唯「はぁ〜……」
和「しっかりして、唯」
律「いいかげん、あきらめろって」
澪「まだ落ち込んでるのか……」
紬「今日は授業もないから!」
穏やかな晴れの日。夏も過ぎて、日中でも過ごしやすい季節になってきた。私たち桜が丘の生徒は体操服に着替えてグラウンドに集まっている。それはなぜか。
私の嫌いなマラソン大会があるからだ。
一年生からスタートして、二年生はついさっき出発した。だけど、走ることには変わらないから順番はどうでもいい。雨でも降ればいいけど、今日は傘を持ってきていないのでそれはそれで困る。結局は諦めるしかなかった。
笛の音が鳴り、私たちはぞろぞろとスタートラインに向かう。やる気のある子はどんどんと前の方に並ぶ。
唯「イヤだなぁ……」
私は小声で呟いてみた。周りがざわざわしていたせいか、近くにいた四人には聞こえなかったようだ。
「位置について」
スタートピストルの銃口を空に向ける。この瞬間だけは、やる気がなくても少しドキドキする。
「用意……」
耳をつんざく音と一緒に雷管から白煙が噴き出す。この合図と同時にマラソン大会が始まった。青いジャージ一同は様々な思いを胸に走り出す。
和「それじゃあ、私は先に行くね」
そう言い残すと、和ちゃんは前へ前へと進んで行く。和ちゃん、信じてたのに……。
澪「はっ……!?」
突然、澪ちゃんが真剣な表情で声を上げた。右手を口元に寄せて不安そうな顔をしている。
律「急にどうした?」
澪「私も先に行くよ!」
律「え?」
澪「じゃあな! みんなもがんばれよ!」
澪ちゃんもペースを上げて駆けて行ってしまった。私たちはその背中を見つめるだけだった。
紬「行っちゃった……」
律「急に何なんだ……」
私もいつまでもわがままを言ってばかりはいられない。和ちゃんと澪ちゃんの背中を見てから、ふと思った。
唯「りっちゃんとムギちゃんも自分のペースで行っていいよ」
そう言うと、二人はほとんど同時に私の顔を見た。その顔には少し不安そうな色が浮かんでいる。
律「えっ」
紬「唯ちゃんは大丈夫なの?」
唯「うん、自分の力で走りたいんだ」
自立。自分で立つ。私もそろそろみんなに甘えてばかりじゃダメだ。自分の力でやり遂げないと。
思いが通じたのか、二人は少しだけ顔を見合わせてからほほえんだ。
律「うん、わかった」
紬「私もがんばるから、唯ちゃんもがんばってね!」
二人も前に行ってしまい、私は一人だけになった。まだ周りにも同じように走っている子もいる。心細くはないし、道にも迷わないだろう。
このマラソン大会は自分なりにできることをやってみよう。
♯
学校を出て、繁華街に出た。
さわちゃんの言ってた通り、おいしそうな食べ物やかわいい服のお店がたくさん並んでいて、ついつい立ち止まりたくなる。しかし、いくら私でも決めたばかりの決意は翻さない。見ているとお腹が空いてくるので、前を向いて走る。
それにしても、ただ走るのは辛い。こればかりは強い決意を持ってしても仕方のないことだ。何か考えて気を紛らわせよう。そうすれば、いつの間にかゴール間近になってるかもしれない。問題は何を考えるか。
私は振っていた腕を組んでみた。腕を組みながら走るのは変な様子かもしれない。けれど、私は既に考えに耽っていたので気にならなかった。
あ、そうだ。
これからの軽音部ついて考えよう。ただ走るのには長いから。
軽音部の部員数は五人。その内、四人は三年生であずにゃんだけが二年生だ。たった一人のかわいいかわいい後輩。あずにゃんが放課後ティータイム(名前決まってからまだ一年も経ってないけど)に入ってから私たちのバンドはもっと良くなった。
去年の学園祭のライブはとても盛り上がった。だけど、私が風邪を引いて、あまり満足のいく練習はできなかったから完璧だったとは言えないのかもしれない。
そして、今年は泣いても笑っても私たち三年生にとって最後のライブ。それが終われば、私たちは引退してしまう。思えば早い学校生活だなぁ。みんなといるせいなのかもしれない。部活とお菓子があるから、みんなと会えるから毎日学校に行くのが楽しい。
あずにゃんはどうなのかなぁ。私たちが引退すればあずにゃんは一人になってしまう。あずにゃんはこのままでもいいって言ったけど、やっぱり今からでも何かした方がいいのかな。
気がつけば繁華街中程の交差点。マイペースで左に曲がる。その時、一人に抜かされた。私は何も思わなかったけど、どうしてここでペースを上げたのかはわからない。さわちゃんの言ってたのが合ってるなら、まだ道のりは長いはず。マイペースマイペース。
