これまで以上の戸惑いの表情を見せる梓。
当然だ、梓には何の関係もない事を律は言ってしまっているのだから。
この激昂は単なる八つ当たりでしかない。
律が二百度以上のループを重ねているなど、梓の想像の範囲外だ。
そんな事は百も承知だ。
だが止まらなかった。
胸に抱えていた物を全て吐き出さずにはいられなかった。
それは死を目前にした者の心情の告白に近かった。
律はもう完全に己の死を決意し始めていた。
どうにもならない。どうにも出来ない。
これ以上ループを重ねた所で、恐らくは梓を余計に傷付けるだけ。
周囲の人間を不幸にさせるだけだ。
同じ日を何度も重ねて律が得られた答えがそれだった。
単なる足踏みを重ねても、前には全く進めないのだ。
「つ、疲れてるんですよ、律先輩。
家に帰りましょうよ、お送りします。
何だったら今からタクシーを呼びますから……」
「ほっといてくれよ!」
「っ!」
「ほっといてくれ……!
もう終わりなんだ、終わらせなくちゃいけないんだ……!
学園祭を楽しみにしてる皆には悪いけど、もうどうにもならないんだよ!
私の……、私の事なんて忘れて、新しいドラムを見つけてくれ!
それが軽音部のためにも一番いいんだよ!」
「りつ……せんぱ……」
肩に置かれそうになった梓の手を振り払う。
瞬間、梓は心の底から怯えた表情を浮かべた。
梓は後輩で、背も低くて、生意気なだけのよく泣く年下の女の子なのだ。
怯えるのも当然だった。
律の胸と心が悲鳴を上げる。
梓に怯えられた現実に、大声で泣き出したくなった。
だが律はそうしなかった。
泣くわけにはいかない。
これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。
そして最後に部室全体に響くような絶叫を轟かせた。
「出てってくれ!
もう二度と連絡もしてくるな!」
泣いていたのだと思う。
二人とも。
梓も、律の心も。
だが梓は泣き顔を見せなかったし、律も二度と梓の顔を見ようとはしなかった。
見られるはずがなかった。
これで終わり。
梓と過ごした楽しかった毎日、梓と重ねたループが終わる。終わらせるのだ。
二人とも何も言わずに、足音だけが響く。
扉の音で梓が部室から出て行ったのだと分かった。
床が水滴で濡れているように見えたのは気のせいだろうか。
——嫌われちゃったな……。
あれだけの事を言ったのだから当然だが、改めて思い浮かべるときつかった。
それなりに、いや、普通の先輩と後輩よりはかなり仲良くやれていたはずの関係の終焉。
終わらせる事は辛かった。
だが終わらせなければならなかったし、もう繰り返すつもりもなかった。
恐らく結果的にはよかったのだろう。
あれだけの事を言ってしまったのだ。
今夜律が事故死してしまったとしても、それほどの衝撃は受けないに違いない。
いっそざまあみろと思ってくれても構わない。
その方が律も躊躇いなく死を迎えられる。
「ごめんな……」
気が付けば律の目の前がぼやけていた。
それは律の目から涙が流れているからに他ならなかった。
死よりも何よりも、大切だった後輩を傷付けてしまった現実が辛かった。
自分自身の愚かさを許せなかった。
「うっ……くくっ……ううっ……」
涙はすぐに嗚咽となり、部室の中を律の嗚咽で埋めるのにそう時間は掛からなかった。
日が昇り、傾き、夕焼けが部室を照らすようになるまで、律はその場で泣き続けた。
止まらない涙を流しながら、これを最後の涙にしようと律は決めた。
*
夜道を歩く。
最後の日、最後の夜、最後の夜道。
律は月光に照らされる。
幸か不幸か、今宵の月は雲に覆われていなかった。
ひどく久し振りに感じる月の光。
何故そう感じるのか、少しだけ首を捻ってみて分かった。
律が夜を拒絶していたからだ。恐怖していたからだ。
繰り返す世界、繰り返す時間、終わらないループ。
それらを夜が齎しているように思えて仕方がなかったからだ。
だから律は夜を感じないようにしていた。
空に浮かぶ月に視線を向けないようにしていたのだ。
——最期くらい、いいか。
近所の山、かなり奥まった山道で律は月を見上げる。
最後の月は、最期の月は馬鹿みたいに綺麗で、律の胸を強く抉った。
月の形が水面から見ているかのように歪む。
無論、律の瞳に涙が溜まっているからに他ならなかった。
だが涙を頬に流す事だけは耐えた。
涙は夕方の物で最後と決めたのだ。
自分の決めた決心を守らなければ、到底これから死に向かえそうもなかった。
唐突に。
ズボンのポケットの中身が振動した。
先刻から鳴り続けている携帯電話。
自宅から七件、澪と唯から十件、紬から八件、
その他のクラスメイトからも多数の着信があった。
おそらく宵闇の時間を越えても帰宅しない律を心配した両親が、クラスメイト達に連絡を取ったのだろう。
メールも十数件届いている。
最新のメールにだけ目を通してみる。
『どこにいるんだよ、りつ
このめーるをみたられんらくしてくれ』
変換の手間すら惜しかったのか、平仮名だけのメールを送って来ていたのは澪だった。
幼馴染みであり、長い付き合いがある澪だ。
これほどまでに連絡が取れない律に何かが起こっている事を本能的に直感しているのだろう。
澪との過去が律の脳裏に次々と思い浮かぶ。
面白い奴だった。楽しい奴だった。一緒に居ると幸せに笑えた。
澪が居たから、楽しかった。
——最後に一度だけ連絡を取ってみるか?
