今の私にあるのは、ただ不快感のみだ。

 講義が行われているのは、扉と窓を閉め切った教室。
 まさに密閉空間といってもいいこの教室で、
 湿った空気は逃げ場を失い、私にまとわりついてきていた。
 おかげで、さして高くない気温にも拘わらず、汗がじわりと浮き出てくる。

 私は不快感を紛らわせようと、左手にある窓の方へと視線を向けた。

 外には、灰色の雲に覆われた、薄暗い世界が広がる。
 その手前の窓ガラスには、雨粒がぽつぽつと打ちつけられていた。
 打ちつけられた雨粒たちは、ガラスの表面を滑り落ちていく。

 ふと、鞄の中身が気になりだした。折り畳み傘は持ってきただろうか。
 というのも、ここへ来る時は晴れていたため、
 私は大きな傘を持ってきていないのだ。
 最悪、近くのコンビニでビニール傘を購入することになるだろう。

 教室の前方から聞こえる先生の声で、
 ぼんやりとしていた意識が現実に引き戻された。
 今日はここまでだそうだ。

 そうして、一時限目の講義が終了した。
 すると先程までの静寂を破るように、
 椅子を引く音や話し声が部屋中に響きだした。

 やっとのことで講義の束縛から解放された私は、
 固まってしまった身体をほぐすように、両腕を天上に向けて伸ばした。
 すると不意に、右手から声がかかった。


 「澪ちゃん、次の教室に行こう?」

 「あっ、ちょっと待って」


 私は急いで、机上の教材を鞄にしまっていく。
 声の主である林幸は準備を済ませ、既に立ち上がっていた。


 「なにか考えごと?」

 「えっ、いや、なにも考えてなかったけど……。どうして?」

 「……授業中ぼんやりしてたから」

 「ああ……」


 言われて私は、窓の外に視線を投じた。
 釣られた幸の視線も、自然と同じ方へ向けられる。


 「どうにも集中力が続かなくて。
  それに、この光景を見てると、歌詞も一緒に振ってきそうだったし」 

 「……なんとなくだけど。
  澪ちゃんが作詞を得意なのも、わかる気がする」


 それって、どうなのだろう。喜ぶべきなのだろうか。

 少々複雑な思いを抱きながら最後の教材を鞄にしまうと、
 鞄の底の方で固い感触が手に伝わった。
 なんだろうと思い、それをそっと取り出してみる。

 折り畳み傘だった。


  *  *  *


 「そういえば六月といえば、結婚式のイメージだよな」

 「ジューンブライド?」

 「それ。六月の花嫁」


 移動中、濡れる窓から外の景色を見て、
 私は思い付くままに声に出した。
 この季節に結婚すると幸せになるという、ジューンブライド。
 起源は知らない。どうして六月なのかも、知らない。
 さらに言えば、これはあくまで言い伝えであって、
 六月に結婚式は多く行われていないと記憶している。


 「えっ……。まさか澪ちゃん、結婚するの?」

 「ち、違うって!」


 とっさに手振りを加えて否定する。
 まさか相手も見つかっていないのに、そんなことあるわけがない。

 しかし、結婚とは奇妙な言葉だ。
 私がこの言葉と対面すると、途端にそれが空想めいた話に聞こえてしまう。
 白いドレスに身を包んだ花嫁。そこに、自分を当て嵌めようとする。
 しかしその瞬間、その光景は靄がかかったようにぼやけてしまい、
 花婿の隣に自分を置くことができない。

 いや、これじゃ駄目なんだ。もうこの時点で私は傍観者となっている。
 それがわかってるからこそ、疎外感や孤独感が、自分を内から浸食する。

 壁に貼ってある、短期海外研修の紙が目に映った。
 私は無意識にその紙から目を逸らす。

 幸は口に手を当て、小さく笑みをこぼした。


 「澪ちゃんほどのスタイルなら、簡単に男の子が捕まっちゃいそうだね」

 「止めてくれよ。そんな簡単に寄りつく人に、ついていきたくない」

 「うん、それは同感」

 「それに幸だって。すらりとして、男の人にはモテそうじゃないか」


 私の言葉を聞いた幸は突然、足を止めた。
 そして無言のまま身を屈め、背丈を縮めてみせようとし始めた。
 さっきの発言は失言だったと気付く。


 「あっ、いや、背が高いとか、そういうことじゃなくて……」

 「……」


 いくらフォローしようと努力しても、幸はその体制を突き通す。
 さらに無言も同時に貫いてしまっている。
 元々言葉数は多くない子だけど、今回の原因は私だ。申し訳ない。

