ほんとうにうつくしいものとは、それが壊れて消えてしまう瞬間なのだ。
って 芸術家サルバドール・ダリ が言ってた、
らしい、
って 澪先輩 が言ってた。
振り向きざま、
下校時刻30分前の音楽準備室、
空を染める 赤い陽の逆光線 に射たれて
眩しい黒髪 を細い指先にあそばせる 先輩が、
一瞬、
ぼんやり窓の外を追っていた視線 をこちらに向けて
一瞬、
ほんとうに はかなく 消えちゃいそうな感じで
振り向きざま、
少し弾んだ声
で言ったのを いつだか聞いた。
息が止まりそうな景色と
目を乾かす キラキラした 埃の粒子 が
眼をちくちく刺した とき
私はなぜか泣いてしまいそうだった。
その一瞬が
昨日の夜まで
私を寝かせない から、
澪先輩のあの言葉はたぶん 真実 だ。 それがなぜかすごくくやしい。
――梓、なにか手伝おうか?
目をこすったら
私の名前を 先輩が呼んでた。
夜明け前の空 みたいに薄い水色したカーディガン を羽織って、
手を貸そうか 伸ばそうかと 中途半端に 浮かせて、
やっぱり どっちつかずの 微笑みを洩らしている。
その眼 は相変わらず誰もが魅き寄せられる 黒 で、
ここが
自分の家のキッチン だってことさえ
忘れそうになる
けれど、
甘さと 優しさで 曖昧に口元をゆるめるこの人は
ちがう、
ただの
秋山澪先輩 だ。
二階に居ていい って言ったのに後輩の
部屋のベッド
に腰掛けて、
長い足を
浮かせたり ぶらつかせている
のにも堪えかねて、
文庫の栞を
3ページも進めずに
このキッチン
までやってきてしまう、
甘くも
すっぱくも
なれない軽音部どおりの 秋山先輩だった。
「どうしたの、梓」
「え、いやなんでもないです。
紅茶のんじゃいました? おかわりいります?」
いや、そうじゃないんだけど。
と言った のは先輩の方だ。
私が言った のかと一瞬思って 吹きだしそうになる。
「……どうしたんだ、本当に」
ああ、
ちがう、
そうじゃないのに。
私は
キッチン横の引き出し(お菓子入れ)から
アルミ製の皿 を取り出す。
銀 の針金でできた取っ手 がついていて、
皿のなかに ポップコーンの種 がびっしりつまったあのお菓子だ。
「うわ、懐かしい」
思ったままに口に出す先輩がそっと私に寄って
『クローバー ジャズポップコーン(しょうゆ味)』
を手に取る。 いつ買ったんだろう、これ?
そのとき澪先輩の髪の端が私の耳に触れて肩が ぴくん とはねた。
す、と小さく距離をとる気づかい。
へえ、まだ売ってたんだこれ。
そうなんです、はい。
せっかくだし、これ作ってみようよ。
そうですね、はい。
先輩のにおいがする。
胸の奥に流れる血のつぶが一滴ずつ パチパチはねる ような、
そんな熱がみるみる広がって
おしゃべり なんてできっこない。 どうしてこう、
どうしてこう!
