「……えへへ、どうかな?」


唯がギターの演奏を終えて照れ笑い。
私の前でこんな表情をする事なんて滅多に無いから、何だか新鮮ね。
唯に向けて、胸の前で小さく拍手。
本音を言えば大きな拍手を送りたいところだったけれど、夜の拍手は案外響くものね。
浴びせたい歓声は胸の中でだけ何度も唱えて、近所の迷惑にならない出来る限りの拍手を響かせる。
私が一頻り拍手を浴びせると、唯はギー太と一緒に私の隣に座った。
その間中、嬉しそうに頭を掻いていたのも何だか唯らしい。


「お疲れ様、唯。
私の我儘を聞いてくれてありがとう。
とても素敵な曲だったわよ」


唯の手に私の手を重ねて、私と唯の二つの手のひらで唯の頭を撫でる。
少し癖っ毛気味の髪の毛が手のひらに心地良い。


「どういたしまして、和ちゃん。
私もまた和ちゃんの前でライブをやれるなんて嬉しいよー」


「観客一人、ギタリスト一人のワンマンライブだけれどね」


「それでも嬉しいんだよー」


「私もよ、唯」


二人で目を細め合う。
このライブの発端は私のちょっとした我儘が原因だった。
『留学先に向かう前に、もう一度唯のギターを聴きたい』
突然の申し出にも関わらず、唯はその私の我儘を快諾してくれた。
明日の早朝、私は留学先に旅立つ。
期間は半年くらいの予定だけれど、場合によってはもっと延長するかもしれない。
留学自体は私が望んだ事だから不安も不満も無い。
学びたい事はたくさんあるし、留学先では学びたくなる事も次々湧いて来るんじゃないかしら。
どんな留学生活が待っているのか、私の胸は期待で大きく震えている。
けれど心残りがないわけでもない。

その心残りの一つがこれだった。
私はもう一度唯の歌とギター演奏が聴きたかった。
特にどうしても聴いておきたい曲があったのよね。


「ねえねえ、和ちゃん。
『天使にふれたよ!』はどうだった?
そういえば和ちゃんの前で演奏するのは初めてだったよね?」


「ええ、初めてよく聴かせてもらったけど、素敵な曲だったわ。
梓ちゃん、凄く喜んだんじゃない?」


「あはは、『あんまり上手くないですね!』って言われちゃったけどねー」


「そうなんだ」


私は苦笑しながら思う。
それはきっと梓ちゃんの照れ隠しだって。
大学に進学してから一度だけ生徒会の後輩の様子を見に桜高に行った事がある。
その時にたまたま軽音部の部室に向かう梓ちゃんと話す事が出来た。
どうにか部員を五人集められた事。
部長として何とか頑張ってる事。
そして卒業式の後で唯達が演奏した『天使にふれたよ!』の事。

その梓ちゃんとの話で、私はやっと卒業式の日に唯達が梓ちゃんの前で弾いていた曲名を知れた。
ずっと気になっていたのよね、あの日に初めて耳にしたあの曲の事が。
これでも軽音部とは長い付き合いだったんだもの。
曲名も知らない歌があるだなんて、何だかちょっと気持ち悪い。
本当は唯に直接訊ねればよかったのかもしれない。
だけど私はそうしなかった。
唯達と梓ちゃんの絆みたいな曲なんだもの。
立ち入って訪ねたらいけない事に思えたのよね。
少なくとも梓ちゃんの方から話題にしてくれるまでは。


「どうしたの、和ちゃん?」


いつの間にか笑顔になっていたのかもしれない。
唯が首を傾げながら私の顔を覗き込んでいた。
「何でもないわよ」ともう一度唯の頭を撫でる。
伝えてあげたいけれど、それは梓ちゃんの信頼を裏切る事になりそうだものね。
だから唯にそれを伝えてあげるわけにはいかない。

でもね、安心して、唯。
梓ちゃんは『天使にふれたよ!』の話をする時、とても眩しい笑顔を浮かべていたわよ。
嬉しそうで、照れ臭そうで、幸せそうだった。
唯達がそれくらい梓ちゃんにとって最高の先輩だったって事。
正直な話、唯がそんな最高の先輩になれるなんて思ってなかったわ。
唯の初めての部活動、ちゃんと最後まで活動出来るのか心配だった。
唯みたいな子が軽音部でやっていけるのかハラハラしてた。
だけど唯は一つ一つ学園祭やライブを終えて、ゆっくりと成長してたわよね。