 しかし実際、幸のスタイルはとても良い。
 本人の気にする背丈も、とてもマイナスに作用しているとは思えない。
 人の持つ基準というものは本当に、人の数だけある。


  *  *  *


 結局一つも言葉を交わさないまま、
 次の講義が行われる教室に着いてしまった。
 並んで席についたところで、私から声をかけようとする。

 しかしその前に、幸は自らこちらへ顔を向けた。


 「澪ちゃん」


 そして首を少し傾げながら、こちらの目をゆらりと見てきた。
 静穏としていながら、悪戯っぽい光を宿した目だった。


 「澪ちゃんは、ミステリ小説を読む?」

 「えっと、少しだけなら」

 「そっか……。それなら一つ、クイズをやってみない?」


 移動中に黙っていたのは、クイズの話を作るためだよ。
 幸はその目をこちらに向けながら、そんなことを加えて話した。

 なるほど、つまり幸は私に問題を課すことで、
 意趣返ししようと企んでいるわけだ。
 特に断る理由もない私は、受けて立つことにした。

 幸はそれではと言って、話を始めた。


 「ここは大学。講義が終わり、休み時間に突入した教室。
  そこである二人組の女の子が仲良く会話を始める。
  そのうちの片方が、こう口にした」


 そこで一旦、言葉を区切る。
 次に話すことが重要だよと、幸は目で伝えていた。


 「“六月に結婚式を挙げられるのは幸せだよ。
  もちろんそれが、相手側では最善なんだから、なおさらだね”」


 満足げに言い切った幸は、私の様子を窺っている。
 対する私は、まるで意味がわからず、一人きょとんとしていた。
 しかし、幸の話がこれで終わりということを考えると、
 これがつまり“クイズ”なのだろうか。


 「えっ、まさかその言葉から……」

 「うん。何故六月の結婚式が幸せで、最善なのか。
  それが澪ちゃんへのクイズだよ」


 どうやらそのようだ。
 幸の落ち着いた声とは打って変わって、私は戸惑うばかり。
 どうやってそこから、その答えを導きだせというのか。

 しかし、ここで少し思い返してみる。
 幸は私に、ミステリ小説を読むかどうか聞いてきた。
 これはつまり、私にちょっとした推理をさせようとしているのだ。

 絶対の正解でなくても良い。
 ただ幸を、それなりに満足させる答えが出せれば良いはずだ。

 ここで私はもう一度、先程の言葉を頭の中で繰り返した。

 “六月に結婚式を挙げられるのは幸せだよ。
  もちろんそれが、相手側では最善なんだから、なおさらだね”


  *  *  *


 二時限目の講義が終了した。
 教室や外の状況は、先刻とあまり変わりない。
 へばりつく湿気、薄暗い外、それを覆う灰色の雲。
 どれ一つとっても、残念なほどに快適ではなかった。

 講義中、私は例の“クイズ”を頭の片隅に押しやりながらも、
 砂時計のようにゆっくりと考えを積もらせていた。
 当然のことではあるけれど、講義の方が数段大切だ。
 もしこれが律や唯だったら、クイズのことばかりが気になって、
 講義の内容が耳に入らないだろうな、と思う。


 「……どう、解けそう?」

 「少ししか考えていられなかったけど……。
  いくつか質問しても良いかな?」

 「うん、答えられる範囲なら」


 流石に、答えを求めるような質問はなしだよ。
 幸は微笑みながら、そう私に言い聞かせた。

 ともかく許可は得たので、場所を移して本格的な思考に入ろう。
 そう考えた私はまず、食堂へ行くことを提案した。
 幸は喜んで頷いてくれた。


  *  *  *


 今日の日替わり定食Aが、白身魚フライ定食だった。
 ご飯や味噌汁は当然のこと、サラダがセットでついてくる。
 個人的事情で、サラダがついてくるのは非常に魅力的だ。
 さらに入っている野菜の種類も豊富。即決した。

 一方、幸は日替わり定食B。こちらは生姜焼き定食。
 野菜は生姜焼きのキャベツのみ。
 さらに追加で、カップケーキを購入していた。
 ある理由から食事には気を遣っている私には、到底考え得ない選び方だ。


