7月の中旬までかかった寮の雨漏りの工事は無事に終わった。

今週中には出る予定だと言うから、最後の日の前日、澪の仮家である、ウィークリーマンションに泊まりに行った。

リバーサイド桜並木2号館の2階の角部屋。
新築らしく外装も内装も綺麗で澪はそこを気に入っているらしかった。

写真を撮る趣味とか
1人で冬の海に日帰り旅行に行っちゃうとことか。

そういうの好きな澪にとって確かに、ロフト付きの自分の家ってのはとても魅力的なのかもしれない。

サブカルっていうか
下町の細い路地裏の、通い慣れた個人経営の喫茶店みたいなやつ。

どこかへわざわざ行かなくても、自分の住む場所そのものが、
自分の世界観を守る砦みたいな役割を果たしてくれるものになってくれるんだから。

雨漏りは、澪にとってはタナからボタモチみたいなものだったのかもしれないなと思っていた。

だから、工事が終わったらすぐに引き払って寮に戻ってくるつもり、って聞いた時に少し意外だと思った。

その潔さってか、呆気無さ、執着の無さにむしろこっちが

「どうせあと少しで夏休みになるんだから、借りたままでもいいんじゃないか」

と提案したほどだ。

「私だったら、きっとそうすると思うけどなぁ。そこまで家賃だって高いってわけじゃないし」

そう言って生協で買った、紙パック入りのミルクティーにストローを突き刺して一口飲んだ。

その取って付けたような甘ったるさに舌がムギの煎れたアイスティーを欲する。

「うーん、でも......なぁ」

と澪は、食堂に設置されたコーヒーマシーンで作ったアイスのミルクカフェオレエスプレッソをかき混ぜて、なにやらモゴモゴと言う。

カラカラカラカラ、と氷がカップの中で回る涼しげな音とは対象的に、
澪の態度はなんだか暑苦しく見えた。

「でも、なんだよ?」

「......あそこには、律がいないから」

聞くんじゃなかったなぁ、と思ったけど、もう遅い。
なにも言ってないのに澪はさらに続ける。

律がいないからさみしい

「うーん、なら、さ、引っ越す前の日に泊まりに行くよ。そしたら、きっと、さみしくないだろ」

きっと、私は今「さみしい」の意味をすりかえた。
そういうつもりで澪がさみしいって言ったんじゃないってわかってる。
だから、目の前に座る澪は私の提案に
嬉しいんだか、嬉しくないんだか、よくわからない諦めにも似た笑みを浮かべた。

「......そうだな。泊まりに来てもらえたら、嬉しい」

目を伏せて、澪は聞き分けの良い子みたいにそう言った。

小さい頃の澪はこんな風な表情でママの言うことを守っていたのかな。

「じゃあ、詳しいことはまた後で。次授業あるからそろそろ行くな」

荷物と飲みかけの紙パックを持って席を立った。

食堂を出て、少し距離が開いてから一度だけ澪の方を振り返った。

さっきまでいた場所だから、すぐにその後ろ姿を見つけることができる。
友人との会話を楽しむ人たちに紛れて、ポツンと1人座る、澪。

クッキリと浮き出て
まるで子どもの頃によく読んだ飛び出す絵本みたいだ

とふと思った。

------

「当分......もう素麺はいいかも......」

「ふー、いっぱい食べたな」

「律が3袋も茹でるから」

「いやー、余らすのもなんだかなって思ってさ、寮でゆでてもみんなで食べるには少ないし」

「まぁ、そうだけどさ」

行儀悪く2人で床に寝っ転がった。
この満腹感、しばらくの間動きたくない。
澪も同じなのだろう。

部屋にあるのは、床に置かれた紙の皿が2枚、その上に割り箸2膳。
ソーメンの入っていたザルと水受けの紙皿。
私の買ってきたお茶とジュースのペットボトル。
紙コップ2個。

棚やら机やら服やら小物やら何から何までぜーーんぶスッキリと片付けられて、積み上がったダンボールに囲まれた部屋で澪とソーメンを食べた。

こうして積み上げられたダンボールに囲まれていると、なんだか本当にここは澪の砦だったんだなって思えてきた。

誰にも邪魔をされずに自分の好みと弱さをありのまま吐き出せる、そしてそれを守る、砦。

右側で寝そべっている澪の左手が顔の近くにあった。
なんとなく、左手の上に自分の右手を乗せてみた。

「......なにしてるんだよ」

「いや、なんとなく」

「なんとなくって......」

天井を仰いでいた澪が私の方に顔を向けてくる。

はは......頬が赤くなってる......