メール見ながらそう考え掛けたが、即座にかぶりを振った。
駄目だ。
今連絡を取ったが最後、胸に押し殺した想いを澪にぶつけずにはいられなくなる。
澪だけではない。
唯や紬、和やさわ子、多くのクラスメイト達とも連絡を取らずにはいられなくなる。
多くの人間に遺言を残して、その胸に傷を残してしまう事になる。
だから律は誰とも連絡を取るべきではないのだ。
携帯電話の電源を切ろうとして、最後に着信履歴を確認してみる。
多数の着信履歴に埋もれてしまっているという事はなかった。
着信履歴の中に、先刻喧嘩別れした梓の着信は確認出来なかった。
よかった。
梓はまだ自分を嫌ってくれている。
これならば最後に自分と会っていた人間としての負い目を持たずにいてくれそうだ。
梓に残る傷など、可能な限り軽いに越した事はないのだから。
それだけが律の最期の救いだった。
目を瞑れば浮かぶのは、体感時間で半年間遊び続けた梓の笑顔。
いい笑顔だった。
呆れた顔を浮かべる事も多かったが、遊んでいる時は心底楽しそうだった。
これからもあの笑顔は失われないでいてほしい。
あの笑顔だけは。
一瞬。
律の脳裏に何かが引っ掛かった。
そういえば——
——そういえば私は、どうして八月三十一日をやり直したいと思ったんだっけ?
梓の笑顔が欲しかったからだ。
最低にしてしまった一日を最高に上書きしてしまいたかったからだ。
だが、何故、梓を笑顔にさせたかったのか?
決まっている。
怒らせてしまったからだ。
他愛の無い事ではあるが、自分の何気無い行動で梓に不快な思いをさせてしまったからだ。
そんな現実など、無かった事にしてしまいたかった。
その願いは叶った——のだろうか?
半年分の梓の笑顔は手に入れる事が出来た。
その引き換えに律は自らの命と、仲間達の笑顔を失ってしまう。
多くの可能性を失ってしまうのだ。
一時の失敗をやり直そうと思ってしまったが故に。
——馬鹿なお願いをしちゃったもんだよな……。
最期の深い深い嘆息。
気が付けば、律は山中の立ち入り禁止の区域に立ち入っていた。
先日の台風の影響もあるのだろうか。
滑落死に申し分無い程の崖が足の下に広がっていた。
高さにして約三十メートル。
この空間に足を踏み出せば、恐らくは死ねる事だろう。
即死出来るかどうかは分からない。
いや、即死出来なくて構わない。
最終的に死に至れればそれでいい。
死に至るまでの痛みは、仲間達を悲しませる事の罰だと考えればいい。
不意に思い立って、携帯電話を足下の空間に落としてみる。
予想以上の長い沈黙の後、携帯電話が砕け散る音が遥か下方から響いた。
これでいい。
何らかの理由で山に来た自分が、誤って携帯電話を落としてしまった。
それを探していた自分が足下の崖に気付かず滑落死してしまう。
筋書きとしてはそれで事故死として全ては処理される事だろう。
それで全てが終わる。
この不可解なループも、叫び出したい程の苦しさも、律の命も。
——ごめんな、今までありがとう、皆。
ゆっくりと足を踏み出して行く。
最期の最期に仲間達の顔を思い浮かべる。
——唯、今だから言うけど、私はお前の笑顔が大好きだったよ。すっげー楽しかった。
——澪、泣いてもいいけど、出来ればすぐに私の事を忘れてくれよ。お前は私が居なくなっても大丈夫なはずだから。
——ムギ、皆を支えられるのはムギだけだ。いい曲、今までありがとうな。
——和、二年の時は迷惑掛けたな。澪の事、泣いてたら頼むよ。
——梓……。
急に梓の笑顔が思い出せなくなる。
先刻まで思い出せていたはずなのに、今では既に遠い記憶となってしまっている。
思い出したい梓の表情。
梓の笑顔。
だが、律が思い出せたのは、梓の笑顔ではなく、ループ前に見た梓の——。
瞬間、強風が吹いた。
余りの強風に草葉がざわめき、木々が揺れた。
そして、律もバランスを崩し、自らの意思でなく足を踏み外して。
——何だよ、結局最期は事故みたいに死なせるってか?