少しすると、豊かな田園地帯が右手に広がる。さわちゃん曰く、心臓破りの坂まではずっとまっすぐだったはず。ここもマイペースで走ろう。
唯「はっ……はっ……」
まだ呼吸は荒くない。順位も真ん中の少し後ろぐらいだと思う。両手をグーにして走り続ける。
しかし、前方を見てもまだ坂はみえない。それに、長い一直線なので、どこかやる気がなくなってしまう。ここはまた何か考えよう。私はもう一度腕を組んでみた。そうすれば、何かが思い浮かぶような気がする。
あ、思いついたかも。
いくら私たちでも、クラブ勧誘をサボったわけじゃない。他の部よりも少し積極的じゃなかったかもしれないけど、ビラ配りや新歓ライブだってした。新歓ライブはなかなかの演奏だったし、新入生にもウケは良かったと思う。
それでも、新入生はほとんど来なかったけど。
しかし、チャンスがなかったわけでもない。一度、憂と純ちゃんが部室まで見学に来てくれた。でも、二人は入部してくれなかった。憂は帰宅部、純ちゃんはジャズ研。
憂は家のことで忙しいからわかる。お父さんとお母さんは仕事で家を空けることが多いから、私の代わりに全ての家事を一人でやってくれる。私が学校から帰る頃には晩ご飯だって作ってくれている。それに中学の頃からそうだったから、何となくわかる。
純ちゃんは……。どうしてだろう?
唯「うーん……」
思わず声を出して唸る。もどかしい。どうして、純ちゃんは入部してくれなかったのかな。
純ちゃんが入部していたら、また違った軽音部になっていたかもしれない。憂はよく純ちゃんとあずにゃんと三人で遊んでいる。純ちゃんのことは明るくて、元気な子だとよく憂から聞く。純ちゃんがいれば、あずにゃんも今よりは私たちに気を使わなくてもよかったのかもしれない。やっぱりあずにゃんには申し訳ない気持ちになる。
その気持ちのまま、あの日のことを思い出す。
私たちは憂と純ちゃんにお茶とお菓子を食べてもらってから、演奏をした。ジャージ姿だったけど、とにかく演奏はした。演奏している時に何度か二人の顔を見たはずだけど、リアクションは良かった気がする。その後に入部届けを渡したけど、結局そのまま入部してこなかった。
どうしてだろう。ジャージだったから?
せめて、演奏経験のある純ちゃん一人でも入部していてくれれば、来年はあずにゃんが一人じゃなくなるのに。
唯「はぁっ……はぁっ……」
いつの間にか、心臓破りの坂の入り口まで来ていた。息も荒くなってきている。さわちゃん曰く、長くて険しい坂らしい。ここは無茶をせずに歩こう。
私は大きく息を吸いながら歩いた。喉も乾いてきた。ここを過ぎればチェックポイントがあると聞いた。さわちゃんの車で見たスポーツドリンクもそこで配っているらしい。もう少しだけ我慢しよう。
前を見ると、両膝に手を付けて、前かがみに立ち止まっている子がいた。二年生の赤いズボン。見覚えのある髪型。もしかして、これは……。
唯「純ちゃん?」
純「はぁっ……えっ? あっ、唯先輩」
やっぱり、純ちゃんだった。この坂道もしっかりと走ったせいなのか、肩で息をして、おでこに汗を浮かべている。純ちゃんも走るのは苦手なのかもしれない。
純「この坂……はぁっ……キツイですね……はぁっ……」
唯「純ちゃんも一緒に歩かない?」
純「え、歩くんですか……?」
唯「うん、この坂はしんどそうだし」
歩いてはいけない、なんてルールはなかったはず。
たまには息抜きも必要だよ。でも、前を向いて行こう。立ち止まらずに。たまに振り返ったりするのもいいけど、それは前に進みながらにしよう。
純「うーん……。ま、ビリでもいいや」
あ、澪ちゃんが先に走って行った理由がわかったかもしれない。このさっぱりした感じも純ちゃんらしい気がする。
私たちは並んで歩き始めた。何人かに抜かれたけど、この坂道なので表情は険しい。私も純ちゃんも呼吸が整ってきた。やはり私には歩くという選択肢は正しかった。
純「澪先輩たちは先に走ってましたよ」
唯「そっか。私は自分で走ろうと思ったから先に行ってもらったんだ」
純「私も途中で憂と梓には先に行ってもらいました。足が重くて重くて……」
そう言いながら、純ちゃんは憎らしげに自分の足を見つめた。まるで、役に立たないどころか、自身の足を引っ張る厄介な物でも見るように。
