青になった。
先輩も動かなかった。
「私、つらかったんだよ」
「なんでちょっと嬉しそうなんですか」
明らかに笑い声だ。
でも、涙がにじむ声の響きも笑い声とさほど変わらないのを経験上知っていた。
「私のこころ、こんな風になるんだって。
中野梓ちゃんっていう、私の大好きな子がほんの少し離れただけで、
こんな風になっちゃうんだって」
びっくりしたよ、と
振り向いて笑いかけた。 違う、そうじゃない!
私の唯先輩がそんな風に笑ったのを見たことがない。
こんな風に、
いやに大人びていて、
隠れて何かをおしつぶしたような顔をするのはきっと、
「私のこころこんななのに、
あずにゃんなしじゃ居られないって思っちゃうのに」
唯先輩がいう。
「今日だって、今度こそ私がクレープ代出すって決めてたくせにさ」
気にしてませんよ、なんて言えなかった。
先輩も同じ気持ちだとわかったところで、わかったからこそ、
大丈夫ですよなんて言葉でごまかせないって
思い知らされていたんだ。
おかしいよね、先輩として、
私あずにゃんを引っ張っていくつもりだったんだよ。
こんななのにさ。
先輩はもう、わらえていなかった。
そんなことないです、私は大好きですから、あいしてますから、
そんな言葉を頭に浮かべては消す。
ちがう、そうじゃないんだ。
指先の力が軽くなってゆく。
さっきまで舞い上がってた自分をのろってしまう。
信号の色の変わり目が、
影を奪うほど強く照らし出すコンビニの照明が、
急かすような速さの車の流れが、
唯先輩を横断歩道の先へと渡らせようとする。
後ろから自転車が私たちをジャマそうに避けて行った弾みで、
ついに指が外れてしまう。
じゃあ、またね。
唯先輩が完全に手を離した。
その手を振って横断歩道を渡り始めた。
そろそろ信号が点滅しだす頃で、少し小走りに。
私はまだ動けない。
先輩が自分の町へ帰ってしまう。
目と鼻の先なのに、
透明な仕切りにまだ隔てられてるようで、私は見送ることしかできないでいる。
先輩が離れてゆく。
右折した白いトラックが私の視界を遮って、
ついに見えなくしてしまう。
トラックが横切り終えると、
先輩はもう横断歩道の対岸近くまで着いてしまいそうだった。
まだこちらに向けて振ってる手が、
もうそろそろ腰の辺りまで落ちてしまいそうだ。
冷たい風が吹いた。
九月にしては冷たすぎる風が交差点から私の頬をかすめたとき、
一ヶ月くらい前、
先輩が私を恋人にした時のことが頭をすり抜けた。
つきあってみませんか、と唯先輩が言ったんだ。
さっきの公園で、もう辺りが真っ暗になってから。
私たちが、
お互い大好きどうしのふたりが、
コイビトになるって、
とってもいいアイデアだと思うんだ。
もっとくっつけるし、安心できるし、
一人が転んでももう一人がたすけれたりして、
そのまま一緒に遠くまでいくこともできるんだって。
すごくあったかくて幸せな気持ちになれるんだって。
「知ってた?」
声だけでおどけた先輩の右手は胸のリボンをつかんだまま震えていて、
伏せたままの目では言葉なんて届きそうもなかった。
私はブランコに腰掛けていて、
八月の夜、
寒くもないのに足が震えそうで、
食べ終えたクレープの包み紙をくしゃくしゃに握りしめたりして、
バランスの悪いところに居たのに、
唯先輩の方がもっと倒れそうだった。
ふたりとも、答えを最初から知っていた。
キスだってしたこともあって、
あとは誰かがそれを言葉で線引きするだけだった。
でも、そしたら足場が崩れてしまいそうで、
現にその時も唯先輩の足はもつれて倒れそうだったから。
それでも、私の恋人になってください、
と言うのが聞こえた。
その時どうしたか。当然はっきり思い出せる。
私は完璧に再現できる!
「……待ってください。ゆいせんぱい!」
私は駆け寄って先輩の腕をつかんだ。
目を見開く先輩、口もぽかんと空いてる。
歩行者信号の緑が点滅し終わる直前、
横断歩道の中途半端な位置で一瞬止まった
私たちに
どっかの車がクラクションを鳴らした。 知るもんか!
自分の方に戻ろうとは一瞬も思わない。
むしろ先輩の手を引いて、
この腕でセブンの駐車場へと先輩を引き寄せた。
息切れしている。
首の動脈がぴくぴくと動いて血を押し流していく。
いま首を噛まれてしまったら、
私の血がそこらじゅうに吹き出して
唯先輩の全身を私の色に染めきってしまうだろう。
でも唯先輩の牙は矯められていて、
私より小さく見えて、
つかまれた腕の主をふしぎそうに見つめるばかりだ。
いいアイデアなんて思いつかない。 間の抜けたことしか言えない。
頭はカタい方だから。
でも、いま、唯先輩の手がここにある。
それでじゅうぶんだった。
「……憂にも、持ってきたんですよ。
アメリカの、おみやげ。
ほら、メールで話してたあのチョコレートですよ。
よかったら今から届けに行っていいですか? 」
表情筋が固まってしまってぴくりともしない唯先輩の顔がもうすでにおかしかった。
今言ったこと、聞こえてたのか不安になる。
私は先輩の家に向かおうとその手を引っ張った。
するととたんに唯先輩が吹き出して、
みるみる笑いはじめて、
ついには私の手を掴んだまましゃがみこんでしまった。
今それ言うの?とひくひくいう先輩に、
そこまで爆笑することないじゃないですか、と抗議する私の声も震えてしまった。
看板の根元でしばらくげらげら笑ってたせいで、
通行人の目はたぶん風より冷たい。
笑いの発作が収まっても先輩がくすくす言うので、
結局私が平沢家まで手を引いて歩くことになった。
まったくもう、先輩は結局こうなんだ。
家に着くと憂がお茶を出してくれたので、
外国産の甘すぎるチョコレートを二人分とも憂に手渡した。
食べ過ぎないように見張ってほしいと憂に言うと、
唯先輩が少しうらみがましい目で私を睨んでいた。
ひとついただいて、
やっぱり私には合わないなあとお茶をすする。
帰り際、憂が食器を洗いに行く。
私たちは玄関先で、帰ったらメールすると誓いあい、
ドアを開く前に一度だけ口づけした。
そしたら先輩のチョコ味の舌がたまらなかったから、
私の味覚はあてにならない。
あずにゃん甘くないね、とぼやいたのが妙にくやしかった。
夜道を歩きながら、唇をなめたりして余韻を味わいながら、
家に着いたらあの文庫本をもう少しだけ読み進めてみようって決めた。
せめておやすみの電話が来るまでは、作中の二人に気持ちを近づけてみよう。
読んだら意外と面白いかもしれない、
って先輩なら言うはずだから。
そして、
いつかそこに自分の恋愛が見つかることを祈ったりしつつ、
私は自分の住む町へと引き返す。
おわり。
最終更新:2014年03月21日 10:50