傾き始めた夕陽。
西日が部屋に差し込むのは眩しいけれど、私はカーテンを引きたくなかった。
夕陽に染まる唯の横顔をもう少し見ていたかったから。


「終わったよー、和ちゃん」


表情を輝かせた唯が額の汗を軽く拭う。
この前まで掛かっていた時間よりずっと早い。
ちょっと舌を巻きそうになったけど、そうするには時期尚早かしらね。
大切なのは早さじゃなくて正確さなんだもの。


「お疲れ様、唯。
それじゃ今から採点しちゃうわね」


私が唯の手から赤本の解答が書かれたノートを受け取ると、唯は軽く頬を膨らませた。
もう待ち切れないよ、和ちゃん。
唯の顔にはそう書いてあったし、現実にもそう言った。


「もう待ち切れないよ、和ちゃん。
採点なんか後にしてケーキ食べちゃおうよー?」


唯らしい言葉。
多分今回の赤本の解答が早かったのも、用意しているケーキを意識しての事なんでしょうね。
だけどそれなら余計に採点を先にしないといけない。


「駄目よ、唯。
唯ってば問題を解いた先から解き方を忘れちゃうじゃない。
自分で解いたくせに、後で訊いたら解き方を忘れてた事が何度あったと思ってるの。
こういうのは覚えている内にちゃんと採点しなくちゃ意味が無いの」


「むー……、和ちゃん厳しい……」


「厳しくないわよ、これが普通。
ケーキが逃げるわけじゃないんだから、もう少しだけ我慢しなさい」


「鮮度が逃げるんだよー……!」


「上手い事言わないの」


軽くあしらいながら私は唯の解答を採点していく。
正解、正解、これも正解……。
ケーキを意識して集中力が上がっていたせいかしら?
私が思っていた以上の正解率みたいね。
これなら志望校の試験にも間に合うかもしれない。

半分くらいの採点を終えて眼鏡の位置を直した時、私は不意に強い視線を感じた。
それは勿論唯の視線だった。
大体私達は唯の部屋で勉強しているわけなんだから、他の視線があったらそれはそれで問題よね。
私はノートと赤ペンを置いて、唯に視線を向け返した。

瞳と瞳が合う。
その瞳が潤んで見えたのは夕陽が眩しいせいなのか。
それとも唯の瞳自体が潤んでいたからなのか。
正確な答えは私にも分からなかった。
軽く嘆息してから、唯に訊ねてみる。


「どうかした?」


「えへへ、ちょっとね」


唯にしては歯切れが悪い返答。
踏み込んで質問してみるべきか迷ったけれど、私はそれ以上唯に訊ねなかった。
数秒の沈黙。
その数秒の間に気付いた。
唯が最近大人びた表情を見せるようになり始めた事に。
一見だと行動や反応は昔とあんまり変わっていないようにも思える。
けれどやっぱり唯は少しずつ成長している。
そんな気がする。

唯は私と同じ大学を受験するものだと何となく思っていた。
唯の学力ではかなり難しい大学だけれど、
目標に向けて行動する唯の集中力は目を見張るものがある。
だから唯が私と同じ大学を受験するつもりなら、その協力は惜しまないつもりだった。

けれど。
唯が選んだのは、私の志望校じゃなくて軽音部の皆が志望する大学だった。
私と別の学校を、初めて唯が選んだ。
少しずつ少しずつ、でも時には私を驚かせるくらい唯は成長している。
そう思わされた。
嬉しいような寂しいような……。
正直言うと寂しい気持ちがかなり大きいわ。
一緒に受験勉強をしていて、たまに凄く不安になる事もある。
私達は別々の道を歩くために一緒に勉強している。
そんな矛盾した行為が私の胸に漠然とした不安を募らせる。


「和ちゃん」


唯が小さく囁いた。
私の手が止まっていたのに気が付いたらしい。
いけないいけない、またちょっと感傷的になっちゃってたみたいね。
あんまりケーキをお預けしてると、唯が我慢出来なくなってしまうかもしれない。
今日は特別な日なんだし、御褒美は少しでも早く唯に渡してあげたいしね。