苦笑しながら、律は何故か不意に思い出した。
飛び降りた人間は、地面にぶつかる一秒前まで確かに生きているらしいという話を。
どうでもいい事だった。
律はどうでもいい事を考える意識を手放して、その後の衝撃に備えた。
瞬間——
肉体が落下する直前——
劈く様な大声が雑木を揺らした。
強風すらも物ともしない、耳に強く残る声だった。
「何をしているんですかっ!」
柔らかい感触に掴まれる腕。
しかしその柔らかさの中には強い力が込められていて、痛みまで感じるほどだった。
暗闇の中、振り返る律。
振り返ったところで大声を発した人間の顔を確認出来るはずがない。
痛いほどに自分の腕を掴む誰かを確認出来ない。
夜の山中とは、それほどまでの闇に包まれているものなのだから。
だが、山中に響いた声には聞き覚えがあった。
爪を立てるほど律の腕を強く掴んでいる小さな手の感触には覚えがあった。
そこに居ないはずの彼女。
嫌われたと思っていた、嫌われなければいけなかった彼女。
梓——。
何故かそこに居た彼女が、律の落下を止めたのだ。
しかしとりあえずの落下が止められたからとは言え、
律の体勢が崩れているのは揺るがしようの無い事実でもあった。
少なくとも律よりはかなり非力である梓が律の体重を支え切れるはずもない。
このままでは二人とも落下してしまうのは時間の問題だった。
律の片足は既に宙を舞っている。
体勢もクラウチングスタートに近い前傾姿勢だ。
この状態から体勢を立て直すなど至難の業だろう。
だのに、律は残された左足で踏み止まったのだ。
踏み止まれた理由は分からない。
梓の手を振り払って、自分だけ落下してしまう事は可能だったかもしれない。
繰り返す時間の螺旋を阻止するためには、その方が賢明だったのではないだろうか。
愚かしい選択だと律自身思わなくもない。
しかし、それでも——、律は踏み止まったのだ。
梓の前で自分が死んでしまう光景など見せられるはずがない。
これ以上傷付けて、涙を流させてしまうわけにはいかなかった。
「こ……のっ!」
踏み止まった左脚に渾身の力を込め、ドラムで鍛えた腹筋で背筋を伸ばす。
崩れていた姿勢を立て直し、宙を舞っていた右足で大地を再び踏み締めた。
落下を免れたのだ、間一髪のところで。
しかしそれが限界だった。
無理な運動をしてしまったためだろう。
一瞬にして脚に力が入らなくなり、律は梓を抱き止める様な体勢で崖とは逆の方向に転がった。
あっ、と思った時には遅かった。
眼前には風で揺れる事も無かった樹木の太い幹。
衝撃に備える隙も無かった。
律はその幹に額を強く打ち付け、その場に倒れ込む事になってしまった。
「ってぇ……!」
呻きながら額に左の手のひらを当ててみると、粘着性のある熱い液体の感触があった。
手のひらを開いて確かめてみるまでもない。
どうやら額を切って出血してしまっているようだ。
それだけではない。
気が付けば長いと自覚している自らの前髪が視界を覆っていた。
左の手のひらでもう一度確認してみるが、愛用のカチューシャを頭部に見つける事は出来なかった。
衝突の衝撃で割れてしまったに違いない。
そうある事ではないが、律にも何度かカチューシャが割れた経験があった。
その時にもそう、律は頭をかなり深く切ってしまっていたはずだ。
しかし、そんな事は重要ではなかった。
それよりも今は腕の中に抱き止めた、律の落下を止めてくれた梓の事が気掛かりだった。
右腕を開いて、胸の中に確かに存在している梓の姿を確認してみる。
「梓……?」
疑問形だったのは、暗黒の中で認められた梓の髪型がサイドテールだったからだ。
前例が無いわけではないが、普段ツインテールである梓がサイドテールにするのはかなり珍しい事だった。
「律……先輩……」
震えた声が微かに聞こえる。
何とか律の夜目も効くようになって来た。
分かっていた事ではあったが、律の落下——律の自殺——を止め、律に馬乗りになっているのは確かに梓だった。
——どうしてこんな山の中に?
