私は返した。


「そうは言っても純先輩、
新歓ライブの準備もありますし、打ち込みを一気に終わらせておかないと……」


「大丈夫だって、直!
前に新入部員を捕まえる方法を教えてあげたでしょ?
それを実践すれば、問題無く部員も集まるって!」


根拠の無い言葉を自信満々に言って、純先輩が笑う。
そんな無責任な――、とは思うけど、
純先輩がそう言ってくれると、本当にそう思えて来るから不思議だ。
私達に努力なんてしてないように見せる純先輩。
裏で頑張ってる様子なんて見せずにいつも飄々としてる純先輩。
だけど、本当は自分に出来る精一杯の努力をしてる純先輩。
そんな純先輩の姿を知った時、私は純先輩に惹かれてる自分に気付いた。

私はちょっとだけ器用じゃない。
どの楽器も上手く弾けなかったし、色んな所でちょっとずつ失敗しちゃってる。
足手まといになるのが嫌で、軽音部を退部しようと思った事もあった。
でも、辞めなくてよかった、って今は心から思う。
とても大切な仲間ととても大事な人が出来たから。
胸が痛くなるほど大好きになれる人が出来たから――。


「それに新歓ライブはさわ子先生がギターを担当してくれる事になったんでしょ?
だったら、問題無いんじゃない?
さわ子先生はあれで外面がいいから、二人くらい新入生も騙されてくれるって。
だからさ、安心しなよ、直。
よっぽど新入部員が集まらないみたいだったら、私達も勧誘の手伝いするからさ」


悪戯っぽい口調で続けた後、純先輩が私の頬に唇を重ねた。
純先輩のツインテールの感触と、柔らかい唇の温かさを感じる。
私の熱が頬に集中していく。
何度も頬に感じた事がある純先輩の唇だけど、まだ全然慣れないなあ……。
スキンシップが多めの純先輩だけど、流石にただの後輩の頬にキスしたりはしない。
つまり、純先輩と私はただの先輩後輩以上の関係だという事だ。
その事実を噛み締めると嬉しいのは確かだけど、同時に胸も痛んで溜息になりそうになる。
溜息をぐっと堪えると涙になりそうになって、私はそれもどうにか堪える。

瞳を閉じると今でも鮮明に思い出せる。
去年の頃のクリスマスイヴ――。
学祭のライブが終わって、それでも先輩達は部室に顔を出してくれて、
いつの間にか誰よりも純先輩の姿を目で追ってる事に気付き始めた頃のクリスマスイヴ――。
憂先輩のお宅でのクリスマス会を楽しんだ後、
私は軽い雪に降られながら、純先輩に家まで送ってもらっていた。


――後輩を家まで送るくらい私に任せなさい!


純先輩が普段通り無根拠に胸を張って――ひょっとしたら根拠があるのかもしれないけど――、
私に向けてくれた笑顔は眩しくて、優しさを感じられて嬉しくて――辛かった。
何となくだろうけど私と繋いでくれた純先輩の手から切なさと苦しさばかり湧き上がった。
もう数ヶ月先には純先輩は梓先輩達と高校を卒業してしまう。
純先輩の無根拠だけど心強い笑顔が見れなくなる――。
そう思うと、胸がひどく苦しくなった。
離れたくなかったし、胸の中に湧き上がりつつあった想いに蓋をしてられなくなった。
だから――、私は月明かりに照らされる雪景色の中、純先輩に言った。


――私、純先輩の事が好きです。


って。
しばらくの無音――。
クリスマスイヴなのに街の喧騒は私の耳に届かなかった。
生まれて初めての告白――しかも同性相手――に私の思考回路は壊れてしまいそうだった。
高鳴る胸の鼓動ばかり響いて、怖くて純先輩の表情も見られなかった。
一分か二分か――。
凄く長く感じる沈黙の時間が過ぎた後、ひどく明るい声が雪の中に響いた。


――私でいいの?


