唇と唇が触れ合った。
ほんの少し触れるだけの口づけ。
俗に言わなくても、キス。
まさかこいつとする事になるとは思わなかったけど、別に嫌な気分じゃない。
唇をってわけじゃないけど、私はこいつ自身の事がかなり気になっていたから。
ずっと気にしていたから。
こいつ?
こいつってどいつだっけ?
頭が上手く働かない。
目の前のこいつを上手く見られない。
頭の中に霧が掛かってるみたいに、急な温度差で目が霞んでるみたいに。
何故だか私はキスが出来て嬉しいはずの相手の事をはっきり思い出せない。
澪?
不意にずっと私の傍に居てくれた幼馴染みの事を思い出す。
四六時中ってわけじゃないけど、澪の事はいつも気になってる。
強がってはいながら気弱な性格は小さな頃から変わってなかったし、
軽音部に入って改善されてきたとは言え、内気気味な性格も変わらずそのままだ。
でも、全然変わってないわけじゃない。
少しずつだけど、前向きで社交的になってもいる。
時には私が驚かされるくらいの行動力を見せる事もある。
澪はそんな目が離せない幼馴染みで、私の大事な親友なんだ。
澪とならキスをしてもおかしくはないはずだ。
私は今まで何度も澪とキスをしてきたし、
別に今更一度や二度キスを増やしたくらいで驚く事じゃない。
今まで澪とは色んな時間や色んな場所でキスをしてきたもんな。
道端、中学の教室、澪の部屋や私の部屋やマキちゃんの部屋、
果ては富士山麓や宇宙空間、冥王星でだって何度もキスをしてみせた。
我ながら無茶をやったもんだ。
キスをしてきたのはいつも澪の方だったけどさ。
でも、何だろう、この違和感は。
今、私に触れている唇は、これまで感じてきた澪の唇の感触と違う気がする。
感触、感覚、温度、熱が違う気がする。
いや、それ以上に何よりも、だ。
唇よりも先に私の頬に触れる柔らかさの感触が違ったんだ。
澪の髪質は羨ましくなるくらいのストレートの黒髪だ。
流れる絹みたいに綺麗で風に靡くと、はっとするほど綺麗に映える。
だけど、違う。
私が頬に感じる柔らかさはそれとは違ってる。
ストレートでもなければパーマでもない。
そう、結んだ所から巻かれている特徴的な髪型の感触。
初めて目にした時から、一度は触ってみたいと思っていたあの髪型。
ヨーロッパだか何処なんだかのお姫様みたいな髪型で、
その髪型の持ち主自身の髪型以外の外見も性格もお姫様みたいで。
そう、そうだよ。
私が今キスをしている相手は澪じゃなくて――
☆
「……んあ?」
頬に妙なくすぐったさを感じていたせいか、自分でも分かるくらい変な声が出た。
誰にも聞かれなかっただろうな?
なんて間抜けな事を考えながら、私は閉じていた目蓋を開いた。
見慣れない壁、見慣れない家具、見慣れない天井が視界に飛び込んでくる。
誰かの部屋らしいけど、私は何処に居るんだ?
一瞬、そう考えそうになったけど、私はすぐに思い直した。
壁や家具や天井は見慣れなかったけど、見知らないわけじゃなかったからだ。
知っている。
私は何度かこの部屋を訪れて知っている。
持ち主の外見に似つかわしく、華やかで可愛らしい部屋。
所々にピンク色の小物があるし、可愛らしく配置されている兎や熊のぬいぐるみも何処か華やかだ。
少なくとも私の部屋に申し訳程度に置いてる兎のぬいぐるみよりは品があるな。
可愛い物好きの唯や澪の部屋よりずっと女の子らしいぬいぐるみが置かれた部屋。
こんな可愛いぬいぐるみが置かれている部屋を、少なくとも私は一つしか知らない。
「おはよう」
ぼんやりとした頭を軽く振っていると、淡々とした静かな声を浴びせ掛けられた。
私の知り合いにこんな抑揚の無いおはようを言う人間なんて一人しか居ない。
その声だけで誰かは分かってたけど、私は一応そいつに視線を向けた。
少なくとも、今日の私は抑揚の無いおはようを浴びせられても仕方無い事をしちゃったみたいだしな。
「おはよう、いちご。
悪い、私、ちょっと寝ちゃってたみたいだな」
身を起こして、テーブルに身を乗り出しながら頭を下げる。
いちごはそんな事を気にする奴でも無かったけど、これは礼儀ってやつだもんな。
「別にいいよ」
呟くみたいに言いながら、いちごは私から視線を逸らした。
怒ってるわけじゃないのは、いちごの視線を辿ってみて分かった。
視線の先に紅茶とお菓子が置かれていたからだ。
気にせずに食べて、という意味みたいだ。
そういや突然の来客である私のために、いちごはお茶の用意をしに行ってくれてたんだっけな。
それを待っている時間、私はいつの間にか眠っちゃったみたいだ。
さっきの夢をちょっとだけ思い出して、私は苦笑してしまう。
妙な夢を見ちゃったもんだよな、私がいちごにキスされるなんてさ。