「先輩は休んでてくださいよ。受験勉強、お疲れでしょう」
ダメだ、私の声が冷たすぎる。
そうだね、ありがとう。 先輩がリビングのソファーへと戻っていく。
潜水病 みたいに息がつまって
唾をのんだ。
身体の奥に流れた
のが冷たすぎて 熱の粒 がこわれてしまう。
軽いめまい
を起こしそう、
誰か
を抱きしめたくなりそう。 そうなるのがくやしかった。
私はコンロのスイッチを入れてポップコーンに着火する。
大丈夫、
火だってこうして扱える。 こどもじゃないんだから。
「そういえば、文理選択ってそろそろだっけ?」
澪先輩が言う。
「はい。理系にしました」
「意外だ。現国が得意じゃなかった?」
「数学の方が点数高いんです、私」
それに、
国語や歴史で あなたに 得意だなんて言えっこないですもん。
そうは言わなかった
けれど、澪先輩はここで納得したらしい。
「うん、律も数学はできるんだよ。なんだろうねあいつ」
「なぜそこで律先輩なんですか」
ポップコーンは まだできない。
冷え切ってたせいか、あるいは少し湿気ってたせいなのか。
「なんでって……なんでだろうね?」
いや、私に聞かれても。
「部長ですもんね、来年には私も」
「そうだな。でも梓が部長かあ、想像つくかな」
だからなんで疑問系なんですか澪先輩。
「失礼な。書類申請なら私の方が自信あります」
地味な自信だ、と先輩が笑った。
◆ ◆ ◆
予備校帰りの澪先輩がうちに寄るようになったのは、静電気が指先を刺し始めた頃からだ。
十一月も半ばを過ぎると、
玄関先でコートを脱ぎ着するだけでも肩がばちばち言って、ドアノブでさえ指をちくりと刺す。
そんなつまらないことで手を引っ込めてばかりの私をさしおいて、
先輩は部室と変わらない気軽さでうちの部屋を出入りするようになった。
遠慮しないでください、と言いはしたけれど、それでも意外だ。
でもあの優しい人のことだから、遠慮しないようにと私に配慮しているのだ。
一人っ子で共働きだと時間のつぶし方ばかり上手くなる、というのは先輩も私も似ていたらしい。
私がレコードに針を落とすことを覚えて、
自分の片腕よりも長かった弦をはねたりいじくったりして遊んでいた頃、
先輩は児童館の「青い鳥文庫」を総なめしながらノートで自作の童話を熱心に描いていたという。
あの人が『パスワード』
シリーズや『クレヨン王国』の話を今読んだかのように語るとき、
あこがれの先輩はずっと小さくまるっこく見えた。
テーブル越しのその人はとても遠くあるのに手でさわれそうなほど近く見えて、
むかし撮った写真を見直すような錯覚をおぼえた。
見たことはないけれど、私だってきっと時々似たような顔してる。
たとえば『Smiley Smile』の挫折や『Pet Sounds』という奇跡の一枚を語り倒したり、
ビーチボーイズの一リスナーとして『FANTASMA』に中一の私がどれほどの衝撃を受けたかを熱弁する時、
あんな風になってるはずだ。
その証拠に、律先輩と純の顔のひきつり方まで似ている。
……いつもごめん、純。
でも、澪先輩はときどき破裂する。たぶん良い意味で。
あの人が普段は袋の中の冷え切った種みたいにおとなしくしている、
硬く丸まっている格好でさえ無理やり「クールで素敵」なんて言い張るのはまちがいだ。
(どっかのファンクラブの人たちはそこがわかってない)。
律先輩はからからと私たちを引っ張り回しては不安を笑い飛ばす。
唯先輩はふらふらと私やみんなを引き寄せては瞬間のかがやきで全員トリコにしてしまう。
紬先輩はきらきらした眼で誰とも違った世界を見つめてるだけでなく、
この場所まで力いっぱい引き寄せてしまう。
そんな部室の中では澪先輩だけが常識人で、ある意味いちばん地味な人に見える。
それどころか律先輩にうまいこと引っかけられて顔を真っ赤にしてる時なんて
二人して私より子供っぽかったりする。でもあの人そんなもんじゃあないのだ。
自分の世界をため込んで、常に凝縮して抑圧していて、
だから顔を熱くするほどの熱やスポットライトの光を浴びた時、
先輩の内面世界が破裂する。
レフティベースを抱えてマイクへと口づけのように近づいて
その黒く燃え上がったふたつの瞳どおりのまっすぐな声と甘い言葉で私たち観客を射抜いてしまう。
そうだ、私は観客席であの姿を目撃した。
熱されて膨れ上がってまばゆい白が爆発する世界に私はいた。
ビッグバンとは一瞬のことだ。
その瞬間がどこにあったかなんてわからないけど、あの熱気にあてられてしまった。
鳴り止まない拍手がじゅうじゅうと耳に響いて今でもはっきりとそれを思い出せる。
空中に浮かんで消えてしまった音を同じ通りにつかまえることは二度とできないけれど、
消えてしまったあの瞬間を私は何度でも思い出す。
そんな澪先輩がいま私の家に居る。
そんな? あはっ、どこが?