明るい声だったから、振られたかと思った。
後輩の単なる冗談だと思われたのかもしれない。
考えてみなくても、純先輩は梓先輩や憂先輩と凄く仲が良い。
私が入り込める隙なんかあるはずもなかったのかも――。
泣き出しそうになる自分に気付きながら顔を上げてみると、そこには意外な光景が広がっていた。
純先輩は私の目の前で顔を真っ赤にして――、嬉しそうに頬を掻いていた――。
それだけで舞い上がってしまって、それから後の事はあんまり憶えてない。


――直はスミーレの事が好きなんだと思ってたよ。


なんて言いながら、笑ってた事だけは憶えてる。
純先輩らしくなく、終始顔を真っ赤にさせてくれていて――。


――菫の事は好きですけど、私が恋愛対象として好きなのは純先輩の方なんです。


そう返すと、純先輩は嬉しそうに私の肩を抱いて耳元で、ありがとね、と囁いてくれた。
二人して同じ様な事を考えてたんだと思うと、滑稽で、嬉しくて、何だか笑顔になれた。
これが私と純先輩の新しい関係の始まり。
単なる先輩と後輩って関係じゃない、恋人っていう関係の始まりの日――。
純先輩が卒業した後の今日も、変わらずに私達の恋人の時間は続いている――。


「ねえねえ、直ー」


私の頬にキスの雨を降らせながら、純先輩が甘く囁いた。
私の意識があの冬の幸せなクリスマスの日から現実に引き戻される。
幸せで甘い痛みを感じる現実に。
私はその痛みからとりあえず目を逸らして、純先輩に軽い感じに返した。


「何ですか、純先輩?」


「私さ、直のそういう真面目な所好きだよ。
でも、根を詰め過ぎてもよくないと思うよ?
無理をした姿を見せて新入部員に入って来てもらっても、後が続かないと思うしね。
直達は自分達に出来るそのままの姿を新入部員に見せたらいいんじゃない?」


「菫を無理矢理確保しようとした純先輩がそれを言いますか」


「あははっ、それはそれ、これはこれだよ」


純先輩がまた無根拠に笑うけれど、悪い気はしなかった。
それは確かに純先輩の言う通りだしね。
無理をしていい姿を見せた所で、それをずっと続ける事なんて絶対に出来ない。
純先輩の指摘通り、新歓ライブではそのままの姿を見せた方がいいんだろう。
実を言うと、新入部員の勧誘はそんなに心配してない。
私には頼りになる同級生の菫が居るし、
ちょっとだけ頼りになる顧問のさわ子先生も居てくれる。
だから、きっと大丈夫だと思う。
純先輩から教えてもらった新入生の捕まえ方もある事だし。


「だーかーらーさ。
ちょっとくらい恋人にも構ってほしいんだけどー?」


純先輩が悪戯っぽく口にしたかと思った瞬間、
私の肩に軽く力を込めてカーペットの上に私ごと寝転んだ。
私は純先輩の成すがままにされて、その場に横になる。
そのまま純先輩が私に馬乗りになって、楽しそうに微笑んだ。
肌を重ねる時の私達のいつもの体勢。
純先輩の体重を下腹部に感じる。
その重さは純先輩の重さ。
純先輩の重さを感じられる事自体はとても嬉しい。

純先輩はいつもみたいに悪戯っぽい素敵な笑顔で私を見下ろしているんだと思う。
でも、私にその純先輩の表情を確かめる事は出来なかった。
純先輩の顔を間近で見てしまったら、涙を流してしまうかもしれないから。
純先輩に嫌な気分にさせてしまうかもしれないから。
だから、今の私は絶対に純先輩の顔を見られない――。

でも、純先輩の顔を見ないままでいるのも不自然だった。
私は身じろぎして掛けていた眼鏡を外すと、
この後に激しく動いても大丈夫なように、遠くのクッションまで軽く投げ飛ばした。
こうすれば少なくとも大好きな純先輩の顔を間近で見なくても済む。


「えー、また眼鏡外しちゃうの、直ー?」


「眼鏡が壊れないためです。
純先輩が無理な動きをするから、壊れないかいつも冷や冷やしてるんですよ」


「大丈夫だと思うけどなあ……。
うーん、残念。
私、直の眼鏡掛けた顔が好きなのになー」


「眼鏡フェチですか?」


「もーっ、人に勝手に変な趣味にさせないでってばー」


頬を膨らませながらも、純先輩が明るく笑ってくれる。
よかった。私の真意は知られてないみたい。
この私の想いだけは、純先輩に知られてしまうわけにはいかないから。
絶対に――。

本当は――。
本当は私だって純先輩の顔が見ていたい。
唇が重なり合う距離から見つめ合っていたい。
心から体温を感じ合いたい。
でも、私にはそれが出来ない――。
きっと――、しちゃいけない事だから――。


