-紬
「ムギ先輩は私のこと好きですか?」
「好き」と出かけた言葉を引っ込めました。
梓ちゃんの問いの、その「好き」の意味は……きっと違うから。
梓ちゃんはそのまま私に体を預けました。
「聞こえますか?」
トクントクン
トクントクン
心臓の音。
私のではなく、梓ちゃんの。
とても大きく鳴り響いている。
私の心臓は平常運転。
梓ちゃんがこんなに近くにいるのに…。
サッと血の気が引いていくのがわかりました。
梓ちゃんの瞳が急に怖くなって、目を逸らして。
それでもいたたまれなくなって、体を横に反らして…。
私は…。
私は…。
私は嬉しかったんです。
後輩が、かわいい後輩ができて。
その子が自分に恋愛感情を持ってくれて。
私は梓ちゃんの恋愛感情を成就させてあげることしか考えていませんでした。
それが悪いことだなんて、考えたこともなかったのです。
でもこうして、梓ちゃんに問い詰められて。
やっと自分のしてしまったことに気づきました。
好き合ってもいないのにキスをして、好き合ってもいないのに体を重ねる。
それは恋愛に対する冒涜であり。
梓ちゃんに対する酷い裏切りです。
気づいてしまうと、もうどうしようもありませんでした。
私はベッドの隅で泣きました。
弁解のしようもなくて。
謝罪する気力さえなくて。
ただ無責任に泣き続けました。
…
……と。
私の髪に触れるものがありました。
そっと、撫でるように。
ううん。撫でるようにじゃなくて、撫でているんだ。
泣いている私を、梓ちゃんは撫でている。
「私はこの髪、好きです」
「……うん」
「ムギ先輩は私の髪、好きですか?」
「……うん」
「でも多分、私の好きとムギ先輩の好きは違うです」
「……うん」
「だから……ごめんなさい」
「どうして…どうして梓ちゃんが謝るの?」
「楽しかったからです」
「…どういうこと?」
「説明するのは苦手です」
それっきり言葉はなかった。
梓ちゃんは私が泣き止むまで、ずっと頭を撫でてくれた。
それだけが、私にとっては救いでした。
家に帰って、1人になって。
もう一度泣きました。
一頻り泣いた後、恋について考えました。
恋すると「ときめく」そうです。
とくんとくん。そう、心臓の音で表現されるように。
ドキドキして、いてもたってもいられなくなって。
…私はそういう感情をまだ経験したことがありません。
梓ちゃんに「ときめく」ことができれば。
本当の意味で恋人同士になれるのかもしれません。
でも、どうすれば「ときめく」ことができるのか、私にはさっぱりわかりません。
何の解決策も見いだせないまま、眠りにつき、翌日学校に行きました。
どんな顔をして梓ちゃんに会えばいいのか。
考える間もなく、梓ちゃんはあらわれました。
「ムギ先輩、おはようございます」
「っ…あ、梓ちゃん」
「あのー、ムギ先輩。お願いがあるんです」
「なぁに?」
「手、繋いでもらえませんか?」
「え」
「手ですよ、手」
そう言って梓ちゃんは右手を差し出した。
私が恐る恐る左手を差し出すと、しっかりと2人の手は繋がれました。
「ふふふーん」
「あ、梓ちゃん…これ…」
「やっぱり嫌でしたか? 目立っちゃいますし…」
「ううん。嫌じゃないけど。でも、どうして…」
あんなに酷いことをしたのに…。
私が釈然としないでいると、梓ちゃんは説明してくれました。
「だからです」
「だから?」
「今までは安全だと思っていました」
「?」
「ムギ先輩とは両思いだから、他の誰かに盗られたりしないって」
「…」
「でも、そうじゃないなら、ムギ先輩に好意を持っている他の誰かにも、ムギ先輩は…」
「そんなこと--」
「ないって言えますか?」
言えませんでした。
自分がやってしまったことを考えると、とても--。
「ねぇ、梓ちゃん」
「どうしました?」
「私のこと、まだ好きなの?」
「好きです」
「どうして…、あんなに酷いことをしたのに」
「好きって気持ちは簡単には変わりません。それに--
そんなに酷いことをされたって思ってませんから」
「梓ちゃん…」
私は、困惑しました。
でも、とても嬉しかった。
梓ちゃんが、まだ私のことを好きだと言ってくれて。
とても嬉しかったのです。
それからというもの梓ちゃんと一緒にいる時間は劇的に増えた。
お弁当も2人で食べるようになったし、平日も部活が終わった後、2人で遊びに行くことが増えた。