「待たせて悪いわね。
採点も残り半分くらいだから、もう少しだけ待っててくれるかしら?」


「うん、待ってるよ。
あー、ケーキ楽しみだなー。
今日はどんなケーキが用意されてるのかなー?」


「それは後でのお楽しみね」


冷蔵庫の中に保管しているケーキ。
あれを見たら唯はきっと驚くでしょうね。
軽音部の皆と私とでお金を出し合って買ったワンホールのケーキだもの。
あのケーキを見れば、唯も満面の笑顔を浮かべて平らげてしまうはず。
勿論食べ過ぎには注意させなきゃいけないけれど。


「今日はありがとね、和ちゃん」


西日に照らされながら唯が微笑んだ。
ノートを採点する私の左手を両手で握って、夕陽に負けない眩しさで。
その眩しさに私の胸が不思議と波立つ。
波立ちを悟られないように、私は軽く誤魔化した。


「別にお礼を言われる事なんてしてないわよ?」


「えー、してくれてるよー。
ケーキを用意してくれてるし、
私の勉強にも付き合ってくれてるし、
和ちゃんには本当にいっつも感謝してるんだよー?
和ちゃんが居てくれてるおかげで、受験勉強をもっと頑張ろうって思えるんだよ?」


「それは何よりね」


「うん、ありがとう、和ちゃん!」


私の手を握った唯の両手に強く力が入る。
唯の体温と力が伝わってくる。
笑顔を見せて、唯が嬉しそうに続ける。


「そんな和ちゃんのおかげで、私、十八歳になれました!」


「ええ、おめでとう、唯。
今日になってすぐにメールでも送った事だけどね」


「えへへ、それもすっごく嬉しかったよ、和ちゃん。
あ、学校で皆に祝ってもらえたのも嬉しかったんだけどね!」


「クラス総出で祝ってくれるなんてほとんど無い事よ。
いいクラスに恵まれたわね、唯」


「うんっ!」


頷きながら幸せそうに唯が微笑む。
今日は唯の十八歳の誕生日。
私より一足早く十八歳になった唯。
私より早く大人の階段を上っていく唯。
来年の誕生日にはこんな風に祝えないかもしれないと考えると、やっぱり寂しさが私の胸に芽生えてくる。
寂しさばかり澱みたいに積もり始める。

私達は大人になっていく。
年齢を重ねて、経験を重ねて、大きくなっていく。
私達は心の中にそれぞれの時計を持っていて、それは止められないものだから。


「ねえねえ和ちゃん」


でも


「どうしたの、唯?」


やっぱり


「皆からのプレゼント、すっごく嬉しかったんだ」


私達には


「ちゃんと改めてお礼を言っておきなさいよ」


子供の頃から


「それは勿論だよー。
でもね、私もう一つだけ和ちゃんから貰いたいプレゼントがあるんだー」


ずっとずっと時を重ねても


「私に出来るプレゼントなら考えるけど」


変わらない所も確かにあって


「私、和ちゃんのチューが欲しいな!」


それが寂しさを帳消しにするくらい嬉しい時もある。


「却下よ」


「えへへ、やっぱり?」


軽い感じで断ると、唯が尖らせた唇を元に戻しながら微笑んだ。
その笑顔は昔と全く一緒とは言えなかったけれど、
昔の面影を残しながら成長した唯にぴったりの表情で、私も何だか幸せになってしまっていた。

成長する事は寂しい。
大人になって別々の道を歩いて行く事も寂しい。
だけど完全な別人になるわけじゃないわ。
歳を取っていく間にもたくさんの思い出が重なって、
大切な時間を共有した記憶が残って、それが私達に前に進む勇気をくれる。
子供の頃に生きていた閉じていた世界から飛び立って、
大きく広がった世界を見る事が出来るようになって、自分の本当の気持ちが分かるようになる。
だから私は未来に寂しさより嬉しさを感じていたい。

唯も飛び立っていく。
唯はきっともっと大きな世界に立てる。
私はそれに寂しさを感じるよりも祝福してあげたい。
それは離れた場所でも出来る事だし、しなければいけない事だし、
もしもまた同じ道を歩きたくなったなら、その時は正直な気持ちを唯に伝えればいい。
唯とずっと一緒に居たいって。
別々の大学に通うのはそれを考えるためのいい転機よね。
広く物を見て広く物を考えよう。
それが本当の意味で唯と幼馴染みでいるって事だと思うから。


