◇Side-M
一段と強まった雨脚が、匂いを消してくれる。
そぼ降る雨の中を、ふらふらとさまよい続けた。
身体が熱い。人間たちに傷つけられたのは頬、肩、右足。
自慢の頚を覆う鬣も、頬から伝う血で赤く染まっている。
朦朧とする意識を引きずって、大木に穿たれた穴蔵へ潜り込んだ。
感覚を失った右足をひと舐めしてみる。
こびりついた黒い血からは、何の味も、匂いも、感じられなかった。
不意に、視界の隅で小さな影がふたつ、動いた。
人間の女の子だ。
怯えた表情で私を見つめると、踵を返して走り去った。
おそらく、大人たちを呼びに行ったのだろう。
逃げないと……。
身体を起こそうとしたが、どうにもならない。
もう、いいかな。
私は、生きることをあきらめた。
コトン。
目の前に水が入った椀と、野いちごや木の実が入った椀が置かれた。
「ワンちゃん、たくさん食べて、元気になってね」
「おねえちゃん。この子、オオカミさんだよ?」
ふたりの女の子が、顔を見合わせて話している。
双子だろうか。よく似ている。
よく見ると、ふたりともぐっしょりと濡れている。
雨の中、私のために食べ物を探してくれたの?
顔を起こそうとするが、もうそれ程の体力も残されていない。
起き上がることのできない私を見て、ふたりが話をする。
「だけど、おねえちゃん……」
「それしかあの子を助けられないよ、おねがい」
その姿も、徐々に霞んで消えていく。
ドクン!
冷え切った身体に、熱のカタマリが駆け巡る。
雷光に照らされたその刹那、目の前が、少女の指先から伝う真っ赤な血で覆われた。
流し込まれるその生暖かい液体を、ピチャピチャと夢中で啜る。
もっと。もっとほしい。
暖かい……こんな温もりは、いつ以来だろう。
目を醒ますと、ふたりの女の子が私に抱きついて眠っていた。
無意識にだろうか、時折背中をワシャワシャと撫でさすられる。
喉に乾きを覚えたが、強く抱きしめられて身動きが取れない。
でも、不思議に不快ではない。
「ん……?」
彼女たちの身体が異常な熱を帯び、汗ばんでいることに気がついた。
私より、この子たちの方が衰弱してる……?
その理由を考えているうち、私の首筋に回された小さな腕から、赤い血が一筋流れて落ちた。
それをひと舐めすると、小さな熱が私の乾きをかき消していく。
女の子の肩越しに、外を見てみる。
雨はまだ降り続いている。
だけど雲の切れ間から、なみなみと太った月がこちらを覗いていた。
◇◇◇
吸血鬼は、悲しい生きものだ。
吸血鬼は、人間の血を吸わなければ生きていけない。
故に吸血鬼は、人間のコミュニティを離れては生きていけない。
それは共存・共生ではなく、捕食者と被食者の関係だ。
同じコミュニティにありながら、吸血鬼と人間は決して相容れない関係だ。
それなのに、私が出会ったこの2人は、人間を憎むことを知らない。
だから、この優しい姉妹は、私が守ろう。
……たとえすべての人間を、不幸に陥れることになろうとも。
◇◇◇
この町へたどり着いて、唯が少し変わった。
唯「軽音部のみんなは特別なんだよ、和ちゃん!」
唯のこんなにも明るい表情を見るのは、いつ以来だろう。私もうれしい。
和「そうなんだ」
唯「んもう。和ちゃん冷たい!」
憂「ふふ、お姉ちゃん。和ちゃんは興味なさそうに見えて、とっても喜んでるんだよ。ねー?」
唯「え、そうなのー? 和ちゃん優しーい♪」
憂「あっ、お姉ちゃんずるい! 私もー♪」
