次の日、私たちは朝早く目覚めた。
歯を磨きシャワーを浴びた後、観光ガイドに載っていたおいしいパン屋さんへ行った。

パン屋さんにはイートインがあり、私たちは一番人気の米粉パンと、コーヒーを買って席に座った。

ほんのり甘い、いいにおいのするあたたかなパンが食欲を唆る。
私と憂ちゃんは同時にパンにかぶりついた。

「あ、これ」

「うん」

「とってもおいしいです」

「ほんとうにおいしいわ!」

「どうやって作ってるんだろう」

「憂ちゃんはパンも焼くの?」

「はい。お姉ちゃんが好きだから
 ……ぁ」

言ってから、しまったという顔をする憂ちゃん。
私もなんだか居た堪れない気持ちになる。
唯ちゃんのことを思い出したことより、こんな風に気を使わせてしまっているのが、嫌だった。
でも、顔に出してはいけない。
私はまた心を閉じ込めて、軽く微笑んでから、会話をつなげることにした。

「そうね。唯ちゃんの好きそうな味よね。
 自然な甘さで……。
 今度美味しいレシピを探してあげるわ」

「いいんですか?」

「ええ。
 ……ためだもの」

会話が途切れ、私はコーヒーに口をつける。
憂ちゃんも私に続く。
けど、憂ちゃんはすっぱそうな顔をした。

「コーヒーは苦手?」

「はい……。
 あまり家では飲まないんです」

「そう……ちょっと待ってて」

私は店員さんに頼んでミルクと砂糖をもらってきた。

「はい、憂ちゃん」

「……ありがとうございます
 ことぶきさんって気配り上手ですね」

「うふふ。
 軽音部ではお茶係をやってるのよ」

「知ってます」

「憂ちゃんはうちの高校に来るのかしら?」

「たぶんですけど……」

「なら、高校生になったら軽音部に遊びに来て。
 とっておきの紅茶をごちそうするから」


私は気を張って、出来るかぎり大人っぽく振舞った。
そうしないといけない気がしたから。

朝ごはんを食べた後、ハイキングコースを歩いた。
憂ちゃんが野鳥図鑑と双眼鏡を持ってきてくれていたので、野鳥を探しながら森をめぐった。
まだ早い時間だったこともあり、朝の森は爽やかに澄んでいて、木々の囀りが耳に心地よかった。

鳥の声を聴いては、双眼鏡を覗きこみ、図鑑で確認した。
「これかな?」「うーん、こっちじゃないかな……」と二人でやり取りするのはなかなか楽しい。

憂ちゃんには音楽の素養もあるみたいだ。
鳥の鳴き声を聴いては「あれはファかな」とか「ソシャープですね」なんて言ってた。
憂ちゃんは絶対音感の持ち主らしく、全部当たっていた。
もし彼女が軽音部に入ってくれれば、一緒に作曲できるかもしれない。

太陽がのぼり、汗が滲んできた頃、私たちは近くのレストランに避難して、昼食をとった。
それから、また森へ向かった。
このあたりはレジャー施設も少なく、山と森ぐらいしか見るところがない。
ショッピング施設ならあったけど、それより森を歩きたかった。

二人で森を歩いていて、改めて気付いたことがある。
憂ちゃんは本当に気の利く子だ。
二人の歩幅は違うのだが、歩調を合わせることでぴったり私の横についてくる。
私が少し疲れてくると、歩調を落とすし、もっと疲れてくると「少し休みませんか」と言ってくれる。

森とはいえ、夏の熱気はかなりのもので、シャツは汗でしめっていた。
それでも、私たちは歩き続けた。
特に目的はなかったけど、歩いているだけでなんとなく楽しかった。
横目に憂ちゃんを見ると、彼女の表情も明るかった。
憂ちゃんも私と同じように感じてくれているなら嬉しいな、と思った。

どれくらい歩いただろうか。
前方から水の音が聞こえてきた。
歩みを進めるとどんどん音は大きくなった。

やがて開けたところに出た。
目の前には滝があって、滝壺の周りに水辺が広がっている。

「いいところにつきましたね」

「ええ、涼しくて気持ちいいわ」

「ちょっと休みませんか」

「そうね」

私はペットボトルのお茶を取り出して飲もうと思ったけど、既に空だった。
憂ちゃんもお茶を飲んでいたけど、私に気づいて、

「どうぞ」

「いいの?」

「はい」

私は憂ちゃんからペットボトルをうけとり、口をつけた。
間接キスだったけど、心地良い疲労感のおかげで、面倒なことは考えずに済んだ。
ペットボトルを返した後、私は水辺に近づいた。
魚でもいないか、水の中を見てみたかったのだ。

