■Chapter05‐枝先の紅葉の裏側


 二日目は海から離れ、早くも秋に染まる山へ登ることになった。
 桜が丘に比べ、ここは高度も高く、幾分か秋の歩調も早いようだ。
 秋を先取りしよう。そう言ったのは唯先輩で、ご飯粒を口元につけていた。

 手荷物は出来る限り減らしている。朝ご飯を済ませた私たちは、すぐに準備を済ませ旅館を発った。
 私の腕には鈴が、先輩の首には月が光っている。
 麓に着く前に、近場のコンビニでサンドイッチを買っておいた。


 「あずにゃん、ちょっと変なこと聞いてもいい?」


 そう先輩が切り出したのは、山道を歩いていた時のこと。
 自然に溶け込みながらも整備され、歩きやすくなっている道は、うねりながら高くへと伸びていた。
 前を歩く先輩は顔を正面に向けながら、私の方を見ようともせずに、そう尋ねた。
 先輩らしくない。一目でそう思った。


 「どうしたんですか、いきなり」

 「あのね。途中で私が寝ちゃったんだけど、昨日の話、覚えてる?」


 あれは唯先輩に<わたし>が入り込んだのであって、
 先輩が突然寝てしまったわけではない――、とは説明できなかった。


 「覚えてますよ」

 「あの時、<自分>についてどう思ってるかって聞いたよね?」

 「そうでしたね」

 「こんなこと、今まではなかったんだけど……私ね」


 言いつつ先輩は身体を翻すと、いきなり私の手を両手で包む。
 手は柔らかいというよりは固く、震えていた。視線は足元に落ちている。


 「すっごく悩んでるんだ」

 「悩んでいる……?」

 「うん。こんなこと初めてだよ」


 目を合わせようともしない先輩に、奇妙な感覚を覚える。
 見えない。先輩が見えてこない。
 触ればぺりぺりと剥がれそうな、しかし触ることを躊躇うような薄膜が、先輩を包み込んでいる。
 こんな唯先輩は、初めて見た。

 しばらく沈黙が続いた後、先輩は正面に向き直り、再び歩きはじめた。
 先には赤や黄色のトンネルが、私たちを待ち構えている。他の観光客の姿も見えていた。


 「私はね、自分をなにもできない、ぐうたらな人だと思ってたけど、
  高校に入って変わったんだ」

 「今でも十分ぐうたらですけどね」

 「ひ、ひどい……」


 こちらからでもわかるぐらいに先輩は肩を落とした。


 「でも先輩はなにもできないわけじゃありません。それも私がよく知ってます」

 「あずにゃん……!」

 「そ、それで先輩はなにを悩んでるんでしたっけ!」


 また振り返りそうになった先輩を背中から押さえつける。
 今、自分の顔を見られたくない。恥ずかしすぎる。


 「……えっとね。私はどこまでできるんだろうって」


 先輩は、私の手から身体を離した。


 「私はどこまで進んでいけるんだろうって」

 「どこまでって……そんなの先輩なら、障害なんてなんのその、ずんずん進んじゃいそうですけど」

 「そうかな? 私にもどうしようもないことって、たくさんあるんだよ?」

 「それはそうかもですけど」

 「いくら考えてもね、悩んでもね……」


 先輩は次の言葉を見つけることができない様子だった。
 腕を組み、唸る。頭上では秋に染まり切った紅葉が、青空の上に覆いかぶさっていた。

 やがてこの紅葉も散る。寂しく、頼りのない枝を――、みすぼらしい姿を晒すことになるだろう。
 私はそれを見て、どう思うのだろう。紅葉のあった頃を、思い返すのだろうか。
 これも一つの事実だと、正面から受け止めることができるのだろうか。
 左手を空に向けてかざし、赤色に埋められた空を仰ぎ見る。


