「結婚、かぁ……」

 ため息混じりの澪先輩の声に、心臓が大きく跳ねる。落ち着けるために一度だけ深呼吸。梅雨の湿った空気が
鼻を通り抜けていった。

「あらぁ? 秋山さんたらご結婚の予定でもあるのかしらー?」

 茶化すように律先輩。独り言が漏れていたことにようやく気づいたのか、澪先輩はすぐさま顔を真っ赤にして
慌てだした。

「なっ、違う馬鹿! 律が持ってきた雑誌に特集が組まれてたんだよ!」

「どれどれ」

 ひょい、と横から覗きこんだのは唯先輩。反対からはムギ先輩も興味津々な表情で雑誌に視線を落としている。

「『ジューンブライド大特集。次のブーケは誰の手に!』だってさ。わざわざこんなじめじめした時期に結婚なんて
しなくてもいいのにねぇ?」

 言いながら、唯先輩の視線は窓の向こうに飛んでいく。もう三日も降り続けている雨は止むどころか雨足を弱める
気配すら見せない。天気予報だともうじき梅雨明けらしいけど、この様子ではそれも信じるのは難しかった。

「もともとジューンブライドが生まれたのは六月の気候が安定してるヨーロッパだから、日本だと少し馴染まないの
かも知れないわね」

「おお、ムギちゃん物知り!」

「えへへー」

 そんな悪天候続きでも軽音部は平常運転。っていうのはつまり練習もせずにお茶ばっかり飲んでるってことなんだけど。

「それでそれで。澪ちゃんは結婚がしたいの?」

 ついさっき怒鳴られた律先輩を見ていなかったのか、唯先輩が話を蒸し返す。また澪先輩の怒声が響くかとも思った
けど、予想に反してまんざらでもない様子のご本人。

「そ、そりゃまあ……」

 頬を赤らめたまま、少し口ごもる澪先輩。
 もじもじとしているその様子は、すっごく可愛らしくて。

「私にだって結婚願望くらい、あるけどさ」

「……っ」

 だからこそ、私の胸には小さな棘が容赦なく突き刺さった。

* * * * *


 いつからだろう。気づけば私は澪先輩のことを好きになっていた。
 それは先輩後輩としてとかじゃなくて。間違いなく、女性として彼女のことを愛してしまった。
 レズビアンとか、そういうのじゃない。まだちっちゃい頃の話だけど、男の子を好きになったことだってあるし。
女性しか好きになれないってことでは、ないと思う。
 でも、だからこそわかってしまう。
 自分の中で芽生えた澪先輩への感情が、かつて抱いた恋心と全く同じものだということが。

「きゃー! 澪ったら結婚したいですって! だーいたーん!」

「な、なんだよ! 女の子だったらそれくらい普通だろ! なあ、梓?」

 ふいに投げかけられた言葉にどきりとする。重症だ。たったこれだけのことで、胸が踊るくらい嬉しくなって
しまうなんて。

「……はい、そうですね」

 だけど、返した言葉は対照的に暗い。きっと笑顔も引きつってる。 
 だって、つらいんだもん。結婚願望があるってことは、少なくとも澪先輩は対象を男性にしぼってるってことだから。
 私には万にひとつも可能性がないってことだから。
 それを澪先輩自身につきつけられるのは、すっごく、つらい。