「生意気な元後輩におしおきっ!」


純先輩が上半身を屈めて、多分、瞳を閉じて自分の唇に私の唇に重ねる。
嬉しさと切なさを私に同時に感じさせる純先輩の唇。
初めて重ねた時は嬉しさと幸せだけを私に感じさせてくれていた唇。
初めてのキスがこんなに幸せなら、これから先、私はどれだけ幸せになれるんだろうって思っていたのに。
もっともっとキスを重ねたいって思ってたのに、今はそれがとても怖い。


「はっ……」


「んっ、うっ……」


甘い吐息がお互いの唇の隙間から漏れる。
くすぐったくて気持ちいいけど、やっぱり少し辛い。
激しいキスから少し逃げようと動いてみるけど、
純先輩が私の頬を両の手のひらで固定して、私の身じろぎを遮った。
私の口の中で純先輩の舌が器用に艶めかしく動く。
初めてのキスを終えてから、純先輩のキスは日を追う毎に激しくなってる気がする。
実を言うと、私は結構負けず嫌いな自覚がある。
完璧過ぎる憂先輩に嫉妬して、どうにかその弱点を探そうと思った事もあるくらい。
だから、本当は私も純先輩に負けじと自分の舌を動かしたかった。
やられてばっかりじゃないんですよ、って所を見せたかった。

だけど――、私は純先輩にされるがままにする事にしてる。
今だけじゃなく、ホワイトデーの日、初めて純先輩と肌を重ねた日からずっと――。
瞳に涙を浮かべる純先輩の姿を見た日から――。


――痛っ!


あの初めての日、純先輩の口から出た小さな悲鳴が忘れられない。
無限リピートの設定にしたDTMみたいに、何度も何度も繰り返し私の頭の中に響いている。
驚いて確認した私の爪先は少しだけ赤く染まっていた。
それが純先輩の血液だと理解した途端、怖さと申し訳無さで脳内がいっぱいになった。
純先輩を怪我させちゃったんだ――。
その現実が私の胸に重く圧し掛かった。


きっかけは単純だった。
ホワイトデー、純先輩が私が渡したバレンタインチョコのお返しに深いキスをしてくれた。
全身が蕩けるような甘美で優しいキス――。
純先輩の部屋で十分以上キスを重ね、舌を絡め合う内に私は純先輩との関係をもっと進めたくなった。
舌を絡め合うだけじゃ私の溢れ出そうな気持ちを伝え切れないと思った。
それは純先輩の方も同じらしくて、気付けば純先輩は服を着崩していた。
全部脱ぐのかな、と思っていたけど、それ以上純先輩の手は進まず、代わりに私の服に手が伸びていた。
私と脱がせ合いたいんだ――。
その事に気付いた時、私は自分でも分かるくらい顔を真っ赤にさせてしまった。
今日が純先輩との初めての日になるんだ――、その事実が私の胸を幸せで満たした。

二人で服を脱がせ合った後、私は純先輩の裸体を見て妙な気分に囚われた。
女性的で理想的な体型だとは言えない。
胸の膨らみも少し小振りがちで、細く伸びた手足はちょっと男の子っぽくも見える。
でも――、思った。
これが私にとって最高に理想的な身体なんだって。
そう思うと嬉しくて、幸せで、私はつい目を細めてしまった。
純先輩は私のその表情を違う意味で捉えたらしく、
どうせ私は憂やスミーレみたいにスタイル良くないですよ、と言わんばかりに頬を膨らませた。
勘違いを訂正した方がいいのかもしれなかったけど、その時の私はそうはしなかった。
だって――、頬を膨らませる純先輩の裸体も息を呑んでしまうほど綺麗だったから。

その後、頬を膨らませたまま、純先輩がすぐに私に圧し掛かるみたいに肌を重ねた。
純先輩の唇と指先は私に知らなかった感覚と幸せを刻んでくれた。
何事でも無いような素振りをして、純先輩はぎこちなく私を愛撫してくれた。
自分が年上で先輩だから私を大切をしようとしてくれてる事は、その指先から理解出来た。
凄く嬉しかった。
この無邪気で優しい先輩と愛し合えるようになった事が。

だけど、私はそれだけじゃ満足出来なかった。
そう、私には負けず嫌いな節がある。
自分でも呆れてしまうくらいに負けず嫌いなんだよね、私は。
だから、私は負けたくなかった。
想いの強さで負けたくなかった。
私は純先輩にも自分の愛しさと想いを肌で伝えたかった。
全身で純先輩を愛したかった。
それで私は手を伸ばしてしまったんだ、大好きな純先輩の方へ。
私の想いを届けるために。


――痛っ!


