唯に誘われて家に来てしまった。
この家にくるのは随分と久しぶりになってしまったなぁと思いながら唯の後をついていく。
唯が「ただいまぁ」と勢いよく玄関を開けると、平沢家特有のなんともいい匂いってやつが中から流れ込んで来た。
玄関を開けても誰からの返事も帰ってこなくて「あぁ、そうだった。いないんだった」と言って笑って私をそのまま招き入れた。
いないのか、と私は思ったけどそれを特には唯に問おうとは思わなかった。
私はただ帰りに唯から家に来ないかと誘われただけであって、その日の平沢家の状況、両親がいるとかいないとか、そういうことはまったく知らなかったけど、私がそれを問うことはこの場所とか私とその人との関係とかにそぐわないと思ったからだ。
誰もいないことはわかったけど「おじゃまします」と小さく言って靴を脱いだ。すると奥から「おじゃまされました」と唯が応えたもんだから、その家の中で私はどうやって存在していればよいのかよくわからなくなった。
唯が用意した客用のスリッパに足を通した。
中はひんやりとしていて、しばらく使われていないであろう客用のスリッパにさみしさを覚えたけど、その冷たさは暫く履き続けていたら消えてしまうんだろうとも思った。
そう思ったけど、唯の自室ではなくて、珍しく唯が居間のコタツを進めてくるもんだからすぐにスリッパを脱いでコタツに足を入れることにした。
居間のコタツは年越しに皆で蕎麦を食べながらカウントダウンのテレビを見ている時ぐらいしか入ったことがないから、なんとなくどこに座ればよいのかわからなかったけど、唯がいつもの自分の定位置と思われる場所に座ったからその横の一辺に座ってみる。
そんなに私とくっついていたいの、と笑いをまといながら唯は私に意地悪を言ったけど、他人の家の居間なんて気持ちが不安定どころではないのだから許せよ、と私は言葉に出さないでおふざけの延長線に見えるようにユルめに唯を睨みつけた。
コタツはまだ若干冷たくもあった。けれど既に暖かくもなり始めていて、それはスリッパの冷たさよりはマシに思えた。
私は唯が進めてくれたコタツの上のみかんの山に恐る恐る手を伸ばした。

みかんの皮を剥き、その中でやや小さい身をつまんで口の中に放り投げた頃に唯が話をしはじめた。

「今日、りっちゃんを呼んだのは他でもない憂のことなんだよ」

私はなんとなくそうだろうな、と思っていたから、そうなのか、それはまたどうした、と驚きを装いつつみかんの身をを歯で細かく潰しながら言った。甘いようですっぱくてみずっぽい液体が私の口の中に広がる。

「うん、なんだか最近憂の様子がおかしいんだ」

「へぇ、憂ちゃんの様子がねぇ。それはまたどういった感じでだよ」

そう聞いた時には唯は、うへぇ、私のみかんあんまり甘くない、と言って顔をしかめて私のみかんを一粒勝手に取っていった。
私のみかんと言ったけど、それはもともと数分前まで平沢家のみかんであったもので、おそらく唯から、みかん食べていいよ、と勧められてその中の一つを私が取った時に、その一つだけが私のみかんになったんだと思われる。

「うん、なんだか失恋をしたみたいになっているよ、そう、私がよく読む少女漫画の中の主人公みたいに」

唯は私のになっていたみかんのひとかけらを口に放り投げ、ああ、このみかんは美味しいみたいだね、良かったと言った。私はこのみかんは中の上ぐらいの味だと思ったけど、唯の中ではこのみかんは美味い部類に入るらしい。

「失恋かぁ。なかなか私らの周りでは聴かない言葉の響きだな」

女子ばかりの私たちの生活空間の中で「恋」の字を含む出来事が起こるのはなんだか不思議な感じがしていた。
それはまるで甘い甘い生クリームにまみれたショートケーキかと思って思い切って食べたら、実は塩がたっぷりと入っている生クリームだらけのショートケーキだったという経験に似ている。
あの時私はどんなことを言ったんだったっけ。あの時私はどんな風に謝られたんだっけ。
喉の奥の方まででかかっているのに白い靄が記憶にかかっているようでなかなか思い出すことができない。あぁ、そうだ。砂糖と塩を間違えたことに気づかずに、ケーキに対する私のリアクションを楽しみに待っている相手をどうしても悲しませたくなくて、その海水のようなイチゴのショートケーキを3口くらいは頑張って食べたんだ。そして、それから彼女は。