そう訊ねるより早く、律の頬に鋭い痛みが奔った。
梓の手のひらで頬をはたかれたのだ、と律が理解するまでにはかなりの時間を要した。
「何をしているんですかっ!」
先刻と全く同じ言葉を吐かれた。
しかも先刻よりも更に激しい迫力でだ。
「馬鹿じゃないんですか、こんな山奥に一人でっ!
誰の電話にも出ないでっ!
携帯電話も落としちゃってっ!
律先輩はっ! こんな所でっ!
馬鹿みたいに何をしちゃってるんですかっ!」
釈明は出来たかもしれない。
だが律はそうしなかった。
梓の言っている事は概ね正しかった。
誰にも迷惑の掛からない死に方を模索して夜の山に足を踏み入れて、何をしようとしていたのだろう。
涙を流して絶叫する梓の姿を見て、実感させられる。
誰にも迷惑を掛けない自殺など存在するはずがない。
最小限に留めようと心掛けたところで、自分の死は周囲に多くの影響を与えてしまう。
それが良き事にしろ、悪しき事にしろ。
律は確かに繰り返す無限のループを止めたかった。
世界そのものの行く末を案じていたのは本当だ。
自分の周囲の時間が繰り返す事で、世界全体の時間が停滞しているのではないかという不安感もあった。
自らの責任で皆の時間を止めてしまうのは間違いなのだと、何となくそう考えていた。
だから死にたかったのだ、皆に、梓に二学期を迎えてほしくて。
けれど律の死もまた周囲の時間を止めてしまう行為だった。
律が死ぬ事でループが解消されたとしても、皆の心には一生消えない傷が残るだろう。
他に取るべき行動が無かったとは言え、やはりするべきではない事だったのだ。
だから——
「ごめん、梓……。
私が、悪かったよ、本当に……」
謝った。
謝罪してどうなる事でもないのだろうが、謝らなくてはならなかった。
自らの間違いを認めるべきだったのだ、律は。
今回も、あの時も。
——あの時?
自分で考えた事だが、律は思考を止めてしまった。
『あの時』の事をすぐには思い出せなかった。
否、思い出さないようにしていたのだ。
この繰り返す時間の中で梓を笑顔にしてやるためには、失敗の記憶など無い方がいいと考えていたからだ。
あの時——最初の八月三十一日——、律は失敗してしまった。
楽しかったはずの一日に、最低の結末を迎えさせてしまった。
律はそれを認められなかった。
認めたくなくて、最低の一日のやり直しを強く願った。
しかし、その結果こそがこの繰り返す世界で——
「律先輩」
律に素直に謝られた事で気が抜けてしまったのだろう。
涙こそ止められていなかったものの、若干穏やかな声で梓が呟いていた。
「……何だ?」
「頭から血が出てます。
早く手当てしないと……」
「別にだいじょ……」
言い掛けて口を噤む。
そうではない。
今言うべきなのは遠慮の言葉ではない。
今すべきなのは、これ以上迷惑を掛けられないと思う事ではないのだ。
「悪い、頼むよ、梓」
「はい、動かないでくださいね」
大したものだ。
今は泣いている場合ではないと思ったのだろう。
しゃくり上げながらも、梓は背負っていたリュックから消毒液を取り出した。
抱き止めた時には気付かなかったが、梓はリュックに医療品を詰め込んでいたらしい。
「準備がいいな」と訊ねてみると、「律先輩の様子がおかしかったから」と梓は応じた。
律の腕を掴んだ時に落としてしまったらしい懐中電灯を梓が見つけると、本格的な治療が始まった。
「消毒沁みるー……!」
「我慢して下さい。
崖から落ちていたら、こんなものじゃすまなかったんですからね」
「分かってるっつーの……」
軽口を叩きながらも、律は苦笑してしまった。
自分はとことんまで分かっていなかったのだ、と自覚させられたからだ。
律はカチューシャが割れるほどの衝撃で樹木に衝突した。