『できっこない』


 あの声が聞こえる。はっきりと、頭の中で乱反射する。
 どうして。私には、どうして出来ないというのか。


『私自身がそうでないでしょう。そうでなければ<わたし>はいない』


 あなたが存在していることが原因ならば。
 どうしてあなたは、私の意の向くままになってくれないのか。
 消えてくれないのか。


『私が本当にそれを望むなら』


 私が本当にそれを望んでいないと、<わたし>は言っているようだった。
 違う。そんなことはない。
 これほどまでに私は<わたし>を拒絶しているというのに。


 「あずにゃん?」


 気づくと、唯先輩は足を止めて、こちらを心配そうに見つめていた。
 返事をしようとして、ぞっとする。後ろにはまた黒い影が――<わたし>が立っていた。
 どこまでついてくるというのか。どこまでも、ついてくるのか。

 勢いよく、何度もかぶりを振る。力を込めて。
 心を強く持って。


 「すみません、ちょっと嫌なこと思い出してました」

 「えっ? もしかして、私が思いださせちゃった?」

 「もう。違いますよ、なに言ってるんです。先輩は先輩の話を続けてください」

 「本当にいいのかな……」

 「私は唯先輩をきちんと見ていますから」


 自分でも、どきりとくる言葉だった。先輩は気づいていないかもしれない。
 しかし私にとってそれは、先輩と後輩の関係を越えたモノを望む意味を含む。
 これ以上はいけない。踏み込んではいけない。
 性別を問題視しているわけじゃない。“私”を問題にしているのだ。

 先輩の首元の光が、私の胸元に刃先を向ける。


 「そ、そっか~……それなら安心だね~」


 唯先輩は私の言葉に少し狼狽えていた。
 その狼狽の意味を、私には知ることができない。

 居心地の悪い空気のまま、私たちは山を登り続けていた。
 次第に木々の合間から覗く景色は遠く、一枚の絵のようになっていった。
 遠くにある小さなものの動きは、私たちに捉えることはできない。

 頂上に辿り着く。軽い装備だけで登れるほどの山のため、他の登山者も多い。
 来た道を振り返ってみると、あっと驚いた。
 紅葉のアーチが、うねりながら麓まで続いている。
 さっきまで歩いてきた道でも、見え方は変わる。先輩も息を漏らしていた。

 正面に向き直ると、そこは開けた場所で、町一つが見渡せる。
 近くに寄る。私たちが泊まっている旅館も見ることが出来た。


 「あずにゃん! ほら、海が見えるよ!」

 「海の近くにあるあの施設、水族館でしょうか」

 「昨日行ったところ? 意外と見えちゃうもんだね~……」


 ぼんやりと景色を眺めていると、私はあることに気がついた。
 子供のように弾けていた唯先輩の声が、いつの間にか大人のような落ち着きを獲得している。
 なにかを待っているかのような、そんな態度だった。
 不意に唯先輩の右手が、私の左手に触れる。
 びくっと身体を震わす。偶然ではない。先輩はわざと触れようとしている。


 「唯先輩……?」


 問わずにはいられなかった。


 「どうしたんですか?」

 「えっと……続き。さっきの話の続きを、少しね」

 「……座りましょうか」


 すぐ後ろにあった、焦げ茶色の木製ベンチに腰掛けるように勧める。
 私が先に座ると、先輩は拳一つぶんの間を開け、私の隣に座った。
 いくつもの気持ちが入り混じった顔色だ。
 複雑な感情が、腹の奥底で黒いノイズとなって、渦巻いているようだった。
 ノイズから必死に音を拾い、自分の言葉として並べていく。
 唯先輩はその作業を根気強く、何度も繰り返している。私にはできない。


 「隠すことって、辛いね」


 そうして拾われた音は、なんの前触れもなく、先輩の口から発せられた。


 「もう辛すぎるよ……あずにゃん……」


 弱々しく、唯先輩は私を抱き寄せた。
 自然と胸の鼓動が、肌と肌を介して伝わってくる。弱々しいのに温かく、そして熱い。
 私の背中に回された腕は綿菓子のように優しく、しかし震えていた。

