♪‐06
二回目の、唯と二人きりの登校をした日、わたしたちの学校を騒然とさせる事件が起きた。
教室に入ってみると、クラスメイトが皆、黒板の周りに集まってざわついている。
その黒板には二枚の紙が貼られていた。
さらに近づいてよく見てみると、それはあまりにも意外な、驚くべきものだった。
「さすがの澪も、これには言葉を失ってるわね」
背後から和が話しかけてくる。
「和、これはまさか……」
「そう書いてあるんだから、そうなんでしょうね」
紙をちらりと見やると、和は肩を竦めた。
「これは“来週やるはずだった英語の期末テスト”よ」
この事件はクラス一つに収まらず、まして学年に収まることもなく、
学校全体の問題として扱われることになった。
これからやるはずのテストの問題用紙が、黒板に貼りだされたから、というだけの理由ではない。
何故なら、黒板に問題用紙を貼られたのは、“学校中の全クラスであったからだ”。
この不可思議な事件で学校は混乱の渦に巻き込まれ、テスト日程の変更や犯人探し、
問題の管理者への責任追及、あらゆる情報が信憑性もなく飛び交ってしまうこととなった。
結局テストは予定通りに行われ、テストの件は管理者への責任追及と問題を新しく作成することで、
なにもつつがなく終わりを告げることとなった。
そうして、最後のテストを終えたわたしたちは、部室で悠々自適に時間を消費していた。
「いやあ疲れたわあー……」
「色々あったからね」
「そうだなあ。だけど、テスト自体は今までで一番できた気がするぜ。ありがとな、ムギ」
「いいえ~」
「唯はどうだったんだ?」
「んー……色々な対策は無駄になっちゃったけど、でも大丈夫な気がするよ!」
基礎を教えていて良かった。
唯は、問題作成者は変わってしまったものの、特に困ることなく問題を解けたらしい。
「唯先輩も律先輩も、やればできるんですね」
「見直した?」
「ほんの少しだけ、ですけど」
「あずにゃーん!」
嬉しさが爆発した唯は、いつものように梓に抱き付いた。
梓も、今日ぐらいは仕方ないかと思っているのだろう、
ため息をつきながらも、抵抗する素振りは見せなかった。
外から部室へ入ってくる人があった。
「みんな、お疲れ」
さわ子先生だった。
「どう、赤点は回避できそう?」
「まあな。わたしはムギに、唯は澪にたっぷり教えてもらったし」
「それは心強いわね」
ふと、唯の様子が気になった。
唯はさわ子先生のほうを向くことなく、梓に抱き付いたままだった。相変わらずだな。
「でもさわ子先生、今回は本当大変でしたね」
「そうなのよ……まさか問題用紙が漏れるなんて。
担当の先生は一つのUSBメモリに全部入れていて、それをどこかに落としてしまったって言ってるの。
それで――」
あっ、とさわ子先生が声を漏らした。
「これ言っちゃいけないことなんだっけ」
「いいじゃんいいじゃん。ここだけの話ってことでさ、一つ」
「でもねえ」
「よっ、さわちゃん! さわちゃんならやってくれるって、信じてるよ!」
いつの間にか唯まで加わり、さわ子先生を次々と囃し立てる。
先生も満更ではない様子で、人差し指を口の前に持っていき、ひそひそと話し始めた。
「これは絶対に秘密よ。その先生、まあ萩山先生なんだけれど、
どうも教職から身を退くと言ってるらしいのよ」
「えっ」
「本人は責任を取って、ということみたいだけど、上の人たちもそこまでは望んでないのよね。
でも本人の意思が固くて、どうもこれが決まっちゃいそうなの」
「それは、なんていうか」
さすがの唯と律も俯いてしまった。
「二人が気を落とす必要なんてないのよ。でも、あの分だと二学期にはいなくなっちゃいそうね。
わたしも残念よ、先生とは結構仲良くやっていたから……」
「さわ子先生……」
ムギが心配そうに声をかけると、さわ子先生は微笑んで見せた。
