いずれにせよ、もし過ちを犯すとしたら、愛が原因で間違った方が素敵ね。
――マザー・テレサ
◇
頬に冷たい感触を感じたのでそちらを伺うと、淳司さんが悪戯っぽい笑顔でビールの缶を押し付けていた。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
受け取ったそれは程よく冷えていた。
薄く纏った汗が公園の街灯に反射して、銀色の円柱を眩しく際立たせている。
「今日、やたらアイスとビールが売れたろ?
お客さん見てたら、俺も無性に飲みたくなってさ」
レジ袋から同じ物を取り出して、俺の隣りに腰かける。
カシュ。
2つの音が重なるのを聴きながら、ビールを胃袋に流し込む。
スッキリとした感覚が咽喉を滑り降りると、少しだけ気分が晴れるのを感じた。
「店長が一緒に飲みたそうにチラチラ見てきたけど、適当な理由を付けて逃げてきた。
ほらあの人、酔うと説教“しか”しないから」
外面では苦笑しながらも、気分は僅かに重くなっていた。
去年の忘年会での彼が放った一言が、今の俺を憂欝にさせていたからだ。
ビールを呷り、軽く頭を振って話題を逸らす。
「今日の最高気温、28度もあったらしいですね
そりゃあアイスが恋しくなりますよ」
俺の言葉に、淳司さんが笑う。
「まだ6月だってのにな。
これ真夏になったら、どうなると思う?」
「より多くのお客さんがご来店されて、アイスとビールの需要が増えます。
立ち読み客も増えて、俺たちの負担も増えます」
淳司さんは肩を揺らした。
「田井中、お前 大学卒業したらウチに就職しろよ。
少なくともマネージャーにはなれるよ。
何だったら、明日から代わるか?」
「考えておきます」
と笑いながら、ビールをもう一口。
卒業、就職、社会人。
それらのフレーズは、確実に歳をとっている実感を引き出すと同時に凝集して、一つのイメージを創り上げた。
自分の姉と、彼女に寄り添う黒髪の女性。
また、気分が沈んでいく。
「……で、だ」
ビールを呷る俺に、淳司さんが言った。
「何か悩みごとでもあるのか?」
思わず淳司さんを見る。
俺の緊張を解そうとしているかのように、淳司さんが微笑んだ。
「俺より何時間も早く上がっているはずのバイト君が、深夜の公園のベンチにひっそりと座っていたんだ。
夜空を見上げたままボウっとしててさ。
何かあったのか、て思うじゃん」
「あ……」
つまり、俺を心配して、声を掛けてくれたのだ。
少しだけ申し訳ない気分になってしまう。
「すみません。
でも、そんな大したことじゃ無いんです。
むしろ、喜ばしい事っていうか」
あぁ、そう、と銀色の缶を傾けてから、淳司さんが思い出したように付け加えた。
「そういえば明日、お姉さんの結婚式だっけ? おめでとう」
「……ありがとうございます」
遅ればせながらの乾杯をする。
◇
「ああ、把握した」
淳司さんが意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前、お姉さんのお相手に嫉妬してるだろ?」
「ブフゥ!」
思わず、マンガのようにビールを噴き出してしまった。
「あーあ、もったいない……
でもそうかぁ、うん、図星かぁ」
ハァ!?
何を一人で頷いているんだこの人は!
「ち、違いますそんなのじゃ無いです!」
必死に抗議するも、淳司さんは笑いをかみ殺した風で手をヒラヒラとさせる。
「大丈夫大丈夫、シスコンでも俺は差別しない。
俺も妹が可愛くてしょうがないからな、気持ちは良く分かる。分かるぞ?
でもな、田井中」
淳司さんが両掌を俺に向けて拒絶のジェスチャーをとる。
「言っとくけど俺、シスコンじゃないから」
キリッ。
「じゃねーよ!!」
「うお!? ど、どうした田井中」
「だから違いますって!
俺にとって姉ちゃんは、ただの姉です!