 隠すことって、辛い。

 そう言った先輩の両目は澄んだ滴で満たされていた。
 強くて、痛いほどの視線を浴びせてきた。

 ――ああ、なんて美しい。

 ついため息が出てくるほどに、それは美しい。
 感情の昂ぶりが、鼓動として私に伝わる。私に求めているものが伝わる。
 私はゆっくりと腕を、先輩の背中に回そうとした。

 鈴が鳴った。

 身体が強張る。
 背中に回そうとした腕は、力が入りきらず地べたに落ちてしまう。
 <わたし>はそんな私を見て嗤っている。


『どうして<わたし>はここにいるの?』


 頭に血が上って、叫びたい気持ちだった。
 血は鍋で沸騰させられたように熱い。
 激しい怒りと憎悪。全てが刃となり、先輩の背後に現れた黒い影を突き刺す。

 ふざけるな。どうしてじゃない。
 あなたがそこにいるから、そこにいるんだろう。
 どうして現れる、私はあなたを拒絶する、消え去ることを望む、
 しかしあなたは私を嗤う。


『私には<わたし>の思い当たる節があるはずなのに』


 脳天にハンマーを落とされたように、ぐらぐらと世界が揺れる。


『<わたし>がうるさい? <わたし>が邪魔?
 そう思うのだったら、それは全て当然のことだと思うよ』


 苦しい。胃の中のものを全て吐き出してしまいそうだ。
 当然のことと思うのであれば、何故消えない。
 時に<わたし>は私の前に現れ、時に<わたし>は唯先輩の身体を借りる。
 そんなことは、私が一番望んでいない。

 再び<わたし>は口を開く。

 ――どうせ釣り合わない。

 思わず身が竦んでしまった。寒い。寒い寒い寒い。
 人って言葉一つで、こんなに冷え切ってしまうものなんだ。
 もう嫌だ。帰りたい。負の感情が、私を渦の中に閉じ込める。
 既に<わたし>はどこかへ姿を消していた。

 はっとすると、私の異変に気が付いた唯先輩が、心配そうな目つきで顔を覗き込んでいた。
 背中をさすられている。そよ風に撫でられているようで、心地よい。
 まるで身体が羽毛布団にくるまれ、ふわりと宙に浮いているようだ。

 ああ、わかっていた。どれだけ<わたし>に否定されようとも、これだけは否定しようがない。
 唯先輩は私を温かくしてくれるんだ。
 そして私は唯先輩が好きだ。どうしようもなく好きで、細かいことは埒外に、好きなんだ。
 そのことを伝える。延長と位置付けたこの旅に、色をつけたのはその決意だ。


 ■Chapter06‐鏡写しの答え合わせ


 あの後も、先輩は私への心配を解かなかった。
 あそこで先輩は、自身についていた色々なものをそぎ落とし、
 純粋に、最後に残ったものだけを私に見せてくれた。
 それなのに私があのような様子を見せては、心配されても仕方ない。

 結局、居心地の悪い空気が場を支配してしまう。
 それでも先輩は気を遣い、壊れやすそうな陶器を扱うように、私と会話していた。
 今はお風呂も食事も済ませ、隣の布団の中で横になっている。

 今日は非常に申し訳ないことをした。

 心の中で繰り返し呟く。その度に覚悟を決める。
 もういい頃合いだろう。
 私は腕に巻き付けた鈴を揺らした。

 ちりんと寂しげな音が鳴る。

 今度の影――<わたし>は初めから先輩の身体を借りていた。
 横になっていた先輩が突然立ち上がり、座り込む私を見下ろす。
 電灯は消してある。表情までは読み取れない。


 「来たね」


 私は毅然と背筋を伸ばし、布団の上に座っていた。
 冷たい震えが止まらない。<わたし>という者が何者なのか、未だに理解できていないのだ。
 だけどここで私が怯んでいては、唯先輩に私に気持ちを返すことはできない。
 私はここで影と決着をつけるつもりでいた。正面に影を見据える。