「あずにゃん? ひょっとして元気ない?」

「え?」

 いつの間にか私の顔を覗き込む唯先輩。見れば、先輩方の視線は私に集まっていた。

「だってさっきからしょんぼりしてるよ? お腹痛いの?」

「いえ、そんなことは……」

「さっきからっていうかさ」

 唯先輩に続き、律先輩も口を挟んでくる。

「ここ最近ずっと沈んでないか? 梓。なんか悩んでたりする?」

 ――こういうときばっかり鋭いのは、ずるいです。
 そんなこと言われたら、弱いとこ、見せたくなっちゃうじゃないですか。

「……いいえ」

 甘えそうになる自分を否定するように、小さくかぶりを振る。
 大丈夫。まだ強がれる。

「悩み事とか、そういうのじゃないです。最近雨続きでちょっとテンション下がっちゃってるだけですから」

「そう? 無理しちゃだめだよ?」

「無理なんてしてません。今すぐお茶会をやめて練習を始められるくらいには元気ですよ?」

「げ、元気なのはなによりだねー! よかったよかった!」

 急に手のひらを返す唯先輩に頬が緩む。
 これでいい。変に心配させて万が一私の気持ちがばれてしまったら――

 ぱちん。乾いた音が私の思考を遮る。

「さ、外も暗いし今日はもう解散にしましょう」

 両手を胸の前で合わせ声を上げたのはムギ先輩だった。日暮れにはまだ余裕があったけれど、厚い雲のせいか
確かに外はもう暗い。先輩方も異論はないようで自分の荷物をまとめ始めていた。
 ムギ先輩一人を除いて。

「食器は私が片付けておくから、みんなは先に帰ってていいわよ」

 珍しい提案だった。いつもなら皆で手伝うか、そうでなくても片づけ終えるのを待つのが暗黙の了解。ムギ先輩
から先に帰るよう促すことは、少なくとも私の記憶にはない出来事だった。
 当然のことながら疑問に感じたのは私だけではなかったらしく、唯先輩から抗議の声が上がる。

「えぇー、それじゃムギちゃんが大変だよ。みんなで一緒に片づけよ?」

「そうだぞムギ。どんな時でも一蓮托生、最後まで一緒にいるのが放課後ティータイムじゃないか! 雨が降ろうと
槍が降ろうと、私たちはムギを見捨てたりしないぞー!」

「おお、りっちゃん! なんだか今日のりっちゃんは輝いて見えるよ!」

「そうだろうそうだろう。さあムギ、私たちは余ったクッキーを摘んでるから存分に片付けてしまえ!」

「そこで手伝おうとしないのがさすがだよりっちゃん!」

 やいのやいのとかしましいやり取りを、ムギ先輩は少し困ったような笑みで見つめている。
 なにか一人で残りたい理由でもあるのだろうか。

「二人共気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫よ、私一人じゃなくて梓ちゃんにも手伝ってもらうつもりだから」

「へ? 私ですか?」

 急に回ってきたお鉢に少し動揺。いや、手伝うのは全く問題ないんだけど、ムギ先輩が手伝いを頼むというのも
やっぱり珍しいことだったから、ちょっぴり驚いてしまったのだ。

「急にごめんなさいね梓ちゃん。なにか予定とかあったかしら?」

「あ、いえ。私は全然大丈夫ですよ」

 気になることはあるけど、断る理由は別にないし。たまにはムギ先輩と二人っきりっていうのも悪くないかも
しれない。

 ……少し緊張するけど。

* * * * *

 雨音と食器を洗う水音だけが、静まり返った部室に響き渡る。
 不満を漏らしながらも学校を後にした先輩方(澪先輩除く)を見送ってからここ、私とムギ先輩の間に会話らしい
会話はなかった。ムギ先輩がなぜ私を手伝いに選んだのかもわからないまま時間だけが過ぎていく。ちらりと横顔を
盗み見ても、そこにはいつも通りのにこにこ顔があるだけだった。
 そしてなんの進展もないまま拭いた食器を棚に片づけ終える私たち。食器棚の前で携帯電話をいじっているムギ先輩
の背中を見つめながら、私はなんとなく手持ち無沙汰になってしまった。

「あの、それじゃ帰る準備しましょうか」

 ムスタングをケースにしまいながら声をかける。が、返事はない。不思議に思って振り返ってみると、こちらを見つめ
ているムギ先輩と目が合った。真っ直ぐなその視線に思わずどきりとする。それは澪先輩に対して感じるものとは違って、
なんというか――全てを見透かされているような気まずさというか。

「ちょっとお話をしましょうか、梓ちゃん」

 あ、唯先輩みたいにごまかせないな。
 たった一言で、そんなことを思わされてしまった。

「……はい」

 長椅子に腰掛けたムギ先輩が自分の隣をぽんぽんと叩くので、少し間をとって肩を並べる。さっきまでは気づかな
かったけど、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。