純先輩の小さな悲鳴が聞こえた時、私はすぐには何が起こったのか分からなかった。
自分の耳元を手のひらで押さえる純先輩の姿を見ても、私は漠然とした不安を胸に抱く事しか出来なかった。
何が起こったんだろう――、その時の私は不安を抱えながらも何故か冷静だった。
そうだ。私は純先輩に想いを届けようと腕を伸ばした。
たくさんの想いを全身で届けたかった。
愛撫されながらだからよく分からなかったけれど、純先輩の肌に自分の指先が掠めた感触はあった。
私の指先――?
それに思い至った私は恐る恐る自分の指先に視線を向けた。
指先を確認した途端、私は思わず目を剥いた。




私の指先――
正確には爪先には――
軽く血が滲んでいた――。


勿論――、
私じゃなく純先輩の――。




胸が激しく鼓動するのを感じながら、私は耳元を確認しようと純先輩に身体を寄せた。
確認したくない。
でも、確認しないと意味が無い。
二律背反に息が詰まりそうになりながら、失礼します、と手のひらをどけてもらって――。
私は見つけてしまった。
純先輩の耳たぶから軽い鮮血が溢れてしまっているのを――。


――ごめんなさい!


それが適切な言葉だったのかどうかは今でも分からない。
でも、私が誤って純先輩を傷付けてしまったのは確かだから、謝罪はするべきだった。
謝罪しないといけなかった。


――いいよ、直もわざとやったわけじゃないんだし。


絆創膏を耳元に貼りながら純先輩は笑ってくれたけど、私の頭は真っ白になったままだった。
私の青い顔に純先輩も気付いてくれたんだろう。
その日の情事はそれで中断になった。
私の想いを届ける事が出来なくなってしまった。

その日、純先輩を傷付けてしまってから――、
私はあまり考えないようにしてた自分の本質について、向き合わざるを得なくなった。
もう目を逸らしてはいけなくなった。
本当はずっと、何となく分かってた事だった。
私は不器用で失敗ばかりしてる人間だったんだって。
家族の皆や菫、先輩方は私の失敗を優しく見守ってくれる。
ちょっとの失敗くらい見逃してくれる。
だけど――、と思う。
私のしてた失敗は本当にちょっとした失敗だったのかな、って
今まではちょっとした失敗だったかもしれないけど、これから先、大きな失敗をしないとは言い切れない。
いや、多分、いつかきっと、物凄い失敗をしてしまうんだろう。

思い出す――。
体験入部でどの部を巡ってもどんな適性も感じられなかった不器用さを。
梓先輩のギターや、店のドラムを壊してしまった自分の失敗を。
決して良くはないけれど、ギターやドラムならいい。まだいい。
でも、もしもいつか私が同じ様に誰かを傷付けてしまったら――?
大切な純先輩の身体に痛みを刻み込んでしまったら――?
考えてみるだけで身震いする。
そんなの――、駄目――。
大切な純先輩に痛みを感じさせる事だけは絶対に駄目だよ――!


「えへへ、なーおっ、今日はこんな所はどう?」


「あっ…、はい……。
気持ち…んっ、いい……です」


過去に想いを馳せてる間にも、純先輩の愛撫は続いていた。
純先輩の舌先は私の乳首の上を這って、指先は秘部を優しく弄んでくれていた。
もう二人とも全裸で、息も荒くなって、全身に汗を掻いて悦びを感じている。
嬉しいし、幸せだし、気持ちいい。
でも、同時に凄く辛い。
初めての日以来、私と純先輩は何度か肌を重ねた。
多分、俗に言う女性同士の最後の行為までも、ちゃんと済ませた。
純先輩とそんな関係になれた事は勿論嬉しかったけど、胸の痛みに変わるまで時間は掛からなかった。
それは自分から手を伸ばす事をしなくなったから――、
純先輩に行為の全てを任せて、自発的にキスも愛撫も出来なくなってしまったからだと思う。