ところが、すぐにその微笑は引っ込んでしまう。
「でももう一つ気の毒なのは、マジック同好会のことかしらね」
「マジック同好会?」
「そこの顧問をしていたのよ、萩山先生」
つまりこの軽音部から、さわ子先生が去ってしまうということと同じこと。
それはなんと悲しいか。想像しただけで、身体中が凍えてしまいそうだ。
「同好会はどうなっちゃうんですか?」
「誰かが代わりを務めてくれるといいんだけど、
どの先生も時間は限られてるから、続けられる保障はどこにも無いわ」
「そんな……」
この軽音部も一度、廃部の危機に陥ったことがある。
それを回避してみせたのが今のわたしたち、そしてさわ子先生だ。
そのような立場だからだろうか、なにか出来ることはないか、どうしても考えてしまう。
♪‐07
唯から呼び出されたのは、その週末の土曜日のことだった。
わたしは指定されたファーストフード店に入ると、唯の座っているところを見つけた。
セット商品を一つ注文し、席につく。
「どうしたんだ、唯」
「澪ちゃん、わたし色々考えたんだけどね」
なにを考えたのだろう。
「どうしてあんなことをしたんだろう」
「あんなこと?」
「問題用紙を貼ったことだよ」
正直驚いた。この様子だと、唯は今週ずっと、この事件のことについて考えていたようだった。
わたしも、初めの二日はいくらか考えてみせたが、それ以降は他のことに意識が向かっていた。
比べて唯は、まるでわたしと違っていたようだ。
「和ちゃんにも協力してもらって調べたんだけど、マジック同好会は全員三年生で構成されている同好会なんだって」
「人数は?」
「三人」
三人という数字をもってしても、あと一歩のところで、というわけでないのが皮肉だろうか。
全員三年生ともなれば、今年の夏か、あるいは文化祭のあとだろうか、三年生は部活を引退する。
それは同好会でも同じことだろう。事実上、元よりマジック同好会は風前の灯火だったようだ。
しかしそのことは唯にとって些細な問題だった。
唯は、そんなことよりも、その灯火を守っていた先生がいなくなることを、深く悲しんでいるのだ。
ひたすら純粋に、一切の攻撃的な感情無くして。
「わたし、どうしてもわからなくって」
「自分で色々調べてみたんだな?」
「うん。なにがどうして、こんなことをしたのか」
でも、全然わからなかったと、唯は残念そうに零した。
その零した言葉を掬い取ってやりたいと思うこの心は、
友人としても、別段不自然なことじゃないだろう。
「そうだな……少し考えてみようか」
「えっ、澪ちゃん協力してくれるの?」
「なんのための呼び出しだ?」
「えへへ……」
唯は照れ隠しに微笑を浮かべ、頭の後ろを掻いた。
♪‐08
とはいえ、今わかっている事実だけで全てを解き明かすことは不可能だろう。
まず関わっている人物についての多くを、わたしたちは知らなすぎる。
「だから誰がやったか――つまり犯人のことについては、ここでは不問にするぞ」
「うん」
唯も無茶は言わないでくれた。
唯の気持ちは犯人に向いてるのではない、マジック同好会に向けられているのだ。
つまり犯人を言い当てることよりもまず、
そこに至った原因を突き止めるのが最良といえるだろう。
「わたしたちに推測できることは一つ。犯行理由、つまり何故こんなことをしたのか、だ」
「どこから推測すればいいんだろ?」
「何事も、事実を見つめ直すことから始めるんだ。この事件のあらましを振り返ってみよう」
わたしは持ってきていた鞄からノートとシャープペンシルを取り出し、机に広げる。
まるで、第二の勉強会が開かれているようだ。
ちなみにわたしは、こうしてノートと筆記用具は常備するようにしている。
もちろん、不意に訪れるアイディアを逃さないためだ。
「それじゃ事実その一。黒板に貼られていたものは、期末テストの問題用紙だった」