「うふふ、梓ちゃんとこうしてお話するのは初めてよね? なんだか緊張しちゃうわ」

「お、お手柔らかにお願いします」

「こちらこそ」

 よくわからないやり取りを挟んで一呼吸置いた後。

「私はね、二人がそういう関係になってくれたらすごく素敵だと思うわ」

 ムギ先輩は単刀直入に核心を突いてきた。

「それはもちろん私自身女の子同士の関係を見守るのが好きっていうのもあるけど、それだけじゃなくて。大切な
お友達と大切な後輩がお互いを大切に思える関係になってくれたら、それはとっても幸せなことだと思うの」

「ムギ先輩……」

 その言葉は、すごく嬉しかった。嬉しいを通り越して救われたような気にもなれた。
 同性を好きになるなんて、あまりおおっぴらに話せるようなことじゃない。私の中で膨らんでいた「自分は普通じゃ
ないんじゃないか」という不安は、ムギ先輩の言葉でぱちんと弾けてしまった。
 私は間違ってないんだと、思わせてくれた。
 だけど。

「でも、駄目ですムギ先輩。私と澪先輩は、きっとそういう関係にはなれないんです」

「あら、どうして?」

「だって!」

 だって。澪先輩の未来には『結婚』の二文字が既に刻まれている。
 私とじゃ、決してすることのできない、神聖な儀式。
 その先にあるのは――私とじゃ決してなることのできない、親愛の関係。

「だっ、て……」

 ぽつり。握りしめた手の甲に一粒の雨漏り。
 それは雨のくせに火傷しそうなくらいの熱を持っていて。
 まるで私の中の感情をぎゅっと一粒に押し込めたような、不思議な雫だった。

「泣かないで、梓ちゃん」

 優しい言葉と優しい温もりが私を包み込む。甘い香りが頭の中までいっぱいに広がったところで、私はようやく
ムギ先輩に抱きしめられているのだと気づいた。

「……ううん、今は好きなだけ泣くといいわ」

 ゆるゆると首を振る柔らかな振動が伝わる。

「泣きたくなるほど人を好きになれるのって、きっと誇れることだと思うの」

 ――だから、今だけは好きなだけ泣いていいのよ。

「ムギ、先輩……」

 あったかい言葉は私の奥で凍っていた何かを溶かしてしまったようで。

「む、ぎ、せんぱぁい……!」

 心の容量をオーバーしたそれは、容赦なく溢れだしムギ先輩のブラウスを湿らせていく。

「うん……うん」

 そんな私の頭を優しく撫でてくれるムギ先輩に包まれて、思う。
 この人はやっぱり年上のお姉さんなんだな、って。

* * * * *

 五分か、十分か。それくらいの時間を泣くことに費やしてようやく落ち着いた私を、ムギ先輩が正面から
見つめている。

「梓ちゃんはね。ひとつ大変な勘違いをしてるわ」

「勘違い?」

 まだぼやけた視界の中で、ムギ先輩はやっぱり優しく微笑んでいる。

「梓ちゃんは関係っていう言葉に囚われ過ぎなんだと思うの。そんなに難しく考えないで、もっと自分に素直に
なってみてもいいんじゃないかしら?」

「自分に素直、って……」

 いいのだろうか。この気持ちを、澪先輩に伝えても。
 軽蔑……されないかな。

「澪ちゃんは軽蔑なんてしないわ。私が保証してあげる」

 心を読み取ったかのようにムギ先輩は胸を張る。
 そう断言できる仲を、少しだけうらやましく思ったり。

「それにね。澪ちゃんならきっとわかってると思うわ。関係っていう言葉の、本当に大切な部分を」

「本当に大切な部分?」

「ええ。詳しくは本人に聞くといいんじゃないかしら」

「へ? 本人って……」

 得意げな顔でムギ先輩が指差す向こう。
 部室の扉が外から開かれて。

「ただいま、っていうのもおかしいかな。それでどうしたんだ? ムギ。話があるから部室に戻って来てくれだ
なんて急にメールして。……あれ?」

 その先にいた人物――澪先輩は、私の姿を認めるとにこりと微笑んだ。

「なんだ、梓もまだ残ってたのか」 

「は、ははは、はい!」

 突然の想い人の登場にろれつが回らない。
 え、だって、え?

