ここ数週間、梓の様子がなんだか変に思えて私の方から、
家に遊びに来ないか、と誘ってみた。

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大学も2年目になると、
こういう風に過ごせばどうにかなる、
と身体に習慣が染み付いてしまうのか、大学生活にも余裕が出てきて。
言ってしまうと、ダラけていた。

そんな折、6月に入り梅雨の到来と共に、寮における、私の部屋はとても水っぽくなってしまった。

最初は「ポタッ......ポタッ......」
だったのが、
まるで屋根裏にできたダムが決壊したみたいに部屋の中で土砂降り状態になって、
私と他にもう2人ほどの先輩は数週間、大学近くのウィークリーマンションでの生活を余儀なくされた。

6月の二週目に始まった工事は、7月の中旬まで続くらしい。

根底から修繕しなければならない程の雨漏りだとは思っていなくて。
突然、律とも、唯ともムギとも離れざるをえなくなり、寂しくは思った。

でも、予想外に始まった1人暮らしは、
慣れて刺激の少なくなった毎日に、
例えるならば、出しっぱなしにしてしなしなになったレタスが水につけられて再びシャキシャキ感を取り戻していくような、
そんな感覚を私に与えてくれていた。

ずっとみんなと、律と離れて暮らすわけじゃないし、
大学に行けばもちろんみんなに会える。

そのようにもたらされた、1LDK、ロフト付きのマンションでの暮らしに私は、
宝くじで1万円を当てたような満足感を覚えていた。

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「お邪魔します......」
と、動物病院に連れてこられた猫のように、
梓はビクビクしながら私の仮家に足を踏み入れた。

大学からは電車で2駅分。

川沿いに立てられたからマンションの名前は

[リバーサイド桜並木2号館]

既に散ってしまっていて、その風景を見ることはできないけど、
近くには川に沿って桜が植えられて桜並木を形成している。

春に見たら、さぞかしきれいだろうな

と、雨に打たれて震える若葉だけの木々を見ても思えるくらいに
本当に沢山の桜の木が連なっている。

知っていれば、律や、みんなと春に花見でも来たんだけどな。
仕方ない。
花見は来年の楽しみにでも取っておこう。

私の作った夕ご飯を食べて、
2人でテレビを見たり、
最近聴いている音楽についての話をしたり、
実際に音楽をかけたりして、
まったりと過ごしていた。

初めは遠慮していた梓だったけど、時間が経つにつれていつもの梓のような声の出し方、笑顔、振る舞い方になっていて、
私は内心ほっとした。

様子がおかしいと思っていたのは、私の勘違いだったのかな
いや、勘違いなら、勘違いのままで良かったんだけど......

ムギの作った新曲について、一通り互いに語り合った後、
時計をチラリと見てみると既に朝の4時半だった。

「喋りっぱなしだったな......」

「......本当ですね。もう4時半だなんて、少しびっくりしました」

「ちょっと寝る? あ、でも、どうせ明日、っても、もう今日か。
土曜日だし......用事ないからまだ起きててもいいけど」

「......なら、ちょっと散歩しません?」

「散歩?」

「はい、朝の散歩」

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6月の下旬って言っても、まだ梅雨は明けていなくて、
夜の間中はジトジトとした雨が降っていた。

だけど、外に出てみたらいつの間にか雨は止んでいた。
念のため、私も梓も傘は持って外に出た。

私はTシャツにジーパン。
梓は半袖のパーカーとショートパンツ。

私は青くてちょっとくたびれたスニーカー。
梓はちょっと底が厚いエスニックサンダルで、
ターコイズブルーにネイルされた爪先が、とても女の子っぽいと思った。

ねっとりと湿った空気が身体の表面にまとわりつくけど、
梓と2人で朝の散歩なんてはじめてだから、なんだかウキウキしてた。
徹夜をしてテンションもちょっとばかしハイになってたのかもしれない。

2人で川沿いに整備されたウォーキングコースを歩いた。

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途中、コンビニがあって、
私は「入ろうか」と誘ったけど、
梓は「いいです」と言って、入ることを拒んだ。

「なら、ちょっと待ってて、すぐに戻ってくるから」

と、私は梓をコンビニの前で待たせて1人、中に入った。

中には客は私だけで、覇気が無い店員の声に何の反応もせずに私はドリンクコーナーに行き、
お茶を2本と、チョコレートの箱を1箱買ってサッサとコンビニを出た。

レジの最中に梓の方を見やると、
何を考えているのか、
左に1つにまとめてサイドテールにした先を揺らしもせずに梓は突っ立っていた。

「お待たせ」

と言いながら近寄ると

「いえ」

と少し梓は笑った。

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そのまま、2人でまたウォーキングコースをのんびりと歩いていく。