うん、あの夢の中で私にキスをしてたのはいちごだったんだな。
いちごを目の前にして、それをはっきり実感出来る。
唇の感触は勿論知らないけど、いちごのクルクルした巻き毛の感触は何度か頬に感じた事がある。
まあ、顔を近付けた時に何度か不可抗力で頬に触れただけなんだけどさ。
とにかく、あの夢で感じた髪の感触は、間違いなくいちごの巻き毛だった。
しかし、いちごとのキスはいいとして、澪とキスした場所は無理があるよな。
何だよ、冥王星って。
マキちゃんの部屋でのキスも、マキちゃんに失礼過ぎるだろ。
夢は不思議だ。
どんなに無茶苦茶な設定だって、自然に受け容れられてしまう。
澪とも夢の中では何度もキスをしてきた。
勿論、夢の中でだけ、のはずだ。
現実ではキスした事ないはずだけど、どうだったっけかな。
小学生の頃にふざけてキスした事が一度か二度あったような無かったような。
「紅茶とお菓子、いらないの?」
私が押し黙っていた事が気になったのか、不意にいちごが呟いた。
私は幼馴染みとのキスに思いを馳せるのを止めて、いちごに視線を向ける。
そこで気付いた。
いちごの頬が若干膨らんでる事に。
「確かに琴吹さんには敵わないと思うけど」
いちごが続けて、私から視線を逸らす。
三年に進級して約一年、いちごと付き合ってきて分かるようになってきた。
これはいちごが不機嫌な時の表情だ。
一見しただけじゃ分かりにくい。
いちごはどんな時でも普段の無表情に見える。
でも、それは違う。
いちごは感情が表情に出にくいだけなんだよな。
感情が希薄なわけじゃないし、表情を作るのが苦手ってわけでもないんだ。
「いやいや、ちゃんと食べるってば、いちご。
単に寝起きでまだぼんやりしてただけだよ」
「そう」
「そうだよ、ありがとな」
いちごに笑顔を見せてから、私は紅茶に口を付ける。
確かにムギの淹れてくれた紅茶には及ばないかもしれない。
年季の差があるんだし、それはどうしようもない。
だけど、いちごの淹れてくれたダージリンは凄く美味しかった。
あのいちごが私にお茶を淹れてくれたって新鮮さもあるけど、
私がしばらく飲まなかった事で不機嫌になるくらい、私の事を思って淹れてくれたんだもんな。
こんなの美味しくないわけがない。
「忙しいの?」
紅茶とお菓子を半分くらい頂いた頃、いちごが静かな声色で私に訊ねた。
もう不機嫌そうじゃない普段通りのいちごだった。
「まあ、ちょっとはなー。
でも、楽しいぞ?
春休みもあと少しだけど、面白い事をまた発見出来たしな」
そう、と呟いてから、いちごが自分の分の紅茶に口を付けた。
高校を卒業してから数週間、私や唯達は何となく思い立ってクラスの皆と遊ぶようにしていた。
思い返してみれば高三は修学旅行や学祭、受験で目が回るくらい忙しかった。
まあ、所々で息抜きをしてた私に言えた事じゃないかもしけないけどさ。
でも、一年や二年の頃と比較すると、クラスの皆と仲良くなる時間が足りなかったのは確かだ。
それでかもしれない。
卒業から三日後、皆で私の部屋に集まった時に唯が急に言い出したのは。
大学に入るまでクラスの皆と遊んでみない? って。
今更何を言い出すんだよ、って私と澪は呆れたけど、
ムギは乗り気だったし、意外にも和が積極的に賛成していた。
四月から私達とは別の大学に進学する和だ。
心の何処かで若干の寂しさを感じてたのかもしれない。
私だってクラスの皆と離れるのが寂しくないわけじゃない。
澪だってもう少し仲良くなりたかったクラスメイトが居たみたいだし。
それで私達は春休みの間、クラスの皆と遊ぶ事になった。
それも一対一でだ。
私達が丸ごと誰かの所に押し掛けても迷惑だろうし、一対一じゃないと見えない事もきっとある。
と、何の漫画を読んだのか唯が言ってたし、私達にも別に異論は無かった。
澪も緊張した面持ちながら、笑顔で頷いてくれた。
やっぱり小さな頃から少しは社交的になってきたみたいだ。
私が今日まで会いに行ったのは、信代、春子、宮本さんと佐々木さんだった。
佐々木さんとはあんまり交流が無かったけど、澪ファンクラブだし一度話してみたい気持ちはあった。
結果的に言えば、佐々木さんと遊んだ一日は楽しくて興味深かった。
澪の何処が好きなのかを聞くのは楽しかったし、
澪の事と同じくらい私の事を知っているのには驚かされた。
佐々木さん曰く、好きな人の相方の事を知っておくのは当然だよ、との事だ。
何だかお笑い芸人になっちゃったみたいだけど、別に嫌な気分はしないよな。
ただ盛り上がり過ぎたのは問題だったかもしれない。
まさか佐々木さんがキース・ムーンの事を知ってるとは思わなかったからな。
澪とも滅多に盛り上がれないキース・ムーン談義で徹夜する事になっちゃったのは必然とも言える。
言えるよな?