「いきなり呼び戻しちゃってごめんなさいね、澪ちゃん。それとお話があるのは梓ちゃんなの。私は先にお暇
させてもらうから、ゆっくり聞いてあげて」

「あ、そうなのか? 梓」

「え、あ、はい。……や、そうじゃなくて!」

 おかしい。澪先輩が急に現れたのもムギ先輩がいつの間にか帰る準備万端なのも、なにもかもがおかしい。
 だけど、そんなことよりなによりも。

「それじゃあ澪ちゃん。梓ちゃんをよろしくねぇ」

「ああ、お疲れ様、ムギ」

 澪先輩と二人っきりになってるこの状況が、なによりおかしい。

* * * * *

「お茶……は片付けたばっかりか。それに長居するのもあれだし、早いとこ済ませちゃおうか」

 ついさっきまでムギ先輩が座っていた場所に、今は澪先輩が座っている。たったそれだけの事実が、私の心臓を
これでもかというくらいに打ち鳴らしていた。
 ムギ先輩も美人だしあったかいし柔らかいしいい匂いだけど、根本的に違う。
 私にとって澪先輩以上の存在は、いない。

「それで、梓。話ってなんだ?」

「え、っと……」

 無理だ。絶対無理だ。言葉が出てこないどころか呼吸すらままならない。
 こんな状況で告白なんて、絶対無理。

「ひょっとして……最近元気なかったことが関係してる?」

「!」

「やっぱり、か。さっき唯にはああ言ってたけど、無理してるのばればれだったからな?」

「ご、ごめんなさい」

「いや、謝らなくたっていいさ。大事な後輩が悩んでるんなら少しでも力になりたいっていうのが先輩としての
本音だしな」

 大事な後輩。
 先輩として。

 ――うん。やっぱりそうだよね。

「ごめんなさい、澪先輩。本当に大したことじゃないんです」

「……梓?」

 さっきまで頑として出てこようとしていなかった言葉が、違う姿でぽろぽろとこぼれてくる。

「なんかムギ先輩も勘違いさせちゃったみたいで、話がおおげさになっちゃいましたね。全然、本当に違うんです。
さっき唯先輩に言ったのが全部ほんとのことです。雨ばっかり降ってるとじめじめしてやだなぁとかギターも濡れ
ちゃうなぁとか髪の毛もぼさぼさになっちゃうなぁとか。そういうちっちゃいことが積み重なって気分が落ち込ん
じゃってただけなんです。あはは、ばかみたいですね、私」

 ばかみたい。
 本当に、ばかみたい。

「そのせいでムギ先輩を足止めしちゃったり澪先輩を呼び戻しちゃったり。もう、心配してもらう価値もないですよ、
私なんて。さ、帰りましょう。天気悪いからわかりづらいですけど、そろそろ本当に日が暮れちゃいますよ」

 一方的にまくしたてて、私は席を立つ。話はこれでおしまいと言わんばかりに鞄に手を伸ばして――その手を
掴まれた。

「梓」

 名前を呼ばれて嬉しいなっていう気持ちと。
 もうこれ以上はいたたまれないなっていう気持ちが。
 ごちゃごちゃに混ぜ合わされて、私の中で奇妙な模様を描いていく。

「だめだよ、梓。私に嘘をつくのは構わない。だけどそれはだめだ」

「……それって?」

「自分を騙すこと」

 きっぱりとした言葉に、つい振り向いてしまう。

「自分にだけは嘘ついちゃだめなんだ、梓。自分を騙そうとしたら、もう自分のことを信じられなくなっちゃうだろ」

 そんなの寂しいじゃないか。
 顔を俯けながら、澪先輩はそう言った。

「だから、梓。自分自身のために、素直になろう? どんな悩みだって私は笑わないし軽蔑したりしない。梓がそれで
悩んでるっていうなら、私は本気で、真剣に、一緒に悩んであげるから」