「まぁね。でも今はそういう意味でりっちゃんと話がしたいわけではないんだよ」

と唯はまた私のみかんをひとつまみしてモグモグと言った。

コタツの中が十分にあったまってきていた。この部屋は下半身はコタツの熱で温められるからいいけど、上半身を温める設備がなにもない。いや、あるにはあるけど電源をいれることはできない。唯はエアコンがダメだ。私はそれを知っていて、だから手が寒さでかじかんできていても何も言わないでいる。
そういうのがこの場合に対しての優しさだと私は思っていたからだ。
ただ、私の優しさと唯の優しさは、呼び方と相手を思っているということが同じなだけでその内容は少しも同じではない。私はそのこともまた知っていて、だけど何も言わなかった。

「そうか、ならもう単刀直入に聞いた方が早いと思うぞ」

私は慌てないでゆっくりと言って唯を見た。

「自分からは言わないんだね」

唯はみかんを飲み込みながら、スーパーマーケットでお菓子を買ってもらえなくて不貞腐れた子供のように言った。

「それなら、もういいもん」

唯はまた私のみかんを取って口に放り投げた。全然いいもんじゃない。まるで私に譲ったものを取り返しているかのように、どうしても私のみかんを食べたいらしい。

「どうしてりっちゃんは憂と付き合ったったの。どうしてりっちゃんは憂と別れたの」

私は舌で口の中を撫で回した。
一粒だけを食べただけではみかんの味はもうどこにも見当たらなかった。

「答えないとダメか」

「質問に質問で返さないでよ」

「好きだったから」

「付き合ったこと、別れたことどっちのことを言ってるの」

「両方」

「なにそれ」

どこから話せばよいのやら、どこまで話せばよいのやら。
手元を見ると私のみかんはもう最後の一粒になっていた。食いすぎだよ唯。目の前にみかんの山はあるんだからそれから食べればいいのに。
流石に最後の一粒に、唯は手を伸ばしてこないで無言で私の返答を待っている。

「付き合ったのは、ほら、あの後だ」

「あの後って」

「高2年の文化祭の時に唯は風邪をひいただろ」

「うん、ひいた」

「で、風邪をひいたのに無茶して練習に来てさ。んで、憂ちゃんに梓が連絡して迎えに来てもらって」

「憂ちゃんに唯を連れて帰ってもらったのはいいんだけどさ、唯たちが居なくなって、部室に澪とムギと梓とさわちゃんと居たら、段々心配になってきたんだ」

「風邪をひいた私が」

唯はそう聞いてきたけど、私は否定した。

「憂ちゃんが、だよ」

「いきなり病人の姉を妹1人だけで家に連れ帰って看病するなんておかしい話だろ」

思い出しながら私は、唯にどうして自分の恋愛を律儀に説明しているんだろうと思った。きっと今の私と唯は友達同士ではない。私は今、唯のこと友達だなんて思えない。
私は友達に、澪にさえ、憂ちゃんとのことを知らせてなんかいなかった。それなのに私は唯に私たち2人のことを言おうとしている。
ただの友達なら私は知らないふりをした。憂ちゃんと付き合ってただなんてのは間違いだ、勘違いだと素知らぬふりをした。
でも唯は憂ちゃんの姉だから。そんな態度では逃げられないのだと私はきっと心の何処かで諦めていたのだ。
この姉にはあの妹を心配する義務がある。


「だからさ、部活は唯がいないからって名目であの日はすぐに切り上げて皆帰ったんだ。それで私は唯の家に行った」

私はコタツに凍てついた両手を突っ込んだ。その中は暖かくてこんな私でも拒まない。

「唯の家に着いて、玄関を開けた憂ちゃんは驚いた顔をしてたけどさ、親はいるのかって聞いたら今日はいないっていうから、あがらせてもらったんだ。あの日唯が食べたお粥は私と憂ちゃんで作ったんだよ。うまかっただろ」

私が尋ねても唯は何も言わなかった。それをどう受け取っていいのかわからずに私は話を続けた。

「私と憂ちゃんはさ、初めてこの家に来た時からなんとなくお互いに惹かれて行ったんだ、きっとさ。じゃなかったらあんなに接点がなさすぎたのに2人で付き合うだなんて、そんな結論に至るはずはないんだよな」

私はおかゆを作りながら、憂ちゃんはそれと同時に2人分の夕食を作りながら普段は挨拶程度の関係なのに色んな話をしたんだ。
学校の授業のこと、唯のこと、私自身のこと、憂ちゃん自身のこと。

