「どーんっ!」
夕食の後、唯が急に私の膝の上に頭を横たえさせた。
柔らかな唯の髪質を私は自分の皮膚に感じる。
たまにある事だ。
私は小さく苦笑しながら、唯の頭を軽く撫でた。
「食べてすぐ横になると牛になるわよ、唯」
「膝枕して最初の言葉がそれっ?」
「他にどんな第一声が欲しいのよ」
「「唯の髪は柔らかくて気持ちいいわね」とか、
「唯は甘えん坊さんで可愛いわね」とか、色々あると思うよー?」
「唯の今後の健康を考えた私の第一声の方が、ずっとためになると思うわよ」
「もー、和ちゃんったら長い付き合いなのに分かってないんだからー……!」
「長い付き合いだからこそ言ってるのよ。
唯も四月から寮暮らしを始めるんだから、摂生が出来る様になっておかないといけないでしょ?」
「私、いくら食べても太らない体質だから大丈夫だよー」
悪戯っぽく唯が笑う。
確かに唯は太らない体質だ。
幼い頃から唯の体重が劇的に増減した所を私は見た事が無い。
けれど、太らない体質だと言う事と健康だと言う事は、即ちイコールではない。
私は唯の額に手を置いて、その熱を感じながら笑い掛ける。
「それでもね、唯、健康には気を付けないといけないわ。
今までみたいに憂が傍に居てくれるわけじゃないんだし、寮で風邪なんてひいてみなさい。
あの子の事だから、何もかも投げ出してあんたの看病に来るかもしれないでしょう?
でも、高校最後の一年なんだもの。
憂には精一杯楽しんでもらいたいとは思わない?」
「うん……。
うん、そうだね、和ちゃん……。
私も憂には高校三年生をエンジョイしてほしいよ。
ごめんね、急に膝枕なんかしてもらおうとしちゃって……」
言い様、唯が私の膝から身を起こそうとする。
私がその額を軽く押さえてそれを制すると、唯は不思議そうな表情を浮かべた。
「和ちゃん……?」
「摂生の大切さを分かってもらえれば、今日はそれでいいのよ、唯。
私は何も唯を膝枕するのが嫌で言ってるわけじゃないんだから。
寮ではちゃんと憂や家族の事も考えて健康を心掛けるのよ、唯」
「それは勿論だよ、和ちゃん。
でも、本当に膝枕いいの……?」
「いいわよ、別に。
大体、あんたいつでも何処でもくっ付いたり抱き着いたりしてくるじゃない。
今更、膝枕くらい何でもないわよ」
「むー……」
私の膝の上で唯が妙な唸り声を上げる。
私の言葉に納得がいかないのかしら?
私は小さく嘆息してから、首を傾げてみる。
「どうしたのよ、唯?
私の言った事、何か変だったかしら?」
「変じゃないけど、変じゃないんだけどね……。
ねえ、和ちゃん……?」
「何?」
「卒業旅行でね、私、羨ましかったんだよね」
話が急に卒業旅行に飛んだ。
唯達が軽音部のメンバーで行ったロンドン旅行の事だ。
一日一杯飲むようにはしているけど、旅行のお土産に貰ったお茶はまだ全然減っていない。
「卒業旅行で何かあったの?」
「うん、飛行場でね、私、見ちゃったんだ。
りっちゃんが澪ちゃんにね……」
「澪に?」
「膝枕してもらってたんだよね。
二人ともすっごく仲良さそうにしてて、素敵な幼馴染みって感じで。
私、それがとっても羨ましくて、和ちゃんに膝枕してもらいたくなっちゃったんだ」
あの二人が膝枕。
普段から仲の良い幼馴染みだし、膝枕くらい逆に自然な気がしないでもない。
高校二年生の頃、澪と二人で皆と違うクラスだった時、
澪が話すのはいつも音楽の話と律の話ばかりだったしね。
二人はそれくらい傍に居るのが自然な幼馴染みだって事なんでしょうね。
「急に膝の上に乗って来た理由は分かったわ。
でもね、唯?」
「何?」
「膝枕くらい何度かしてあげた事あったでしょ?」
何気無く私が囁いた瞬間、唯が目に見えて分かるくらい頬を膨らませた。
私から視線を逸らして、これ見よがしに床に「の」の字を書き始める。
「違うよ、和ちゃーん……」
「何か違ったかしら?」
「そうだよー、和ちゃんに膝枕してもらった事は初めてだよー。
私は一大決心だったのに、もー、和ちゃんったらー……!」
そうだったかしら?
何度か唯を膝枕してあげた記憶はあるんだけど、気のせいだったのかしら?