「でも残念だよー。
和ちゃんにチューしてもらえたら、私もっと受験勉強頑張れると思うのになー」


唯が夕陽に照らされながら微笑む。
その頬が赤く染まっているのは、夕陽のせいだけじゃないと思う。
キスなら子供の頃に何度か交わした事がある。
唯が欲しいというのなら、プレゼントしたい気持ちが無いと言ったら嘘になる。
だけど唯は十八歳だから。
私ももうすぐ十八歳になるから。


「もう……、唯はどうして昔から私にばかりキスをねだるの?」


「決まってるでしょー?
昔から和ちゃんの事が大好きだからだよ!」


そんな気恥ずかしい言葉を平然と口にする唯。
小学生の頃は家族への親しみみたいなものだと思っていた。
中学生の頃は悪ふざけだと思っていた。
だけど高校生になっても唯が私にそう言ってくれるのは、
色んな事が分かる年頃になってもそう言ってくれるのは、きっと唯が……。

それを認めるわけにはいかなかった。
唯の気持ちを認めないって意味じゃなくて、
私の気持ちが固まらない内にキスを交わす事を認められないって意味で。
歳を取ってキスの意味は変わって来た。
子供の頃ならいざ知らず、プレゼントで唇にキスは交わせられない。
もし本当に唯とキスを交わす時が来るとしたなら、
それは私の気持ちをもっと見つめられた時にだけ。
心の底から想いを通じ合わせたい時にだけ。


「私も唯の事が好きよ」


自然とそんな言葉が口から出ていた。
頬が熱い気がしたけど、それは夕陽のせいにしておこう。


「えへへ、ありがとね、和ちゃん」


「だけどキスしたいくらい好きってわけじゃないわよ?
誕生日プレゼントにキスをプレゼントするなんて、
小さな子供か恋人同士か夫婦でしかしちゃいけない事だもの。
だから誕生日プレゼントのキスは、また来年の唯の誕生日にねだってみてくれる?
勿論その時にキスをプレゼント出来るかは分からないけどね」


「うんっ、待ってるね!」


目を輝かせて頷く唯。
この調子だと来年の誕生日にもキスをねだってくるんじゃないかしら。
それも悪くないわよね。
唯が次の誕生日を迎える時、その時までには私も答えを見つけよう。
違う大学に通って、別々の道を歩いて、唯の事を思い出しながら、きっと。
そうして夕陽に照らされながら、私達は来年の唯の誕生日に思いを馳せた。




「採点終わったわよ、唯。
……唯?」


答えが無い事を不思議に思って視線を向けてみる。
唯はいつの間にか机に突っ伏して寝息を立てていた。
どうも私の採点が待ち切れなかったみたいね。
あの唯がプレゼントのケーキが待っているのに寝てしまうなんて、
私が想像していた以上に深夜まで受験勉強をしている証拠なんでしょうね。
点数も想像以上に高かった。
この調子なら志望校に合格出来るはず。

唯のベッドから毛布を取り出して、唯の背中から掛ける。
こんなに頑張ってる唯を起こしてしまうのは忍びない。
もう少しだけ眠らせてあげた方がいいわよね。


「和ちゃん……」


唯の口から声が漏れる。
起こしてしまったかと思ったけれど、それは寝言だった。
どうやら夢の中でまで私と話をしているらしい。


「好き……」


また寝言が聞こえた。
私の胸が強く高鳴る。
私だって好きよ、唯。
だけどまだそれが恋愛感情なのか分からないの。
幼馴染みで、ずっと近くに居て、離れるのを寂しく思う気持ちはあるわ。
それでもそれを単純に恋愛に繋げるのは安直だし、唯に失礼だと思うのよね。


「ごめんね、唯。
待たせちゃうわよね……」


呟きながら私は唯の手を軽く握る。
そのお詫びというわけじゃないけれど、私の今の精一杯の想いを唯に届けるわ。
その想いを誓いにするから、だからもう少しだけ待っていて、唯。
私、違う大学に通いながら、唯への気持ちをちゃんと見つめ直すから。
その時には私の方から気持ちを伝えるわ、絶対に。


「誕生日おめでとう、唯」


呟いて、沈みそうなほどに傾いた夕陽に照らされながら。
そうして私は今の私の精一杯の想いを唇に込めて——、




——唯の頬に重ねた。


おしまい。
誕生日おめでとう。