雨が降ってた。
真夜中。
3時半。
お茶を飲むのがへたくそなんだよねと唯先輩笑った。
えへへ。
いつもこの口の右のところからつーってこぼれちゃうんだ。
右だよ、右!
ここんところ!
って指でくちびるのはしっこをつついた。
わたしは左だった。
お茶をこぼすわけじゃない。
いつも唯先輩の左だった。
それには理由があって、2人で1つのイアホンで音楽を聞いていた。
いつもわたしは左だった。
それが壊れたのはちょうど1年前のことだ。
わたしのほうから音が流れなくなった。
無音。
唯先輩は流れてるはずの曲を口ずさんでいた。
言い出せなかったのはなんでだろう。
唯先輩は、笑って、これ好きなんだって言った。
聞こえないですって言えなかった。
そうですねってわたしは言った。
雨が降ってた。


ある日、唯先輩は帰ってこなかった。
当たり前だ。
わたしが唯先輩とルームシェアをしていたのは唯先輩が仕事を見つけられなかったからで、唯先輩はどこかの会社(名前もちゃんと聞いたはずなのに!)で働くことになったからだ。
こうして唯先輩はわたしの生活から姿を消した。
わたしは今、24才で、唯先輩は25才だ。
これからもっといろんなものが姿を消していくだろう。
あるいは、壊れていくと言ってもいいかもしれない。
とりあえずわたしと唯先輩の関係はとりあえず半分くらい壊れただろう。
ぱきん。
わたしたちは毎日劣化している。
わたしは泣いた。
わたしはこんな風に考えていたのだ。
わたしと唯先輩の間には消し難い何かがあって壊れない堅牢な何かがあって、それは別に愛情である必要はなくてでもとにかくそういうやつで、それはずっと続いていくだろうと。
もちろん、そんなことはない。
ぱきん。
勘違い。
こういうことはよくある。
よくある。
よし、正直に言おう。
わたしは唯先輩のことが好きだった。
唯先輩もそうだったと思っていた。
ぱきん
勘違い。
よくあるよくある。
わたしは泣いた。
壊れたのはわたしのほうだったんだろう。
あのイアホンみたいに。
左だけ壊れてしまったのだ。



ほっぺたに色をつけるんだよ。

唯先輩は言った。
はじめて、唯先輩の家にふたりで泊まった時のことだった。
あずにゃんのさ、ほっぺたの色はすごくいいな。
唯先輩のだっていいですよとわたしは返すのだけど、いやいやぜんぜん違うよ、あずにゃん自分の見えないし!と唯先輩が言うので、唯先輩だって自分の見えないじゃないですかと言うと、鏡あるし!とまるでわたしが生まれてから一度も鏡を見たことがないようなことを言った。
あずにゃんは知らないと思うけど、あずにゃんはすごくいいよ!
こう唯先輩はよく言った。
たしかに唯先輩に会うまでわたしは知らなかった。
それで唯先輩はほっぺたに色をつけた。
ピンク色の蛍光ペン。
唯先輩曰く、あずにゃんのほっぺたみたいなピンク。
なのに、唯先輩はわたしのほっぺたにまでピンク色をつけた。
もっとあずにゃんだと笑った。
わたしも笑った。
わたしたちは泥棒みたいだと唯先輩は言った。
泥棒?とわたしは聞き返す。
そう、ドラマで見たんだ。泥棒はね、こうやってほっぺたに印をつけるんだよ。そうすると、見た人はほっぺたの印しか覚えて無いんだって。
わたしたちは泥棒だ!
そういうわけでわたしたちは家を飛び出した。


あの日、唯先輩がわたしの家を出ていった日、わたしはあらゆる唯先輩の写真にピンク色を塗った。
たぶん、忘れるためだろう。


夜の街はきらきらしてた。
さっきまで降っていた雨のせいだった。
雨上がりは嫌いだった。
雨が降ってるときより雨の匂いがするからだ。
雨は嫌いだった。
雨上がりはもっと嫌いだった。
街の中をわたしたちふたりは行くあてもなく走り回った。
途中、おじさんがわたしたちにそんなに走ってどこへ行くのだと聞いた。
唯先輩は、泥棒するんだよ!って言った。
それは結構それは結構。
おじさんはまたどこかへ歩いていった。
疲れ切ったわたしたちはマックに行った。
近くに24時間営業の店はそこにしかないからだ。
注文する間、わたしはひとりでずっとくすくす笑ってたから、店員はきっと不思議に思っただろう。
唯先輩は隣でわたしにしか聞こえない声で喋っていた。
泥棒だ!金はいらない!いるのはハンバーガーだ!ハンバーガー!あ、そうです、ハンバーガーを3つ、夜に2つ食べるのは太っちゃいますかねぇ、えへへ。あと、シェイクを2つバニラとチョコレートで。あずにゃんはチョコレート大好きだもんねー。ハンバーガーをトラックいっぱいに持ってこい!シェイクをプールができるくらい持ってこい!!あ、あずにゃん小銭持ってない?持ってない?あ、じゃあ1000円から……。おい、はやくしろ!くそうどれだけ待たせるのさ!わたしたちは泥棒だ!え?泥棒じゃなくて強盗なの?はやくしろ強盗が待ってるんだ!!
2人でマックの2階でハンバーガーを食べた。
ガラス越しに濡れたアスファルトが見えた。
えへへ、失敗しちゃったねー。
唯先輩は言った。
当たり前ですよとわたしは言った。
でも、ハンバーガーおいしーよ?
あーんとハンバーガーの欠片をこっちによこしてくる。
ぱくり。
わたしはそれを口の中に入れた。
外をもう一度見ると車のヘッドライトが湿った空気にぼやけて滲んで見えた。
ぱくり。
雨上がりは嫌いなのに。
唯先輩は、雨上がりは一番危ないからねーと警告してくれた。
雨の時は水たまりに気をつけるけど、雨上がりは油断する!
ぱくり。
ぱくり。