……いいえ。
確か唯の耳掃除してあげる時に、何度か膝枕してあげた事があったはず。
高校に入学してからは流石に減ったけど、それでも高校時代に三回はした記憶があるわ。
それを口にすると、唯が私の膝の上で大きく頭を横に振った。
「違うよー、それは耳掃除で膝枕じゃないよー。
全然違うんだよー……!」
唯の中にはその辺りに大きな境界があるらしい。
よく分からないけれど、唯はそういう子なんだし、私はそういう唯が嫌いじゃない。
何となく微笑ましくなって数分くらい唯の頭を撫でていると、やっとの事で唯が私の方に視線を戻してくれた。
少しだけ頬が紅潮しているようにも見える。
照れているのか、恥ずかしがっているのか、それは分からない。
珍しく唯が奥歯に物が挟まったみたいな小さな声を出した。
「ホントに一大決心だったんだよ……」
「膝枕くらいいつでもしてあげるわよ」
「分かってるよー……。
和ちゃんが膝枕してくれるって分かってたよー……。
でもね、ちょっと恥ずかしかったんだよね。
だって、膝枕は一番甘えたい人にしてもらうものなんだもん……」
一番甘えたい人。
唯にとってそれが私らしいのは何となく知っていた。
人懐こい子だけれど、唯は意外と誰かに甘えようとする事は少ないものね。
唯のおじさんとおばさんは留守がちだし、妹の憂に甘えるっていうのも少し違う感覚なんでしょうね。
軽音部のメンバーにも甘えてる様子はあんまり見せない。
だからやっぱり、唯が一番甘えたい人は私なのよね。
嬉しいような照れ臭いような、何とも言えない感覚が私の中を走る。
唯と視線を合わせる。
制服のままの唯。
私も制服のまま。
夕食の準備をする時に着替えればよかったのかもしけないけど、私はそうはしなかった。
唯も着替えずにそのまま私の手伝いをしてくれていた。
今日が終わるまで、二人で制服のままで居たかった。
だって、今日は――。
「私ね」
頬を染めたまま、唯が続ける。
私は唯のその頬に手を添えて、瞳の奥を覗き込んだ。
「自分でもすっごくのんびりしてると思うんだけど、昨日、初めて気付いたんだよね。
明日――つまり今日なんだけど――、私は高校を卒業しちゃうんだなあ、って。
私だけじゃなくて、りっちゃんもムギちゃんも澪ちゃんもクラスの皆も、
勿論、和ちゃんも」
それはのんびりしてるわね。
いくら何でも卒業式前日に卒業を自覚するなんてのんびりし過ぎてる。
とっても唯らしい。
でも、私も――。
「私もよ、唯」
「和ちゃん……も?」
「ううん、私の方がのんびりしてるかもしれないわね。
答辞までしておいて変かもしれないけど、私もまだ今日高校を卒業したって実感が無いの。
四月から唯と違う学校に通うなんてまだ実感出来ない。
校舎で探してみても唯の姿を見つけられないなんて、とっても不思議。
だからね、唯。
私、今日は嬉しかったのよ?」
「嬉しかった……?」
「ええ、階段で私を誘ってくれて。
「時間があったら一緒に帰ろう」って誘ってくれて、嬉しかった。
あの時、誘ってくれなかったら、私は他の誰かと帰ってたかもしれない。
この先、それをずっと後悔してたかもしれない。
だから、唯にはとっても感謝してるの。
唯達の高校最後の演奏も聴かせてもらえたしね」
「そう……。そうなんだ……。
よかったあ……!」
唯が眩しい笑顔を浮かべる。
何があっても許せてしまう笑顔。
私の傍にずっとあったその笑顔。
四月からその笑顔は遠い空の下で浮かべられる事になる。
私にはそれが寂しいし、勿論、唯も寂しく感じるんじゃないかしら。
だからかもしれない。
唯がとても自然に、意外だけど意外じゃない事を口にしたのは。
手を伸ばして、私の頬に添えながらそう言ったのは。
「あのね、和ちゃん。
一つお願いしていい?」
「私に出来る事なら構わないわよ」
「じゃあ、えっとね……。
和ちゃんにチュー……していいかな……?」
「チューって、あんたいつも断りなく私にキスしてくるじゃない」
「そうだけど、そうじゃないよ、和ちゃん。
私がいつも和ちゃんにチューしてるのはほっぺでしょ?
でも、今日はね、そうじゃなくて……」
それ以上の言葉を唯は言わなかった。
けれど、唯が何を言おうとしているのかはよく分かった。
私も同じ気持ちだったから。
卒業式、或いは唯達の演奏を聴いた余韻が残ってるからかもしれない。
私は四月から別々の道を歩む唯を凄く愛しく感じてる。
離れていても大丈夫な様に、もっと唯の体温を感じていたい気持ちが私の胸の奥にあった。
唯の柔らかそうな唇を約束に、これからの生活を頑張っていきたい。
私は唯の唇に指を這わせる。
唯は目を逸らさず私の瞳を覗き込み続けている。
私は少しだけ頭を垂れて、唇が触れる直前まで唯に近付いてから、微笑んだ。
誤魔化しでも何でも無い心からの笑顔を見せた。
「駄目よ」
「えへへ、やっぱりそうだよねー」
「当然でしょ?」
二人して笑う。
私だけじゃなくて、申し出た方の唯も笑顔になっていた。
唯とキスしたいと思った私の気持ちは嘘じゃない。
私とチューしたいと言った唯の気持ちもきっと嘘じゃない。
二人の心に芽生えた想いは嘘じゃない。
それでも、駄目なのよ、今日は。
今日は二人の記念日。
卒業式って言う記念すべき日。
だからこそ、駄目なのよね。
だって――
「私が唇を許すのは恋人だけだもの。
大切な記念日って、そんな空気に流されたりしたくないわ。
私は何の記念日でもない普通の日に、空気に流されたりせず自然に恋人とキスをしたいわ」
「あははっ、和ちゃんってやっぱり硬派だよねー。
でも、うん、そっちの方が和ちゃんっぽいよ!