水辺のすぐ傍にある大きな石に乗った時、事故は起きた。
いきなり石がぐらついて、私はバランスを崩して――落ち




覚悟した瞬間、逆側から服を思い切りひっぱられた。
憂ちゃんだ。

彼女が引っぱってくれたおかげで、私は水に落ちずに済んだ。
そのかわり、私は憂ちゃんを押しつぶす形で倒れてしまった。

「ありがとう憂ちゃん。
 ごめんね、すぐにどくから」

「あ、はい」

私は立ち上がり憂ちゃんに手を差し出した。
手をとる憂ちゃん。
でも、立った瞬間、顔が苦痛で歪んだ。

「……ん」

「足をいためてしまったのね。
 私のせいで……ごめんなさい」

「いいんです」

「人を呼びましょうか?」

「少し休めば大丈夫だと思いますから」

不可抗力とはいえ、自分のせいで憂ちゃんを傷つけてしまった。
私は憂ちゃんに背を向けてしゃがみこんだ。

「乗って」

「えっ……?」

「おぶっていくから」

「そんな、悪いです。
 私、軽くないですし」

「私が毎日持ち歩いてるキーボードの重さ、知ってる?」

最初は渋っていた憂ちゃんだけど、最終的には諦めて乗ってくれた。
憂ちゃんは思ったとおり、それほど重くはなかった。
森とはいえ、整備された道なら、彼女を背負っていてもなんなく歩いて行くことができた。
歩き始めてしばらくしてから、憂ちゃんが口を開いた。

「……ことぶきさん」

「なぁに?」

「本当に重くないですか?」

「ええ」

「そっかぁ」

「……」

「……」

「ね、ことぶきさん」

「なぁに?」

「つむぎさんって呼んでもいいですか」

「ええ」

「……」

「……」

無言が続いたけど、居心地の悪さはなかった。

憂ちゃんのやわらかない体温を背中で感じる。
熱くなった背中から汗が流れるのがわかった。

憂ちゃんは私の背中にぴったり顔をくっつけている。
汗くさくないか、それだけが気がかりだった。
でも、憂ちゃんは何も言わないでくれた。


憂ちゃんを背負ったまま、結構な時間歩いたと思う。
私たちは無事別荘に戻ってきた。

ソファに憂ちゃんを座らせ、本当に治療が必要ないのか聴いてみたけど、「いいです」と言われてしまった。
腫れも酷くないようだったので、私もそれ以上は言わないことにした。

それからシャワーを浴びた。
汗をかいた後のシャワーは心地よい。
汚いものが全部落ちていくみたいで。

私があがった後、憂ちゃんもシャワーを浴びた。
どうやら足も大丈夫そうだ。

シャワーから上がったあと、私は買い物へ言った。
買ってきたのは憂ちゃんから頼まれたもの。

夕ごはんは憂ちゃんがオムライスを作ってくれた。
ふわふわのたまごとケチャップがほどよく絡んでとても美味しかった。
テレビを見ながら少しお話していると、いい時間になったので、私たちは眠ることにした。


電気を消して、ベッドに入ったけど、なかなか眠れなかった。
私はベッドから出て、一番小さな電気をつけた。
冷蔵庫から氷を取り出して、コップに入れ、ジュースを注いだ。

ソファに座り、暗い部屋で飲むジュースはいつもより美味しい気がした。
リラックスしながら、今日のことを思い出してみる。

早起きして、美味しいパンを憂ちゃんと一緒に食べて、それからたくさん歩いた。
私が水に落ちそうなところを憂ちゃんが助けてくれて、その時、憂ちゃんが怪我をしてしまった。
私は怪我をした憂ちゃんを背負ってここまで戻ってきた。
それから憂ちゃんは美味しい夜ご飯を作ってくれた。


思う。
今日は唯ちゃんのことをほとんど考えなかったなって。
朝ごはんの時少し思い出しただけで、今の今まで忘れていた。

もちろん唯ちゃんのことを鮮明に思い出すことはできる。
その顔は、憂ちゃんの顔と同じだ。
そのせいなのか、他に理由があるのか、ケータイを取り出して待ち受け画面を見つめても、暗い気持ちにはならなかった。