それが昨日の事だった。
いや、正確には今日の朝までの話か。
私の家で一晩中盛り上がって、迎えに来てくれた佐々木さんのお母さんの車を見送った後、
私は大きな満足感を胸に抱いたまま、シャワーを浴びてから泥みたいに眠った。
四月から遠く離れるとは言っても、クラスの子と仲良くなれたのは凄く嬉しかった。
昼過ぎ、目を覚ました私は佐々木さんとの徹夜の余韻に浸るより先に、思い出した。
急に思い出したのは、お昼ごはんのデザートがいちごだった事と関係あるかもしれない。
いや、そんな事は別にどうでもいいけど、とにかく思い出したんだ。
前にスケジュールを聞いてみた時、三月二十日までは空いてる、っていちごが一行だけメールを返して来た事を。
そして、今日がその三月二十日だった。
思い出した時には私はいちごに連絡する事も忘れて、いちごの家まで駆け出していた。
三月二十日以降も空いてないとは限らないし、急に行ったって迷惑なだけかもしけない。
それでも私は駆け出さずには居られなかった。
大学に入るまでにもう一度いちごに会っておきたかった。
幸い、いちごの家には何度も行った事があるし、意外にも結構なご近所さんだ。
家のチャイムを押した後、玄関に出て来たいちごは汗を掻いた私の顔を見て、何も言わずにタオルを貸してくれた。
今日はいちごと遊びたい、私が息を切らしながら伝えると、
普段通りに、そう、とだけ呟いて、自分の部屋まで上げてくれた。
そこまでは憶えてる。
どうもそこで安心して、気が抜けちゃったみたいだな。
お菓子の準備のためにいちごが部屋から出て行った瞬間、
今朝までの徹夜が効いたせいか一気に眠っちゃったんだろう。
夢を見てたって事は浅い眠りなんだろうけどさ。
どっちにしろ、我ながら無茶なスケジュールをこなしちゃったもんだ。
でも。
「楽しかったぞ、本当に。
クラスの皆と一対一で遊ぶなんてほとんど無かったけど、やってみると面白いもんだよなー」
誰に聞かせるでもなく、私は小さく呟いた。
うん、楽しかった。
信代、春子、宮本さん、佐々木さん、タイプの違うクラスメイトと遊べて楽しかった。
もう卒業して滅多に会いに行けなくなる身だけど、仲良くなるのに遅過ぎるって事は無いはずだ。
「クラスの皆と遊んだって?」
呟きながら、いちごがまた紅茶に口を付ける。
ああ、そう言えば、まだいちごにはその説明をしてなかったっけ。
とりあえず私はいちごの用意してくれたお菓子を一気に頬張ってから、一息吐いてその説明を始める事にした。
出会ったばかりの頃なら、いちごに理解してもらえるか不安で説明出来なかったかもしれない。
でも、今なら安心して話せる。
それくらいには私はいちごと仲良くなれたはずだから。
「そう」
私達の事情を説明すると、いちごはいつもと変わらない淡々とした相槌を打った。
まったく、反応が薄い奴だけど、私はそんないちごの素振りが嫌じゃなかった。
私が何を話しても、いちごは基本的に軽い相槌を返すだけ。
相槌すら打たないで、ただ頷くだけで反応するなんて事も日常茶飯事だ。
だけど、いちごが話をちゃんと聞いてくれているのを、私はちゃんと知っている。
反応こそあんまり見せないけど、いちごは私の目を見てくれているから。
「楽しかったんだ?」
私のティーカップの中の紅茶が乾き掛けた頃、小さくいちごが呟いた。
いちごにはちょっと珍しい上目遣い。
純粋に私の感想を聞きたがってる様子だ。
「ああ、さっきも言ったけど楽しかったぞ。
皆と遊べて新鮮だったし、色んな新発見があってすっげー面白かった。
こんなに楽しいんならクラスの皆ともっと遊んどきゃよかった、
って、ちょっと後悔しちゃったけどさ。
まあ、それくらい楽しかったって事だな」
「それは」
「それは?」
「よかったんじゃない?」
「まあな」
淡々としてるいちごの反応に対抗して、こっちは軽く笑ってやる。
いちごと出会って約一年、私といちごのやり取りはいつも大体こんな感じだ。