「そうだ梓。さっきすごい良い歌詞が浮かんだんだ!
あのね、
『ちゅうくらいの 火加減よ
ちゅうする時ほど 熱くしないで
アイスクリームの とろける甘さは
キス・アンド・クライまで おあずけよ☆』
どうかなっ、
火の熱と氷の冷たさの落差で恋する気持ちのアップダウンをたとえて表現してみたんだ」
「……はあ」
言ってる意味が全然わかりません。
ていうかさっきまで萩原朔太郎やアルジュール・ランボーを読んでてどうしてそうなるんですか。
「え、これ割と自信作だったのに」
「いや、私、文学的センスないんでよく分からないんです」
「おあずけよ☆、ってなんだかオトナのイイ女っぽくない?」
その人差し指を伸ばしてウインクする決めポーズはなんですか澪先輩。
むしろかわいいんですけど。
「それでね、歌う時はこう、くるっと一周回るんだよ。スケートだから」
「またシールドで足ひっかけて転びますよ」
先輩の表情が固まる。
トラウマを刺激したらしい。
違うちがう、これだって秋山澪先輩だ。私の大好きな先輩なのだ。
「うーん、モチーフがいけなかったのかな。『ときめきシュガー』とかぶるし」
そういう問題なのかな……どうしよう、澪先輩の理解者って自信がなくなってきた。
ねぇ、梓。
澪先輩が呼んだ。
「私、梓の先輩だよな」
「そうですよ。今さら何を言ってるんですか」
「いや、先輩らしいこと、最近してないなあって」
窓の外で雲が動いて、にわかに晴れ渡る。 まぶしい。
「先輩は先輩以前に受験生なんです。私のことより自分の勉強を優先してください」
あ、言っちゃった。
「……うん、そうだ」
「だいたい、どうして私のうちに来てるんですか。
先輩、数学やばいって言ってませんでした?」
「そうだよ、うん。律 に負けるなんてさ、あはは」
ああ、ちがうちがう、
こんなことを言いたいんじゃないのに。
「梓。それ、火 が消えてる」
言われて 気づく。
弱火にしすぎて 勝手に消えてしまった らしい。
「ああすいません、あはは、私ばかみたいだ」
「……私、なんでここにいるんだろうな」
昼の光が強すぎて、逆光で先輩がますます小さく見えた。
私の黒い影のようだと思った。
やめてください、
それは心の中の先輩が
つぶれていくような有様で
私はなにもいえない、
やめてください、
握った針金の取っ手が熱を帯びる、
私はなにもいえない 「ね、何か言ってよ」
そう聞こえた先輩の声だった
冷たくて縮こまった秋山先輩の声で
目の裏側が熱くなる 違う そんなんじゃない
「私、分からないんだ。どうして来ちゃうのか」
先輩の方へ腕を伸ばしたい けれども右手が
『ジャズポップコーン』
を握ったまま火に 掴まれたようで自分から 動くことができない
「最近、私、おかしいんだ。
詩も書けなくなっちゃって、 自分の言葉さえ 信じれなくて」
うつむいて黒く小さく固まっていく先輩
の姿が見ていられなくて
「って、梓に言ってもしょうがないのにな」
手は火傷しそうで
足は冷たい、
換気扇の影差すフローリングの床 は氷の冷たさだ
「……やっぱりダメだよ。
分からないけど、
梓の言うとおり私は疲れてるだけなんだ。 もう家に」
喉の奥に溜まった熱を声に
しようとした、でも
嗚咽にしかならない
気がして、
あの人が伏せた瞳の黒が痛々しくて私まで思わず 目を
そらそうと、
その瞬間ポップコーンが破裂した。
握る手 が震える。ひっ、 と声が出た。びっくりして
惚けた顔の先輩
続けて二発目。すぐ三発目。私は先輩の顔を見ていられない。
手汗がにじんで気持ち悪い。そして
秋山先輩の声
が聞こえる。
ねえ、いま分かったんだ。 すごいこと見つけた!