和「こ、こらっ、あんたたち」
屈託のない笑顔で押し倒されて、私も笑った。
◇◇◇
その頃から憂は、料理の研究を始めた。
トマトソース、レバーや、スッポン。
色が似てる、というところから始まって、およそ血を連想する料理なら、なんでも。
憂「どう……かな?」
唯「おいしい! おいしいよ、これ!!」
憂「良かったぁ。たくさんあるから、お代わりしてね?」
唯「うん! やっぱり、憂のお料理は世界一だねぇ」
憂「もう。大げさだよ、お姉ちゃん」
唯「これだけ食べたら、人間の血を吸わなくても平気かな?」
憂「ほんと!? そうだといいなぁ」
唯「ふう、おなかいっぱーい」
憂「ふふ、デザートはオレンジだよ」
唯「おおぅ!? これは、血塗られたみかん!」
憂「ブラッドオレンジって言うんだって。見た目と違って、甘いんだよ? はい、どうぞ」
唯「わーい、ありがとう憂〜。ほんとだ、あまーい♪」
◇◇◇
憂は唯が見つけた「特別」を守ろうとしている。
でも、憂のそれはおそらく無駄な努力だ。
吸血鬼は、人間の血無くして生きていくことは、叶わない。
唯の「特別」はいつか壊れる。
その時、私は、人狼として与えられた力を使おう。
そして、2人の存在を消す。この町の人たちの記憶から。
◇◇◇
和「それで、ムギはなんだって?」
憂「うん……紬さんは、私がお姉ちゃんに恋してると思ってるみたい」
唯「ぶふぉっ」
憂「もう! 笑わないでよ、お姉ちゃん」
唯「ごめんごめん。でも、憂が私に恋! それいいかも♪ 私たち、普通の女の子みたいだね」
憂「吸血鬼だって女の子だよ。でも、恋かぁ……素敵だなぁ」
唯「お姉ちゃんに恋してもいいんだよぉ?」
和「そうね。吸血鬼が恋したっていいと思うわ」
憂「そうだけど。でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから」
唯「憂は憂だねえ……もう、何百年も前から」
憂「私は、お姉ちゃんがお姉ちゃんだから、大好きだよ」
唯「うーい〜、これからも一緒だよ?」
憂「うん! よろしくね、お姉ちゃん」
和「はぁ……私は要らない子だったのかしら」
唯憂「そ、そんなことないよ! 和ちゃん」
◇◇◇
吸血鬼はいくつかの方法でその命を絶たれない限り、永遠の命を持っている。
唯と憂は、私と出会うまでの数百年を、たった2人で生きてきた。
2人にとってお互いは、もはや自分の一部のような存在なのだろう。
これまで出会った多くの人間のなかには、彼女たちが心を開いた人間もいた。
だけど、それらの人間は一人残らず、彼女たちを置いて短い命を終わらせてしまう。
唯と憂は、永遠に続く命を、姉妹2人だけで刻み続けている。
もちろん、今は私も居るのだけど……
◇◇◇
バタンッ
唯「た、ただいまっ」
和「唯、急いで! 随分うなされてるわ」
憂「う、んんっ」
唯「ありがと、和ちゃん。ほら、大丈夫だよ、憂ー」
唯「んっ、ちゅ……」
ハァハァと苦しげに顔を歪める憂に口づけて、牙袋にため込んだ少女の血を憂に与える。
唯「飲んで……」
憂「……」
唯が口元から垂れた血をペロリと舐めると、程なくして憂の呼吸は安定してきた。
憂「すぅ・・・すぅ」
唯「ふふ、いい寝顔。……和ちゃん、このこと、憂には内緒だよ」
和「言わないわよ。でも、いつかは分かることよ?」
唯「うん、いいんだよ。私は憂にキスしたいだけだもん」
えっへん、と胸を張る唯に、ヤレヤレ、と首をすくめてみせた。