我ながら不思議な関係だと思わなくもないな。
バトン部とは言え、物静かな方のいちご。
自分で言うのも何だけど賑やかし屋の私。
まるで正反対の二人だし、傍から見てるととても仲が良いようには見えないだろう。
でも、私は胸を張って言える。
私はいちごの友達だし、いちごも私を友達だと思ってくれてるはずだって。
私はそれくらいいちごの傍に居て心地良さを感じてる。
いちごもそうだとしたら嬉しい。
まあ、嫌な事は「やだ」とはっきり言ういちごだし、
本当に嫌なら私を部屋に上げたりなんてしてくれないだろうしな。
いちごは軽音部の皆とは全然タイプが違っている。
唯みたいに私の話題に乗っかってはしゃぐわけでもなく、
澪みたいに私のやる事全部に突っ込むわけでもなく、
ムギみたいに私の話に好奇心旺盛になるわけでもなく、
梓みたいに私に対して軽口を叩く生意気さがあるわけでもない。
私の話には軽い相槌を打つくらいで、頷くだけで終わらせる事も多い。
「やだ」って意思表示以外はあんまりしない。
でも、それが何だか楽しいし、もっとそんないちごの事を知りたくなる。
私って結構そういう正反対のタイプの子が好きなのかもしれない。
それにしても、「やだ」か。
そう言えば、いちごの口から初めて聞いた言葉も「やだ」だった気がする。
あれは何に対しての「やだ」だったっけ?
確か三年の始業式の直後くらいだった気がするけど。
「律?」
私の言葉が止まったのを気にしたのか、いちごが小さく呟く。
自分から話題を振る事はほとんどしない割に、
私の言葉が止まるといちごは決まって先の言葉を促して来る。
それくらいには、いちごも私の話を楽しみにしてくれている。
なんて考えてしまうのは、ちょっと自信過剰だろうか。
「悪い悪い、ちょっと気になる事があってさ」
「気になる事?」
「私といちごってどうやって知り合ったんだっけ?
始業式の後にいちごと何かあった気はするんだけどな」
軽く悩んだけど、私は考えてた事を素直に口にした。
元々隠すほどの事でもないし、いちごに隠し事はあんまり通用しないからだ。
この前、いちごの部屋に置いてある小説を隠れて読んでみた事も、あっという間にばれてしまった。
まあ、女の子向けっぽい小説が気になったなんて、ちょっと恥ずかしいから誤魔化したかっただけなんだけどな。
でも、私としては上手く誤魔化したつもりだったんだけど、いちごには全然通用しなかった。
あの「何でもお見通し」とでも言わんばかりの視線をぶつけられると、いちごの前で嘘を吐く気も失せる。
いちごの口数が少ないのは、ひょっとすると話している相手の事をよく観察しているからなのかもしれない。
「どうだったかしら」
いちごも私と同じに忘れているのか、それとも誤魔化しているのか。
どちらなのかよく掴めない表情で、いちごが首を傾げる。
どっちにしろ、気になった事の答えが出ないのはどうにも気持ちが悪かった。
「うー、何だかすっげー気になって来たぞ」
頭を掻きながらわざと大きめの唸り声を出してみる。
気になって来たのは本当だったけど、大袈裟に言葉にすればいちごも身を入れて考えてくれるかも、って打算もあった。
考えてくれているのかどうなのか、いちごの表情はそんなに変わらなかった。
「そんなに」だ。
少しだけ、ほんの少しだけ、私の唸り声にいちごが表情を変えたのを、私は見逃さなかった。
これでもいちごとはお互いの家に遊びに行き合うくらいの仲なんだからな。
それくらいは分からないと友達甲斐の無い奴だと思われても仕方が無いってもんだ。
いや、いちごがそういう事を考えるタイプじゃないって事も分かってるんだけどさ。
とにかく、いちごの表情はほんの少しだけ変わった。
目尻が軽く下がってちょっとだけ唇を強く閉じているその表情。
これはいちごが「残念」と思っている時の表情だった。
夏休み、いちごにバトン部の練習を見せてもらった事がある。