 「<わたし>」

 「『私』」

 「どうして私に付きまとうの?」

 「『わからないの?』」

 「あなたに悪意はない」

 「『<わたし>に悪意はない』」


 大丈夫だ。まだ平常心を保てている。


 「私は<わたし>で、だから私の前に現れる。そうなの?」

 「『<わたし>は私一人の前には現れない』」


 やけに素直だ。今までは散々ぼかしていたというのに。
 正面から向き合うことを決意したためだろうか。
 <わたし>は私だから、私の意志についてきているのだろうか。

 だとしたら。

 あの<わたし>の言っていることは、私の言葉でもある。
 ならば私は心のどこかで唯先輩と踏み込んだ関係になることを、拒んでいるのだろうか。
 かぶりを振る。遠慮、という言葉が思い浮かぶ。それも少し違う。
 限りないほど存在する人の感情が<わたし>を作り出しているのは間違いない。
 ではそれは一体、なんなのか。

 ――借りてるのは、どっち。

 はっとした。先輩の枕元に置かれた三日月が、闇夜に浮かんだ気がした。


 「……私はバカだ。大馬鹿だ!」

 「『私はバカ』」


 苦々しい笑いが、腹の底から込み上がってくる。
 全く馬鹿らしい。いっそ清々しい。なにを考えていたのか、私は。
 しかしその馬鹿馬鹿しいことも、私をこれほどに悩ませ、戸惑わせた。
 いわゆる高校生の持ちうる世界というのは、たいてい馬鹿馬鹿しい。

 全ての解決は唯先輩によってもたらされ、そして証明された。


 「強く生きなきゃね」

 「『今更なに言ってるの。自分を偽ってばかりいたくせに』」

 「それって自分を隠すこと?」

 「『隠すことって、辛い』」

 「唯先輩も言っていたね」


 ああ、隠すことって、本当に辛いんだ。

 これはなにも自分の意識的なものだけじゃない。
 噂、勝手に形成されたイメージ、そこに埋められ、失う自分、
 私たちの周りではそれがありふれている。

 狭い世界しかしらない私たちにとって、しかしそれはあまりに大きい。
 私たちは知っていることしか知らない。非常に危険だ。
 全部をその中で片付けようとする。
 僅かな、それも知っていること、実はなににも裏打ちされていない、
 勝手に歩き回っているイメージだけで、物事を捉えようとする。

 それは一人の人間を否定していることと同じ。
 非常に残酷で、忌むべきことだ。

 私は唯先輩を通して、<わたし>という勝手なイメージ――、
 あたかも唯先輩が望んでいるかのような人物と照らし合わせ、
 それとは大きく乖離した存在としての<わたし>を見ていた。

 だから<わたし>は私一人では見ることができない。
 しかし<わたし>には根拠がない。
 そもそも、唯先輩の望む人物、というものが私の知らないことだ。

 乖離したイメージは唯先輩との関係を望む私を責め立てる。
 唯先輩から見た私は<わたし>として現れ、あまりに不釣合いだと非難する。
 先輩が見ている私が、<わたし>だとは限らないというのに。

 いいや。先輩はもっと違う“私”を見てくれていた。
 それは痛いほどの視線で、全ての不純物を取り除いた“私”を、
 例えるなら雲の晴れた空を、紅葉の裏に隠れた枝木を、薄膜をぺりぺりと剥がした――。


 「ねえ、<わたし>」

 「『なに』」

 「もう私は大丈夫だよ。私を、私で持つことができるよ」

 「『……そう』」


 <わたし>は不敵な、しかしどこか親しみのある笑みを浮かべた。
 隙あれば、<わたし>はどこにでも現れる。
 最後にそう言い残し、<わたし>は闇に溶けていく霧のように、姿を消した。

 私は昨日と同じように先輩の布団を掛け直してから、自分の布団に潜り込む。
 今日は一段と疲れた。でもこれで初めて、私は正面から向き合うことが出来るのだろう。
 身体を伸ばす。腕に巻き付けたままだった鈴がほどけ、するりと床に落ちた。