少し行った所で土手を整備したのか、高架下にちょっとした広場のような開けた空間を見つけた。

少人数制のサッカーならできるんじゃないだろうか、
というくらいのスペースに、
しかも、高架下に、ベンチが1つ、無造作に置かれていた。

妙なこともあるもんだ

と思いながら、2人でベンチに座ることにした。

ベンチは雨で濡れていて、梓がポーチの中からハンドタオルを出して軽く雫を拭ってくれた。

ベンチに腰掛けると、目の前はいかにも高架下と言わんばかりに、
コンクリートの壁の無機質さに埋め尽くされた。

「あ、これお茶な」

「......いいんですか」

「いいよ、はい」

「ありがとうございます」

手渡す時、私の左手と梓の右手がちょっと触れて、
お互いにビクッとした。

フフっと笑いあったけど、少し触れただけなのに、
梓の右手の冷たさが手の皮膚にそのまま残ったみたいな気がして、
右手でその部分をこそっとなでてみる。

自分の右手も同じくらいヒヤッとしてて、

なんだ、

と驚いてそして呆れた。

「チョコレートも買ってきたんだ......はい」

ビニールを破り、長方形の箱の中から紙に包まれたチョコレートを3粒程取り出して、梓にあげた。

「ありがとう......ございます」

と梓は眠たそうにそれを受け取った。

時計をしてくるのを忘れて、時間がわからないけど、
もう5時を過ぎているのかもしれない。

上を車が通る度に、地響きのような振動が地面まで伝わってきてスニーカー越しでもそれがわかる。

崩れたりしないよな......

不安になった。

「澪先輩って」

「ん?」

「......好きな人とかいないんですか?」

「好きな人......唐突だな」

昨日の夜から散々切り出す時間はあっただろうに、ようやくか、と私は思った。

恐らくそれがこの数週間、梓が物憂げな表情でいる理由なのだろう。

「好きな人かぁ......」

そう言って私はチョコレートを1粒、口の中には含んだ。

甘すぎて、むせそうになる。

口の中でスッと溶けて、もう二度と同じ形には戻らない。
その甘ったるい気だるさが喉元を通り過ぎていったと思ったら、
また次が欲しくなる。

まるで恋みたいだな

と思った。

「いるよ」

「......いるんですね、好きな人」

と、梓は2粒のチョコレートの包み紙を指先でいじりながら、言う。

「うん、意外かな」

「いえ。あれだけ恋愛の歌詞を書いている人ですし。
なんとなくそうだとは思っていました」

「......梓は?」

「......」

『恋愛の歌詞を書いている』=『恋愛をしている』
という安易な関連付けに私はちょっとムッとして、

そういう梓はどうなんだ

と、柔らかく聞こえるように返してみた。

そういうイコール関係をすぐに思いつく、そういう梓はどうなんだよ、と。

「います......好きな人」

「そうか......そうなんだ」

「はい」

「私の知ってる人?」

「......はい」

「へぇ......誰だろ」

「澪先輩の好きな人は、私の知ってる人ですか」

車が上を通り過ぎて、スニーカーに包まれた足の先まで揺れる。
その騒音に紛れて聞き逃がさないように、
梓の声を必死に聴いた。

「......うん、知ってる人」

「そう、ですか......」

恐らく、私たちはそのなんてことのない会話でお互いの事実を確認しあったんだ。

『私の好きな人は女の子です』

という事実を。

「叶いそうか......その恋」

「......わかりません。先輩は?」

「私も......わかんないや」

2人でくたびれたような声で告げあった。

「シュレディンガーの猫って知ってるか?」

「......ちょっとだけなら」

「今の私たちって、シュレディンガーの猫みたいだな」

「......開けてみるまで結果はわからない」

「そう......さ。この恋が実るのか、実らないのか。
確率はまだ50/50......」

キュッと、
梓が膝の上に置いた両手を結んだ。

私はその変化を見逃した方が良かったのかもしれない。

梓はそれから不意にたちあがって、
そして、
私にキスをした。

くちびるを覆われるようなそれに、
私は惚うけてしまった。

梓は
「すみません......」
と言ってその場から走り去っていった。
傘は持っていかなかった。

空は曇り空で今にもまた、梅雨の雨が降り出しそうだ。

走って梓を追いかけた方がいいことはわかっていた。

でも、私はそこから動けずにいた。

目がチカチカする。

頭上では車の通りが多くなったのか、地面がずっと揺れている。

振動は収まらない。

梓はいつの間に含んでいたのだろう

渇いたくちびるをペロッと舐めてみる。


チョコレートの味がした。

case 4 梓→澪『50/50』
終わり。



最終更新:2014年03月10日 22:53