いちごのバトン捌きは見事で勇ましく、普段の物静かな様子から想像も出来ない姿に驚かされた事をよく憶えてる。
その日、私はいちごの「残念」と思ってる時の表情を初めて見た。
バトンの演技の途中に急な強風に煽られて、いちごがバトンのキャッチに失敗しちゃったんだ。
強風に煽られたんだからしょうがない。
私はそう思ったんだけど、いちごはそう思ってないみたいだった。
強風に煽られようとバトンは必ずキャッチする。
それがいちごのバトン部としてのプライドなんだって思わされた。
「失敗してごめん」。
バトン部の練習を見せてもらった帰り道、私と肩を並べて歩くいちごが小さく言った。
「気にするな」なんて軽々しく言えなかった。
いちごはバトンを落とした事もだけど、私に完璧な演技を見せられなかった事を残念に思ってるみたいだったから。
それが私の見たいちごの「残念」そうな表情だった。
となると、やっぱりいちごは私達の出会いのきっかけを憶えてるんだろう。
そうでないと、いちごがこんな表情になるわけがないもんな。
「よっしゃ!」
私は自分の両頬を叩いて気合いを入れる。
私の突然の行動にいちごが軽く目を丸くしてたけど、ひとまずそれは気にしない。
「思い出せないのは気持ち悪いからな!
今からはっきり思い出してやるぞ!
これから思い出すのに集中するから、いちごは漫画でも読んでてくれ!」
私の言葉に呆れたみたいにいちごが頷いた。
でも、漫画を読み始める様子は無い。
多分、私がそれを思い出せるかどうか見届けるつもりなんだろう。
いちごの口元が若干嬉しそうに歪んでる気がしないでもない。
だけど、私はそのいちごの表情をあんまり見ないようにした。
いちごの嬉しそうな表情を見るのは、私がいちごと出会ったきっかけを思い出してからだ!
私はカチューシャを指で軽く撫でながら、いちごとの一年を振り返ってみる。
三年に進級してクラスメイトになって、一番仲良くなれたはずの友達の事を思い出していく。
幸いヒントはある。
「やだ」っていちごの口癖みたいになってる言葉。
いちごの「やだ」を思い出していけば、きっと私達の出会いも思い出せるはずだ。
雪の日の「やだ」。
唯と一緒にいちごを雪合戦に誘ってみた時の「やだ」。
そう言うだろうとは思ってたけど、私はいちごと雪合戦をやってみたかったんだ。
結局、雪合戦はやってくれなかった。
でも、いちごは校庭で私達の雪合戦を観戦してはくれた。
可愛い雪うさぎを作って、私達を見てくれていた。
文化祭前の「やだ」。
演劇で私が推薦でジュリエットに選ばれて、どうにか逃れようといちごを推した時の「やだ」。
元から引き受けてくれるとは思わなかったけど、取りつく島も無いくらいに断られたのはちょっとショックだった。
だけど、私は知っている。
いちごは裏方で私を支えてくれていた事を。
「それは違うんじゃない?」とか言いながら、さり気無く私の演技指導をしてくれた事。
軽音部の学祭ライブでTシャツを配ってくれた事も。
暑い夏の日の「やだ」。
夏だってのに長袖を着てるいちごに薄着になるのを勧めた時の「やだ」。
どうも日焼けしやすい体質らしく、夏でもずっと長袖で過ごすようにしてるらしい。
こんな調子じゃプールに誘っても来てくれないかな、と思っていたら何と付き合ってくれた。
勿論、来てくれたのはしっかり室内プールだったけど、
受験生なのに私の遊びに付き合ってくれたのはとても嬉しかった。
後で「若王子さんに迷惑掛けるなよな」って澪に叱られたけど、そんな事も気にならないくらいに。
そして、桜舞う頃の「やだ」。
始業式の日、いちごは確かに私に「やだ」って言ったんだ。
私はそれを面白いと思ったんだ。
この巻き髪のお姫様みたいな子と仲良くなりたいな、って。
でも、どうしていちごは「やだ」って言ったんだっけ?
どうして私はいちごの「やだ」を面白いって思ったんだっけ?