 あ、無理だ。
 これこそ、本当に、無理だ。

「……澪先輩」

「ん、なんだ?」

 怖いです、澪先輩。
 気持ちを伝えることが。
 気持ちを知ってもらうことが。
 気持ちを拒絶されてしまうことが。
 怖いです、澪先輩。

「澪先輩。澪先輩澪先輩みおせんぱい!!」

「あ、梓? ちょっと落ち着けって」

 だけど。それよりも。
 この気持ちを秘めたまま腐らせてしまうことの方が、ずっと怖いです。


「好きです、澪先輩」


 だから、告白しないことの方が、無理です。

「あず、さ」

「好きです。好きでした。もういつからなんてわからないくらい前から、好きでした。澪先輩のこと、一人の
女性として、愛しています」

「え、……ええ?」

「戸惑うのも無理ないと思います。だけどごめんなさい。おかしいってわかってても、もうこの気持ちはおさえて
いられません。澪先輩」

 一度、大きく息を吸って。

「好きです」

 しっかりと、伝えた。

「…………」

 しばらく澪先輩は、目をまんまるくしたまま私の顔をまじまじと見つめていた。

「そっか……そう、だったのか……」

 独り言のような言葉。思い悩むような声のトーンを聞くだけでわかる。わかってしまう。
 澪先輩は、私の告白を、喜んではいない。

「……うん、わかった」

 何かを決意したのか、澪先輩は改めて私と向き合う。先ほどの宣言通り真剣そのものな瞳に射抜かれてる私は、
内心空を覆っている雲より分厚い暗闇に心を飲み込まれていた。
 さて。私は一体どんな言葉でフラれるんだろう。
 もう、それしか頭になかった。

「先にこれだけは言っておくよ。梓」

 はい。なんですか? 澪先輩。

「私は、梓のことを恋愛対象としては見れない」

 ああ、はい。
 知ってました。

「……私が原因だってことはわかってる。だけど梓、お願いだからそんな顔しないでほしい」

 苦い表情を床に落としながら、澪先輩は苦しそうに呟く。そんな顔をしないでほしいのはこっちの台詞だと
思った。そして澪先輩も今同じ気持ちなんだと気づき、気分は一層沈み込む。思いつめる私たちを馬鹿にする
みたいに、悪循環がぐるぐると二人の間を回っているようだった。

「順を追って話そうか。座って、梓」

 ぽんぽん、と、ムギ先輩の繰り返しのように自分の隣を叩く澪先輩。
 一瞬だけ逡巡して、結局先ほどと同じ距離に腰を落ち着ける。

「まあ、順番って言ってもなにをどう話せばいいのかわからないんだけどな」

 苦笑いを浮かべた後、澪先輩は三本の指を立てて私に見せる。

「今私たちの間にある関係は、三つ」

 ひとつは学校の先輩後輩。
 ひとつは部活の先輩後輩。
 そしてひとつは、放課後ティータイムというバンドの仲間。
 強くて、だけど儚げに見える三本の絆。

「修学旅行の夜に皆で話したんだけどな、私たちってもうこの学校にあと一年もいられないんだ。そして
もちろん、この部活にも」

「あ……」

 それは、漠然としていたお別れを明確な形として表そうとしているお話。

「私たちが卒業した時。まず学校の先輩後輩っていう関係は、終わる」

 一本。指が折られる。

「や、だ」

「そして部活だって卒業だ。だからその先輩後輩って関係も……終わる」

 もう一本、指が折られる。
 残る指は、残る絆は、あと一本。

「やめ、て……」

「最後の一本。放課後ティータイム。これは学校を卒業したくらいじゃなくならない。だけど、今まで通り
毎日顔を合わせて練習っていうのは難しくなると思う。同じ大学に行けるかなんてわからないし、そもそも
律や唯は進学するのかさえわからない。梓に至っては……まだここでもう一年過ごさなきゃならない」