そう澪先輩が言った、今度こそ
はっきりと私に向かって
言葉を撃ち込んだ。
熱気を帯びた、ぼんやりした、にへっと微笑んだ
だらしない顔の、それはスポットライトを浴びて
左腕で汗を拭ったその時
と同じ、
キスでもし終えた直後のような顔で、私に向かって
言葉を撃ち込む。
聞こえた言葉の意味が伝う前に唇が震えて私は息ができない。ただ
頷く、飲み込むように 反芻する、
澪先輩の 言葉 を。
頷いたはずみで瞳から熱の滴がこぼれた。
ああ
そうだ
これが 澪先輩 なんだ!
ポップコーンの発砲音が
散弾銃みたいに聞こえて 鎮まった頃、
私は
ようやく
頭で 言葉 を聞き取れた。
『 私、梓がほしい 』
◆ ◆ ◆
そして私は先輩のなかにいる。
リビングのソファーに腰掛けた先輩に背中を預けて、
すこし広げた右脚にまたがって、胸元に頭を寄せている。
服越しに背中に当たる柔らかな感触と熱に意識が溶けてしまっていて、
先輩が口元に持ってきてくれるポップコーンはまだ味がうまくしない。
もう二時過ぎだろうか、
傾いた昼の光が強すぎてくらくらする。
私の腰に回ったままの左腕を指でなぞってみると、くぐもった笑いが耳にかかって、
やっぱりくらくらする。
さっき、まだ誰にも言いたくない素敵な出来事が起きた。
言いたくてたまらない、このよろこびを知ってほしくてたまらない、
けれどもまだそれをあらわす言葉がみつからない。
言葉は澪先輩がきっと見つけてくれる。
ばかな私は言葉をみつけて初めて自覚ができる。
そんな私にも澪先輩はいつも言葉をくれる。
だから大丈夫。
今はとにかくこのできたてポップコーンを
私の大事な人みんなにプレゼントして回りたい、
でも同時に今すぐ二人だけでひとりじめしてしまいたかった。
ゆっくりと一粒ずつ食べていく
ポップコーンの味はまどろみの味にまぎれてまだうまくしない。
私たちがその、世に言う「恋人」ってやつになるかどうか分からない。
ううん、違う。
「恋人」なんかよりもっとすごいのになる。
私の先輩はいつか、この関係の二人だけの名前を付けてくれるに違いない。
そしたら、
それになろう。
作ってもう随分たつポップコーンは
ただの冷え切って塩っからいだけのスポンジみたいな味だけど、
しょっぱさの向こうにほんのり甘さがあって、私たちは唇を塩味にするのをいとわない。
ねえ先輩、これからどうしましょう?
ゆるんだ口元を隠しもせずに私がいうと先輩の手が私の頭をなでて指先でこの頬をなぞった。
どうしよう、私もまだ分からないや。
あの瞬間
なにかを壊してしまった澪先輩は、
それなのに、隠しきれない笑みに自分で震えて 私をもっと強く引き寄せている。
熱くて甘酸っぱい滴がこぼれて、乾いたはずの涙がまたこぼれて、
はじけて消えない白い熱に
包まれたまま、二人で午後の眠りに落ちていった。
きょう、私の大好きな食べ物がひとつ増えた。
来週、先輩の模試が終わったら、ふたりでスケートリンクに行く。
おわり。
最終更新:2014年02月04日 09:30