「それは間違いないね。先生たちも慌てていたし」
「事実その二。校内の至る所に、それは貼られていた。各学年に各学年のテストが、だな」
「それも聞いたよ。わたしのクラスにも、澪ちゃんのクラスにも貼られていたんだよね」
「事実その三。前日に、それらのものは無かった。つまり犯行は早朝に行われた」
唯は頷いてみせた。これら三つの事実に、間違いはない。
ノートに書き込んだ三つの情報を、丸で囲む。
どうやら存外に、この事件は簡単なものかもしれない。
既にわたしは、一つの推測を立てていた。
「唯はどんな推測を立てたんだ?」
「うーん……テストが盗まれたってことは、カンニングしようとしたってことだと思うんだけど」
「ところがそれは一つ目の事実で否定されてしまう」
ペン先でそれを指し示す。
「そうなんだよね。みんなの目に触れちゃってるんだもん」
唯もそこまでは考えていたようだ。
「でも次から、なにも思いつかなくて……」
「じゃあ事実その四。これは初めて聞くと思うけど、萩山先生、
火曜日から試験前日まで、熱を出して休んでいたんだ」
「えっ、そうなの?」
「だからこの事件、先生が休んでいる間に起きたものってことになる」
新しい情報をノートに書き加え、これも丸で囲んだ。
以上の四つの情報から、わたしは推測をまとめあげる。
「唯も特に考えていたところだと思うけれど、やっぱり一つ目の事実が、
この事件の大きなウェイトを占める――犯人の狙いに直結すると考えて、ほぼ間違いないんだよ」
「まさか澪ちゃん、もう推論ができちゃったの?」
「まあね。少しずつ話していくよ」
頭の中で言葉を選び、繋げていく。
「犯人の狙いは、自分がカンニングで満点を取ることでなく、他にある。
その手段が、問題用紙の貼りだしだとすれば、結果としてなにが得られただろう?」
「先生の退職?」
「それは先生の意思が絡んでくる、確実じゃないよ」
唯は少し考え込むと、すぐにはっとなった。
「“テストが作り変えられた”……?」
「そうなんだ。つまり、犯人の狙いはそこにあると思われる」
次の問題は、何故テストを作り変えさせる必要があったのか、ということだ。
「じゃあ唯は、どうして問題を作り変えさせたんだと思う?」
「うーん、気に入らない理由があったからとか?」
「その通り。もっと具体的に言ってみると、その先生の作り方が気に入らなかったのかもしれない」
「えっ」
唯は呆気にとられていた。わたしの考えついた場所は、そこだ。
「要は、“荻山先生以外の先生に自分のテストを作ってほしかったんだ”」
「な、なんでそんなことをする必要があるの?」
「わたしと唯の勉強会を思い出してみて」
唯は腕を組み、必死にそれを思い出そうとしている。
わたしはあの先生のテストについて、こう言った。
あの先生は教科書の範囲は当然として、そこから発展させた問題を出してくる。
ただその発展のさせ方が、授業中に配るプリントと類似している、と。
つまり。
「犯人は自分が萩山先生担当のクラスじゃないから……不平等に感じた。
そこが気に入らなかったから、テストを作り変えさせた……!?」
「わたしはそう推測してるよ」
「で、でも作り直したって、また同じ先生が作ることも考えられるし……!」
「荻山先生は熱で休んでいたんだ。そして、熱で休んでいたということは、
問題用紙のデータを入れたUSBを落としたのは、その休んだ日よりも前。
それなのに作り直させるタイミングは、先生が休んでいると発覚した次の日。
以上の――つまり事実その三と四から、これは確信的な犯行といっても過言じゃない」
唯は絶句していた。当たり前だ、こんな身勝手なことで、先生一人が学校から去り、
そのせいで高校生活の宝のような時間を、奪われたかもしれない生徒がいるのだから。