 だから。
 だから、最後の一本も――

「やめて!」

 折らせまいと、終わらせまいと、思わず残る指にしがみつく。

「どうしてそんなこと言うんですか! なんで、なんでお別れの話なんてしなきゃいけないんですかぁ!
まだ一年あるでしょ!? まだ考えなくてもいいでしょ!? なのに、なのになんで! 私のこと、そん
なに嫌いなんですかっ!」

 梅雨の空気より湿っぽく。
 降りしきる雨音より荒々しく。
 私の叫び声が、響く。

「嫌いなら嫌いってはっきり言えばいいじゃないですか! なんでそんな、周りくどい言い方するんですか!
楽しいですか!? 私が苦しんでるところ見て! 楽しいんですか!?」

「……梓。聞いてくれ」

「わかりました、終わらせましょうこんな関係。先輩後輩も放課後ティータイムも、今ここで終わらせ
ましょう! 全部諦めて黙って終わりを待つくらいなら、いっそここで――」

「聞け、梓!」

「……っ!」

「本気で言ってるのか? 私が梓のこと嫌いだなんて、本気で言ってるのか?」

「そん、なの」

 わかってる。本気なわけがないってことくらい。
 私が誰よりも大好きな澪先輩が、そんな酷いこと言うわけがないってことくらい。
 わかってる、はずなのに。

「……私だって嫌だよ」

 一転、弱々しい声で澪先輩が呟く。

「放課後ティータイムで過ごした最初の一年は、今までの人生でなによりも楽しい時間だった。これ以上楽しい
ことはないんじゃないかってくらい充実した毎日だった。でも、それが間違いだったってことに、たった一年で
気づかされた」

 澪先輩たちが入部して一年。
 それは、つまり。

「梓が入部してきて。人生で一番楽しい時間はあっという間に更新されたよ」

 細くて長い澪先輩の指を握り締める私の手に、気づけば温かい手のひらが添えられている。
 視線を上げると、優しい瞳が私を見つめていた。

「嫌だよ、梓。私だってお前と離れたくない。学校の後輩でもなく、部活の後輩でもなく、バンドメンバー
でもない。『中野梓』と、私は離れたくないんだ」

「それって!」

「違う」

 ぴしゃりと。
 私の中に生まれたかすかな希望を、澪先輩は否定する。

「さっきも言ったことに変わりはないんだ。私はお前を、恋愛対象として見ることはできない」

「なら……私は一体なんなんですか?」

 結局のところわからない。
 澪先輩にとって、私という存在は一体なんなのか。
 答えを求めるも、当の本人は目を伏せて静かに首を振るばかりだった。

「私にもわからないんだ。梓に対するこの感情がなんなのか、私にもわからない。ただお前のことがすごく大切
で、ずっと一緒にいたいと願ってる。律や唯やムギだって大切だけど、それ以上に大切にしてやりたい。そうだな、
一番近い表現は――」

 家族、なのかな。
 澪先輩は少し頬を染めながらそう言った。

「家族……?」

「そう、家族。妹……とはちょっと違うかな。もっとこう、一緒にいて安らげる存在。一緒にいるだけで満足
できる存在。それが、私にとっての梓」

 赤の他人が家族になる方法なんて限られている。
 その中で最もシンプルな方法を、私は知っていた。
 それは、澪先輩が未来に見据えている、「異性と」共に生きていく方法。
 私と澪先輩では、決して行うことができない儀式。

 ああ。
 私はなんで、女に生まれてしまったんだろう。

「どうすればいいんですか」

 絞り出した声は、自分でも驚くくらい弱々しくかすれていた。

「後輩も駄目。恋人も駄目。だからって本当の家族にはなれない。じゃあ……私はどうすれば、あなたと
一緒にいられるんですか?」

「…………」

 澪先輩は答えない。
 代わりに、自分の指を掴む私の手を優しく引き剥がす。抵抗する気力さえも、私には残されていない。

 そして。
 最後の一本が、ゆっくりと折られた。

「梓は勘違いしてるな」

「え?」

 勘違い。ムギ先輩も私に同じ言葉を残していたことを思い出す。

「関係っていうのはさ、結局後付けでしかないんだ。関係があるから一緒にいられるんじゃない。一緒にいる
から関係が生まれるんだ。本当に大事なのは、ここ」

 澪先輩の広い手のひらが、私の胸に添えられる。
 ずっとそこにあったはずだった。ずっとそこで動いていたはずだった。
 だというのに、私は今初めて自分の心臓が鼓動し始めたような錯覚に陥る。
 まるで、ずっと忘れていたものをふとしたきっかけでに思い出したかのように。