今もほら。
昔からは考えられないくらい自信に溢れた表情で唯は立ち上がって。


「ねえねえ、和ちゃん、他に聴きたい曲はない?
ふわふわでもカレーでも何でも弾いちゃうよー?」


「そうねえ……」


頭の中に放課後ティータイムの曲が何曲も浮かぶ。
『五月雨20ラブ』、『U&I』、『ときめきシュガー』……。
それ以外にも聴いておきたい曲が私の脳内に止め処なく溢れ始める。
出来る事なら全曲聴いておきたい。
留学先ではっきり思い出せるように、心に強く刻んでおきたい。
けれど私は静かに首を横に振った。
「いいの?」と寂しそうに唯が呟いた。


「和ちゃんの聴きたい曲、何でも弾いちゃうよー?
何だったら全部メドレーで弾いちゃったりなんかして!」


「気持ちは嬉しいけど『天使にふれたよ!』を弾いてもらえただけで十分よ、唯。
もう時間も遅いもの、あんまり騒がしくしたら近所の人にもご迷惑よ」


「うーん……、それはそうなんだけどね……」


唯が寂しそうにしてくれるのは嬉しかった。
けれど私は分かっている。
今日の私はいくら聴いても満足出来そうにない。
それこそ唯が朝まで弾き続けてくれたとしても、完全には満足出来ないと思う。
聴き足りるなんて事はありえない。
だから私は思い切らなくちゃいけないのよね。
我儘を一つ叶えられただけでも、私には想定外な事だったんだもの。


「いいのよ。
今日はありがとう、唯。
留学前にこんなサプライズがあるなんて予想もしてなかったもの。
皆で見送りパーティーを開いてくれたのも嬉しかった。
澪も律もムギも、わざわざ帰省までしてくれるなんて思ってなかったわ」


「和ちゃんの見送りパーティーなんだもん、当たり前だよー」


「ええ、ありがとう。
これで留学先でも元気に頑張れるわ。
皆が応援してくれた分、最高の留学にするつもりよ」


宣言した後、少しだけ目を瞑ってみる。
それだけでさっきまで私をお祝いしてくれていた皆の表情が浮かんで来る。
無邪気に私の門出を祝ってくれたムギ。
泣きそうな表情で私を見ていてくれた澪。
しんみりしそうな雰囲気を持ち前の明るさで吹き飛ばしてくれた律。
憂も梓ちゃんも余興で盛り上げてくれた。
パーティーが終わった後には、
私と唯を二人きりにしてくれる気遣いまでしてくれた。
唯の部屋で二人きりで話が出来るようにしてくれた。
私にはそんな仲間達が居た。
いいえ、そんな仲間達が居るのよね。
だから大丈夫。
私は留学先でもきっと元気にやっていけるわ。


——ありがとう、皆。


胸の中でだけ呟いてから目を開くと、首を傾げている唯の姿が目に入った。
唯はまだ部屋の中心に立って、ギー太を抱えた姿勢のままだった。
その瞳は何かを言いたそうにも見えた。


「どうしたの、唯?」


「あのね、和ちゃん……、一つだけ、いい?」


「いいわよ?」


「えっとね、それじゃあ……。
もう一曲だけね、和ちゃんに聴いてほしい歌があるんだけど、弾いてもいい?」


もう一曲だけ?
どの曲だろう?
もしかして私の知らない曲でもあるのかしら?


「聴かせてくれるのは嬉しいけど、どの曲を弾くの?
『ふわふわ時間』のアレンジ曲とか?」


「あ、そうじゃなくてね……。
ええっと……」


呟くみたいに言いながら、唯が顔中をどんどん赤く染めていく。
これは唯が照れている表情じゃない。
恥ずかしがっている表情でもない。
これも滅多に見れないけれど、これは唯が緊張している時の表情だ。
三度深呼吸した後、唯は私に強い視線を向けて口を開いた。