突然、後ろから声をかけられた。

「……つむぎさん?」

「憂ちゃん……。
 もしかして、起こしちゃったかな?」

「なんだけ目がさめちゃって……。
 それ、お酒ですか?」

「ぶどうシュース。
 憂ちゃんも飲む?」

「いただきます」

憂ちゃんが私の横に座る。
コップを渡すと憂ちゃんは両手で持って飲み始めた。
私がもう一つグラスを用意するために立ち上がろうとすると、憂ちゃんに裾を引っ張られた。

「……もう少し、ここにいてください」

「……うん」

「……」

「……」

「つむぎさん、今回の旅行どうでしたか?
 その……遠慮無くどうだったか教えて欲しいです」

「楽しかったよ」

「本当ですか?」

「ええ」

「良かったぁ……」

「憂ちゃんは、私が唯ちゃんのことを好きだったって知ってたんだよね?」

「……。
 なんとなく、ですが」

「ごめんね。気を遣わせちゃって。
 私を慰めてくれるために誘ってくれたんだよね?」

「それは違います?」

「そうなの?」

「確かに知っていましたけど、違うんです。
 私はありがとうって言いたくて、
 その気持を伝えたくて誘ったんです」

「ありがとう?」

「はい。
 つむぎさんはお姉ちゃんにいつもメールを送ってくれましたよね。
 『明日は小テストだけど大丈夫?』とか、
 『体操服忘れないように気をつけて』とか、
 『午後から雨がふるから、傘を忘れずに』とか」

「うん。送った」

「そのメールをいつもお姉ちゃんは嬉しそうに私に見せてくれたんです。
 『ムギちゃんがこんなメールをくれたんだよ』って。
 だから、そんなつむぎさんに、ありがとうって言いたくて……。
 だから誘ったんです」

「そうだったんだ」

「はい」

「……」

「……」

ただ、ただ、憂ちゃんの気持ちが嬉しかった。
唯ちゃんとの絆はちゃんとあったんだよ、無駄じゃなかったんだよって教えてもらえた気がして。
涙は流れなかったけど、泣きそうになった。

その表情を憂ちゃんに見せるのは嫌だったから、立ち上がろうとした。
すると、また憂ちゃんに裾をひっぱられた。

「憂ちゃん?」

「……」

憂ちゃんは何も言わずにこっちを見ている。
私たちは見つめ合った。

憂ちゃんは髪をほどいていて、本当に唯ちゃんそのものだ。
でも、もう唯ちゃんの似せものとは思えない。
この子は憂ちゃんだ。
気が利いて、優しくて、私に「ありがとう」と言ってくれた憂ちゃんなのだ。

憂ちゃんの瞳はまだ私の瞳を射抜いている。
その唇は水分を含み、やわらかに見える。
思わず、キスを思い浮かべてしまった。

あ、

気づいてしまった。

私は、この子のことが、

好きなんだ。

憂ちゃんと出会って過ごしたのはほんの僅かな時間。
だけど、そんな時間の中で、私は……。

でも、そんなの……。
昨日までは確かに唯ちゃんのことが好きだったのに、そんなの――。
私が逃げるように立ち上がろうとすると、また袖をひかれた。

そして……憂ちゃんにキスされた。

「……どうして?」

「好きだったんです」

「ほとんど会ったことなかったのに?」

「お姉ちゃんに優しくしてくれました。
 だから好きになったんです。
 変でしょうか?」

「わからない。
 けど私、憂ちゃんには何もしてあげてないよ」

「お姉ちゃんに優しくしてくれてるつむぎさんを好きになったんです。
 それに……私にもとっても優しかったです。今日だって。
 つむぎさんは私のこと……」

「私は……」

思うことはたくさんある。
唯ちゃんのこともある。
でも偽らざる気持ちが一つだけある。

私は憂ちゃんのことが好きだ。

そして、この気持を閉じ込めるのは無理そうだ。


憂ちゃんはじっとこっちを見ている。
その瞳には希望と不安が入り交じっているように思えた。
私は憂ちゃんの唇を見つめて、


そっとキスをした。


憂ちゃんの唇を感じながら思う。
今度は手遅れにはならずに済みそうだなって。

初めてのキスはやわらかくて。
ほんのり甘い、ぶどうジュースの味がした。


翌日。
朝ごはんを食べた後、電車に乗って帰ることにした。
今回はトラブルもなく、無事目的地の駅までつけそうだ。

青春十八切符を見ると、判子が四つ押されている。
一日、一人だけなら使うことができる。

これを使って一人でどこかに行ってみるのも面白そうだ。
ううん。新たに切符を買えば、二人でも。
……あとから憂ちゃんに話してみよう。

そんなことを考えていると、電車は私たちの町に着いた。
この電車を降りれば、今回の旅もおしまいだ。

荷物を持って降りようとすると、憂ちゃんに右手をひっぱられた。
ひっぱられるまま出口に向かうと扉が閉じていた。
この電車は押しボタン式のようだ。

憂ちゃんがボタンを押す。
閉まっていたドアが開いた。
二人一緒に電車を降りる。
久しぶりの町は、いつもより眩しく見えた。


おしまいっ!



最終更新:2013年08月07日 03:52