和「でも、もし昼間、憂が暴走するようなことがあったら……」
唯「守るよ、ぜったい。憂のことも、みんなのことも」
和「そうね……」
◇◇◇
その日は、ムギと梓ちゃんが家に来ていた。
4人で、食卓を囲んだらしい。
家の中から漏れる笑い声を聞いて、こんな日がずっと続くことを願った。
ムギと梓ちゃんが帰ってしばらくがたち……憂が家を出ていった。
和「憂?」
憂「……」
まずい。暴走してる? とっさに唯を呼んだ。
和「乗って、唯!」
唯を背負うと、ありったけのオオカミの力で、3人のあとを追った。
◇◇◇
梓「あれ、憂? どうして……」
憂「アズサチャン……」
唯「だめーーーっ!」
間一髪、間に合った。
唯「んっ……ちゅう……」
憂「! おねえちゃ……なんで……んっ」
唯「大丈夫。大丈夫だから」
憂「お姉ちゃん……わたし……」
自分がしようとしたことを理解した憂が、そっと目を伏せた。
◇◇◇
見られてしまった。
ずっと続けばいいと思っていた唯の感じた「特別」は、あっけなく終わった。
誰よりも唯の「特別」を守りたかった憂自身が、それを終わらせてしまった。
今、その憂は、梓ちゃんにお別れを告げている。
◇◇◇
和「終わった?」
そう言って部屋のドアを開くと、梓ちゃんのうなじに牙をたて、血を吸っている憂の姿が目に飛び込んできた。
和「ちょっと、憂っ!!」
憂「あ、和ちゃん」
梓「大丈夫です。これ、記念なので……」
和「記念って」
憂「ちゃんとお別れしたから......行こう、和ちゃん」
梓「待って憂。ほんとに、3日後に行っちゃうの?」
和「3日後の放課後。私の遠吠えですべて終わるわ」
梓「憂……」
憂「ごめんね、梓ちゃん」
梓「憂……言わなきゃいけないことがあるの」
憂「?」
梓「来年言おうと思ってたんだけどね」
梓「私と、バンド組んでくれないかな」
和「梓ちゃん、憂は3日後に」
梓「来年、唯先輩たち、卒業しちゃうでしょ?」
梓「軽音部、私1人になっちゃうから」
憂「梓ちゃん」
梓「でも、私心配してない」
梓「憂と純がいるから。私が困った時は、絶対助けてくれるから」
憂「梓ちゃん」
梓「純もああ見えて私の親友だしね? だから私、心配してないんだ」
憂「梓ちゃん、ごめん……」
梓「困った時には、絶対絶対、助けてくれるって」
憂「梓ちゃん、私ひとつだけ、約束するね」
憂「梓ちゃんが私たちを忘れても、いつも、必ずどこかで見守ってるから」
梓「憂……」
◇◇◇
ジャーン……
律「くぅー気っ持ちいい!」
澪「うん、みんなぴったり合ってたな」
唯「じゃあ、最後にアレやろうよ〜!」
紬「ふわふわ時間?」
唯「そうそう!」
律「よーし、やるか!」
唯「とその前にー、ちょっとおトイレ」
律「なんだよぉ、早く行ってこい!」
紬「……」
梓「わ、私も行きます! 唯先輩1人じゃ危険です」
唯「えぇー、トイレくらい1人で行けるよ。待ってて、あずにゃん」
紬「……梓ちゃん、一緒に待ってよう?」
梓「……わかりました」
律「おーい、唯」
律「なに、りっちゃん?」
律「はやく戻って来いよ。部長命令だ!」
唯「……了解であります、りっちゃん隊長!」
澪「律?」
律「ん? ……あぁ、まぁなんとなく、だよ」
◇◇◇
憂「お姉ちゃん」
和「いいの、唯?」
唯「うん。お願い、和ちゃん」
夕暮れの校舎から放たれた私の遠吠えは、桜が丘の町に響き渡った。
◇◇◇
澪「おい律、演奏始めないのか?」