 「このカップケーキは、クイズが終わったらあげるね」


 しかもそれは、他でもない私への贈り物だった。
 これで私が幸をいくら満足させようと、
 幸自身は意趣返しを達成するシステムが出来上がったことになる。
 幸、なんて恐ろしいやつなんだ。

 私たちは、それぞれのお昼ご飯を乗せたトレイを持ちながら、
 四人がけの席に、向かい合わせになるよう座った。
 二人して手を合わせて、挨拶。いただきます。


 「それで質問って?」


 箸を手に持ちながら、幸は尋ねてきた。
 私は移動中に頭の中で練っていた質問を、
 食事を進めながらぶつけてみることにした。


 「じゃあ一つ目。会話をしていた二人は、生徒で間違いない?」

 「そうだね。学年は……二年生以上ってことで」

 「二つ目。その大学は、どこにでもある普通の大学?」

 「うん。この大学の生徒ってことで良いよ」

 「そうか。それじゃ、三つ目。
  結婚式を挙げるのは、例の言葉を口にした子で間違いない?」


 一つ目と二つ目の質問には滑らかに答えていた幸だったが、
 意外とここで言葉を詰まらせた。


 「うーん……まあ、そう考えていいかも」


 悩みぬいた挙句、なんとか捻り出すように幸は答えた。
 しかし出てきたのは、どうにも煮え切らないものだった。

 他の質問は考えを進めながらすることとして、
 私はとりあえず自分の中で、今の考えをまとめた。
 ただまとめるだけが目的ではない。それを幸に聞いてもらうためだ。
 音読すること、そして他人に聞いてもらうことは、
 考えや文章を整理することにとても役立つという。


 「じゃあ、ここでさっきの言葉を精査してみよう」


 私は一度箸を置き、鞄からシャープペンシルとルーズリーフを取り出した。
 そこに、先程の言葉を書き出していく。

 “六月に結婚式を挙げられるのは幸せだよ。
  もちろんそれが、相手側では最善なんだから、なおさらだね”

 私はまず、一行目にペンの先を向けた。


 「この一行目の幸せというのは、話し手の心情……。
  つまり、結婚式を挙げる生徒、女の子の思いだ」

 「そう考えるのが自然だね」


 幸の言葉を聞いてから、私は“六月”という言葉に丸をつけた。


 「となると、話し手が幸せと感じる理由は、
  この“六月”という言葉に集約されることが、よく分かる」

 「うん」

 「ところで六月というのは、結婚に適していない季節だ。
  結婚式は正装で出席するのが普通。
  つまり雨の多い六月に結婚式を行うのは、参加者の負担になる」

 「ジューンブライドなのにね」

 「でも、この話し手はその季節に結婚式を開くと言っている」


 迷惑な人なんだねと、幸は一言。
 そう言ってしまうと元も子もないが、ごもっともだ。


 「とはいえ、この話し手……。
  つまり、《花嫁》さんが幸せと言っている理由は、
  世間一般に照らし合わせてみれば、
  ジューンブライドにあるのだろうと推測できる」

 「世間一般に照らしあわさなかったら?」

 「それは個人的な理由、例えば六月になにか思い入れがあるとか」

 「そこまでは推理できない?」

 「む、無理言わないでくれよ……」


 幸は残念そうな顔を浮かべた。
 そして、自分の目の前に置かれた生姜焼きを口に運んだ。
 私もサラダを着々と食べ進めた。


 「……うん、《花嫁》さんの幸せはそれで良いと思う。
  じゃあ今度は、一体なにが最善かってことだね」


 サラダのトマトを飲み込んだところで、
 幸は机上のルーズリーフに視線を走らせながら、そう言った。
 つまり、この二行目のことだ。


 「“もちろんそれが、相手側では最善なんだから、なおさらだね”ってところか」


 実はこれが、一番厄介な問題であった。
 幸はそのことを知ってか知らずか、ただ頷いて、言葉を返してきた。


 「そう、その最善。これは個人的事情が絡んでくると思う?」

 「うーん、ジューンブライドはあくまで《花嫁》さんの幸せだからな。
  きっとそうなんだろうけど」


 しかし、どうにも引っ掛かる言い方だ。
 “相手側では最善”とは、どんな意味が含まれているのか。


 「例えば、結婚式が多い季節は秋だよな。
  春、夏、冬にはそれぞれ、結婚に適さない理由があるし」


 例えば春は、花粉症の人が気軽に来場できず、
 さらに新生活を始めて忙しい人も多い。
 夏は熱く、晴れ姿の花嫁にとって負担が大きい。
 それは正装に身を包んだ来賓者にも、同じことがいえる。
 そして冬は、雪の影響で交通が乱れることが多々あり、
 進んで式を行うような季節ではない。