学内でも学外でも手を繋いで歩いているので、私達のことはすぐに噂になった。
ただ、そんなことは気に留めもしなかった。
梓ちゃんが困らないなら、どんな噂が流れたって構わなかったから。
2人の時間が、私は決して嫌いじゃなかった。
負い目はあるけれど、そんなことを忘れさせてくれるくらい、梓ちゃんは明るい。
そんな明るい笑顔につられて、こちらまで笑顔になってしまう。
キャンプ地の吊り橋にいって、吊り橋効果を試したりもした。
結局、変化はなくて、私はちょっと落胆したけれど、梓ちゃんは気にする様子もなかった。
それから、それから、本当に沢山のことを一緒にやった。
それでも、私が「ときめく」瞬間は訪れなかった。
ある、部活がお休みの日。
私は部室に呼び出された。
唯ちゃんに。
「こうやってムギちゃんと2人でお話するの久しぶりだねー」
「うふふ、そうね。最近は--」
「あずにゃんとずっと一緒だもんね」
「ええ」
「ねーねー、それでちょっと聞きたいだけど、あずにゃんとムギちゃんって付き合ってるの」
「どうだと思う?」
「あ、教えてくれないんだ。う~ん、わからないから聞いたんだけど」
「そうよね」
「最初はね、仲良しカップルさんだと思ったんだよー。でもなんだか…
なんだか、ちょっと無理してるように見えて」
「心配してくれたんだ」
「うんっ!」
「えっとね。実は私に問題があるの」
「えームギちゃんに問題なんてないよー」
「私ね、『ときめいた』ことがないから…」
「…ふーん。なるほどなるほど」
「え、分かっちゃったの?」
「んーん。全然わかんない」
「……そ、そう」
「でもね。分かったこともあるよ。
ちゃんと恋できてないんじゃないかって悩んでるんでしょ?」
「うん。まぁ、そうかな」
「えっと、じゃぁね。私と澪ちゃんが付き合うことになったって言ったら」
「え、唯ちゃんと澪ちゃんが付き合うの!!
どちらから告白したの?」
「む、ムギちゃん。例え話だよ」
「なぁんだ…」
「じゃあさ、あずにゃんと澪ちゃんが付き合うことになったって言ったら」
「…」
「ムギちゃんの、その顔が答えでいいと思うよ」
「でもね、唯ちゃん。嫉妬はしても、『ときめき』はしないの」
「ムギちゃん、『ときめき』だけが恋じゃないと思うよ」
「えっ、どういう…」
「それじゃ私はもう行くね」
「…うん」
唯ちゃんが去った後、私は独り部室に取り残された。
唯ちゃんの残した言葉を考える。
「ときめき」だけが恋じゃない。
もしその言葉が真実だったとして、
他に恋と呼べるようなものを、梓ちゃんに対して抱いているのでしょうか?
私は…。
と、そのとき、扉が大きな音を立てて開きました。
「ムギ先輩!!」
「あ、梓ちゃん?」
「…唯先輩は?」
「もう行っちゃったけど…どうして唯ちゃんといるって知ってるの?」
「クラスメイトに聞いたんです」
「慌ててたみたいだけど、それは?」
「…心配でしたから」
「心配?」
「……言わせないでください」
考えてみる。
心配。
もしかして……。
「私と唯ちゃんが…そういう心配?」
「…はい」
「そんなの、あるわけないわ」
「なぜそう言えるんですか?」
「だって、唯ちゃんが私のことを好きだなんて…」
「100%ないとは言い切れません」
「そんなの…」
「では聞きますが、もし唯先輩がムギ先輩のことを好きだったら、
ムギ先輩はどうするんですか?」
「え」
「ムギ先輩は優しいから…そのキスとか」
「そんなこと絶対にしません!!」
「どうしてそ--」
「梓ちゃんの悲しむことは絶対にしません!!!」
「…先輩」
「…ごめんね、梓ちゃん。心配かけて。
けど大丈夫。私は梓ちゃんの悲しむことはしないから」
「…本当、ですか?」
「ええ、だって梓ちゃんは特別だもの」
「特別ですか?」
「ええ、特別」
「どんな風に特別なんですか?」
「梓ちゃんが悲しんでると、私も悲しくなるの」
「なるほど……じゃあ澪先輩が悲しんでいたら?」
「それは…悲しくなるわ。でもね、違うの」
「どう違うんですか?」
「梓ちゃんが悲しんでるときのほうが、ずっとずっと悲しくなるの」
「…澪先輩がかわいそうです」
「けど、しょうがないの。梓ちゃんは特別だから」
「でもドキドキはしないんですよね?」
「うん。ドキドキはしないの。でも梓ちゃんは特別なの」