律「あれ? あ、あぁ……そうだな」
バサッバサッ
紬「……ねえ。あれって、蝙蝠かしら?」
澪「ほんとだ。こんな町中で、珍しいな」
律「2匹寄り添って……なんか、こっちを見てるみたいだ」
梓「……」
紬「梓ちゃん、どうかした?」
澪「梓……泣いてる?」
梓「なんでもないです。……演奏、始めましょう」
律「よーし、あの蝙蝠たちに聴かせてやろう」
律「いくぞー、ワン、ツー、スリー、フォー!」
◇◇◇
−7年後−
唯「見てみて、こんなのどうかな〜?」
唯が、シフォンプリントされたチュニックを指先でつまんで、クルクルと舞う。
憂「お姉ちゃん、すっごくかわいいよ!」
唯「えへへ〜、ありがとう、憂」
和「あきれた。あんたが結婚するわけじゃないのよ?」
唯「だってぇ……ムギちゃんとあずにゃんの結婚式だよ? 一生に一度のお祝いだよ?」
やれやれ、張り切るのはいいけど、ドジしないでね。そう言いながら私も、はやる気持ちを抑えきれない。
あの日から7年間、ずっと近くであの子たちを見守ってきた。
私にとっても、あの子たちは特別な存在なのだ。
あの子たちにとっては、どうなんだろう。同じだといいのに。
記憶を消した張本人の私だけど、そんな虫のいいことを考えた。
◇◇◇
せっかくの結婚式なのに雨なんて悪いわね、ムギ。
だけど、わたしたち3人の思いを、あなたは受け取ってくれるわよね。
憂「わぁっ、出てきたよ、お姉ちゃん!」
唯「おぉっ……ムギちゃんだ。ムギちゃーん!」
憂「梓ちゃん……すっごくきれい!」
和「ほら、2人とも下がって。目立っちゃだめよ」
ムギ、梓ちゃん、おめでとう。これからも仲良くね。
私たちは、ずっとあなたたちを見守ってるわよ。
ブーケを抱えていたムギが、大きく振りかぶって、投げた。
それは、大勢の人だかりを超えて、そのままこっちへ……
唯「キャーーーッチ!」
ぱしっ。
憂和「「えええーーっ?」」
唯「はっ!? つい、受け取ってしまった」
憂「ど、どうしよう。お姉ちゃん!?」
和「逃げるのよ、唯!憂!」
ムギと梓ちゃんが、人並みを掻き分けてこちらへ駆けだしてくるのが見えた。
オオカミの力を使って、私がなんとかするしかない。
2人を追おうとした、そのとき。
「よーし、よしよしよし」
私を抱き抱えて撫でるのは、澪だった。
律「でっかい犬だなー」
澪「うん。だけど、なんだか。とっても懐かしいんだ」
「クウーン」
律「コイツも澪に懐いてるみたいだな。ははっ」
憂は……梓ちゃんに追いかけられている。
梓「待って……ねぇ、なんで逃げるの!? きゃっ」
憂「! 危ない、梓ちゃ……あっ」
纏わり付くドレスの裾に足を取られかけた梓ちゃんの代わりに、憂が泥濘にダイブする。
梓「……えへへ。やっぱり助けてくれた」
憂「梓ちゃん……」
ウェディングドレスを泥だらけにしたムギが、近づいてきた。
同じように泥だらけの姿で照れる唯を連れて。
ああ、あんたたち。せっかくの結婚式が台無しじゃない。
ばつが悪そうに照れて、だけど嬉しそうな唯と憂を見て、観念した。
終わりにしよう。もう、何もかも。
そして、ここからやり直そう。
立ち上がって、ありったけの力で私は吠えた。
「わおーーーーーーーん!!」
それですべて終わって、すべて始まった。
雨が上がり、まるまると太ったお日様の下、元気な声が木霊した。
「ただいま戻りました。りっちゃん隊長!」
おしまい!
最終更新:2013年07月13日 15:21