もう少しで思い出せそうなのに、何故かあとちょっとで思い出せない。
出来事そのものよりいちごの様子が面白かったからかもしれない。
そっちの方が強烈に印象が残ってるんだろうと思う。
小さく溜息。
落ち着いてもう一度考えようとした瞬間、揺れるいちごの巻き毛が目に入った。
一度見たら忘れないくらい特徴的ないちごの巻き毛。
毎日どれくらい時間を掛けてセットしてるのかいつも気になってる巻き髪。
あの日もそうだ。
いちごはその巻き毛を困った表情で触っていて――。
「そっか」
思い出した。
あの始業式の日、桜の花が風に待っていた。
唯の頭の上に乗ったり、鼻をくすぐられた澪がくしゃみしたり、
ムギの口の中に入ったり、いつの間にか私のカチューシャに挟まったりするくらいに。
そんなたくさんの花びらが舞っていた。
それはいちごの近くでも例外じゃなくて、いちごは。
「思い出したぞ、いちご!」
「そう」
感心が無さそうにいちごが呟く。
でも、その瞳は何処か輝いてるみたいにも見える。
やっぱり私に自分達の出会いの事を思い出してほしかったんだろうか。
そうだとしたら、その期待にはお応えしないとな!
「そうなんだよ、いちご。
三年の始業式の日って確か桜の花がすっげー降ってたよな?
まるで雨みたいに降ってる所もあったくらいだったはずだよ。
私もいつの間にかカチューシャの間に花びらが挟まってて驚いたのを憶えてる。
それでさ、思い出したんだよ。
あの日、校庭で見掛けたいちごの巻き毛にも桜の花びらが挟まってたのをさ」
「そうだった?」
「そうだっただろー!
憶えてるくせに知らんぷりするなよ、いちごー!
うん、話してて思い出して来たけど、いちごの巻き毛には桜の花が挟まってたよ。
いや、挟まってるどころか十枚以上は絡まってたはずだぞ。
相当深い所まで絡まってるのか、花びら取るの相当苦労してたよな?
それで私はいちごに言ったんだよ。
「大変そうだし、花びら取るの手伝おうか」って。
その時だよ、いちごがお決まりの言葉を初めて言ったのは」
「やだ」
私が言うより先にいちごに言われてしまった。
やっぱりいちごは私達が知り合ったきっかけを憶えてたんだな。
私はそれに突っ込まなかったし、そこから先の思い出も語らなかった。
あの日、いちごは私に「やだ」って言った。
口癖みたいに「やだ」、「一人で出来るから」って言った。
でも、そう言った表情はそれから先に目にしたいちごのどの表情とも違っていたんだ。
三年生になった初日に初対面のクラスメイトに、みっともない所を見られたって恥ずかしさもあったんだろう。
頬を赤く染めて、途方に暮れて困ってる表情を浮かべていたんだよな、あの日のいちごは。
だから、私はいちごに興味を持った。
この可愛らしい子と仲良くなってみたいって思えたんだ。
結局、その日はたまたまポケットに入れてた櫛をいちごに手渡してその場から去ったんだよな。
それが私といちごの始まり。
次の日、私の櫛をいちごが返してくれて、私達は少しずつ仲良くなっていったんだ。
きっかけを思い出した嬉しさもあって、気付けば私は笑顔になっていた。
「どうだ!
ちゃんと思い出した私をもっと褒めるといい!」
「自慢する事じゃないでしょ」
うっ、流石にいちごさんの突っ込みは鋭い。
忘れてたのは私の方なわけだし、そう言われるとぐうの音も出ない。
でも、頑張って思い出したんだから、少しくらいは褒めてくれてもいいじゃんかよ。
私はちょっと頬を膨らませて軽口を叩いてみせる。
「何だよー。
頑張ったんだから御褒美くらいくれよ、いちごー。
簡単な物でもいいからさあ」
それは何も意識せずに言っただけの軽口だった。
御褒美とは言ってみたけど、お菓子を追加で一個くらい貰えればそれで満足だった。
でも、そこでいちごは私の思ってもみなかった言葉を返した。
「じゃあ、触っていいよ」
「触るって、何を?」
「私の髪」
「ふえっ?」
思わず変な声が出た。
いちごの髪を触る。
出会った頃から私がいちごに頼んでた事だ。
これだけ特徴的な髪なんだもんな。
触ってみたらどんな感触なのか、私はいつも気になってた。
当然と言うべきなのか、いちごはいつも「やだ」と言って譲らなかった。