「特別…」
「私ね、考えてみたんだ。梓ちゃんと澪ちゃんが付き合ったら、私はどうするだろうって」
「え、なんで澪先輩と」
「憧れてるでしょ?」
「だからって付き合いませんよ!」
「もし梓ちゃんが私のことを好きじゃなくなったら、私ね…。多分、梓ちゃんのことを殺すと思うの」
「殺すんですか?」
「ええ、殺すの。殺して食べちゃう」
「どうして殺すんですか?」
「なんでだろう?」
「理由もなく殺されるんじゃ、私がかわいそうです」
「特別だからじゃないかしら」
「なるほど…」
「特別だから、その現実を消してしまいたくて殺すの。
…ごめんね。うまく説明できなくて」
「それはお互いさまです。私もうまく説明できませんから…。
でも、ちょっとだけわかります」
「なにが?」
「殺すってこと」
「梓ちゃんも、私が他の誰かを好きになったら殺すの?」
「多分、殺意は持つと思います。
実際に殺すかどうかは別ですけど…」
「ふぅん…」
「な、なんですか、その目は」
「ふふ、『気持ちの大きさ』なら梓ちゃんより私のほうが上みたいね」
「そんな…じゃあ私も殺します。無理心中します!」
「私は食べて一つになるから!」
「肉体的に一緒になっても意味無いです。無理心中なら地獄で一緒にいられます!」
「むむむ」
「むむむ」
なんでだろう。
むちゃくちゃなやり取りなのに、少しだけ心が軽くなってしまった。
くだらない言葉の売買で、梓ちゃんと対等になれてしまえた気がした。
「あの、ムギ先輩」
「なぁに」
「実はこの学校にきてから、ムギ先輩以外に『ときめいた』ことが一度だけあるんです」
「へっ!?」
心底驚いた。
唯ちゃんか、それとも澪ちゃんか、あるいはりっちゃん純ちゃん、はたまた憂ちゃん…。
ううん。私の全然知らない子かも--。
「あの、覚えてますか。お昼休みにムギ先輩にあって、学校を案内してもらった日のこと」
「うん。あの日から--」
梓ちゃんとの距離が縮まって…
「あの日出会った猫です」
「え、猫」
「はい。猫にときめいたんです」
「…梓ちゃん、猫に恋したの?」
「恋じゃありません、あまりに可愛かったので……
ともかく」
「…うん」
「『ときめく』ってそんなに特別な感情じゃないと思えてきたんです。
それこそ猫に抱けるぐらいの、そういう感情で。
きっと『好き』を構成する一要素でしかないと」
「私は梓ちゃんにときめかないけど、梓ちゃんのことを好きでもおかしくないってこと…?」
「はい」
「そっか、私梓ちゃんのことを好きだったんだ…」
「いえ、それは分かりません」
「そうなの?」
「特別といっても色々ありますから…だからムギ先輩にお願いがあります」
「お願い?」
「そう、お願いです」
「言ってみて」
「私は…私はムギ先輩のことをもっと知りたいと思います。
「知りたい?」
「はい。ムギ先輩の嫌いな食べ物、好きなお城
エッチのとき感じる場所、嫌な模様…」
「うん…」
「まだまだあります。
20歳になったムギ先輩のことも、
30歳になった先輩も、
40歳も、50歳も、60歳も、70歳も、80歳も、
そして最後のときのことも、全部知りたいって思うんです」
「…」
「だから、先輩。私のことも知りたいって思って欲しいんです。
私の性感帯から、お婆ちゃんになったときの皺の数まで
全部全部知りたいって思ってください。
…退屈はさせませんから」
「…」
「…それが私のお願いです」
梓ちゃんの言葉を聞いて、私の胸は高鳴った。
でも、「ドキドキ」はしない。
でも、「ワクワク」する。
そしてひとつの確信に至る。
私の恋は「ドキドキ」ではなく「ワクワク」でできている。
だって、
幼少の頃、ピアノのコンクールで受賞した時より、
りっちゃんに軽音部に誘われたときより、
4人で舞台の上に立ったときより、
そのどれよりも激しく、
梓ちゃんの言葉は、
私の心を踊らせたのだから----
不安そうな顔をしている梓ちゃん。
私にもう不安はないけれど、きっと上手く説明できない。
だから説明するかわりに、こう言った。
「梓ちゃんの性感帯なら、もう全部知ってるわ」
梓ちゃんは少し考えたあと、にっこり笑った。
「なら、証明してみてください」
おしまいっ。
一部ある作品のオマージュです。
ムギちゃん誕生日おめでとうございます。
最終更新:2014年07月03日 06:28