「私が作った……和ちゃんに贈る歌なんだ」


「私……に?」


「うん」


「唯が作った……?」


「うん、作曲も作詞も自分でやってみたんだよ。
作曲なんて初めてだから、ちゃんと出来てるか自信が無いけどね……」


「私の……ために……?」


「そうだよ!
だって和ちゃんが留学に行くんだよ?
大学は違ったけど、会おうと思ったら会えない距離じゃなかったでしょ?
でもね、外国は遠いよ……。
今までみたいに会えなくなるんだよ……。
だから……、和ちゃんに私の気持ちを伝えたかったんだよ……」


そう言った唯の言葉は震えていた。
唯の視線も身体も震えていた。
ひょっとしたら私の身体も震えていたかもしれない。
心もきっと、震えてた。

私の心残りのもう一つ。
それは勿論遠く離れる唯の事だった。
幼稚園の頃からずっと一緒で、大学こそ別だけれど会いたい時には会えた唯。
私が留学先に行ってしまったら、今までみたいに簡単には会えなくなる。
それどころか連絡すら取りづらくなる可能性だってある。

私はそれに気付いていたけれど、大丈夫だと思っていた。
私が留学する事を伝えても普段と変わらない様子の唯の姿を見て、大丈夫だと思おうとしてた。
だけど本当は大丈夫じゃなかったのかもしれない。
唯と遠く離れるという初めての現実に、実感が湧いていなかっただけなのかもしれない。
私も、そう、やっぱり唯と離れる事が不安なんだと思う。

立ち上がって、唯の目の前にまで歩み寄って行く。
近くで見ると余計に実感出来る。
唯と、私が、強く強く震えている事に。
二人とも初めての別離に不安を溢れ出させている。


「唯……」


抱きしめようと思った。
抱きしめて唯の震えを止めようと思った。
私は私の中にある不安に気付いた。
唯が私と遠く離れる事を不安に思っている事にも留学間際で気付けた。
まだ間に合う。間に合うわ。
唯の不安を消してあげられなくちゃ、私も安心して留学になんていけないもの。
だから抱きしめよう。
抱きしめて、支えて笑顔にしてあげよう。
私は両腕を広げて、唯を包み込もうとして、不意に私と唯を阻む物に気付いた。

ギー太。
軽音部に入部して以来、唯の相棒を務めているギター。
そのギー太から奏でられる唯の音楽が私は大好きだった。
生徒会で忙しい時にも励まされた。
そのギー太が今私と唯の間を阻んでいた。
唯がギー太を抱えている限り、私は唯を抱きしめる事が出来ない。
唯もそれには気付いていたと思う。
けれど唯はギー太を手放そうとせずに、
それどころか軽くチューニングするようにギー太の弦を爪弾いた。


「私の曲、聴いてくれる?」


泣きそうな表情をしながらも、唯の目からは涙が流れてはいなかった。
寂しさや悲しさでよく泣いていた唯が泣いていなかった。
ただ私を見つめていた。
私を見守ってくれるように。

それでハッとさせられた。
ああ……、そうなのよね……。
寂しかったのは、見守られてたのは、私の方だったんだって。
私は唯が新しい事を始める度に嬉しさと寂しさを同時に感じていた。
一人で歩く力を得ていく唯を寂しく見ていた。
私は唯を見守っているつもりで、逆に見守られていたのかもしれない。

いいえ、きっとそうだと思う。
私は唯が私と簡単に会えなくなるのを不安に感じてるんだって思ってた。
だけど本当はそうじゃなかったのね。
唯は私が留学先で一人でやっていけるのか心配してたんだ。
唯自身が私と会えなくなる事よりも、留学先での私の安全の方を案じてくれていたんだわ。

私は何を勘違いしていたのかしら……。
唯の保護者気取りで、唯を甘えさせてあげるつもりで自分が甘えてて……。
もう……、こんなの情けなさ過ぎるじゃないの……。
自分の身体から力が抜けていくのを感じる。
唯を支えようと思っていた自分の思い上がりを諌めたくなる。


「はあ……」


深く床にまで届きそうな溜息をこぼしてしまう。
情けないにも程がある私。
今まで何をやっていたのかしらって思わされる。
広げていた腕を下ろして、私は唯から離れていく。
さっきまで座っていた唯のベッドに座り直して、少し離れた唯に視線を向ける。
唯はまだ泣きそうな、いいえ、心配そうな表情を浮かべていた。
俯いてもう一度だけ溜息。
顔を上げて右手で眼鏡の蔓の位置を直すと、私はゆっくり口を開いた。