それ以上でもそれ以下でもないありませんよ!」
「田井中!!」
「何ですか!」
淳司さんが口元をまさぐる。
「口、拭けよ。ビール塗れになってるぞ」
「な!? あ……」
激昂していて気付かなかったらしい。
さっき噴き出したビールが、口元で滴を作っていた。
「冗談だよ、スマンスマン」
腕で口元を擦いながら睨みつける。
申し訳ないと感じた少し前の自分を、殴りたい気分だった。
「でもさ。
少しはスッキリしただろ?
大きな声を出してさ」
言われてみれば、確かに沈んだ気持ちは失せたように思う。
あんなので晴れるわけは当然無いのだが、幾分かマシにはなった気がする。
「余計なストレスは溜まりましたけどね」
淳司さんが気まずそうに顔を逸らす。
「……でも、ありがとうございます」
◇
携帯電話の液晶パネルが、夜の11時を知らせていた。
暑かった昼間が嘘のように涼しくなっている。
「考えていたのは、確かに姉の事です」
すっかり軽くなってしまった銀色の缶を弄びながら、俺は言った。
「何か問題が? 親に結婚を反対されている、とか」
俺は首を振った。
「最初は驚いて、何度か話し合いもしたそうですけど。
最終的には、本人たちの意思を尊重する形で話がまとまりました。
2人とも、社会人として自立していましたから」
「2人とも働いているってことか
相手は何している人?」
「……ウチのコンビニ近くの“10GIA”で、接客や、楽器のメンテナンスをしています。
姉と一緒に、軽音部時代の知識と経験を活かしたい、と」
一緒に軽音部、と呟いて、淳司さんの顔つきが変わる。
その理由は簡単に推し量ることが出来た。
俺の姉と、“彼女”と、淳司さんの妹さん(たしか、純さんと言ったか)の出身校は、同じだからだ。
「姉ちゃんの結婚相手は、女性なんです」
◇
淳司さんは身を乗り出して俺の方を覗き込んだ。
「……まあ続けろよ。
お前は、それが不満なのか?
自分の姉がレズビアンで、あまつさえ、同性同士で結婚しようとしていることが?」
「まさか!
不満なんて、あるわけない!!」
火が付いたような勢いで淳司さんに食い掛かる。
淳司さんは、何故か苛立っているような目つきで俺を睨んでいた。
「俺が小学生の頃からの、幼馴染なんです
何があっても一緒にいる2人を、俺は後ろからずっと追いかけてきたんだ!
結婚しようってなって、嬉しくないはずがない
俺だって、本当は心の底から祝いたいんだ!!」
気圧されたように、淳司さんの表情から怒りが消えた。
「そうか。いや、悪かった。
こっちも少し喧嘩腰になっちまったな。
スマン」
淳司さんは軽く頭を下げて柔らかい表情を作った。
「じゃあ、何が問題なんだ?
祝いたいなら、心行くまで祝えば良いじゃないか。
俺だったらそうするが」
「……」
淳司さんから顔を逸らし、夜空を見上げた。
黒い雲がゆっくりと、少し欠けた月を隠していく。
「……淳司さん。
もし、“2人”が、世間から謂れのない偏見や嘲笑に晒されたら、どうやって守ればいいんですか?」
◇
ベンチの軋む音がした。
「日本での同性婚は法律では認められていません。
養子縁組でしか、“家族”になることは出来ないんです。
どのみち、籍は入れられない」
「まあ、そうだな」
声が近くに聞こえた。
どうやら淳司さんも、同じようにして夜空を見上げているようだった。
縁を黄金色に燃やしながら、雲は夜空を泳いでいく。
「去年の忘年会で、淳司さんが店長に絡まれていましたよね
“お前もいい歳なんだから――”」
「“――いい嫁さん見つけて落ち着け”、だっけか。
ああ、言われたなそういえば」
「最近、テレビなんかでも同性婚が取り上げられるようになって、敷居みたいなのは下がりつつあるのかも知れません。
でも、世間の認識は、結局“それ”なんです。
いつかきっと、姉ちゃんと澪姉も、それに苦しめられる時が、来ると思います。
そんな時、俺たち家族は、どうやって支えてやればいいんですか?」
言い切って、押し黙る。
雲が流れ去り、月だけがさみしげに残った。