やっぱり純ちゃんはかわいい。部活は違うけど、やっぱり、私たちのことを慕ってくれるかわいい後輩に違いない。
唯「ねぇ、純ちゃん」
純「はい?」
唯「ジャズ研、楽しい?」
純ちゃんは一瞬驚いたような顔をしてから笑った。
純「はい、楽しいですよ。とても」
唯「そっか。後輩もいるんだよね?」
純「いますよ。高校になってから音楽始めたって子もいますけど、教えたかいもあってか、うまくなってきてます」
今の純ちゃんの表情は生き生きとしている。本当にうれしくて楽しそうな顔。私も憂に軽音部のことを話すと、よく「嬉しそうだね」と言われる。私もこんな顔をしているのかな。
純「でも、急にどうしたんですか? そんなこと訊いて」
唯「あぁ、純ちゃんのことが気になって……」
純ちゃんのこの返事は予想していなかった。しかし、すらすらと私の口から言葉が出てくる。
唯「それと」
ほんの少し、間を空けて。
唯「どうして、純ちゃんが軽音部に入部しなかったのか気になってさ」
純ちゃんは立ち止まってから私の顔を見た。真剣な表情だった。気軽に訊いてみたつもりだったんだけどな。けど、私は目を逸らさなかった。
一瞬の間視線を交わした後に純ちゃんは笑った。
純「そういえば、そんなこともありましたね」
純が再び歩き始めたので私もそれに続く。横から純ちゃんの顔を見てみたけど、嫌そうな顔はしていなかった。
純「懐かしいですね。たしかに、私も軽音部に入る可能性はありましたね」
唯「どうして、ジャズ研に入部したの?」
純「そうですねぇ〜……」
純ちゃんは悩むように目を強く瞑って腕を組んだ。
純「でも、高校がここに決まってから、軽音部にはずっと興味あったんですよ? 憂からも聞いていたってのもあって」
唯「そうなんだ」
純「だから、憂と二人で見学に行きました。行ったんですけど、あれ? って思っちゃって……」
唯「何かあったっけ?」
純「いや、何ってわけじゃないんですけど。何て言うか、高校の部活ってこんな感じなの? って思ったんです。あの後、ジャズ研にも見学に行くと、そっちの方が私のイメージしてた部活に近くて」
唯「うーん……イメージかぁ……。私たちってどんなイメージなのかな?」
私が尋ねると、純ちゃんは人差し指を立ててすぐに答えてくれた。
純「軽音部はほら、あれですよ。普段は遊んでるけど、ライブの時とかはきっちり決めてくれるイメージです!」
胸がどきりとした。
純「梓の話を聞いてると、軽音部が羨ましいです。お菓子とか合宿も羨ましいです。けど、それよりももっと羨ましいのはみんな本当に仲が良いことですね」
唯「あずにゃんが……?」
胸のドキドキは収まらない。しかし、訊かずにはいられない。
純「はい。梓っていっつも軽音部のことばっかり話すんですよ」
唯「…………」
私たちはたった一人の後輩、あずにゃんのことがとてもかわいかった。大好きで、かわいくて、愛おしくて仕方がなかった。
でも、同級生や後輩がいなくて寂しいんじゃないかとも思っていた。私たちがいなくなれば、一人だけになってしまうので恨まれてもしょうがない、と思ったこともある。
だけど、あずにゃんは軽音部のことが好きなんだ。私たちがそうしているように、あずにゃんも大好きでいてくれたんだ。
胸のどこかにあった隙間が埋まったような気がした。呆然する私を純ちゃんが不思議そうに見つめる。
純「唯先輩?」
唯「そうだったんだ……」
そう呟くと、頬がゆるんだ。自分で表情が制御できない。
純「ど、どうしたんですか!?」
純ちゃんが驚いた表情で私をなだめようとする。しかし、どうしても笑みが止まらない。私は両手で顔を抑えながらにこにこした。
唯「えへへ〜わかんないや〜」
純「そんなにおかしいですか?」
そう言うと、純ちゃんも私につられて笑い始めた。笑い声が狭い歩道を駆け巡る。私たちを抜かした子は荒い息をしながらも、変人でも見てしまったかのような複雑な顔をしていた。
ようやく笑いが収まってから、今いるこの場所が坂のほぼ頂上だと気づいた。涙まで浮かべている純ちゃんに尋ねる。
唯「どうする? ここから走る?」
純ちゃんは指で涙を拭いてから答えた。
純「笑いすぎて苦しいですよ。チェックポイントまで歩きましょうよ」
言われてみればそうだ。笑いすぎてお腹の辺りが痛い。これじゃあ、走ったのとあまり変わりないや。
唯「それもそうだね。歩こっか」
再び歩き始める。純ちゃんはかわいいだけじゃない、おもしろい!