「梓。梓は、私と一緒にいたいか?」

「はい」

 考えるより先に言葉が口をついて出てくる。

「そっか。私も梓と一緒にいたい」

 満足そうにほほえみながら、澪先輩もそう言った。

「だからさ、一緒にいよう。卒業しても、放課後ティータイムが解散しても。ずっと、一緒に生きていこう。
酷いこと言ってるっていうのはわかってる。私は梓の想いに応えることはできないんだから。それでも、
わがままだってわかってても、お願いしたい。一緒にいよう、梓」

 頑なな私の心を解きほぐすように。
 澪先輩は、言葉を続ける。

「一緒にいるための関係が必要だっていうなら、後付けしてやればいい。それらしい関係を作ってやればいい。
私のことを好きでいてくれてる梓と、梓のことを大切に感じてる私の、ここにしかないたったひとつだけの関係」

 それは先輩後輩でもなく。
 バンドメンバーでもなく。
 ましてや、恋人でもなく。

「『私と梓』っていう関係を、作ろう」

 ――私たちが一緒にいるために必要なのは、きっとそれだけなんだ。

 言葉とともに新たに伸ばされた指を見ながら、私は何度も何度も頷いた。

* * * * *

「結婚、できませんよ?」

「ん?」

「澪先輩の結婚願望。私じゃ、満たせませんよ?」

 お互いに肩を寄せ合いながら、私は澪先輩に問いかける。
 澪先輩にとって結婚は憧れであり夢であったことは明白だった。
 私と一緒にい続けるということは、その夢を捨てるということに他ならない。
 澪先輩は、本当にそれでいいんですか?
 問いかけに返ってきたのは――指。

「にゃっ!」

 額に走る軽い痛み。涙の滲んだ目で見れば、でこぴんをし終えたポーズのまま憮然とした表情の澪先輩がいた。

「それも勘違いだ」

「ど、どういうことですか?」

「結婚っていうのは手段のひとつでしかないんだ。大切なのはその先にあるもの。なんだかわかるか?」

「え? っと……夫婦?」

「五十点」

 厳しい採点。
 お手上げの意味で上目遣いをすると、やれやれとため息をつかれた。

「簡単なことだよ。結婚して、夫婦になって、大切な人と生活して。――私は、幸せになりたかったんだ」

「幸せ……」

「確かに私は梓に恋愛感情はない。だけどそれに負けないくらいの親愛の情は持ってる。幸せになるには十分
過ぎるくらいの、な。結婚にこだわる必要なんてない。私はただ、梓といられれば幸せなんだから」

「……そっか」

 正直に言ってしまえば、つらい部分はある。
 愛する人が私のことを愛してくれてはいなくて。でも、一緒に生きていく。
 『澪先輩と私』っていう危うい関係の上を、綱渡りするように歩いて行く。
 きっとそれは普通に恋人関係でいることよりもずっとずっと大変なことなんだと思う。
 でも、それでも。

「どうした、梓? にやにやして」

「えへへ、秘密ですっ」

 これが好きになった者の弱みか。
 澪先輩が幸せそうにしてるのを見たら、なんだか私も幸せになってきてしまう。
 だから大丈夫。きっと私たちは、上手くやれる。

「さて、そろそろ下校時刻も近いし帰ろうか」

「はい……あ、」

 立ち上がる澪先輩の横顔がいつの間にか茜色に染まっていることに気づいて。

「ん?」

「……いえ、なんでもないです」

 明日から今までよりももうちょっとだけ天気予報を信じてみようかな、なんて思えた。

* * * * *

以上です
おつきあいありがとうございました



最終更新:2013年07月13日 15:02