それは毎日時間を掛けて整えてるからなんだろうし、
誰にも言えない自分なりのこだわりなんかもきっとあるんだろう。
そう思ったから、私はいつもそれ以上いちごに頼まなかった。
冗談めかして「触らせてくれよ」とはよく言ったけど、触ろうとした事は一度も無い。
それが私といちごの一種のコミュニケーションみたいな形になってた所もある。
だけど、いちごは突然言った。
自分の髪を触っていいって。
予想もしてなかった展開に私は面食らってしまう。
「触らないの?」
指先で自分の髪を触りながらいちごが続ける。
触りたくないって言ったら嘘になる。
私はずっといちごの巻き毛を触ってみたかった。
触ってみたかったけど、でも。
髪を触るいちごの姿を見てると、何となく分かったんだ。
いちごがどうして急にそんな事を言い出したのか。
今日は三月二十日。
私達が大学に入学するまで、もう十数日しかない。
私は寮に入る予定だから、その準備も含めると自由な時間が取れる日はもうほとんど無い。
そして、いちごも自由な時間があるのは今日までだ。
今日が終われば、少なくともしばらくいちごに会う事が出来なくなる。
私といちごは別々の大学に進学するから、想像以上に会う機会が無くなる事だろう。
もしかしたら、今日が私達が会える最後の日になるかもしれない。
きっとそれを分かってるんだ、いちごは。
私も、そう、多分、分かってた。
分かってたから、私はあんな夢を見たんだと思う。
いちごにキスされる夢を。
友達とキスする夢なんて本当は気まずい事この上ない物なんだろうけど、私は不思議と落ち着いている。
冷静に受け止められる。
実は昔、キスの夢をよく見てたんだよな、私。
勿論、いちごじゃなくて澪にだ。
小学校を卒業する直前と中学校を卒業する直前、私は澪にキスされる夢を何度も見ていた。
初めてその夢を見た日の朝には恥ずかしくて澪の顔をまともに見れなかったけど、
何度も見る内に冷静に夢について考えられるようになっていた。
夢診断の本でも調べてみたけど、本には「愛情に飢えている証の夢」って書いてあった。
愛情に飢えているかどうかはともかくとして、それで私には分かった。
私はきっと寂しかったんだって。不安だったんだって。
中学生になっても、高校生になっても、澪と変わらず遊べるか不安だったんだ、私は。
結果的に私はずっと澪と一緒に居られて、その内に澪にキスされる夢は見なくなった。
そんな私が今度はいちごにキスされる夢を見てる。
勿論、澪の事がどうでもよくなったわけじゃない。
変な自信かもしれないけど、澪とは、軽音部の皆とはずっと一緒に居られる確信がある。
離れてても友達であり続けられる自信がある。
だから、澪の夢は見なくなった。
でも、いちごはそうじゃない。
いちごとは知り合ってまだ一年だし、完全にいちごの事が分かったなんてとても言えない。
大学も別だし、離れてしまったら本当に今生の別れになりかねない。
そんな不安があるから、私はきっといちごにキスされる夢を見たんだろう。
いちごもきっと同じ風に考えてるんだと思う。
それで私に自分の髪を触らせようとしてるんだ。
「髪くらい律に触らせてあげればよかった」なんて心残りが出来ないように。
私だって心残りなんて作りたくない。
だったら、いちごの言ってくれた通り、髪を触らせてもらうべきなのかもしれない。
そう思って私はいちごの髪に手を伸ばそうとして、
だけど、やめた。
「律?」
不思議そうにいちごが首を傾げる。
あれだけ望んでた事を私がしないなんて不思議に思ってるんだろうか。
私は首を横に振ってから、わざとらしく肩を竦めた。
きっとそうする事が一番いいんだと思えた。
「今日はやめとく。
何か勿体無いじゃん?」
「勿体無い?」
「今日はまだ頼んでないのに、いちごの方から触っていいって言われるのは何か悔しいからな!
こんなの私の望んだ決着じゃないっつーの!
いちごの髪に触るのは、何かで勝負して私が勝った時の御褒美とかにしてほしいんだよなー。
だからさ、今回はありがたいけどやめとくよ。
いちごの髪を賭けた勝負は今度にしようぜ!」
「今度?」
「ああ、今度だよ。
今度、正々堂々何かで勝負しようぜ。
そうだな、五月の末くらいならどうだ?