 まして六月、梅雨まっさかりの季節。
 雨が多い季節を選んでおきながら、普通、最善はないだろう。
 秋を選んだのであれば、それこそ最善といえる。

 確かに個人にはそれぞれの理由がある。
 最善とまではいえなくても、秋以外の季節を選ぶこともあるだろう。
 しかしあくまで相手方にとっては、“六月”が“最善”なのだ。


  *  *  *


 サラダを全て食べ終えた私は、
 自然と白身魚フライへ箸を向けていた。

 私の差し向かいに座る幸も、黙々と生姜焼きを食べている。
 肉、キャベツ、肉、キャベツ……と、
 皿の上に乗った料理を、幸は順序よく口にしていき、
 付け合せのキャベツと肉はバランスよく減っていた。
 ところが突然、流れるように運ばれていた箸が、動きを止めた。

 幸は怪訝そうな表情で、例の言葉が書かれた紙面を注視していた。


 「どうしたんだ、幸?」

 「……やっぱり、ここは普通、別の表現じゃないかなと思って」


 そう言って箸を置いた幸は、ある語を指差した。
 それは“相手側”の“側”の文字だった。


 「相手“側”だよ? ……“相手”だけならまだしも、
  わざわざ“側”と付けるからには、それなりの意味があると思うんだ」


 なるほど、それは確かにそうかもしれない。盲点だった。
 しかしこれで、謎とは関係ないが、明らかになったことが一つある。


 「幸、これクイズのために作った話じゃなくて、実話じゃないか?」


 唐突に発せられた私の言葉を聞いた幸は、その瞬間、表情を消した。
 静穏としていた目を瞬かせる。
 その目が私と合うと、幸は逃げるように視線を下へ逸らして、
 黙々と生姜焼きを食べ始めた。

 肉、肉、肉、肉……。

 明らかに動揺していた。


 「幸、今言ったことは適当じゃないぞ。
  私に出したクイズなら、さっきみたいなヒントは違う形で出すはずだ。
  でも、幸はまるで解答者のように、ヒントを出した」


 幸は未だ生姜焼きを食べ続けていた。
 ただし、肉ばかりが恐ろしいペースで減っている。


 「“ように”という表現は正しくない。実は、幸も解答者なんじゃないか?
  幸はこの機会に、前から自分の気になっていた言葉の意味を、
  解き明かそうとしている。違うか?」

 「……澪ちゃん、生姜焼き美味しいよ?」


 もうキャベツしか残っていないんだけど。


 「ここで私の質問に対する、幸の回答を思い返してみると、
  私の推測が悪くないことを示している。
  《花嫁》さんがこの学校の生徒だというのが、特にそうだ。

  更に、言い淀んだ三つ目の質問、それは確信が持てなかったからだ。
  自分は会話をちらっと聞いただけ。
  もしこれが、自分の作り出した場面だとすれば、そこで言い淀むようなことはない」

 「じゃあ、一つ目の質問に対する回答は?
  二年生以上って、会話だけでわかるもの?」

 「会話している人物を、以前に見たことがあれば可能だ。
  例えば、新歓祭でサークルの勧誘をしているところを
  一度でも見たことがあれば、その人は“二年生以上”ということになる」

 「……澪ちゃんって、名探偵?」


 なに、簡単な推理だ。このぐらい名探偵じゃなくても、
 冷静に考えれば導きだせるよと、私は得意げに言ってみせた。
 幸は一瞬微笑んでから、話を再開した。憐れまれた。


 「澪ちゃんの推理は正解だよ。
  私はこの会話、実際にこの学校で聞いたの」

 「そうだったのか……」

 「それで、澪ちゃんが退屈しないよう、
  この会話をクイズとして利用したってこと」


 それはどう考えても、おためごかしだろう。
 口には出さなかったけれど、もちろん幸も冗談のつもりで言っているに過ぎない。
 ともあれ、私の推理が当たっていたのならと思い、
 私は一つの提案をしてみることにした。