最初はそれで満足出来ると思ってた。
触れ合えもしなかった頃よりはずっと平気だと思ってた。
純先輩と肌を重ねられるだけで十分なはずって本気で思ってた。
実際、しばらくはそれで自分を誤魔化せた。
だけど、今は駄目。今は違う。
純先輩にされてばかりじゃなくて、自分の想いを全身で表現したい。
されてばかりの自分が申し訳なくて、泣いてしまいそう。
自発的に動けない事がこんなに辛いだなんて、思ってもみなかった。
伝えたい想いを伝えられない事がこんなに辛いだなんて――。


「直ー、こっち向いてよー」


流石に私が純先輩から視線を逸らしていた事がばれてしまったらしい。
正直、裸眼の状態とは言え、純先輩の表情を正面から確認するのは怖い。
大丈夫――、大丈夫だから――!
不鮮明な純先輩の表情なら、間近で見ても大丈夫なはずだから――!
必死に自分に言い聞かせながら、私は深呼吸して純先輩に視線を向ける。

その瞬間――、


「隙ありっ!」


「……えっ?」


全く予期していない展開だった。
いつの間にか純先輩は放り投げたはずの私の眼鏡を持っていて、
抵抗する時間も無い間に私の鼻先に掛けてしまっていた。
あっという間に純先輩の顔が鮮明に見えてしまう。


「眼鏡を外した直も可愛いよ?
でもさ、眼鏡を掛けた直だって私の好きな直なんだから、こんな時でも見せてほしいんだよね」


悪戯っぽい表情で純先輩が微笑む。
大好きな純先輩の笑顔。
ずっと見たくなくて、見たかった純先輩の笑顔が私の目の前にあった。
間近で見る純先輩の笑顔は輝いていて眩しくて――、辛かった――。
決して私から触れちゃいけない純先輩の笑顔が――。


「うっ……、くっ……」


「直?」


「ひぐっ……、ううううっ……くっ……!」


意識しての事じゃなかった。
気が付けば、私は両目から大粒の涙を流してしまっていた。
こんな時に泣き出すなんてどうかしてるし、純先輩だって困ってしまうだろう。
でも、涙を止められないし、伝えたい想いを言葉にも出来ない。
ただ涙が止められなくて、妙に冷静な自分が判断してもしまっていた。
ああ――、もう純先輩との関係も終わりなんだ――、って。
苦しくて悲しくて、余計に涙が溢れ出してくる。
だけど、もしかしたら、それでよかったのかもしれない。
こんな不器用で失敗ばかりの私が純先輩と付き合っていても、きっと純先輩を不幸にしてしまうだけなんだ。
この先、いっぱいいっぱい純先輩を傷付けてしまうより先に、離れてしまった方がよかったんだ――。


「直」


純先輩が優しい声を私に掛けてくれる。
声色は優しかったけれど、きっと急に泣き出してしまった私に呆れてしまってるはずだ。
私はそういう事をしてしまったんだから――。


「直、泣いたままでもいいから、こっちを見てくれる?」


純先輩の方を――?
見られるはずないよ、純先輩――。
今、純先輩の方を見たら、もっと涙を止められなくなっちゃうよ――。


「駄……目です……。
見れません……よう……」


「見てよ、直、お願いだから」


私の勝手な我儘にも純先輩は優しい声を返してくれた。
でも、それが余計に私の胸を強く痛める。
純先輩に優しくされる価値が自分に無い事が分かってるから、凄く辛くなる。


「いいから、見て!」


純先輩が少し強引に私の頬を両手で掴んで、強めに言った。
私は目を閉じたままで涙を流していたけれど、
でも、それが私が純先輩に出来る最後の誠意かもしれないとも思った。
この後、私は純先輩の顔を見て、大声で泣き出してしまうだろう。
純先輩のお宅を揺らすくらいの大声で泣いちゃう事だろう。
その前に服を急いで着て、飛び出して行こうと思う。
それで私と純先輩の関係は終わるんだ、永遠に――。





五回、深呼吸。
暗澹とした未来に想いを馳せながら、
私は――、
涙を拭って目蓋を開いた――。


「純……先輩……?」


大好きな純先輩の顔を眼鏡越しに間近にした時、涙の代わりに疑問の声が漏れた。
また予想すらしてなかった光景が目の前に広がっていたからだ。
涙を拭って見てみた純先輩の頬は少し紅潮していた。
頬が紅潮していた理由は――、そう――、
純先輩が憂先輩や梓先輩の前ですら見せない姿をしていたからだった。
いつの間にか――、
髪留めを外して上げていた髪を下ろしていたからだった――。