この前テレビで観たんだけどさ、果物のいちごの旬ってそれくらいらしいんだよな。
旬にあやかってその時期に勝負ってのは面白くないか?」
「五月末」
いちごが何かに思いを馳せるような遠い目になった。
五月末、多分、大学生活が忙しくなる時期だろう。
私といちご、どっちかの都合が合わなくなる事もあるかもしれない。
はっきりとさせられない予定。
終わらせていた方がいいかもしれない心残り。
不安はたくさん残ってる。
だけど、私は今日をいちごとの今生の別れになんかにしたくないから。
どんなに忙しくたって、いちごの事を忘れたくなんかないから。
私はいちごと約束をしようと思う。
不安なのは、今がとても楽しいって事でもあるはずだから。
「そうね」
遠い目をしていたいちごの焦点が合った。
私に視線を向けると、普段通り静かだけど力強さのある声を出した。
「いいんじゃない」
言葉自体は素っ気無い。
無関心な風にも思える声色。
だけど、いちごが決して無関心じゃない事は私には分かる。
いや、私じゃなくても分かるに違いない。
多分、分からないのはきっといちご本人だけだろう。
いちご自身、気付いてないに違いない。
今、自分が輝くような眩しい笑顔をしてるって事に。
か、可愛い。
思わず口にしそうになって、必死で留める。
そんな事をしてしまったら、きっといちごの今の笑顔は消えてしまうだろうから。
一秒でも長く、滅多に見られないいちごの笑顔を見ていたいから。
「どうしたの?」
笑顔のままでいちごが私に訊ねる。
やっぱり自分が笑顔になってる事に気付いてないらしい。
それがおかしくて、嬉しくて、私も多分、いちごに負けないくらいの笑顔を浮かべていた。
これから先、違う大学に通ういちごとどれくらい会えるのかは分からない。
色んな擦れ違いを経験してしまう事もあるかもしれない。
いつかは疎遠になってしまう可能性もある。
だけど、今の私達は笑顔だったし、これから先も二人で笑顔になりたい。
もっともっといちごと仲良くなりたい。
それこそ、いちごと一生の友達って奴になれたら、とても幸せだと思う。
だから、私はこれからいちごと会う度にまた約束をしていく。
いちごの髪を触らせてもらうのはもっと先、もっともっと心の底から笑い合える友達になれた時だ。
その時こそいちごは私に御褒美でも何でもなく、
単なるコミュニケーションとして私に髪を触らせてくれるだろう。
私もその時には今日見た夢の話をしようと思う。
いちごと離れるのが寂しくて、夢の中でキスをするくらいだったんだぞ、って。
その話を聞いた時、いちごがどんな顔をするのか、今から楽しみだ。
「何でもないって、いちご。
それよりもさ」
「何?」
「指切りしようぜ?
五月末、私といちごが勝負する約束の指切りだ」
「やだ」
「おーいっ!」
「勝負はするけど、指切りはしたくない」
「いいじゃんかいいじゃんか、指切りくらい減るもんじゃなし」
「恥ずかしいからやだ」
「恥ずかしくないって!
よーし、やるぞー、ゆーびきりげーんまん、嘘吐いたら」
「針千万本飲ーます」
「怖いなオイ!
つーか、ノリノリじゃねーか!」
いちごは私の突っ込みにも動じずに、固く私の小指に自分の小指を絡めてくれた。
私もいちごとの次の勝負を楽しみにしながら、強く強くその指の温かさを感じていた。
☆
五月末。
勝負に勝った私は、髪を触らせてもらう代わりにいちごに一つ質問をした。
三月二十日の事だ。
いちごとキスする夢を見たのは確かだけど、ちょっと突然過ぎる気がしていたからだ。
寂しかったからだけじゃなくて、私が寝ている間にいちごが何かしたんじゃないだろうか。
夢とは言え、何かリアルな感触だったわけだしな。
「律の唇が柔らかそうだったから」
夢の事を内緒にしてそれを訊ねると、いちごがその名前の通り真っ赤になって教えてくれた。
いちご曰く、私の唇が気になって指で触ってみたんだとか。
予想通りと言うか何と言うか、とにかく私が笑うといちごから手刀が来た。
バトン部で鍛えたスナップの効いた手刀は結構痛かったけど、私は笑い声を止める事が出来なかった。
何となく思った。
もしかしたら、いちごも私とキスをする夢を見てたのかもしれない。
それでいちごの部屋で眠りこける私の唇を触ってしまったのかもしれない。
勿論、勝手な想像だったけれど、そうだったら面白いよな。
今はそれを問い詰めるつもりは無い。
それを訊くのは今度、そうだな、夏休みに勝負をしてからにしよう。
室内プールで泳ぎの勝負をするのも楽しそうだ。
こうやって、私達は約束を重ね続けていく。
勝負をしながら、色んな事実を知りながら、笑い合いながら。
もっともっと気の知れた友達になっていく。
離れていたって、お互いの笑顔を信じて生きていけるように。
なあ、いちご。
これからもそんな風に今までみたいに、
いや、今まで以上に楽しく遊んでやろうな――!
終わりです。
ありがとうございました。
最終更新:2013年05月14日 07:58