「それじゃ早速、唯の新曲を聴かせてくれるかしら?」


そう言った時の私の口元は笑っていたと思う。
無理して笑ったわけじゃないわ。
強がりじゃなく自然と笑顔になれていた。
唯の成長が寂しくて、保護者のつもりで居た自分が情けなくなったのは本当。
唯と離れての留学が今更ながら不安になり始めたのも本当。
だけどそれ以上に唯が成長しているのが嬉しいのは間違いなく本当だったから。

唯は成長した。
高校生になってからは加速度的に頼れるようになった。
自分が感じている不安よりも私の留学生活を優先して心配してくれるくらいに。
昔の唯だったら、私が抱きしめようとした瞬間には唯の方から抱き着いて来ていたはず。
だけど唯はそうしなかったのよね。
きっとそれが私にとって良くない事だって感じていたから。
だから今日だけは私達は抱き着かない。抱きしめない。
二人で対等な未来を歩いて行くために。
私は今日やっと自分の勘違いに気付けた。
気付けたのなら、後は自分で修正していけばいい。
それくらいの強さなら、私だって持てるはずだもの。

唯はそれを私に気付かせてくれた。
やっと気付けた。
ありがとう、唯。
私、唯の幼馴染みで本当に良かった。

想いを視線で伝える。
私と唯の視線が交錯する。
数秒の間見つめ合って私の笑顔が崩れない事に気付いたのか、唯が嬉しそうな笑顔を浮かべた。
いつまで見ていても飽きない、私の大好きないつもの唯の笑顔だった。
信じてくれたんだろう、私の決心を、私の視線を。


「うんっ!
私の新曲を和ちゃんに聴かせちゃうよー!」


「楽しみね、どんな歌なのかしら?」


「それは聴いてのお楽しみだよ!
楽しんで聞いてくれると嬉しいな!
あ、その前に和ちゃんに一つだけお願いしていい?」


「何かしら?」


「歌が終わったらベッドの中で和ちゃんと色々話したいな。
明日が早いのは分かってるけど、まだまだ和ちゃんと話し足りないもん!」


「そうね、我儘を聞いてもらった立場だし、何なら徹夜したって構わないわよ?
今夜ぐっすり寝たところで明日の昼はどうせ長い空の旅だし、
飛行機の中では寝ていた方が時差ボケにもなりにくいらしいから」


「へー、そうなんだ?」


「そうらしいわよ?
だから色々話しましょう?
そうねえ、あんまり話した事無かったお互いの大学生活の話とかどうかしら?」


「あっ、いいね!
私ね、大学で色んな面白い友達が出来たんだよ?」


「それは楽しみね。
唯の新曲の後は思い切り話して楽しみましょう?」


「よーし、頑張っちゃうぞー!」


唯の表情が真剣なそれに変わる。
私のために作った曲を歌うために。
私の留学生活を心の底から応援してくれるために。
私と遠く離れる生活をこれから頑張るために。

私も頑張ろうと思う。
留学先では辛い事も悲しい事も多いんじゃないかしら。
だけど私は一人じゃない。
辛い時には大切な仲間達の事を思い出そう。
私の事をずっと近くで見てくれていた唯の事を思い出そう。
私の大好きな放課後ティータイムの曲を思い出そう。
留学生活を終えて帰国した時にこそ、私は唯を思い切り抱きしめる。
素直な心で、今度こそ対等な二人で。
ふふっ、今からでもその日の光景が思い浮かぶわね。
きっと唯は言葉にならない言葉を口にして、私の胸に飛び込んで来るはずよね。
そうして色んな想いを込めて抱きしめたその後で、私は唯に『ただいま』って伝えるんだと思う。
それがきっと私達の新しい始まりになるんじゃないかしら。

唯がギー太を構えて私に視線を向ける。
堂に入った姿はとても頼り甲斐がある様に思えた。
私も唯の動きを焼き付けるように目を見開いて、耳にも意識を集中させた。
また会える日まで、どんな時にでもこの唯の新曲を思い出せるように。


「それじゃあ今から和ちゃんに贈る曲を演奏するね!
曲名は——!」


終わりです。
ありがとうございました。



最終更新:2013年11月11日 07:17