「ほら、これで私の恥ずかしい姿は見せたよ、直?」


「……えっ?」


「私の恥ずかしい姿を見せたんだから、直も涙の理由を教えてよ。
平等――にさ」


そう言った純先輩の声は上擦っていた。
以前、みっともないから家族の前でしか見せられないと言っていた、純先輩の髪を下ろした姿。
肌を重ねる関係になった今ですら、純先輩は私にその姿をほとんど見せてくれなかった。
でも――、今、純先輩は私の前で髪を下ろしてくれている――。
頬を紅潮させて、声まで上擦らせて、それでも、みっともない姿を見せてくれている――。
みっともなくなんかないけど、少なくとも純先輩は恥ずかしいと思ってる姿を。


「あ……の……」


「んっ」


私が何かを言う前に純先輩が軽く私の唇にキスをした。
今までみたいな深いキスじゃなくて、触れ合うだけの軽いキスを。
その後、頭を掻きながら、ごめんね、と頭を下げてくれた。


「ごめんね、直。
本当はもっと早く見せてあげればよかったんだと思うんだけどね――。
先輩の威厳って言うか、そういうので照れちゃって見せられなかったんだ――。
恋人同士なのに、みっともない姿を隠すなんて、直に悪かったよね……」


「えっと、純……先輩……」


「だから、直っ!」


「は……、はいっ……!」


「直も隠してた姿を見せてよ。
私の事が嫌いになったって言うんなら仕方無いけどね、
もしもそうじゃないんだったら、その涙の理由を教えてほしいな。
先輩で恋人の私にどーんと相談しなさいっ!」


純先輩の無根拠な自信に溢れた言葉。
滑稽でちょっと無茶苦茶だけど、いつの間にか私の涙は止まっていた。
同時に自覚する。
私は純先輩のこんな所を好きになったんだって。
飄々としてるのに私達の事を考えてくれていて、何にでも楽しそうに出来る純先輩の事が。
こんなにも――。


「分かりました、純先輩。
あの……、実はですね、私――」


だから、私は自分の悩んでいた事を告白した。
自分でも不思議なくらい、正直に純先輩に告白出来ていた。
自分が不器用で失敗ばかりしてる事。
前に純先輩の耳たぶを怪我させてしまった事で、もっと不安になってしまった事。
これ以上、純先輩を傷付けたりしたくない事。
これで純先輩との関係が終わってしまうかもしれなかったけれど、
純先輩ならちゃんとした終わり方を私に示してくれる――、そんな安心感もあったから。

全てを語り終えた後、純先輩が無邪気に笑って私を正面から抱き締めてくれた。
乳房同士が重なり合って、純先輩の熱を感じる。


「本当はね、気付いてたんだよね、直の悩み」


「えっ……?」


「気付かないはずないでしょ?
付き合い始めた当初は凄くくっ付いて来てた直が、初めての日から近付いて来なくなったじゃん?
こんなのあの日に何かがあったって気付くよ」


「完璧な演技のつもりだったのに……」


「あれで完璧なつもりだったんだ……。
まあ、それも直らしいけどね。
でもさ、私もどうしてあげたらいいか分からなくてさ、それで今日になっちゃったんだよね。
それは年上の恋人の私の失敗。
ごめんね、直」


「い、いえ、純先輩が謝る事じゃ……」


「ねえ、直?」


「はい?」


「私を傷付けるの、そんなに怖い……?」


「怖い……です……」


思い出しただけで身震いする。
あの日、純先輩が耳を押さえて痛がっていた光景が鮮明に蘇る。
あの日はそれだけで済んだけど、この先、それ以上の事をしてしまわないとも限らないから――。

私が純先輩から視線を逸らして、顔を青くさせていると不意に――。


「奥田ー!」


純先輩が強い声を私の耳元で出した。
突然の事に私は上擦った声を漏らす事しか出来ない。


「は……、はいっ?」


「歯を食いしばって、私を思いっ切り抱き締めろー!」


「急に何を……」


「御託はいい、奥田ー!」


「はいっ!」


私は言われるままに純先輩の背中に腕を回して力を込め始める。
ただし、かなり力加減をして。
思い切り純先輩を抱き締める勇気なんて私にあるはずがない。
でも、そんな事、純先輩は百も承知だったみたいで、また大声を出した。