ただ出血こそしているものの、それほど深い傷ではなさそうだった。
恐らくあって二センチ程度の傷だろう。
それでこれほどまで痛みを感じるのだ。
かなり痛いと感じていたはずの澪に拳骨の数倍は痛みを感じる気がする。
——滑落してたら、どれくらい痛かったのかな。
自分でしようとしていた事ながら、想像するだに身震いする。
滑落で即死するという話はあまり聞いた事がない。
余程の高度から滑落しない限り、恐らくは失血死か感染症での死がほとんどだろう。
この額以上の痛みを長時間全身に感じ続けるのだ。
その痛みをこそ望んでいたはずなのに、今の律はその痛みが恐ろしかった。
何も分かっていなかったのだ。
死の痛みも、周囲に与える影響も、梓という後輩の事も。
「なあ、梓」
額の治療が完了して一息吐いた頃、律は静かに訊ねてみた。
治療中、梓は律の上に乗った体制のままで動こうとはしなかった。
また律が勝手な行動を取ると思っているのか、それとも——。
「何ですか、律先輩?」
「おまえ、どうしてこんな所に?」
「律先輩に言えた事ですか?
私は律先輩の事が気になって後を付けていただけです!」
「そ、そうか……」
だけという話ではないだろう。
律はかなりの長時間部室にこもっていたし、最初から尾行していたとは考え辛い。
恐らく梓は一旦帰宅した後、それでも律の様子が気になって学校に戻ったに違いない。
もしもの事があった時に備えて、相応の準備をした後に。
あれほどの暴言を吐き、あれほど自分を傷付けた律の事を心配して。
律の携帯電話に梓からの着信記録が残っていなかったのもそれだろう。
軽音部の皆が律の消息を掴もうとしている間、梓はずっと律の動向を見守ってくれていたのだ。
梓はそういう後輩だった。
何故忘れ去ってしまっていたのだろう。
とても大切な事であるのに。
「それで、律先輩はこんな所で何をしてるんですか?」
「そ、それはだな……」
一概には説明出来ない。
無限ループの事を説明したところで、梓にそれを信じてもらえるだろうか。
だが律の気は不思議と楽になっていた。
到底信じられる話ではないのは分かっている。
信じてもらえなくても構わない。
けれど律は思ったのだ。
もう素直になろう、と。
律は多くの出来事と多くの感情をひた隠しにしてきた。
本当にしなければならない事から目を背け続けてきた。
先刻、落下する直前に脳裏を掠めた梓の表情を思い出す。
走馬灯の如く思い出したのは梓の笑顔ではなかった。
泣き顔でも、呆れ顔でも、ライブをしている時の真剣な表情でもなかった。
脳裏を過ぎったのは梓の怒り顔だったのだ。
最初の八月三十一日、小さな事から大喧嘩をしてしまった時の。
律はずっとその怒り顔を消そうと思っていた。
繰り返すループの中で、梓を幸せにしてやる事で嫌な記憶を上書きしようとしていた。
それで律は実際に嫌な記憶を消し去れたのだ。
だがそれはあくまで一時的な物に過ぎなかった。
いくら梓を幸せにしても、自分が楽しくても、胸の中にはしこりが残ってしまっていた。
最初の失敗を引き摺り続けてしまっていた。
梓を幸せにしてやるという方法論自体は、恐らくは間違っていいだろう。
だが律にはそれより先にしなければならない事があったのだ。
それは即ち——。
「なあ、梓、聞いてくれるか?
信じられる話じゃないだろうけど、とりあえず聞いてほしい。
私は死にたかったんだよ。
いや、単に自殺したかったわけじゃない。
自殺したかったのは、ずっと繰り返してたこの現状を打破したかったからなんだ。
始まりは八月三十一日なんだけどな。
今日じゃなくて一番最初の八月三十一日にな、私はおまえと喧嘩して、それで——」
最終更新:2014年03月10日 22:14