 「幸、それならその前後の会話も、少し聞こえていたんじゃないか?」

 「うん……聞こえていたとは思う。
  でも、はっきり覚えているのは、さっきの言葉だけなんだよね。
  他はうろ覚えでしかないけど、それでも良い?」


 即座に首肯する。
 私の頷くのを確認した幸は、腕を組み、
 視線を自分の膝辺りに落とした。
 おぼろげな記憶を繋ぎとめようとしているのが、よくわかる。


 「あっ」


 やがて幸はなにかを閃いたようで、顔を上げた。


 「なにか思い出したのか?」

 「うん、確かその会話の中で、こんなことを言ってたよ。
  “金曜の授業は全部休みになるけど、私はそれでもいい”って」


 金曜の授業を休んでまで、結婚式を開くということだろうか。
 一体どれだけ盛大な式が挙げられるのだろう。

 そう思ったところで、私はふと、あることが気になった。
 それは先程、幸が指摘した“側”という言葉を含んだ一文だ。

 “もちろんそれが、相手側では最善なんだから、なおさらだね”

 やはり、さっきも感じていた通り、引っ掛かる言い方だ。
 確かにちょっと変わった言い回しかもしれないが、
 “相手側ではこれこれだ”という言い方で、
 ある特定の人物について話すことは無いこともない。
 ところがそれは、なにもこれ一つが答えというわけではない。

 例えば、この言葉の指しているものが、
 “人物以外だとすれば、どうだろう。”

 そして幸が思い出してくれた“金曜の授業を休む”という旨の言葉。
 これを結び付けることで編み出された、私の答えは――。


  *  *  *


 お皿の上に乗った残り僅かな白身魚フライを一目見て、
 私は無意識に息を漏らした。
 謎は解けたのだ。ならば食べ終わる前に決着をつけようか。
 そう思った私は早速、話を始めていった。


 「……幸。こんな言葉があるけど、
  今日ほどそれが納得できる日はないかもしれないな」

 「随分と唐突で、勿体ぶった言い方だね」


 幸は苦笑しながら言ってきた。
 それは確かにと、私も苦笑しながら内省する。


 「それは悪かった。でもな、わかったんだよ。
  ……一体なにが最善だったのか」

 「へえ……」


 反応が薄いように見えるが、内心は興味津々なのだろう。
 幸の静穏とした目が光り輝き、こちらを一点に見つめている。


 「幸の言っていたことが確かだとすれば、
  土曜についての言及がないから、《花嫁》さんは土曜日に授業がない。
  だというのに、土日の二連休を使って結婚式を挙げる気は、《花嫁》さんにない」

 「そうだね」

 「それはもう、“金曜日から日曜日を使った三連休でなければ、
  結婚式を挙げることができない”からとしか考えられない」

 「日曜日に特別な用事があって、
  金曜日と土曜日で結婚式を挙げる必要があった場合は?」

 「じゃあ、聞くけど……。幸は結婚式に、そこまで時間がかかると思う?」


 幸は少し考える素振りを見せてから、かぶりを振った。


 「そんなわけないよ。式は二、三時間で終わるって聞くからね。
  だから、二連休もいらないと思う。
  むしろ移動にかける時間の方が、圧倒的に多いんじゃない?」

 「そう、それ!」


 思わず常に似合わない大声を上げてしまう。
 ざわつく周りの視線が私に集まるのを肌で感じて、
 私は赤面し、そっと席についた。
 幸はそんな私を見て、くすっと小さく笑みをこぼしていた。