というわけでその9年後わたしは真夜中の雨上がりの道を歩いている。
さっき急な大雨が降っていた。
この街では夜だというのにたくさんの人が前から歩いてくる。
眠れなかった。
明日からまた仕事で、それがどうもしっくりこない。
こんな3時半まで起きていたらきっと明日辛いだろうな。
寝なくても 寝ても辛いよ 我が人生
ちょっと字余り、とかね。
ぱしゃん!
そんなこと考えていたら水たまりにはまった。
これは比喩だ。
唯先輩の言うように、雨の日より雨上がりの日にご注意を!
わたしは立ち止まっていた。
たくさんの人が前から流れてくる。
後ろから流れていく。
わたしはその2人の水流の交差点だった。
そしてもう少し先に交差点があった。
もしわたしの心が、カーナビだったらこう言うだろう。
ここで曲がれ!曲がれ!はやく!
でもわたしはそうしなかった。
ネオンサインが信号みたいに点滅してた。
そのままあらゆる瞬間が流れ過ぎた
わたしたちの道はそのずっと奥にあの9年前につながっていた。
唯先輩のほっぺたは9年前みたいにピンク色だった!
雨、降りそう。
通り過ぎた誰かが言った。
それが青信号の合図だった。
唯先輩は急にこっちに向って走り出してきた
よく見るとびしょ濡れだった。
唯先輩はわたしに抱きついてきた。
まるで9年ぶりに会ったみたいに。
わたしは濡れた。
ほっぺた、ほっぺたどうしたんですか?
化粧失敗しちゃって、それに急に雨、降ってきたし。
こんな遅くに彼氏とでも会ってたんですか?
これは嫌味だった。
高校生の時でも言えないだろうへたくそな嫌味だった。
違うよ、マックに行こうと思ってね。
誰がひとりで化粧してマックに行くんですか。こんな夜遅くに。そんなのはドナルドマクドナルドぐらいですよ。
練習してるんだよー。ほら、あんまりね、わたし、こういうのしてなかったし。劣化しちゃう前にね、覚えなきゃって!
じゃあマック行きますか?
いこーいこー!
それでマックに行った。

唯先輩はハンバーガーをひとつ頼んで、わたしは2つ頼んだ。
ダイエット中だからと唯先輩は言った。あずにゃんはよくたべるねーとも。
シェイクも2つ頼んだ。バニラとチョコレート。
寒いのによく食べますねと、わたしはふたりに向かって言った。
2階でハンバーガーを食べた。
あずにゃんは明日休みかと唯先輩は聞いた。
わたしは違いますと答えた。
わたしもだよーと唯先輩は笑った。
今日ね、仕事でね、また怒られたんだ、甘いんだってわたしは甘いんだー!
ちゅー。
このシェイク甘くないー唯先輩は言った。
そこでわたしはこう言った。
じゃあひとつ甘い話でもしましょうか。
これはこういう話の切り出し方としてはかなりへたくそな部類だった。残念ながら。
なに?
いえ、わたし、昔、唯先輩のこと好きだったんですよ。
えーー!と唯先輩は驚かなかった。
あははと愛想笑いもしなかった。
ただ、うーんとうなってしまったのだ。
それは。
と唯先輩が言った。
それは考えたことなかったよ。
それからまた、うーんとうなった。
その後いくつかわたしのほうから話をしてみたのだけど唯先輩は心ここにあらずという感じで何を言ってもてきとーな返事を返すだけだった。
それで時間もたったので帰ることになった。
帰り道唯先輩はわたしに言った。。
ねえ、すごいこと思いついたんだけどね。
なんですか?
いや、でも、ちょーすごいアイデアだから簡単には教えられないよ!
あ、あててみていいですか?
いいよ!
これを言うのにどれだけの勇気が必要だったか考えてみてほしい。
だから、このまぬけなわたしの返事はどうか許してもらえることだろう。
わたしと唯先輩が……その……みぎひだりになるってことですか……?
えー?それ、どういうこと?
なんでもないです!
じゃあはずれー!
答えは何なんですか!
わたしとあずにゃんが一緒になるってことでしたー!
あ、そ。
えーなんでぜんぜん驚かないのさー!すごいアイデアだよ!これは!
唯先輩は知らないと思いますけどね、わたしはそのアイデアを9年前には発明してましたから!
そういうわけでわたしは唯先輩の左になったのだった。
唯先輩は今、ハンドバックの中から思い出のイアホンを出してすごい、いい曲があるんだと言った。
わたしは左をつけた。
音は流れてこない。
それで言った。
あの、聞こえないんですけど。
知ってるよ!そうすればわたしが歌うのをあずにゃんに聞いてもらえると思ったんだ!

しんぎんぐざれーいんー!

そんな歌でしたっけ?
そんな歌だよ!
唯先輩は笑った。
雨が降りはじめた。





最終更新:2013年08月28日 07:39