「思いっ切りって言ってるだろ、奥田ー!」


「で、でも――」


「思いっ切り抱き締めないと、これで問答無用で絶交だぞ、奥田ー!」


別れる覚悟はしていたとは言っても、こんな事で別れるのは嫌だった。
私は破れかぶれで純先輩の全身を抱き締めた。
ずっとしたかった事。
したくても怖くて出来なくなった事を――。

それから多分、二分くらい。
腕の中の純先輩はたまに呻き声を出していたけど、それ以上何も言わなかった。
申し訳ない気分になりながらも、私はずっと純先輩を抱き締めてその熱を感じていた。
失礼な話だと思うけど、純先輩を抱き締められて、凄く嬉しかった。


「それが全力、直――?」


「はい……、そのつもりですけど……」


「うん、だったらいいんだよ――」


言いながら、純先輩が私の頭を優しく撫でてくれた。
年上の優しさに溢れた手付き。
その手付きは今までのどの愛撫よりも嬉しくて気持ちよかった。
嬉しくなって私が目を細めた頃、純先輩はまた微笑んでくれた。
不意に気になって純先輩に訊ねてみる。


「痛くなかったんですか、純先輩?」


「うん、そんなの――」


「そんなの――?」


「痛いに決まってるでしょ!」


やっぱり――、と思った。
私はこれが最後だという覚悟まで持って、純先輩を力一杯抱き締めたんだもんね。
ちょっと確認してみただけでも、純先輩の身体には赤くなってる箇所が沢山あった。
私がやった事なんだけど、凄く痛そうで申し訳無くなって来る。
でも――、純先輩は涙目で笑っていた。
目を潤ませながら私をまた撫でてくれた。


「でも、今のでよく分かったよ、直。
痛いのは痛いんだけど、耐えられないほどじゃないもん。
前から思ってたんだけどさ、直は馬鹿力とかそういうのじゃないんだよ。
不器用って言うか、力加減が分かってないのかな?
それでギターとかドラムを壊しちゃう事もあったんだと思うよ?」


「そう――でしょうか――?」


「うん、きっとそうだよ。
直はさ、不器用なんだよ、単純に」


「でも、私、純先輩の耳たぶを傷付けちゃって……」


「それも分かってるよ、直。
直が不器用な自分を怖がってる事も、私を大事にしてくれる事も分かってる。
私を大切にしてくれるのは嬉しいんだけどね、でも、もっと直には自分に自信を持って欲しいよ、私は。
だって、私が選んだ私の恋人なんだしね」


「自分に自信を……?」


「粗末に――とはまた違うんだけど、ちょっとくらい傷付けても平気って思って欲しいんだよね。
ほら、私に対する梓の扱いなんて酷いもんでしょ?
何を言っても屁理屈で返すし、私の言う事はまず否定から入るし……。
むー……、何か思い出してて腹が立ってきちゃった……。

でもね、その梓の態度がさ、嫌ってわけでもないんだよね。
梓がそんな態度を取るのは卒業した軽音部の先輩達か、気を許した友達だけだからさ。
私の事をそれだけ信頼してくれるんだって、何だか嬉しくなるんだ」


そうなんだろうか――?
私は自分に自信を持っていいんだろうか?
純先輩を傷付けても多少は平気で居てもいいくらい、私は純先輩に信頼されてるんだろうか?
まだ――、その答えは出せない。
答えを出すにはまだ私は自分の不器用さを受け容れられてない。

でも、だけど――、
私が私を疑い続けるのは、誰よりも純先輩に失礼な気もした。
どんな形でも、純先輩は私を恋人に選んでくれたんだから。
初めての日を失敗させてしまった私をまだ大切だと言ってくれてるんだから――。
だから、私はもっと自分を信じないといけないんだと思う。


「純先輩、あの……」


何かを言おうとしたけれど、上手く言葉に出来ない。
こんな私を恋人として受け容れてくれる純先輩。
どうにか感謝の想いを言葉として伝えたいけれど、上手くいかない。
手先だけじゃなくて、こういう所まで私は不器用なのかもしれない。
悔しくて、歯噛みしてしまう。
もっと――、大好きな人に素直な気持ちを伝えられたら――。