「事実その二から、犯人は自分が何年生なのか、それを特定させない狙いが見えるけど……。
少なくとも、一年生ではない。先生の出題傾向を知っていることと、
各学年に対して問題が、学年の間違いなく、貼られているからな」
「なんで」
やっと絞り出した声で、唯はその目から溢れだしそうなものを必死に堪えながら、わたしに問うた。
「なんで犯人はそんなことが簡単に出来ちゃうの……?」
「犯人も、先生の退職までは考えていなかったかもしれない。でもそれまでの犯人に――」
わたしは言葉を続けようか、悩んだ。
しかしここまで言っておいて、なにも言わないでいるのも、卑怯だ。
わたしにはどんなに辛くても、例え残酷に唯の心を刺してしまうことになっても、
唯に頼られた以上は応えてやる必要がある。
「――それまでの犯人に、悪気は一切なかっただろうね」
唯の表情が凍り付いた。
目を逸らしちゃいけないと思っても、そうしてしまうほど、見てて苦しくなる表情だった。
「犯人が求めるのは平等だったんだ。だから先生に問題を作り直させた。
そして、自分の持ってる情報も全部開示した。犯人にはもう、他人に比べて有利な点はない。
だから誰にも文句を言われる筋合いはないはずだ、ってところだろうな」
「あくまで犯人は自分が“正々堂々戦っている”って……そう思ってるってことなの……?」
頷く。唯は、その顔に陰を落とした。いつもの姿とは、まるで別人だ。
わたしは、やってしまったのだろうか。
考えてやったこととはいえ、自責の念がわたしの中に渦巻く。
しかし唯は少しすると、自分の頬を両手で挟むように、ばしんと叩いた。
そして目を覚ましたかのようにかっと目を開くと、正面のわたしを見つめた。
そこに恨みの色は見えない。むしろ感謝の念を感じられる。
そのことにわたしは深く感慨を覚え、より深みに嵌っていく。もう抜け出すことはできないだろう。
だからわたしは唯が好きなのだ。
♪‐09
外に出ると、思いもよらぬ人と出会った。さわ子先生がちょうど目の前の道を歩いていた。
「さわちゃーん!」
唯が先生のもとまで走り寄る。
さわ子先生は驚いた様子で、しかしすぐ唯に微笑みかけていた。
わたしも、小走りで二人のもとへ行った。
どうしてここにいるのとか、どうやって来たのとか、
唯の質問は矢継ぎ早に繰り出されていく。さわ子先生も困った様子だ。
それでもちゃんと答えてあげているのが、先生の優しさだろうか。
唯は楽しそうに、先生の前でぴょんぴょん跳ねている。
そんな弾むような唯が、また一層可愛らしいと思ってしまうのは、
別に不思議なことではないと思う。
だが、その正面のさわ子先生に嫉妬心を向けているのは、どうなのだろう。
唯には完全な自覚はないという。
しかし、なんらかの気持ちを持っているみたいだと、
前にわたしに打ち明けてくれたことがある。
その時の打ちのめされた感覚、わたしはいつまでも忘れることはない。
これは推測に過ぎない――しかし、そうなんじゃないかと思えることがある、当たることが怖い推測だ。
唯はさわ子先生に対して、“わたしが唯に向けている感情”と同じものを持っている。
実際どうなのか、わたしはまだ真実を知りきれていない。だから怖い。
ある日、なにを打ち明け、どのような形になってそれが表出するのか。
わたしは日々それを恐れている。
不意に、風が、わたしを嘲笑うように、わたしの隙間を抜けた気がした。
それはわたしに重大な欠陥があるかのようなことを思わせる、不快な風だった。
なにに欠陥があるのか、それも今のわたしにはわからない。
今さっきの推測だろうか。それとも、今思い返した推測だろうか。
もっとそれ以前の、わたしの根底に関わることだろうか。
今のわたしに出来るのは、その隙間を誤魔化すようにそっと抑えることぐらいだった。
最終更新:2014年06月23日 07:39