考えに考えて、答えなど浮かばなかった事だ。
返答など、期待していなかった。
ひとつ、淳司さんは大きな深呼吸をした。
「どうにもならねぇな」
「え……?」
敦司さんの方を向くと、優しい瞳がそこにあった。
「どうにもならねえよ。
来るものは仕方ないし、予測だって出来ないんだ。
分からない未来を憂いたってどうしようもねぇよ」
「……それは、そうです。でも――」
「言ってなかったけど、俺さ。
よっと」
淳司さんがベンチから頭を上げて、携帯電話を操作する。
「お、あったあった」
自慢げに、ディスプレイを俺に向けてくる。
「妹の婚約者、女の子なんだ」
そこには、純さんと、もう1人の女性が写っていた。
黒髪をツインテールで留めた彼女は、ずいぶんと昔に見覚えがある。
確か姉ちゃんは、アズサ、と呼んでいたはずだ。
「ウチの店の前でじゃれているのを偶然見かけて、思わず写メ撮ったんだ。
お前、これ見てどう思う?」
一昔前に流行った芸人のモノマネだろうか。
おどけたポーズをする純さんを見て、腹を抱えて笑うアズサさん。
2人の左手薬指には、銀色の指輪が光っている。
――それは、なんだか、とても。
「幸せそうです。
……とても」
「だろ?」
淳司さんは写真を自分に向けて、誇らしそうに頬を緩ませた。
「この1か月後だったかな。
2人は、俺の両親の前で婚約発表をした。
猛反対する両親にカッとなって、俺はこれを突き付けてやった」
再現するように、写真を勢いよく俺に突きつけくる。
「“こんなに幸せそうな2人を引き離す権利なんて、誰にあるんだよ!
俺たちは家族だろうが!
世間体とかメンドクセェこと四の五の言わず、認めてやれよ!”
……みたいな事を、さ」
淳司さんはニッコリ笑って、また写真を見つめる。
「もちろん、それで丸く収まるわけは無かったけどな。
その後、ひと悶着もふた悶着もあって、結局両親が折れたのさ。
梓ちゃんのご両親はそういうのに寛容らしかったから、5対2だった。
だから、俺の活躍でどうこう、て訳じゃ無い。
でも」
淳司さんは携帯電話を閉じた。
「俺が啖呵を切って親に抗議したことが、純は、堪らなく嬉しかったんだそうだ」
は、と胸を衝かれた気がした。
頭に掛かった靄が晴れていきそうな気配がして、俺は淳司さんの言葉に聞き入っていた。
「最後まで反対していたオフクロがやっと折れた日の事だ。
その晩、電話口で純は、俺に“ありがとう”、って言ったんだ。
“あの日、あっちゃんが怒鳴ってくれたから、私たちは此処まで頑張ってこれた。
あっちゃんは認めてくれる、応援してくれるんだって分かって、堪らなく嬉しかった。
あっちゃん。本当に、ありがとう”」
敦司さんは俺から身体を逸らして前を向いた。
その横顔は、とても眩しかった。
「良いんだよ、そのままで
無意味な予測なんかしなくても、行き当たりばったりで、さ。
お前の思ったままに行動すれば、それが全てなんだ。
お前の想いは、お姉さんに向いているんだから」
優しい眼差しを向けて、淳司さんは立ち上がる。
「俺はもう行くよ。
ちょっと調子に乗って喋り過ぎちまった」
「淳司さん」
「さっき喧嘩腰になっちまったのは、そういう事なんだ。
妹を侮辱されたような気がしてさ……悪かったな」
「いえ」
胸が躍るような想いに駆られ、俺も立ち上がる。
「こちらこそ、ありがとうございました。
……“先輩”」
虚を衝かれたように動きを止めた淳司さんは、やがて理解したように微笑んだ。
「良い表情だな。
少しはアドバイスになったようで嬉しいよ」
俺に背を向けて歩きだす。
「今、お前のやるべき事、しっかり果たせよ、“後輩”」
「――言われなくても」
すぐに携帯電話を取り出し、着信履歴の一番上を選択する。
……その番号は、数コールもしないうちに繋がった。
「あのさ、姉ちゃん」
深く、息を吸う。
今、やるべき事。
今だからこそ、したい事。
「結婚、おめでとう。
それから――」
おしまい
最終更新:2013年07月13日 15:40