 「……つまり澪ちゃんは、三連休でなければいけない理由を、
  移動時間にあると考えているんだね」

 「ああ」

 「でも、いくらなんでもだよ。移動時間にそこまでかかるもの?」

 「そこで幸に、さっき言いそびれた言葉を言おうと思うよ」


 私は机に身を乗りだし、その言葉を幸に向けた。
 これこそ私が初めに言いたかった言葉。
 本来の意味と違うのだろうけど、今の状況とは運命的にも似通った言葉だ。


 「“すべての道はローマに通ず”」


 幸は、あっと声を漏らし、目を見開かせた。
 少しすると表情はふっと緩み、温かく柔和な色を浮かばせる。
 なるほどね。幸はやさしく、そう呟いた。


  *  *  *


 「まあ、ローマというのは例えの一つだけどな。
  でも言ってしまえば、ヨーロッパのどこかである可能性は高い」

 「そっか。だから“相手側では”なんだ。場所だもんね」

 「その言い回し方を指摘してくれた、幸のおかげだよ」


 幸は少し照れた様子で、残ったキャベツを食べ始めた。


 「そうだよね。外国に、梅雨なんかないもんね」

 「そう。むしろヨーロッパの六月は、雨が少ない時期だ。
  さらにジューンブライドといわれる季節……。
  これほど結婚に善い時期は、他にないよ」


 私は残った白身魚フライを食べ終えて、箸を置いた。
 そしてなんとなく、座ったまま背後の窓へ身体を向け、
 外の空を見上げた。


 「授業を休んでまで移動時間に余裕を持たせるのも、
  “外国の結婚式に行くわけだからな”。納得の行為といえるんじゃないか」

 「澪ちゃん、それは違うと思う。それだけの意味じゃないと思うよ」


 突然の反論に、私は面食らってしまった。
 言葉の発信者である幸は、今さっきキャベツを食べ終えたところだった。


 「相手が外国に住む人なら、きっと……そう多くは会えていないんだよ。
  だったらさ、より多くの時間を相手と過ごしていたいと思うのは、
  当然のことだと思わない?」


 これには参った。幸の言った通りだ。
 私の狐につままれた様子を見て、幸はくつくつと笑いだした。


 「でも、意外だな。澪ちゃんが授業をサボった人を、許すなんて」

 「許すもなにも、私はそんな立場じゃないし」

 「清々しい顔もしてたよ?」

 「えっと、それはなんというか……」

 「そんな澪ちゃんには、これかな。……わたの原――」


 幸はなにか言おうとしていたが、そこで口を噤んでしまった。
 かぶりを振って、肩を竦める。
 言うまでもないかな。口を開いた幸は、そんな言葉をこぼしていた。

 幸は続いて、先程購入しておいたカップケーキを、私のトレイに乗せた。
 さらに幸は、輝かんばかりの笑顔をそれに添えてきた。

 なるほど、これで意趣返し完了ということか。
 心の中でそう納得しつつ、幸の笑顔に気圧された私は、
 カップケーキを一人で全て食べてしまった。

 肩を落としつつ、溜め息を吐く。
 結果としてこの話は、私の惨敗という形で幕を閉じたわけだ。

 私はお腹の膨らみ具合を気にしながら、幸とともに食堂をあとにすると、
 ふと、なにかが頭の片隅に引っ掛かっていることに気がついた。
 一体なにが引っ掛かっているのかは、まだわからない。
 しかし外に出るとすぐに、その答えは私たちの前に姿を現わすことになった。


 「雨が、やんだね……」


 一歩先に外へ出た幸が、空を見上げて呟いた。

 頭上を広がる空に、青空は寸分も見えていない。
 しかし雨はあがっていた。
 私は、鞄の中の折り畳み傘をそのままにし、
 ほんの一言だけ言葉を返した。


 「……ああ、ほんとうだ」


 相変わらずのむっとするような、まとわりつく湿気。
 私は目を瞑り、それを振り払うように思い切り首を振った。
 汗でべたついた頬に、自分の黒髪が触れる。
 それから私は少し俯き、ゆっくりと目を開いた。

 既に止んだ雨は、足元に敷かれているタイルを色濃く染め、
 また、眼前に広がる道のあちこちに小さな水溜りを落としていった。
 空を覆い隠している灰色の雲は、まだ遥か先まで絶え間なく広がっている。
 見渡す限りでは、世界の全てが、一枚の雲に見下ろされているように感じた。

 しかし、私にこの道の終着点は見えていない。
 世界の果てなんて、もっての外だ。
 そうなのだからきっと、私の立つ道のさらに先には、
 心から清々するような空が広がっている。
 私の世界を見下ろす雲の裏側では、空がこの雲を見下ろしているのだ。

 いつか私も、その空を一片でも望むことができるだろうか。

 いや、なにも焦ることはない。
 歩みを止めない限り、私はそこへ辿り着く。

 もちろん、そこにある空が一体どんな色をしているのかは、
 まだ私にもわからない。でも、そこにあるものが私の答えだ。
 だから私は進み続ける。道の先へ。私の答えが待つ場所へ。

 私は先に行く幸を追いかけ、その一歩を踏み出した。


 ‐ お し ま い ‐



最終更新:2013年07月13日 14:58