小さな物音が耳に届いて目を覚ますと、
律がちょうど私の部屋から出ようとしているところだった。


「おっと、起こしちゃったか?」


「ん、いいよ、今何時?」


「十時。
そろそろバイトの時間だから、先に行くな」


「もうそんな時間なのか。
……冷えるな」


「そりゃそんな恰好じゃな。
やっぱり澪は寝る時は履かない人なんだよなー」


言われて気が付いた。
そういえば昨日律と愛し合ってからそのまま寝ちゃったんだ。
口元に手を当てて律がわざとらしく笑う。


「ぷっ、澪ちゃん大胆」


「何言ってんだよ、馬鹿律。
でもありがとな、エアコン点けてくれてて」


「そりゃ愛しの澪ちゃんのためですもの。
澪は今日はバイトも休みだろ?
今日はかなり寒いから防寒対策はしっかりな」


「うん、ありがと」


「そんじゃ、行ってくるよ」


「あっ……」


「どうした?」


「ううん、何でもない」


「何でもないって事は無いだろ?
いいよ、このりっちゃん元部長に何でも相談しちゃいな」


「……」


「澪?」


「……キス」


「へっ?」


「いってらっしゃいのキス、まだしてない」


「あ、そういやそうだったな。
澪ちゃんったら甘えん坊さんでちゅねー」


笑いながら律が部屋のドアを閉めて戻って来てくれる。
交錯する視線。
唇が触れ合うだけの軽いキス。
それで十分だった。
深いキスは昨日両手の指の数以上したし、今晩だって何度でも出来る。


「いってらっしゃい、律」


「ああ、澪も外に出る時はあのパーカーとかで身体を温めとけよな」


「うん」


「そんじゃ、今度こそいってきます」


唇が離れた後、そうして私は幼馴染み兼愛しい恋人の律を送り出した。




部屋の中から窓の外を覗いてみる。
強い風が吹いていていかにも寒そうだけど、雪は降ってなかった。
確か昨日の天気予報でも雪が降るとは言ってなかったはずだ。
ちょっと残念だけど、天候ばかりは誰にもどうしようもない。
それより残念と言えば、私がキスの前に言い出せなかった事だ。


「今年も言えなかったな……」


軽く溜息。
分かってる、私が勝手に憶えてるだけの約束だって。
分かってるけれど、寮の部屋の壁に掛けているカレンダーに視線を向けてしまう。

今日は二月十四日。
つまりバレンタインデー。
女の子から好きな人にチョコレートを贈る日だ。
中学生の頃には思春期で気恥ずかしくて贈れなかったけど、
高校に上がって少し落ち着いてからは私は毎年律にチョコレートを贈っている。
高三の頃、学祭の後に私から告白して律の恋人になった後も、勿論ずっと贈り続けてる。

律が私にバレンタインチョコを贈ってくれた事は無い。
ホワイトデーには私が渡した以上のお返しを毎年くれる。
渡したチョコの何倍ものキスと想いを返してくれてる。
私がバレンタインにチョコを渡して、律がホワイトデーにお返しをくれる。
いつの間にか私達にはそういう無言の約束が出来ていた。

律がホワイトデーにお返ししてくれるのは勿論嬉しい。
キスやプレゼントや色んな行為で返してくれるのは、泣き出したいくらい嬉しい。
私はすっごく幸せだ。
これまでも、これからもきっと。

それでも私は思い出す。
小学生の頃、律と親しくなってから話したバレンタインの日の事を。
あの日は、そう、確か今日と違って雪が降っていた。
手のひらに落ちると溶ける粉雪が。




「みおちゃん、あそぼー?」


「ええっ、今日は寒いよ、りっちゃん」


「だいじょーぶ!
外で遊んでたらすぐにあったかくなるって!
ほらほら、雪も積もってるんだし雪だるまとか作ろーよ?」


「うーん、でも……」


「みおちゃん、だれかと約束でもあるの?」


「ううん、ないけど……。
でも今日はとくべつな日だよ、りっちゃん……」


「とくべつな日?」


「バレンタインだよ、バレンタイン!
りっちゃんはだれかにチョコレートをわたしたりしないの?」


「うーん、べつに……。
さとしにはおかあさんといっしょにあげるつもりだけど、チョコはあげるよりもらう方がうれしいし」


「そうなの?
せっかくのバレンタインだよ?
好きな人にチョコをあげてもいい日なんだよ?」


「みおちゃんはだれかにあげたりするの?」


「えっとね……、りっちゃんにあげようと思ってるんだけど……」


「ほんと?
うれしいなあ、みおちゃんからチョコもらえるなんて」


「う、うん……」


「ありがと!
わたしもみおちゃんのこと好きだよ!
ホワイトデーにはたくさんお返しするね!」


「えっ」


「どうしたの?」


「今日はくれないの?」


「うん、だって……」




それは小学生の頃の思い出。
今より積極的な自分がちょっと恥ずかしい。
初めて大好きになれた律ともっと仲良くなりたい一心だったんだよな、あの頃は……。


——だって……。


律がその後で言った事はずっとはっきり憶えてる。
私の胸の中にずっと秘められてる。


——バレンタインのチョコレートはいちばん大好きな人にあげるものだもん!