私の表情がまた曇ってしまった事に気付いたらしい。
純先輩が私の手を取って、自分の耳元に運んだ。
初めての日、私が傷付けてしまった耳たぶを触らせてくれる。
私は心臓が高鳴って、目を瞑りそうになってしまったけど――、
純先輩の飄々とした笑顔が私の弱気を何処かに消し飛ばしてくれた。
私が惹かれた笑顔があったから、私は逃げずに居られた。


「ほら、ゆっくり触ってみてよ、直。
怖くないし、また怪我しちゃっても、私は直を責めたりしないよ。
直が自分の事を不器用だって思うんだったら、ちょっとずつ手先を器用にしていけばいいよ。
直はまだ楽器が弾けないけどさ、その気があれば少しずつ教えてあげる。
簡単な曲でも弾ければ少しは直も自信が持てると思うしね。
例えばね、『むすんでひらいて』だってセッションしてみると何かカッコいい曲になるんだよ?

それまでは私の身体でちょっとずつ練習したらいいと思うんだよね。
楽器の代わりに私を演奏するつもりでさ」


「純先輩――、あの――」


「何? もうやりたい楽器でも決まった?」


「いえ、私を演奏――って、自分で言ってて恥ずかしくありませんか?」


「恥ずかしさを我慢して言ってるのっ!」


純先輩が下ろした髪を軽く振って頬をまた紅潮させた。
失礼かもしれないけど、そんな純先輩が何だか可愛らしく思えた。
そういえば、純先輩をこういう風にからかってみた事はなんてほとんど無かった気がする。
付き合う前もそうだけど、付き合ってからは特にそういう事はしなくなった。
大好きで幸せ過ぎて萎縮しちゃってたのかもしれない。
でも――、そうなんですよね、純先輩――。
こうして軽口を叩き合いながら、傷付け合いながらでいいんですよね、私達――。

だから私は――、


「失礼します」


そう小さく囁いて、慎重に力加減を探りながら純先輩の耳たぶを触り始める。
柔らかくて敏感な耳たぶを、触れたかった大好きな人の身体を触り始める。


「そうそう……んっ、上手じゃん、直。
怪我って言っても大した傷じゃなかったんだし、遠慮せずに強くしてもいいよ。
……ふあっ、んっ……いい感じ」


純先輩の嬌声が上がり始める。
触っているのは耳たぶだけど、
指先で触れてるのはほんの少しの部分でしかないけど――。
私はこうして、純先輩と少しずつ一緒に成長していける恋人関係になれた。
私はやっと本当の意味で純先輩の恋人としてのスタートに立てたのかもしれない。

それが嬉しくて、私は耳たぶを触り続ける。
何十秒も、何分も触っていても飽きない。
このままでも私は十分幸せを感じられる。
でも――。


「あー、もうっ!」


少し不満そうな表情になった純先輩が、私の身体をまた押し倒して馬乗りになった。
そのまま二人の下半身同士が重なる体勢になってしまって、流石に恥ずかしくて私も顔が熱い。
純先輩も恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら、私の頬を軽く両手で掴んだ。


「耳たぶを優しく触ってくれるのは嬉しいよ?
でも、私だってずっと我慢してたんだからね、直?」


「えっ? そうだったんですか?」


「そうだったの!
私がいくら直の身体を触っても、触り返してくれないしさ……。
私のやり方が悪いのかも、って悩んで悶々としてたんだから!」


「そ、それはすみませんでした……」


「だから、今日は覚悟しといてよ!
今日は夜まで我慢してた分まで、思い切り直にしてもらうんだから!
恋人のおねだりにはしっかり応えるもんだよ、直!」


「が、頑張ります」


「だから、んっ」


その言葉が終わるが早いか純先輩が目を閉じた。
色んな事に不器用だった私だけど、今回ばかりは純先輩が私に何を望んでいるのかすぐに分かった。
私も目蓋を閉じて、初めて私の方から純先輩に唇を近付けていく。
これが始まり。
私と純先輩の本当の初めての日の始まりなんだ。
夜まで体力が保つかちょっと不安だけど、そんな不安も何だか楽しい。
純先輩と一緒なら、これからずっと楽しく笑っていける気までしてくる。


――純先輩、ありがとうございます。私、純先輩の恋人でとっても幸せですよ!


心の中でだけそう呟いて、私は純先輩と唇を重ね、深く深く舌を絡め合った。



完結です。
ありがとうございました。



最終更新:2013年04月17日 07:57