純ちゃんの顔を見ていると、もっと話したくなってきた。純ちゃんのことがもっと知りたい!
唯「ねぇ、純ちゃん」
純「なんですか?」
唯「今からでも軽音部に入らない?」
純「そうですねぇ……。その質問、今すぐには答えられませんね」
唯「うん」
純「でも、私、梓と約束してるんです!」
唯「約束? どんな?」
純「……それは秘密です」
純ちゃんはいたずらな笑顔を浮かべた。
唯「え〜? 教えてよー!」
純「いつか、唯先輩にもわかりますよ〜!」
唯「今すぐ知りたいよー!」
純「えへへ〜」
私たちは再び笑い始めた。
今なら、どこまででも走って行けそうだ。少し遅れたランナーズハイなのかもしれない。今の私たちは笑顔が尽きない、ずっと笑っていられそうだ。
さぁ、チェックポイントまでは後少し。今の私たちを見たら、さわちゃんはどんな顔をするのかな。それも気になる。
このまま二人で完走しよう。純ちゃんならきっと大丈夫。
今の私はぽかぽかと良い気持ちだ。
この温かい思いはずっと先にまで続くよ。
〜完〜
番外編
卒業式翌日。
私は部室で先輩たちと撮った写真を見つめていた。泣いたりもしちゃったけど、最後には笑って見送ることができた。本当に良い先輩たちだった。
さて、先輩たちもいなくなって、軽音部は私一人だ。正確には四人からじゃないと、部として認められない。まずは新歓に向けて対策を考えないと。
それにしても、私の胸にはいつも先輩たちの顔が思い浮かぶ。もし、後輩ができたなら、私もそんな先輩を目指さなくちゃ!
「一人で何やってんの?」
突然の呼びかけに、私は驚いて小さく飛び跳ねた。振り向くと、部室前に純と憂が立っていた。二人ともなぜか笑っている。
梓「純、憂!! 何しに来たの!?」
照れ隠しにそう訊くと、純がおおげさに肩をすくめた。
純「いやー寂しがってる梓を慰めてあげようと思ってさ」
憂「お菓子も持ってきたよ!」
梓「むぅ……」
いつもの二人だ。けど、二人はまだ笑顔のままだ。何か嬉しいことでもあったのかな?
私が首を傾げると、純と憂は顔を見合わせてから、私に満面の笑顔を向けた。
純「実はね、軽音部に入りたいって人がいるの!」
憂「しかも二人だよ!」
私は思わず固まってしまった。二人の言っていることはちゃんと聞こえた。しかし、理解が追いつかない。とりあえず、
梓「本当!? どこいるの!?」
私は二人の元に駆け寄ると、扉に手をかけて廊下を見た。しかし、誰もいない。肩に手が置かれたので振り向くと、純が苦笑いを浮かべている。
純「……それ、わざとなの?」
ということは、
梓「二人とも軽音部に入ってくれるの!?」
どことなく、声が上擦ってしまった。でも、そんなことを気にせずに私は二人の顔を見つめた。すると、純は大きく胸を張って自信ありげに言った。
純「私は約束を守る女! 本当はできる子なんだから!」
憂「お姉ちゃん、一人暮らしするから私も暇になるし」
純「……それに困ってる親友を見捨ててはおけないしね」
最後の一言は少し照れ臭そうに小声で言った。
でも、それだけで私の胸は高揚した。興奮のあまり体が震える。次に私がとるべき行動は一つ。これも桜高軽音部の伝統なんだ。
私は二人を思いきり抱きしめてから大声で叫んだ。
梓「確保ーっ!!」
憂純「ギャーッ!!」
私はもう一人じゃない。憂と純が一緒にいてくれるから。二人がいるからもう心細くはない。
よし、いろいろと話さないといけないことも多いなぁ。新歓に向けての曲やライブ以外のクラブ勧誘の時に何をするか。今のうちに打ち合わせしないと。
それから、先輩たちよりももっとすごい演奏にするんだ!
とりあえず、憂の持ってきてくれたお菓子と一緒にお茶でも飲みながらゆっくりと話そう。
私たちの軽音部はここから始まる。
〜完〜
元ネタは「ふたりの距離の概算」
読んでくれたのならありがとう。
最終更新:2013年07月28日 14:48