 ■Chapter07‐“私”の旅立ち


 「先輩。私、唯先輩のことが大好きです」


 朝起きて、朝ご飯を食べたすぐあとのこと。
 私は唯先輩にそう告げた。自分でも信じられないほど、真っ直ぐな言葉だった。
 対して先輩は呆気にとられていて、目を丸くし、口もぽかんと開けていた。
 少しして、やっと言葉の意味を理解することが出来たのか、先輩は顔面を真っ赤に染めた。
 まとめていた荷物を全て床に散らばしてしまう。口も回っていなかった。

 大好きです。

 対照的に私は、そう流暢にもう一度言い放った。
 さすがに二回目だからか、先輩もそれを落ち着いて咀嚼し、飲み込んでいた。
 何度か咳払いをしたあと、正面に向き直り、私の目を見る。
 深呼吸を重ねた。そして耳まで赤色に染めながら、はっきりとこう答えてくれた。

 私もだよ、あずにゃん。だいすき。

 あとは非常に自然だった。自然に抱きしめられ、私も腕を先輩の背中に回した。
 耳元で言葉をささやき合った。今までとは違う距離感。
 部屋から出ても、旅館でチェックアウトを済ませても、それは変わらない。
 歩きながら、揺れる手と手が触れる。温かく、くすぐったい。

 三日目の今日は、帰る前に一つ、神社に寄ることにした。
 この神社は高所に本殿を構え、そこにたどり着くには何百段もの石階段を上がらなくてはいけないという。
 確かに、見上げてみると話に違わず、灰色の石階段がずっと先まで続いていた。
 とはいえ横幅は十分に確保されており、人が数人すれ違う分には問題ない。
 自分のペースで上っても、他人に迷惑をかけるようなことにはならないだろう。

 階段の一段目に足をかける。石の隙間に、逞しく雑草が茂っている。
 周りは、昨日の山ほどではないにしろ、色づいた紅葉が秋の訪れを知らせていた。

 しかし覚悟はしていたが、想像以上のものだった。
 二人して、かなりの体力を削られている。
 思った以上に急勾配で、一歩進むたびに息があがった。
 吐息は山の透明度の高い空気と混ざり合い、溶けて消えていく。


 「ね、ねえ、あずにゃん」


 後ろを歩く先輩がそっと語りかけてくる。


 「て、手を繋いでくれたら……、元気が出るかも」

 「なんですかそれ……調子いいんですから」


 そう言って手を差し出す私も、十分に調子いい。

 手を繋いで階段を上っていくと、
 本殿から帰ってきたのだと思われる、男女のペアが下ってきていた。
 すれ違いざま、男性の方が私たちの繋がれた手を見て、へえ、と呟く。
 女性は慌てた様子で、男性を引っ張った。
 じろじろ見るものじゃないと、暗に伝えていることがよくわかる。

 その一部始終を見ていた唯先輩が、突然二人の男女の方へと振り返った。


 「この先にはなにがありましたか?」


 子供のような好奇心を含んだような声で、先輩は尋ねる。
 尋ねられた二人は答えることが出来ず、ぽかんと立ち尽くしていた。
 その様子がなんだか可笑しくて、私たちはけらけらと笑いあった。

 繋がれていた先輩の手の力が緩む。
 緩んでできた隙間に、先輩は指を一本一本がするりと通す。
 通った指が、私の手と絡み合った。

 ――ほらね、楽でしょう。

 ついに私たちは頂上まで登りきった。
 秋の涼やかで、透明な空気が肌の上を滑る。
 ふと横を向くと、先輩の首筋に光る三日月のネックレスが、目に入った。
 真っ直ぐにそれを注視する。美しい。
 しかしそれ以上に、ふとした瞬間、先輩の首筋にみとれてしまう私がいた。

 次に自分の腕に巻き付けられた鈴を見る。
 ちりん。相変わらず、少し寂しげな音を奏でる。

 先輩から貰った鈴は、そこに様々なものを見出すことができる。
 しかしそのどれもが正しいとは限らない。
 抱く感情は確かなものであっても、そこにあるものは確かなものではない。
 だから私たちは向き合わなくちゃいけない。