そして、いつの間にか出来上がったおかゆを唯のところへ持って行って、2人で熱にうなされている唯の様子を見て、一緒に階段を降りて。

「あぁ、唯の寝顔は可愛いって2人で言い合ったんだよな、あの時」

「そういうのいいから」

唯が笑ってくれなかった。
そうか、唯の中で事態は私が思っているよりも深刻みたいだ。

階段を降りて、そうしているうちに思ったんだ。
私は憂ちゃんが好きだし、憂ちゃんも私が好きだろうって。
この瞬間を逃したらもう私は憂ちゃんのことを好きだとか伝えたいと思えなくなるかもしれないし、憂ちゃんとももうこういう風に話をすることもできないかもしれないって。

だから、階段を下りきって、私たちもご飯でも食べましょうかって私の方に振り返った憂ちゃんに言ったんだよ。

「私は憂ちゃんが大好きだよ」って。

憂ちゃんは一瞬きょとんとした。本当に私の言った意味がわかっていないみたいだった。
仕方がないから私はもう少し具体的に言ってみた。

「私はその、憂ちゃんのことが好きなんだ。だから、付き合って欲しいんだけど」

通じたんだろうな。憂ちゃんは今度は顔を真っ赤にしたよ、一瞬で。
私は唯にそういう風に私たちの最初の話をした。唯は気難しそうな顔で話を聞いていて、そういう表情を私は別れ話の時にも見たような気がして胸が痛くなった。
居間には彼女の生活感が溢れていた。
今にも学校から帰ってきそうでヒヤヒヤとした。でも、何も知らないで帰ってきた彼女に鉢合わせたら、憂ちゃんはどんな顔をするのだろうと私は思った。見てみたいと思った。想像してみたけど、うまく憂ちゃんの顔を思い出すことができない。私はまだ憂ちゃんがとても大切なんだ。

私の誕生日に憂ちゃんはケーキを作ってくれた。イチゴのショートケーキだ。味は、憂ちゃんとしては驚くようなものだった。
私は4口目でむせこんでしまっていた。
「ごめんね、律さん」と泣いてしまった憂ちゃんを私は泣き止ませることができなかった。
それは明らかに失敗で、明らかにリカバリーできるものではなかった。
私の部屋のベッドに座り、顔を隠して泣く彼女の背中を私はただ撫で続けた。泣く澪の背中を撫でている時、私はそんなことちっとも気になんてしなかったのに、その時は背中を手のひらが上下するたびに薄い布越しに感じる、ブラのホックの存在が気になって仕方がなかった。

泣いている憂ちゃんの両肩に自分の手を置いて、私はゆっくりと自分の方へ憂ちゃんを身体ごと向けた。
普段完璧である人は自分の失敗を受け入れられないのかな。それとも、あの時私たち2人は何かがおかしかったのかな。憂ちゃんが砂糖と塩を間違えるだなんてさ。私が憂ちゃんにキスをするだなんてさ。

ゆっくりと憂ちゃんの唇をついばむことを繰り返した。
声にならない呻きを、憂ちゃんがあげる度に私はもっともっとキスがしていたくなるのを抑えきれない。憂ちゃんの頬が真っ赤な夕焼けのように染まっていって、私はキスの間中、小学校からの帰り道で見た夏の夕方の風景を思い出していた。進む先はオレンジ色に染まっていて、でも振り向けば星は全く見当たらなくて、そこにあるのは夜の暗闇だった。

キスをしたまま憂ちゃんを押し倒すと、ポスン、と憂ちゃんは私のベッドになんなく横たわった。
私の部屋の、私のベッドの上で、眼前には憂ちゃんが、私の好きなようにさせてくれることを暗黙のうちに合意してそこにいてくれる。心臓はバクバクした。
今にも部屋のドアが開いて頭の上に拳骨が落ち、馴染みのある声で怒鳴られるんじゃないかとさえ思った。

これでいいのかな、これでいいのかな、と思いながらキスをしていると憂ちゃんが私の首に腕を回して私をさらに憂ちゃんに近づけさせた。
こうなると、もうダメだった。
口から首に移動して、舌で首を舐めてみる。現実的な汗の味がした。