部屋の中には、芳香剤だろうか。
夏みかんの香りがしていた。
とっても夏らしくて、いい香りだ。

こうして手を繋ぐことのマネゴトを自分からふっかけてみても、
私の手には震えはこない。

かなしいなーって思っていたら、
澪が左手をグーパーグーパーしてなにやら私の右手の感触を確かめている。

その手が少し震えてて、私は音がないその空間が少し嫌になって、

「音楽をかけてもいい?」

と澪に聞いた。

「いいよ」って澪が言い、
私は自分のiPodに入っている曲を流そうとしたけど、そうだった......澪のこの部屋、スピーカーもしまっちゃってるから音とばせないんだった、
と気づいて小さく舌打ちをした。

しかたなく、イヤフォンの右側を澪に無言で渡す。
ちょっと戸惑って澪の右手が空中で私の左手からイヤフォンをもらう。

澪がイヤフォンをしたかなんて確認しないで、
自分がイヤフォンを左耳につけたら、
iPodをランダム無限リピートにして、曲をスタートさせた。

1曲目は澪に勧められて、高2の夏に入れたものだった。

「あ......この曲、入れてくれたのか」

「うん、まぁ。最初は馴染めなかったけど、聞き続けてたら段々ハマっちゃってさ、スルメ曲」

ははっと笑ってそれっきり。
2人で聴き入った。

------

もう夜中の1時くらいだろうか。

時計もしまっちゃってるから、イマイチ時間の感覚がつかめない。

頭の上にある窓から、月の光が部屋に差し込んでいた。
今日は満月らしくて、とても明るい。暖かみのある黄色だった。

左手でまだニギニギとしながら、なんてことのない話のように澪は聞いてきた。

「律はさ......」

「うん?」

「まだ、好きなのか?」

「なにが」

「梓のこと」

「......好きだよ」

「そっか」

「うん」

「澪は」

「うん」

「まだ、好きなのか」

「何が?」

「私のこと」

「好きだよ......」

「そっか」

「......大好き」

右手を包んでいた温かさがスッと消えた。
澪が身体を起こしていた。

澪と繋がっているイヤフォンがピーンと張って、張りすぎて、
右耳の中のイヤフォンが少し抜けて、音が小さくなった。

最近新しくしたイヤフォンは、コードからなにまで赤色で、
なんだか、運命の赤い糸みたいだな、って思った。

繋がれていたのはお互いの左薬指じゃなくて、耳だけど。

月から視線を移すと、澪が私を見ていた。

「律」

「なに?」

「どうしたら、律は私のことを好きになってくれるのかな」

「......澪」

「何」

「どうしたら梓は、私のこと、好きになってくれるのかな」

オウム返し。
澪は口をキュッと結んだ。

「わかんないよ......そんなこと」

「澪がわかんないなら、私だってわかんないよ」

それから澪が黙ったから、私も黙った。

iPodが空気も読まずに恋愛をテーマとした曲を流し始める。
その曲の中で女の子は片想いの相手と両思いになる。

素直に羨ましいと思った。
たしかこの曲も澪に勧められて入れた曲だったはずだ。

フッと月の光が遮られて、なにかと思ったら、澪が私の上に覆いかぶさっていた。


生ぬるいな、と思った。


ここは澪の部屋で、私は周りを澪のお気に入りが詰まったダンボールで囲まれている。

さらに、澪にまで覆いかぶさられちゃって。
澪の熱い息が鼻にかかって。


イヤフォン、取れないんだな......

もう観念するしかないのか、と澪の砦の中で弱気になった。

もし、イヤフォンが取れずにこのまま澪と繋がっているのなら
私はその時は、もう梓のことを諦めよう
自分に向けられている好意を受け入れよう

澪は今までを埋めるように生ぬるいそれを何回も繰り返す。
右についたイヤフォンと左についたイヤフォンの距離が短くなっていた。

「律は......初めてだった?」

「2回目」

「私も2回目」

そう言って、澪が笑った。

お互いに「誰と」だなんて聞かなかった。

澪が私の顔に垂れかかっている髪を耳にかけ

そして、

「邪魔だな」

とつぶやいて、私の耳と澪の耳からイヤフォンを取っ払った。


子どもの頃、好きだった飛び出す絵本。
自分の方に飛び出して、浮き出てくるそれが面白くって夢中になって何度も何度も開けては閉じてを繰り返した。

「律、......ロフト行こうよ」

「ここでもいいじゃん」

「まだ掃除終わってないから汚いんだよ、ここ」

「上はキレイなのかよ」

「ロフトは......私のお気に入りの場所だから。そこがいいんだ」



私はきっと、面白がって遊びすぎた。
だから、飛び出したままもう元には戻らない。

case 5 澪→律『縁のない話』

終わり。



最終更新:2014年03月10日 22:55