 「次、私たちの番だよ」


 列が進み、私たちは賽銭箱の前まで進む。
 財布から五円玉を取り出し、賽銭箱へ投げ入れた。
 木と金属がぶつかり、からんころんと小銭の転がる音が聞こえる。
 先程までざわついていた心を落ち着かせ、身体の前で柏手を打つ。
 目を瞑ると、今日までの出来事が頭の中に蘇ってくるようだった。

 ――今、私たちはこうして横に並んでいる。

 社務所でお守りを購入し、それを二人で見せ合う。
 可愛いとか、なんでこのタイミングで交通安全なんですかとか。
 そんなことを言って、笑いあう。

 まるで目に見えない糸が私たちを囲い、二人だけの線を引いているようだ。
 それを私たちは煩わしく思わない。なにも抵抗に感じない。
 それはそう努めようというものではない。
 実際的に、実質的に、そういうものということだ。


 「唯先輩」


 神社から帰り、バスの最後部座席に座った唯先輩は、
 私の隣で窓の外を名残惜しそうに眺めていた。


 「楽しかったですか?」

 「……うん! あずにゃんはどうだった?」

 「私は……幸せでした」


 唯先輩の肩に身体を預ける。先輩の右腕が、私の右肩に回された。
 身体がずんずん倒れていく。


 「あっ」


 突然、素っ頓狂で場違いな声を出してしまい、唯先輩も目を瞬かせる。
 温かい沼地にどっぷり浸かるはずだったのが、瞬時に水気を飛ばしてしまったようだ。
 暖房を効かせた部屋の窓が開け放たれたような風が、私たちの間をすり抜けた。


 「どうしたの?」


 唯先輩は訝しげにこちらをじろじろ見る。
 私は左腕に巻き付いている鈴を丁寧に外し、自分の掌に乗せた。


 「これ、預かっててもらいたいんです」


 先輩は目をぱちくりさせると、


 「えぇ!? 気に入らなかったの!?」

 「違います。またいつか返してもらうと思います」

 「んっと、どういうこと?」

 「……これはこの旅行で私と先輩を繋ぐ、大きな役目を果たしてくれました。
  でも今の私には、扱いきれる自信がないんです」

 「あ、鈴を含めたコーディネートが難しいんだね?」

 「そういうことじゃないです」


 まあ唯先輩はそれでいい気もしますけど。


 「それじゃよくわかんないよー」

 「自分を強く持って、唯先輩の前に立つ、そんな日が来たら返してもらいますから」

 「えー……今でもあずにゃんは十分強い子だと思うけどなあ」

 「……なんかそれ褒められてる気がしないんですけど」

 「き、気のせいだよ?」


 明らかに声が震えている。しかも顔は正面を向いているのに、目が泳いでいる。
 私は小さく吹き出した。なんて隠し事の下手な人なんだ。
 いいや。辛いことを止めたから、先輩の気持ちが真っ直ぐに流れ込んでくるのかもしれない。

 しかしなんにせよその様子が可笑しくなった私はふと思いついた。
 だから私は――その隙だらけで、マシュマロのような頬に、唇を当てた。


 「ふふ……先輩、隙だらけですよ」


 先輩は驚き、頬に手を当てて口をぱくぱくさせていた。
 私自身も、自分の行動が意外で仕方ない。あるいはこれが私なのだろうか。
 泉から沸きだす多幸感は、私の限界量をとっくに超えていた。にやけがとまらない。

 私は再び、唯先輩に身体を預ける。
 動揺を隠しきれていない先輩は、それでもしっかりと私を抱き留めてくれる。
 今度の沼地は抜け出せそうもなかった。
 まるでとろけだしたアイスクリームが、指の先まで絡みついているようだ。
 吐息が耳元で聞こえる。熱が触れ合う肌から伝わってくる。

 窓から差し込む秋の日は、目を覆いたくなるほどに透明だ。
 ちりん。私たちの繋がれた手に包まれた鈴が、静かに鳴った。
 ここにいる私が、紛れもない私だ。良かった。私はここにいるんだ。

 もう絶対に、見失わない。


 ‐ お し ま い ‐



最終更新:2014年05月14日 23:06