「シャワー浴びさせてくれないんですか」

と憂ちゃんがボソボソと尋ねてきた。

「あぁ、えっと、浴びる方がいいのかな」

「できれば」

その日はまだ家族は父方の祖父母の家に泊まったままで、家には2人きりだった。この日ばかりは高校の課外授業のことをありがたく思った。

憂ちゃんがシャワーを浴びに行っている間、私はまるでスーパーマーケットの前に繋がれた犬のようだった。
憂ちゃんはちゃんときてくれるだろうか、逃げたりしていないだろうか、部屋に戻ってきてから、やっぱりやめましょうだなんてことにはならないだろうか、本当にこんなことをしていいんだろうか、ずっとそわそわして、カチューシャを付けたり外したりもした。
ただただ、不安だった。私の欲望を、そんなとても個人的なものを憂ちゃんにぶつけてもいいのか不安だった。憂ちゃんにヒかれたら、私はどうすればいいのかわからない。
そわそわしてぎこちない時間が過ぎて行った。時計の針の進む音よりも鼓動が速い。好奇心、性欲、不安、焦燥、きっとあの時の私の中はそんなものが凝縮された100%ミックスジュースのようなものだった。
100%ミックスジュースのようなものをたっぷりと含んだ犬の私は、生活を豊かにする日用雑貨が売られているスーパーマーケットの前でただひたすら飼い主が戻ってきてくれることを待ってシッポをパタパタとさせている。
もうわけがわからない。
よくドラマで男がベッドの上で彼女がシャワーから浴びるのを待っているシーンがあったけど、まさか自分がその彼女の側ではなくベッドの上の男の側になるだなんて思いもしていなかった。
人生はいつも妙な確率で、思いも寄らない出来事をふっかけてくる。
今の私には憂ちゃんを待っている間にパタパタと左右に揺れるシッポのような、バロメーターなこの心臓ぐらいしか自分を奮い立たせてくれるものがなかった。

それから憂ちゃんがはずかしそうに、でもシャワーで火照った身体で私の部屋に再び足を踏み入れて、私はとても安心した、そしてシッポの速度は今までにないくらい最速になった。
無言で憂ちゃんがベッドに腰掛ける私の横に座ってきた。

これからコトを運ぼうとしている。私たちは2人でスーパーマーケットから家路に歩いて行くのである。
まるで万引きをしたかのような罪悪感が胸を襲う。
それは一種の革命で、私たちは共犯者だった。

電気を消すと、夏の夜が部屋を覆い尽くした。あのオレンジ色の夕焼けは一体いつの間にかどこに行ってしまったんだろう。
まだ暗闇に慣れない私の目に映るのは、同じくらい不安と好奇心に顔を火照らせた憂ちゃんの顔らしいものだった。

それから、熱いため息とか、人生の意味とか、女の子の胸の柔らかさとか、濡れたシーツの冷たさとか、意外と見慣れてなかった血の色の鮮やかさとかそんなものを2人で知ったんだ。
革命はせいこうだった。

唯が悲しそうな顔をしていることに気がついた。
私は「寒いならエアコンを入れようか」と家主でもないのに尋ねた。
返事は返ってこなかった。

その日以来、私は考えるようになったんだ。2人で歩いているとすれ違う恋人同士を見る度、街で無邪気に笑っている母親と赤ん坊を見る度。
憂ちゃんが男と楽しそうに手を繋いで歩いている場面、憂ちゃんが赤ん坊を抱いて幸せそうに笑っている場面。
どれも私にはあげられそうにないものばかりだった。
あの夜が過ぎて、私の中に残ったものはどうやら焦燥感や常識をより色濃く私の目に映させるフィルターのようなものだったらしい。
あの日の好奇心とか、罪悪感とか、スーパーマーケットの前で飼い主を待っているイヌのキモチだとかが、私の心からスライドしていった。きっとスーパーマーケットの裏のゴミ置き場を漁れば見つかるのかもしれないけど。


私は別に自分のことを特別不幸だなんて思ってはない。ちゃんと考えたんだ。時間を置いて客観的に見られるように心がけて考えたよ。
あの時のキスは確かに幸せだった。
あの日の夜の革命は成功だった。
私を幸せな気持ちにさせてくれた。
もちろん憂ちゃんだってそうだったんだと思う。
あの時の憂ちゃんを泣き止ませたのはあのキスだったんだから。
あの日の憂ちゃんはとっても可愛くて私の存在を全身で肯定してかれたんだから。
でも、ただ私は好きだからこそ憂ちゃんに本当に幸せになってもらいたいと思ったんだ。
そんなさ、自分で言っておいて何なんだけどさ、お互いに惹かれていった、とか、そんなドラマ的な展開を望んでいたわけじゃなかったんだ。
ただ、幸せになってもらいたいと思ったんだ。それを自分が手伝いできたらいいなって思っただけだったんだ。