あの頃の律の無邪気な言葉。
別に律が私の事を好きじゃないって意味じゃない。
まだ好きって事がよく分かってない子だったんだ、あの頃の律は。
バレンタインのチョコレートなんて、アニメやドラマみたいなフィクションでしか無かったんだよな。
その言葉を聞いた私は、その意味をよく分からずに律の前で泣き出しちゃったけど。
その後、どんな風に泣き止んだかは憶えてない。
おろおろした律が一生懸命慰めてくれた事だけは何となく憶えてる。

あれから私は大きなくなったし、律も恋が分かるくらい成長した。
私達は恋人になってキスをするようになったし、
好きだって想いをちゃんと言葉にして届けられるようになった。

それでも思い出してしまう、あのバレンタインの日の律の言葉。
バレンタインのチョコレートは一番大好きな人にあげるものだという言葉。
分かってる、子供の頃の律の何気無い言葉だって事は。
バレンタインに私が渡して、ホワイトデーに律がお返ししてくれるって習慣になってるのも分かってる。
だけど私は思い出して欲しくなるんだ、律から貰えるバレンタインのチョコレートを。
自分が律の一番好きな人になれたって自信が欲しくて。


「まあ、忘れてるだけなのは分かってるけどさ」


苦笑がちに呟いてみる。
子供の頃の言葉だ。
幸せな私の贅沢な悩みだって事くらい分かってる。
子供の頃の思い出に縋り付いてる私が変なだけなんだろうな。

窓の外をもう一度覗いてみる。
やっぱり雪は降りそうにない。
それでも構わない。
雪が降らなくたって今日は幸せなバレンタインだ。


「そろそろ出掛けようかな」


バイトは無いけれど、買っておかなきゃいけないものはたくさんある。
シャワーを浴びる前にバスタオルと服を用意して、
ハンガーに掛けていたパーカーに手を掛けてみて気付いた。
パーカーの被る部分に何かが入っている事に。


「これは……」


心臓が高鳴るのを感じながらそれを取り出してみる。
綺麗にラッピングされた小さな箱だった。
緊張した手付きで包装紙を開けてみると、可愛らしいチョコレートとカードが入っていた。


『ハッピーバレンタイン! 大人になった澪ちゃんへ!』


カードに記されていたのは珍しく丁寧な律の字。
律らしくなくふんだんにハートマークなんて使われていた。


「憶えていて、くれたの……?」


私は泣き出しそうな声を喉の奥から絞り出す。
『大人になった澪ちゃん』。
そのメッセージを見ていて、私はまた不意にあの日の事を思い出していた。




「泣かないでよ、みおちゃん……」


「だってぇ、だってぇ……」


「だってみおちゃん前に言ってたでしょ?
だからわたしからみおちゃんにチョコレートをわたすのは早いかなって思ってたんだ」


「前に、わたしが……?」


「うん、みおちゃんいってたよ?
だれかから好きだって言われたら、はずかしくてどうにかなっちゃうって。
自分から言うのはいいけど、だれかからつたえられるのなんてはずかしすぎるよおって」


「う、うん……」


「それでわたしはきいたよね?
じゃあ、いつになったらはずかしくなくなるのって。
そしたらみおちゃんが言ってくれたんだよ」


「大人に……、なったら……」


「うん、大人になったら、って。
大人になったら好きだってだれかにつたえられてもだいじょうぶになる。
だいじょうぶになるようがんばるって。
だからね、今日はチョコレートをもってこなかったんだよ?」




それはもしかしたら好きって言葉の意味がよく分からなかった律が、その頃出来る精一杯の事だったのかもしれない。
だけど律はその言葉をずっと憶えていたんだ。
子供の頃の口約束を憶えていてくれたんだ。
二十歳になった私に、本当の意味でのバレンタインチョコを渡すために。


「忘れてたのは、私の方だったんだ……」


呟くと、何だか泣き出したくなってきた。
自分の悩んでた事への情けなさはちょっとだけある。
だけどそれ以上に胸がいっぱいだった。
胸が温かくて、心が温かくて、目尻まで温かくなり始めていた。


「律に会いたいな」


思った事がそのまま言葉になった。
会いたい。
律に会いたい。
さっき別れたばかりだけど、会って話がしたい。
バイト中だから迷惑だろうけど、一言だけでも伝えたい。

涙を堪えてもう一度律のくれたチョコレートに目を下ろしてみる。
意識したのか、偶然なのか。
その真っ黒なチョコレートには、きめ細やかなパウダーシュガーがまぶされていた。
それはまるで、あの日、律と二人で降られた粉雪みたいな。


「おまえも十分ロマンチックじゃないか、律……」


呟いて、笑う。
ロマンチストとよく言われる私に合わせたロマンチックなチョコレート。
普段大雑把なくせに、律はそういう気配りも出来る奴だった。
何も考えてないみたいで、いつも私の事を考えてくれていた。
だから大好きになったんだ。

私はこれからシャワーを浴びる。
律の事を考えて、律と話したい事を考えながらお気に入りの服に袖を通す。
朝食を取ったらパーカーを羽織って、チョコレートを鞄に入れる。
律のくれたチョコレートと、律に渡そうと用意していた私のチョコレートを。
それから笑顔で外出していく。
片手には二本の傘を持とう。
私と律の二人分。
雪の予報はされてない。
雪が降るなんて誰も言っていない。
だけど今日はきっと雪だ。
あの日降ったような、儚くて綺麗に胸に降り積もる粉雪。
根拠はないけれど、何故だかそう確信出来る。
だから今日はきっと粉雪なんだ。
そうして予報に無かった粉雪に笑いながら、伝えようと思う。





『大好きだよ』って。



(。U・x・)o オワリデス ハッピーバレンタイン!!



最終更新:2014年02月14日 08:09