私、そんな和ちゃんが好きー」
また、笑う。
唯もつい言ってみたかっただけなんでしょうね。
卒業式の今日、唯は最後まで泣かなかったけれど、胸に一抹の寂しさはあったはずだもの。
私だってそう。
自分の卒業を実感し始めてはいるけれど、唯と離れる事を深く実感出来るのはもっと先の事だと思う。
その時の事を考えると、もう既に胸の奥に鈍い痛みを感じる。
今日、記念の日に、唯との思い出をもっと作りたくないと言ったら嘘になるわね。
でも、だからこそ今日は駄目なのよね。
私は唯と特別な空気じゃないと何も始められない関係にはなりたくないから。
何かを言い訳に出来る関係にはなりたくないから。
もしも私と唯が心から恋人になりたいと思う日が来るとして――、
それは特別でも何でもないただの一日に想いを確かめ合う事にしたい。
唯も同じ気持ちで居てくれてるからこそ、安心した笑顔を私に向けてくれてるんだと思う。
「じゃあ、和ちゃん。
その代わりにもう一つだけお願いしていい?」
「何度も言うようだけど、私に出来る事ならいいわよ」
「和ちゃんの眼鏡、外してもいい?」
「いいけど、どうするの?」
「えへへー、和ちゃんの素顔が久し振りに見てみたくって」
「昨日も見たじゃないの……」
「そうだっけ?」
言いながら唯が私の眼鏡を外す。
すぐにわざとらしく驚いた表情を見せて続けた。
「和ちゃん、眼鏡を外しても3の目にならないんだね!」
「3の目って漫画みたいな目?
そんなのなるはずないでしょ。
大体、昨日も見てるじゃない、今日これ言うの十秒ぶり二度目よ」
「冗談だよー」
言いながら、二人でまた笑う。
そうしながら、私は思った。
そうね、こっちの方がずっと私達の卒業式っぽいわ。
想いを伝え合ったり、キスしたり、そんな事は今日じゃなくてもいつでも出来るもの。
今日は普段通りの私達で居られる事の方が方が大切。
二人の胸に芽生え始めた気持ちに気付けただけで十分。
唯達の歌のフレーズじゃないけれど、「卒業は終わりじゃない」んだもの。
だからこそ、私達は離れてもお互いを大切にし合えるんだと思う。
今日まで普段通りの私達で居られたっていう思い出を胸に。
変わらない私達で居られるって誇らしさを胸に。
「それにしてもさー、和ちゃん?」
私に眼鏡を掛け直しながら、唯が不意に頬を膨らませた。
「どうしたのよ?」
「娘の卒業式が終わった途端、娘を置いてカラオケに行く家族ってどう思う?
具体的には私と和ちゃんの家族の事なんだけど……、あと憂まで……」
「まあ、きっと色々と思う事もあるのよ、憂も……。
でも、それで唯は私の膝を枕に出来たんでしょ?
流石の唯も家族の前での膝枕は恥ずかしいんじゃないかしら?」
「それはそうなんだけどねー」
二人して苦笑。
私達の卒業式が終わった途端、カラオケに繰り出した家族達。
憂まで付いて行った事を考えると、ひょっとすると私達を二人きりにさせてくれたのかもしれない。
単なる仮定だから間違っているかもしれないけれど、もしそうなら皆に感謝しなくちゃいけないわね。
私達は二人きりで会話出来た。
不安を胸に、寂しさを胸に、でも確かな希望を胸に、話す事が出来た。
もう大丈夫、なんて自信を持って言えるわけではないけれど、笑って前に進んで行ける。
唯が私の瞳を覗き込んで、私達のサインを出した。
指を揃えて、中指と薬指の間だけ開く私達のサイン。
これから先、離れてても私達の間でずっと変わらないサインだ。
「そう言えば言い忘れてたんだけど、和ちゃん」
「奇遇ね、私も丁度言い忘れてた事を思い出した所なの」
「今日は卒業おめでとう、和ちゃん」
「唯こそ、卒業おめでとう」
「これからもよろしくね」
「ええ」
それから――、
夜が更けてお互いの家族が帰って来るまで、私達は膝枕の体勢で笑顔で話し合った。
おしまいです
最終更新:2013年05月24日 21:45