でも、それは私の役目じゃない。
憂ちゃんのことを幸せにする人は私じゃないんだ。
憂ちゃんのこと好きだって直感した時みたいに、私はそう思ったんだ。
もう一回言う。
私はそういう自分のことを不幸だなんて思ってなんかいない。

「りっちゃんは身勝手だね。最低だよ、そんな考え方」

「そうだよ、私は最低なんだよ」

「そうやって、開き直ってるところも含めて、だよ」

「手厳しいなぁ、唯は」

そこまで言って、私は最後の一粒を口に運んだ。噛んだ瞬間にガリッという音が立って、歯から異物感が脳まで広がって行った。どうやらこの一粒だけには種が入っていたらしい。散々唯に食い散らかされての結果がこれか。みかんのロシアンルーレットか、と私は思ったけど言わなかった。

「憂だって、きっとりっちゃんを幸せにしたいって思ってるよ」

「そうだったのかな。うーん、それは他人ではわからないって」

「ずっと一緒にいた私がそう言ってるんだからそうなんだよっていう助言だよこれは」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ。ねぇ、憂」

私はさっさとこの家を去るべきであったと後悔した。そもそも、唯についてノコノコとこの家に来るべきではなかっんだ。

いつの間にか憂ちゃんが居間にいた。一体いつからこの話を聞いていたのだろうか。別れ話ですら言っていなかった内容をおそらく聴かれてしまっている。別れ話はとてもありきたりなものにした。澪が好きになったから別れようと言ったのだ。おそらくこの部分が唯が私を家に招いた原因であると思う。私は嘘がうまくなっていくことと、嘘がこんな形でばれてしまったこと、そしてその嘘に澪の名前を出したことを急に恥ずかしく思った。

「どうして私の幸せを律さんが勝手に決めるの。嫌だよそういうの」

久しぶりにちゃんと見た憂ちゃんはフワフワとした雰囲気がなくなっていた。前はあんなにいるだけで誰もが優しい気持ちになれるような人だったのに。私が奪ったんだろうか。いや、自惚れも大概にしろよ。そんなことあるわけないさ。でも、その姿は私の同情をひくには十分すぎるものだったから、シッポをパタパタとしないようにするのに必死だった。


「いや、勝手に決めるもなにも、本当にそう思ってるし、きっとそうだから言っているんだよ」

私は立ったままの憂ちゃんにそう言った。
憂ちゃんは今にも泣きそうで、私はもったいぶらずにさっさと泣いてしまえばいいのに、と思った。
憂ちゃんがこの場で泣いてしまえば完全に私は悪者で、完全に悪役で、憂ちゃんのヒーローとしての役割からは完全に引きずりおろされる。
だから声には出さないで口の中で何回も唱えていた、泣けよさっさと泣けよもう泣いてくれ頼むから私を悪者にしてくれお願いだから他の人と幸せになってくれ泣いてくれ頼むからもったいぶるなよもう革命は終わったんだせいこうして終わったんだこの話のなり抜きがきっと一番大団円なんださっさと泣いちゃえよ。

憂ちゃんを見ているのが辛く怖くて、目を伏せた。
その途端に、身体の右側にいたく重圧を感じた。見ると憂ちゃんが私の右腕にしがみついてきていた。

「やめてよ、そういう風に私から目をそらさないでよ、他のものを見ようとしないでよ、他のものが正しくても私の気持ちを信じてそれを正しいって言ってよ」

「私とのこと、なかったことにしないでよ。律さん」


憂ちゃんは泣いていた。私の願いが叶ったのだ。憂ちゃんはボロボロと情けなく泣いていた。いつもの憂ちゃんからは想像できないくらいにみっともない泣き方だった。
でも、私は悪者にも悪役にもなっていなかった。
だからと言って私はその状況を一変させることができるようなヒーローでもあるはずはない。
私はもう憂ちゃんと離れるということを決めてしまっていて、それは平沢家の居間で何よりもとても正しかった。すでに革命はせいこうを取り戻すには遅すぎていた。
鼓動が落ち着きを取り戻していく。
憂ちゃんは泣き続けていて、私はただ自分の身体にしがみついてきてくれる重みに、やはり自分は正しかったのだとただ涙を堪えることしかできなかった。
そんな私たちを唯はスーパーマーケットの裏のゴミ置き場で腐ったみかんを見つけたような目で見つめていた。


おわり



最終更新:2014年02月05日 00:47